カチッカチッ……… いつからか愛用しているリストウォッチが正確な時を刻む。 機械的なその音が不思議な安心感をあたえてくれた。 ガチャ…… 重い鉄の扉が開く音がした。 この時間に来るのは一人しかいなかった。 「失礼します」 合い鍵を使って入ってきたのはどこか機械的な印象の美しい女性だった。一見冷たい印象しか受けない。ただ、青年の感じてる感覚は少し違うかもしれない。とても暖かい目で女性を見ている。 「いらっしゃい」 青年は女性を座らせる。椅子や床ではなく、自分のベッドの上に。 そこしか場所がないからなのだが、女性は青年に軽く礼を述べると、いつものことのようにそこに座る。青年は暖かい紅茶を出すと床にしゃがみこんだ。 女性は再び礼を述べて鞄から分厚いファイルを差し出した。 「これが来週の予定です。月曜日と金曜日ですが、よろしいでしょうか?」 「いいですよ」 軽く資料に目を通す。 ふとあるところで目が止まった。 「これは?」 「見てのとおりです」 『音楽祭/マネージャー:藤井冬弥』 そう書かれていた。 それは音楽祭の当日に森川由綺の付き添いとして、会場に入れることを表していた。 でも、そんなことが問題なのではなかった。 「弥生さんは来ないんですか?」 「別の仕事がありますから」 女性はあくまでもその様相を崩さない。 青年は苦笑いで女性を見た。「ホントにいいのですか?」そんな目だった。 この人がそんな大事な日に森川由綺のそばにいないのは、今までなかったことだった。森川由綺のことをそれほど気にしている女性だった。 ただ、それと同じくらい、青年も気にされているのだが。 「しかし、マネージャーがタレントから離れて仕事とは?」 「……ですから、あなたにマネージャーをやってもらっているのです」 青年が言いたいことはそんなことじゃないのだが、女性はわかっていながらそう答えるしかなかった。 「……いいんですか? 本当に?」 「ええ」 女性は少し微笑みながら言う。 いつもの、無表情とは少し違う機械的な笑顔で。 「あなたがいれば由綺さんは大丈夫ですから」 と…… あえて晴れ晴れした言い方に青年の方が苦笑した。 「それに私の方が由綺さんと会ってる時間は長いですから、今回はあなたへのご褒美です」 これには青年が小さく吹き出した。こういった事を言いそうにないのもあるが、表情があまりにも変わらないので、「らしいな……」そう思うと、少し笑えることだったのかもしれない。 女性は目だけ少し笑う。 青年は資料を置いて女性の横に腰掛けた。 女性も納得しているのか、腰を寄せるようにずらす。 少し切ない大人の時間だった。 「あれ? 冬弥くん?」 森川由綺はやってきた青年を不思議そうに見た。 不思議そうではあったが、同時に嬉しそうでもある。 青年も嬉しいのではあろうが、どこか森川由綺と同じ嬉しさであることはなかった。 「今日は弥生さん来れないんだって」 「そう……」 「……怖い? こんな時に弥生さんがいないと」 「……うん、少し。でも、冬弥くんが来てくれたから、大丈夫だよ」 そう青年に笑顔を見せた。 今日はそんなこといってられないほどの大舞台だ。 森川由綺だけではなく、青年の方もだ。 何度もマネージャーの経験はしているが、この大舞台を裏から見るのは初めてだった。何度か会ったことのあるスタッフも、何度か会ったことのあるタレントもいるが、多くははじめて会う人たちだ。しかもこの舞台に来られるくらいの大物たちだ。 青年はマネージャーとして挨拶しなければならなかったが、正直言って怖かった。 「冬弥くん大丈夫? 冬弥くんこそ怖いんじゃないの?」 森川由綺は少しからかうような口調で言った。青年を彼女なりに励まそうとしてのことだった。その言葉に小さく笑って返事をする。 「まあ、なんとかなるか……」 青年は森川由綺を促すと、控え室に挨拶にまわった。 「あれ? あのマネージャーさんやめたの?」 「あら、由綺ちゃん。なんだか頼りなさそうなマネージャーに変えたの?」 「こんにちわ、森川さん。今日はよろしくお願いしますね。……ところで、あのマネージャーの方はどうなさったの?」 「あ、由綺さん! 今日は、よろしくお願いしまぁす! あ、弥生お姉さまは?」 大御所、大先輩からこの間デビューした森川由綺の後輩にあたるアイドルまで、話題はマネージャーの女性に関してだった。 青年はここにはいない女性に感心していた。 なぜか嬉しさすら感じていた。 「あら? 冬弥くんじゃない?」 控え室を出た廊下のところで、驚いて振り向く。森川由綺の緊張も伝わってくるほど場が静かになった。 緒方理奈……二年連続、森川由綺を押さえて最優秀賞に輝いている。 その、トップアイドルだ。 今日の音楽祭において最も頂点にいる女性だった。 「なに、緊張してるの? 緊張するのは由綺だけで十分じゃない」 青年の肩を叩くと、笑顔で何事もなかったように自分の控え室に向かっていった。 少しの間時間が止まった。 「やっぱりすごいね理奈ちゃん……」 ああ……と青年は呟いた。 さすがに森川由綺の最大のライバルだった。 いつもの緒方理奈のようで、決してそうではなかった。 「由綺も、弥生さんも、すごい子をライバルにしたよ」 森川由綺は頷くだけでそれに答えた。 『それでは……』 そろそろだった。 青年は森川由綺をステージに向かわせる。 「頑張って! きっと弥生さんも見てるから」 「うん!」 森川由綺は元気に頷くと、特定の人間しか感じることの出来ない世界へ足を向ける。 青年はその背中にもう一度勇気づける。 『ワアアァァァァァ!!!』 歓声と同時に青年は駆け出していた。時間はわずかしかなかった…… 「ハァ…ハァ……やっぱり、ここだ……」 青年がやってきたのは、『森川由綺』と書かれた紙がはってある部屋だった。 「どうも、おかしいと…おもったんだ…」 息を切らし、それでもにこやかに笑う。 女性は、驚いたようでも、微笑んでいるようでもあった。 「どうして、あなたは……」 青年は女性の横に座る。 目の前には小さなモニターがあり、その中には光り輝くものを映し出している。 「わかるよ……それくらい」 「そうですね……」 それからの二人は何も語らず、ただモニターを眺めていた。そこにいた二人は、モニターの中の輝けるものを、もっともっと輝かす為の二人だった。 「さて! そろそろ戻るよ」 「そうですね、そろそろ行きましょうか」 青年は立ち上がり、女性に手を差し伸べる。女性もその手をとって立ち上がった。 そのまま軽く抱き寄せる。 女性もそれにしたがい、体を寄せる。 そこには、甘い言葉はなかったが、確かに幸せの世界があった。 『ワアアアァァァァァァァ!!!!』 モニターから歓声が上がる。何度目かのシンデレラの鐘だ。 青年はもう一人のシンデレラのもとへ向かった。