「冬弥くん!」
あわてて声に向かって駆け出す青年。
その先に待つのは、帽子を深くかぶった、一見少年に見える少女。
「だ、だめだよ!」
小さい声で心配そうにあたりを見回す青年。
悪びれた風もなく、ちょっと楽しそうに笑う少女。
「誰も気づかないわよ」
それでも、警戒したようにあたりに気を配る青年。
悪戯好きの妖精のような笑顔で笑う少女。
「これ取ったらどうなるかな?」
帽子に手をかける少女をあわてて押さえようとする青年。
それより早く帽子を大きくほおり投げた少女。
そこに緒方理奈はいた。
『はいカットォ!』
監督の威勢のいい声でその日の仕事は幕をおろした。
「理奈ちゃん、お疲れさま〜」
「よかったよ理奈ちゃん!」
スタッフが少女に声をかける。
「ありがと」
少女はおきまりの笑顔で挨拶を交わすと、パートナーだった青年の所へ歩み寄った。
「ふふっ、なかなかよかったよ。冬弥くん」
「勘弁してよ、理奈ちゃん……俺はこういったの苦手なんだけど」
「だめよ」
そう言って嬉しそうに首に手をまわす。
軽く口づけを交わす。
ロケ現場は町中だ。何人もの一般人が見ている中だった。
『緒方理奈!!芸能界復帰!!』
そうニュースが流れたのは数ヶ月前だった。
引退から二年が過ぎたころだ。
芸能キャスターやレポーターは謀られた策略だと言っていたが、彼女が帰ってきたのはかつて輝いていた場所ではなかった。
「今後、そういった場所に戻るかもしれませんが、今は考えてないです」
彼女が言うには、芸能界のゼロからのスタートがしたかったそうだ。
しかし、監督やプロデューサなどはそれを利用しようとした。ニュースやスポーツ新聞もそうだ。
彼女の周りであらゆる事を騒ぎ立てた。
ただ、それ以上に彼女の意思が強かった。
そして、彼女の能力はそれを為すだけの実力があった。
彼女は記者会見の最後にこう述べた。
「今後、歌手に戻るとして、そこには最大のライバルがいますから」
TVニュースや新聞は、この言葉のライバルを二人の名をあげて流した。
『緒方英二』
実の兄で、いま最も力のあるプロデューサー。
そして、今最も輝いてるアイドル歌手である、
『森川由綺』
このコンビに立ち向かうには甚だ困難であるだろうとも。だから彼女は逃げたのだろうとまで囁かれた。
彼女の力を見くびっていたのは、そうした騒ぎたてようとするものだけだった。
本当に見る目のある監督やプロデューサー、多くのスタッフ、そしてファン達は復帰を祝い。彼女の輝ける道を作り出すことになる。
そして、数ヶ月。
緒方理奈はそこにいた。
「ちょ、ちょっと理奈ちゃん! みんな見てるから」
あわてて腕をほどく。
少女は少し不服そうに、それでも青年にしたがい離れた。
「ちょっと理奈ちゃんと藤井君来てくれる」
その隙をついて、少女の四人目のマネージャーが二人をロケバスへ呼び入れた。
「理奈ちゃん! ダメだよ。あんな所であんな事したら! 藤井君も、わかってる?」
青年は申し訳なさそうに頭を下げたが、少女の方はそれこそ悪いことはしてないわよといった風だ。
そのまま自分の席につき、横に青年を座らせる。
「冬弥くん初めてでしょ? ドラマの撮影って。結構面白いでしょ」
「面白いなんて感じる余裕なんてないよ……緊張しっぱなし……」
「でも、なかなかいい感じよ。私なんかよりずっと向いてるかも」
そう言う顔はおきまりの笑顔ではなく、青年にだけ向けられる笑顔だった。青年もその笑顔が見たくてこの仕事を引き受けたのだが、まだマネージャーのほうが楽だったと後悔していた。
少女は青年の横顔をただ幸せそうに眺めていた。
「理奈ちゃん! 大変だよ!」
ドラマの撮影も一週間たち、青年も少しは慣れてきた頃。少女の(今は二人の)マネージャーがロケバスに駆け込んできた。
他にも数人の役者と、スタッフがいたが、そのみんなが注目した。
マネージャーはそれこそ顔を蒼白にして、内容を告げた。
「ドラマの主題歌が決まった! 緒方…英二プロデュースの、森川由綺に決まったんだ!」
瞬間、バス内の温度が変わった。
青年も、多くのスタッフたちも息を飲んで少女を見る。
理奈と由綺
誰もが「永遠のライバル」そう呼びたくなる二人だから。
しかも、実の兄である緒方英二も絡んでくる。
プロデューサの意向かわからないが、よりこのドラマを売るためにあえて仕組んだことだろうが、ここにいるみんなは、仕事をしているうちに理奈のことを好きになっていった者ばかりだった。どこか二人の戦いのようなものをイメージしたとき、理奈を応援する、そんな人たちだった。
でも、その中心にいる少女は一番落ち着いていた。
それがどうしたって言わんばかりである。
「理奈…ちゃん……」
青年が心配そうに声をかける。
少女はちょっと笑って、立ち上がる。そしてマネージャーにもスタッフのみんなにもおきまりの笑顔を向けた。
