今、そこにある機器 投稿者:JUN
                           To Heart SS


                                                                     JUN


                             今、そこにある機器




 高校の正門が見えて来た所で、俺は駆け足を止めた。
 朝、8時25分。
 どうやら遅刻のデッドラインには、間に合ったようだ。
 それも当然だろう。毎朝睡魔と戦っている俺は、自分の健脚をもってすれば朝、
何時何分に家を出れば始業時刻に間に合うのか、肌で分かっているのだ。
 だから今日も、本当なら全力ダッシュをかければ余裕(?)で間に合うはずだっ
た。
「浩之ちゃ〜ん、待ってよお」
 後ろからあかりの声が聞こえてくる。日ごろから運動不足のあかりにとって、高
校前の坂道を駆け上がるのは重労働だろう。
「おせーぞ、あかり。だから先行っとれって言ったんだ」
「はぁ、はぁ。だって〜」
 あかりが不満そうに呟く。ようやく俺に追い付いたが、肩で息していかにも辛そ
うだ。
「お前、自分が足遅いって知っているだろう。俺一人ならダッシュかけてりゃ余裕
で間に合ったんだ」
「だって浩之ちゃん、なかなか朝起きないんだもん」
 あかりは俺が出てくるまで、玄関先でずっと待っていた。おかげで俺は、あかり
の足に合わせて全力で走ることができなかった。
「やっほー、あかり。あらあら、不肖の亭主も一緒ね」
 うしろからいきなり声をかけて来たのは志保。朝っぱらからハイテンションな奴
だ。
 志保はあかりがまだ肩で息しているのを見ると、俺の方を向いて言った。
「な〜にヒロ。あんたまたあかりに走らせているの。や〜ね亭主がダメだと奥さん
も苦労かけっぱなしで」
 妙におばさんっぽい口調で、口に手をあててからかってくる。目がにやけてやが
るのは気のせいではないな、きっと。
「違うぞ、志保。あかりが先行っていれば俺は余裕で間に合ったんだ」
「何言ってんの。どうせあかりに起こされるまで目が覚めなかったんでしょ」
 う、やっぱり見透かされている。
「だいだいあんたはね──」
「おはようございま〜す」
 校門をくぐった所で、声が聞こえて来た。誰かは確認するまでもない。
「よ、マルチ。また朝っぱらから掃除か。精がでるな」
「あ、浩之さん。おはようございます!」
 俺を見つけると、マルチは小さい体を大きく伸ばして、手を振って来た。うう〜、
相変わらず爽やかだねえ。
「マルチちゃん、おはよう」
「ま、朝も起きられない不健康な高校生に比べるとずっとましよね、マルチ」
 あかりはマルチに挨拶を返したが、志保はマルチをダシに俺に絡んで来る。
「そんな、あたしは掃除が大好きですから、それで皆さんのお役に立てればと思っ
て」
 俺と志保がつまらないケンカをしていると思ったのか、マルチは慌ててフォロー
を入れて来た。
「うむ、えらいぞマルチ。よし、なでなでしてあげよう」
 そういうと、俺はマルチの頭を撫でてやった。
 なでなでなでなで……
 マルチはこの頭を揺さぶられる感触が好きなのか、俺がなでなでしてあげる度に
ぼうっとする。
「はぅぅ」
 俺がなでなでをやめても、しばらく惚けているくらいだ。
「浩之ちゃん、もうそろそろ……」
 あかりが遠慮がちに声をかけて来た。
「お、こんな時間か。じゃあな、マルチ。お前ももう教室行ったほうがいいぞ」
 そういうと、俺たちは教室へ駆け出した。


