「マナ! イズミー! 帰ろー」
教室の入り口でちょっと気の強そうな女の子が呼んでいる。
マナは論文を書いていた手をやすめると、荷物を片付けだした。
向かいに座るめがねの女の子も合わせるように片付けはじめた。
「行こ、イズミ。ノブコもお待ちかねだよ」
「うん」
二人は重い資料を手に教室を出た。
「知ってる? 今度の学祭に森川由綺がくるの?」
「知ってるよ。お姉ちゃんとは今でもたまに電話してるし」
嘘ではなかった。
今でも『緒方理奈』と並んで人気の高い『森川由綺』だが、彼女は人気があがっても変わる人ではなかった。あいた時間には家にやってきてくれる時さえある。
「でも、緒方英二がいまさら学祭なんてよく許可したわよねー」
「ほんとにね」
ノブコもイズミも緒方英二がどんな人間だかよく知らないようだ。そうは言っても、マナも人づてで少し知ってるだけだが、緒方英二はとぼけた人間だと思っている。とぼけた天才。それなら学祭に参加させるくらいはするかもしれなかった。
「今は学祭より論文ね」
マナが気だるそうに荷物を眺めた。
マナはどこのサークルにも属していないだけ、人より学祭に興味がなかった。
「そうよね……」
イズミも人をバカにしたような重さの資料に辟易していた。
「卒論でもないのに、大変ねぇ……」
ノブコ一人専攻が違ったのでその課題から逃れて気楽にやっていた。ま、ノブコだからとらなかった専攻だったが。
ふと、校門にある人物を見つけた。
「マナ! 来てるよ!」
マナも見つけたらしく、小さく手を合わせると、
「ごめん、今日は二人で帰って」
ノブコもイズミも小さく笑うと、「今日も、でしょ」と付け加えた。
「帰ろ! 藤井さん」
「でも、あの子たちは? 一緒でもかまわないのに」
「いいの、いいの」
そう言ってマナは藤井と呼んだ青年の腕をとって歩き出した。
「あ、そうだ! これ学祭のチケット」
重い荷物の中から一枚のチケットを取り出した。
その仕草が、あまりにも重そうに荷物を表現していたので、青年はかわりに荷物をもってあげた。
「ありがと! で、これチケットなんだけど……絶対貴重になるチケットよ」
そうだろう。
チケットにはゲスト未定と書いてあったが、あの『森川由綺』が来るのだ。
闇で取り引きしたら数万はくだらない値がつくに違いない。
「ね……お姉ちゃんとはたまに会ってるの?」
「ん……たまにね……仕事場で会うよ」
マナは「そう……」と小さく呟く。ちょっと悲しそうに呟いた。「出来るだけ会わないで欲しい」それが本音だったが、マナに口に出来るものではなかった。本当に二人とも好きだから。
それに、もうみんな納得して今の生活を送っているから、マナは自分の横を歩く青年を見上げた。
大学生としてかなり背の低いマナは、いつも見上げるように見ていた。
「ん? なに?」
青年はいつものように優しく微笑んでいる。
「なんでもないよ! いこ!」
それだけでマナはよかった。
隣でこの青年が笑っていてくれるだけで、それだけでよかった。
学園祭当日
「藤井さーん! こっちこっち!」
予想通り学園祭始まって以来の混雑だった。
チケットを持っていない者も校門や塀の上から中のようすをうかがっている。中にはなんとか潜り込もうとするものまでいる。青年もちゃんとチケットを持っていたのに関わらず、入るところで一悶着があったようだ。
「大変だったよ……ほんとに」
青年はマナと少し落ち着いた所までいくと、そう漏らした。
「ふーん……ホントね」
あたりを見回すと警備の人たちの数の多いこと……
その多くがステージの方に向かっている。
「あ、そろそろ始まるみたいだよ」
マナは青年を誘ってステージの方にいこうとしたが、青年は少し考えて、違う方にマナを誘った。
「ここなら人は少ないし、歌もちゃんと聞こえるよ」
青年がそう言って座った場所はステージのある会場の裏の小さなベンチだった。
確かに人は少ないが……
「だって、ここじゃ見れないよ?」
「いいから……座ろ」
マナは少し考えて隣に腰をおろした。
それでも少し、少しどこか辛そうだ。
青年ではなく、青年のことを思う少女がだ。
「……いいの?」
どちらも切り捨てることの出来ない少女だから、どちらも切り捨てることの出来ない青年だから。
どちらの気持ちも分かってしまう少女だから、どちらの気持ちも分かってしまう青年だから。
「……辛い三角だね」
「……そうだね」
互いに隣に座ってる相手の気持ちを語った台詞だった。
学生司会の拙いトークが始まった。
会場のざわつきが大きくなる。森川由綺の登場を待っているのだろう。
「いくなら今だよ……もうすぐステージの扉閉まっちゃうよ。行けばいいじゃない」
腰をうかし、真剣そうに見上げてくる少女に、青年は苦笑を漏らした。
少し懐かしい、まなざしだった。
少女の大学受験で家庭教師をしていた時によく見たまなざしだった。
最近は大人になったというか、落ち着きが出て、話す言葉もかわってきた少女だった。青年はそのまなざしが妙に懐かしく感じられた。
ふいに会場のざわつきが消え、爆発するような歓声が上がった。
「あ、お姉ちゃん出てきたね」
視線をはずし、ベンチに深く腰掛ける。もう扉は閉ざされて、中に入ることは出来ないだろう。
マナはかるく青年を見る。
これでよかったのか、確かめるような目だった。
青年はちょっと考えて、突然マナに口づけた。
「なっ、あ、あのねー!」
少し怒ったような、照れているような目で青年をにらむ。青年はベンチの背もたれに大きくもたれかかって空を眺めていた。
青空の、よく晴れた空だった。
「最高のBGMだよ」
いつの間にか曲が始まっている。今、最も輝いてるアイドルの一人『森川由綺』の生歌だ。最高と言えば、たしかにこの上ないくらい贅沢なBGMだった。
「あっ、この歌知ってる」
マナもなんだか怒ってるのがばからしくなったのか、青年のように空を眺めた。
それからしばらくの間、ただ空を眺めて曲を聴いていた。
『それでは、最後の曲……「ホワイトアルバム」聞いてください』
曲間のざわつきが消え、聞こえてきたメロディーは、いつもと、いままでとかわらない由綺を思い出させた。
マナはそれが嬉しくもあり、悔しくもあった。
「昔のお姉ちゃんだ。……藤井さんが好き…なお姉ちゃんだね」
好きだった頃の……そう言いたかった。でも、なにかいやで、姉のような女性にたいする思いもあってそう言えなかった。
やっぱり青年が頷くのを見たくなかった。青年に気づかれないように視線を地面に落とす。
「……由綺はかわらないよ」
青年は呟くように言った。
マナは自分の胸が脈打つのを実感した。とても怖かった。「まだ……」そう聞こうとした口が震えて言葉が出てこない。
「俺も、由綺も、弱かったんだな……」
青年は小さく付け加えた。
バッとベンチにもたれかかっていた体を起こす。マナは驚いたように顔を上げた。
青年は座ったまま大きく伸びをし、
「うん! いい曲だ」
明るい声でそう言った。そのまま隣に座ってるマナの肩に手をまわし、引き寄せる。
マナの不安をはじき飛ばすような笑顔を向ける。
マナもつられて笑顔を見せた。
「それでいいよ」
青年はそう言って顔を近づける。
「何が?」
マナもちょっと笑いながら目を瞑った。
流れている曲は、みょうに心地よかった。