「私は緒方理奈よ? 兄さんからなにも聞いてないと思う? 心の準備とかいうのだったら、その時にすませたわ」
みんなその言葉にほっとする。
それでも、青年だけが心配そうに少女を見つめた。
この中で、青年だけがその言葉が偽りである事を見抜いた。それが、少女にもわかったんだろう。座ると小さな声で、青年にだけ聞こえるような小さな声で呟いた。
「つらいのは、由綺も……あなたもなのに……」
「理奈ちゃん……」
青年も少女にだけ聞こえるように、心配する。
「やっぱり何も聞かされてなかったんだ……」
少女は青年の言葉に小さく頷いた。
「でも、私は大丈夫よ……冬弥くんも…ゆ、由綺の応援したかったらしてもいいわよ」
青年は苦笑すると、少女の唇に自分のそれを重ねた。
「応援はするかもしれないけど、舞台が同じだったら、きっと理奈ちゃんのそばにいるよ」
少女はちょっと驚いたように目を丸くしたが、潤ませた目を閉じると、軽く唇を重ねた。
「こんな時はお世辞にも、理奈ちゃんだけだよっていいなさい」
それから数週間たって、ドラマの制作は終了した。
主演女優としての緒方理奈、最初の作品だ。
クランクアップの記念会には多くの関係者が集まった。
二時間のスペシャルドラマとしては異例のTV放送まである。もちろんその主役は緒方理奈と森川由綺にあることは誰の目にも明らかだった。
会見が終わり、記念会が始まっても、森川由綺の姿はなかった。
最初1時間であった記念会も、2時間にのばされる。
それでも現れないかと、関係者の期待が薄れたときだった。
「いやー、遅れました」
最初入ってきたのは緒方英二だった。マネージャーの姿も見える。
その後ろに、森川由綺はいた。
身を小さくし、こういった場所には慣れてない様子だ。そしてその目が何かを探すようにキョロキョロしている。青年は昔のままだと、ちょっと苦笑した。
そして、青年も関係者もその衣装に驚かされた。おそらく会場のどこかにいる理奈も少し驚いただろう。
かつての音楽祭に着ていた衣装だった。
「由綺……」
青年は思わず口に出して名前を呼んでしまった。
ほんの小さな声だったが、森川由綺は異常なほどその声に反応した。
おそるおそる確かめるようにその声がした方を向く。
緒方英二が押さえなければ駆け出していきそうなほどだった。
「よう青年。あのじゃじゃ馬の相手も疲れるだろう?」
緒方英二が無名の青年に話しかけると、そこはフラッシュの嵐に包まれる。今まで浴びたことのない脚光の中、青年はただ首を横に振った。
「そうか……で、主役は?」
青年が答えるより早く、その本人から声がかかった。
「こっちよ兄さん!」
緒方英二はにこやかに歩いていくと、妹の手を取った。
その瞬間注目は二人に集まった。
青年が主役の少女に目をやると、少女も目だけで青年に語った。
「今だけだからね!」
それは、青年になのか、それとも森川由綺になのか、ちょっと悲しげな目をした言葉だった。
「冬弥くん……」
青年はちょっと胸を張って振り向く。
「俺もまさか俳優やるとは思わなかったよ」
その言葉がいつものようであったかは自信がなかったが、出来るだけ落ち着いた声で答えた。
「……冬弥くん……変わらないね」
森川由綺も出来るだけいつも通りであろうと努力した。
「由綺もな……それ、驚いたよ。優秀賞とった時のだろ?」
「理奈ちゃんが最優秀賞をとった時のだよ」
二人は小さく笑う。
互いに手を差し出すと、きつく握りしめた。
「理奈ちゃん頑張ってるよね……」
「由綺もな……音楽祭頑張ってるじゃないか」
「みんな頑張ってるよね」
「そうだな……」
二人は顔を見合わせてもう一度笑った。
今度は由綺が会場の光の集点に向かわなければならなかった。そんな時だった。
「さ、今度は由綺が頑張る番だ」
「冬弥くん……お願い。エスコートして連れていってくれない? これが最後だから……」
青年は頷くと、手をとって歩き出した。
TV局のロビーにある、小さなベンチだった。
記念会は終わり、その主役である少女が横の青年に体を預けて座っている。
「冬弥くん」
「なに理奈ちゃん?」
少女は回り込むように青年の顔を見た。
「キスしよっか?」
「い、いま!? ここで!?」
まだ電気のついたロビーだ。誰か来るかもしれない。
「だって、由綺と手を繋いできたとき、ホントに怒ってたんだよ」
「……あれが最後だよ……」
「わかってるわよ。だって緒方理奈ですからね」
その目は本気なのか、からかっているのか、青年にもわからないくらいだった。
「だったら……」
「ダメ」
少女は気にしないで首に手をまわす。
「ちょ、ちょっと理奈ちゃん……」
「こんな時は静かにね」
『ホワイトアルバム』
それが完成したドラマにつけられたタイトルだった……