「ふわぁ〜〜〜眠み〜〜〜〜〜」
 一時間目の終了後の放課後、俺は机の上で突っ伏していた。
「もう、浩之ちゃんたら」
 あかりの奴がしょうがないなという目で見つめている。いや、突っ伏しているか
ら俺にはあかりの顔が見えて無いのだが、大体分かるんだ。伊達に17年も幼なじ
みをやっていない。
「朝も遅いし授業中も眠たそうだったし。夕べ夜更かししたの?」
 いや、授業中眠たかったのは一時限目の授業が退屈だったからだ。と言う事にし
ておこう。
「まあ、確かに撮り溜めしていたビデオ見ていたせいでもあるけどな」
 確かにあかりの言う通り、昨晩夜更かししたのも理由の一つだ。内訳にして7・3
程度はな。もちろん3の方だ。いや、6・4か。
「あれ、浩之ちゃんの家、夜十時にはもう電気付いて無かったと思ったけど」
 あかりの家は俺の近所だ。あかりの家からでも覗こうと思えば中で電気が付いて
るかどうかは分からないでもない。
「いや、映画を見る時は部屋を暗くして顔を近づけてみるんだ。その方が臨場感が
出る」
 おれは顔を起こして言った。あかりが呆れているのが見える。
「もう〜、浩之ちゃんたら。体に悪いよ」
「はいはい、目に良く無いって言いたいんだろ」
「それもあるけど、電磁波が体に悪いんだって」
 あかりが奇妙な事を言い出した。電磁波だぁ!?
「志保が言ってたよ。テレビとかビデオとか家電からは電磁波が出てるんだって。
だからできるだけ離れていた方が体にとって良いんだよ」
「ほぅ、それで具体的にはどう体に悪いんだ」
 俺が意地悪く尋ね返してやる。
「え、え。私も志保に聞かされただけだから。確か皮膚ガンがどうのとか言ってた
けど……」
「お前なあ、聞きかじりの知識で説教するんじゃない。大体電磁波なんて、今日び
放送やら携帯やらであちこち飛んでいるようなものじゃないか。いちいち避けよう
と思ったら、日本に住めなくなるぞ」
「あううう……」
 俺がぴしゃりと言ってのけたら、あかりはしゅんと肩を落した。うう、ちょっと
言い過ぎたか。
「ま、俺の体を心配してくれてたことは謝る。サンキュな」


 二時間目の放課後、俺はトイレに駆け込んで用を足した。
 トイレから出てくると、雅史にばったり出くわした。
「あ、浩之。ちょっと」
 雅史は俺の顔を見ると、言いにくそうに声を駆けてきた。
「なんだよ、雅史。人の顔を見て」
「浩之、ここ」
 そういって雅史が自分の顔で指した部分を俺も指してみる。なにやらザラザラす
る。雅史が何を言いたいのか分かると、俺は洗面所備えつけの鏡で自分の顔を確か
めた。
「うう、不精髭が」
 そこにはいくつか髭の剃り残しがあった。はっきりいってかっこ悪い。
 男子も高校生にもなると、いい加減髭が目立つようになる。毎日剃る必要がある
ほど俺は髭が濃くないが、今朝遅かった俺はあかりに起こされてからクィック歯磨
きにクィック洗顔で身だしなみを整えたのだが髭にまで気が回らなかった。
 しかし今日一日中このままか、それほど目立たないとはいえ情けねえなあ、あと
でハサミで切ってしまうか、などと考えていると、雅史がハイと何かを手渡して来
た。
 それはカミソリだった。何の変哲もない一枚刃のカミソリだが、今の俺にはあり
がたい。
「たまたま持って来てたんだ。これはまだ新品の刃だから安心して使ってよ」
「おい、いいのか。じゃあ安心して使わせてもらうぞ」
 そう言ってカミソリを水で洗い、洗面所の石鹸を泡立てて顔に付けてからカミソ
リを当てる。
「しかし、よくカミソリなんか持って来てたなあ。お前カミソリ派か」
「うん。僕はあまり髭が目立つ方じゃないし。それに電気カミソリだと電磁波が危
ないというからね」
「うっ!」
 雅史から意外な言葉が出たため、手がすべって横剃りしそうになった。
 電磁波だってぇ!?
 おいおい、あかりに続いて雅史までそんなことを。
「雅史。お前までそんな与太話、信じているのか」
 俺が軽く聞き流そうとするも、雅史は真面目な顔で続けてくる。
「本当だよ浩之。その筋の権威っていうベッカー博士の話によると、電磁波はガン
細胞の増殖率を何十倍にも高めるんだって。毎日電磁波を浴びると被爆量が蓄積し
て、何十年か後に癌や白血病の原因にもなりかねないんだよ」
 あかりと違って雅史はけっこう本物くさい蘊蓄を傾けてくる。おいおい、本当か
よ。
「特に電気カミソリは、顔の皮膚に当てて使うでしょ。距離が取れないもんだから、
その分至近距離で強力な電磁波を浴びてしまうんだ。なんでも安全基準の一万五千
倍以上だとか」
 一万五千倍だとぉ!? 俺は面倒くさいから親父の電気カミソリを借りて剃って
るけど、そんなに危険なものだったのか!?
「……って、志保も言っていたけどね」
 何だ、一気に嘘臭くなったぞ。
 俺は雅史に礼を言ってカミソリを返すと、普通のカミソリの購入を検討に入れよ
うかどうか悩むことになった。


 放課後、帰宅途中で志保の姿を見つけた。
 ちょうど良かった。あかりといい雅史といい今日は電磁波のことで振り回された
からな。一言文句を言ってやろう。
 そう思って近づいていった。
「よう、志保」
「あら、ヒロ。なあに怖い顔して。この志保ちゃんに何か用事でもあるの」
「そうじゃねえ。お前、あかりと雅史に変な事吹き込んだだろ!?」
「変な事……。ああ、アレね。どこが変だっていうのよ」
 最初怪訝そうな顔つきをしていた志保だが、やがて俺のいう変な事に思い当たっ
たのか口を尖らせて来た。
「十分変じゃねえか。おかげで俺は今日、電磁波で散々振り回されたんだぞ!」
「なによう、あたしが嘘をついているとでも言うの!?」
「そうじゃねえ、うろ覚えで信憑性の薄い話をするなと言っているんだ」
「あぁ──、『志保ちゃん情報』の信憑性を疑うって言うのね───!?」
 志保がぎゃんぎゃん喚いて来た。一体その自信はどこから来るんだ。
「いいわよ、ヒロなんか電磁波被爆で皮膚ガンかなんかで死んじゃえばいいんだか
ら。これは『○○○○○○』にも載っていた本当の話なんだからね」
 志保が口に出したのは結構有名な科学雑誌だ。そういえば志保の奴、前にもぶど
キューがどうのこうのとか言っていたしな。
「そうよ、ヒロ。あたしは正確な情報を得るために、こうして裏を取っている事も
あるのよ。だから『志保ちゃん情報』には、極めて信憑性の高いネタだってあるん
だからね」
「でも全てのネタの裏をとってるわけじゃないだろ。どれが信憑性の高いネタか分
からない以上、全体の信憑性は低くなるじゃねえか」
「うぐぐ……」
 俺の合理的な指摘に志保はうなりを挙げた。ふふん、ざまあみろ。
「でも電磁波が体に悪いのは事実らしいわよ。例えばホクロに強力な電磁波を当て
ると、悪性の皮膚がんに変化する危険性が高いのよ。恐いわよねえ……っと、ちょ
っと待って」
 話の途中で志保の携帯が鳴った。志保は携帯を取り出すと、俺から背を向けるよ
うに体を傾けて話しだした。
 その様子を何の気なしに見ていたが、俺は志保の携帯がかなり変わっているのに
気がついた。携帯のケース部分にはなにかのシールドが取りつけてある。アンテナ
の部分にも帽子が被せてあった。
 志保が話し終えて携帯をしまおうとすると、俺がいぶかしそうに携帯を見つめて
いるのに気がついたようだ。
「あれ、ヒロ。これ?」
 そう言って志保は手元にある携帯を示した。
「これはいわゆる電磁波シールドってやつよ。携帯だって電磁波がある程度出てい
るから、こうして少しでも減らした方がいいってわけね」
「でも完全に囲んでいるわけじゃねえだろ。耳や口の部分まで囲んじまうわけには
いけないし。そんな至近距離で話してちゃ、電磁波バリバリ食らっちまうだろう」
「うう、そりゃそうよ。こんなもので完全に防げるわけないわ。でも文明の機器の
利便と効率を考えると──」
「はいはい。携帯の被爆は避けられないんだろ。嫌だねえ、生半可な知識持ってる
と中途半端に妥協せざるを得なくなって」
「うっきー、悔しい。何よぉ、ヒロ!」
 俺にからかわれたのが悔しいか、志保は地団駄を踏みながらある言葉を口にした。
「そういうあんただってねえ、人の事言えるの!?」


 来栖川エレクトロニクス中央研究所第七研究開発室HM開発室にて、主任を務め
ている長瀬源五郎には気にかかることがあった。
 マルチのことである。
 普段は元気溌剌として、室内の研究員達にも元気な声で挨拶を交わしていたマル
チなのだが、最近は声が沈みがちなのである。気になる研究員がマルチに声をかけ
ても、なんでもありませんからと避けていく。しかし、元気が無いのは明白だ。
 飄々としているようで面倒くさがりなところのある長瀬なので、普段なら部下の
研究員から適当な人材を見繕って仕事を押しつけたいところではあるが、マルチは
長瀬にとっても大切な娘である。自分からマルチに事情を聞くことにした。
 だがメイドロボとはいえ年ごろ(?)の娘である。マルチと向かい合ったものの、
長瀬としてもどう切り出せば良いのか悩んでしまう。
「ふぅ、いけないいけない。暗いねえ」
「主任さん……」
 マルチが不安げな目で長瀬を見返す。
「いや、技術系の人間にありがちな話でね。こう毎日研究室に閉じこもっていると、
だんだん人との付き合い方を忘れて無愛想になってしまうんだよ。一人で仕事をし
ているならそれでも問題ないんだろうけど、会社組織に身を置いているとそういう
わけにもいかなくてね」
 こういう状況の場合、長瀬は搦め手から攻めることにしている。これが、自分か
ら言い出しにくい事を切り出す時の長瀬の癖であることは、同僚や部下には広く知
れ渡っていた。
「そういう環境では、なんかこう、パァッと華のある子が場を盛り上げてくれると、
周囲がなごむんだよ。事実、ここ最近はその子のおかげで、職場の雰囲気が随分明
るくなっていた」
 そう言って長瀬はマルチを様子を見た。マルチはますますうつ向き、両手を膝の
上でぎゅっと固く握っている。
「ところが最近、うちのお姫様はごきげんが麗しくない。だから開発室の雰囲気が
すっかり以前のように暗くなってしまった。いや、ある意味では以前以上だね。み
んなマルチの身に何かあったんじゃないかって心配しているよ」
 そういうと長瀬は、その大きくて無骨な手をマルチの頭に載せようとした。長瀬
の手がマルチの頭を掴んだ途端、マルチが顔をあげた。
「頼りないかも知れないが、娘のことを心配しない親はいない。話してくれないか
ね」
 そんなマルチの様子にかまわず、長瀬はその大きな手で頭を撫でる。
 マルチは驚いたように顔を上げて後ろに下がろうとしたが、そのまま背もたれが
後ろにある机に当たって止まってしまった。
「浩之くんのことかね」
 マルチの頭を撫でながら、長瀬はよくマルチがよく話す高校の出来事の中に登場
する少年の名前を出す。
 その言葉が限度だった。マルチの見開いた目が、みるみる涙で満たされていった。
「う、うう、うわぁーん、主任さ〜〜〜〜ん」
 涙と鼻水を流しながら、マルチは長瀬の胸に飛び込んで泣き出してしまった。
「浩之さんが、浩之さんが、なでなでしてくれなくなったんです〜〜〜〜〜!」
 泣き出したマルチをあやしながら、長瀬は事情を聞きだしていった。
「──と言うわけなんですぅ。ぐすっ。主任さん、私どうしたらいいんでしょう」
「どうしようと言われてもなあ」
 長瀬は悩んだ。確かにマルチたちの使用状況を考えると、この問題は避ける事が
できない。その意味では盲点だったといえる。しかし高校に試験通学しているマル
チ当人に対しては、取り敢えず何らかの措置を施さねばならない。
「うん、なんだ。アレがあったんだ。そうだ、そうしよう」
 何かを思いついたかのように、長瀬は呟いた。物事を考える時、自然と意味不明
な独り言を言ってしまうのは、長瀬の悪い癖だ。
「安心しなさい、マルチ。私たちがなんとかしてあげよう。これで問題は取り敢え
ず、なくなるはずだ」
「本当ですか!?」
 ついさっきまで泣いていたマルチの顔が、明るくなった。


 突き抜けるほど青い快晴の空の下で、俺はあかりと一緒に登校していた。
 何かと話しかけてくるあかりの言葉に適当に相槌を打ちながらも、俺は足取りが
重くなるのを感じていた。
 原因は分かっている、マルチだ。ここ数日、俺はマルチを避けていた。
 マルチ自身に責任がないことは分かっている。俺自身のせいだ。俺がつまらない
事を気にしたため、マルチを傷つけてしまった。
 しかし一旦気にしてしまったものを、すぐに何事も無かったかのようにすること
も出来なかった。結果なんとなく気まずくなり、マルチを避ける日々が続いてしま
った。
「──でね、浩之ちゃん。聞いてる?」
「ん、ああぁ」
 ときどき投げかけてくるあかりの質問にも、適当に答えておく。
「んもう、聞いてくれないんだからあ」
 ちょっとむくれた表情で、あかりが睨みつける。が、すぐに真顔になった。
「浩之ちゃん、マルチちゃんのこと考えてたでしょ」
 さすがは幼なじみだ。俺の考えている事もお見通しで。
「マルチちゃん、元気無いみたいだったよ。浩之ちゃんのほうからも、声かけてあ
げなきゃ」
「う、ううん。そうだな」
 気のない返事を返す。
「やっほー、あかり。おっはよう!」
 出し抜けに志保が声をかけて来た。朝っぱらから無意味に明るいやつだ。
「志保、おはよう」
「やー、今日も爽やかねえ。ここに一人爽やかじゃないのがいるけど」
 志保の言葉を聞き流す俺。今はこいつの話に付き合う気分じゃない。
「やーねえ、何暗い顔してんのお。ひょっとしてヒロがマルチとケンカしてるって
話、あれ本当だったってわけ?」
「うるせえ、志保。大体お前がなあ──」
 志保の言葉にカチンときて反論しようとした俺だが、途中で言葉を切る。
「大体って、何よぉ」
「やめとく。どうせ言ってもからかわれるだけだ」
「あ、こら、待ちなさいよお。大体私が何だっていうのぉ!?」
 志保の言葉を無視して校門をくぐる。そこに声がかけられてきた。
「あっ、浩之さんだ。浩之さーん!」
「え、マル──」
 反射的に声を返そうとして、俺は絶句してしまった。駆け寄ってくるマルチの姿
が異様だったからだ。
 マルチはセーラー服の肩ごしや周囲に紐を通し、そこになにやら長くて黒い棒を
何本もぶら下げていたのだ。
「はぁ、はぁ。おはようございます、浩之さん」
「マルチ、それ──」
 その黒い棒はなんだ、と尋ねようとして、声が止まってしまう。まだ気が動転し
ているようだ。あかりも志保も呆気に取られているようだ。
「ああこれはですねえ、『びっちょーたん』なんです」
「備長炭ー!?」
 意外な言葉に俺はオウム返しに答えた。
「ね、どうしてそんなものを」
 いちはやく回復した志保が、マルチに尋ねて来た。そいつは俺も聞きたい。
「はい。研究所の方がおっしゃるには、なんでも『かっせーたん』には、『でんじ
は』を『きゅーしゅー』する働きがあるみたいなんです。こうやって『びっちょー
たん』を身につけておけば、私の体から発生する『でんじは』を、ある程度防いで
くれるんだそうですぅ」
 うろ覚えなのかところどころつっかえながら、マルチは説明した。
「はあ、それで備長炭をぶら下げてるわけね」
 俺は半分呆れながら、マルチのぶら下げている備長炭を眺めていた。長瀬さーん、
あんたは一体何を考えているんだぁあああ。
「はい。これで浩之さんも、えーと『ひふがん』や『はっけつびょー』なんかを気
にする事もなくなると思いますよ」
 そういってにっこり笑ったマルチの笑顔は、俺の心の中にあったこだわりを溶か
してくれた。
 バカだな、俺は。つまらない妄言に惑わされて、こんな大切なものがあった事を
忘れていたなんて。
 そう思うと自然と手が、マルチの頭に伸びていった。
「あ……」
「ごめんな、マルチ」
 なでなでなでなで……
 おれはここ数日間避けていたなでなでを、久しぶりに十分マルチにしてあげた。
 いくら活性炭が電磁波を吸収する効果があるといっても、直接電化製品にさわった
りしたら被爆は免れない。大体活性炭自身の電磁波吸収効果も怪しいもんだ。しかし
今の俺は、そんな事よりも本当に大切なものを見つけたようだ。
 久しぶりのなでなででぼうっとなったマルチを見ながら、俺はこんなマルチの笑顔
を見られるのなら、数十年後に皮膚ガンになったとしても悪く無いなと考えていた。




                           今、そこにある機器  (終)



http://www.tky.3web.ne.jp/~junhelm/