「耕一さん」
自分の名を呼ばれ、耕一は振り向いた。
そこには、一人の女性がいる。彼の、もっとも愛する女性が。
そして、耕一は様々な思いを込め、その名を呼ぶ。
「千鶴さん……」
あの日……耕一と千鶴が初めて結ばれ、そして痕がいやされた日から、はや三年の月日が流れた。
それ以来、耕一は大学が長期休暇に入る度に柏木家を訪れ、従姉妹達と時を共に過ごした。
二年前。
千鶴に誘われ、外に出た耕一は、そこでこう言われたのだった。
『大学を卒業したら、こちらに来て下さいますか』
と。
耕一は、その時の千鶴の、はにかんだような笑みを、よく覚えている。
そして、今日。
その同じ表情が、耕一の前にあった。
「……耕一さん? どうしたんですか?」
少し首を傾げて、千鶴が問う。
「い、いや、少し考え事を……千鶴さんこそ、どうしたの?」
そんな耕一を見ながら、千鶴はくすっ、と笑って言った。
あのときと同じに。
「少し、歩きませんか?」
もう、夕方と言っていい時間だった。
夏の太陽は、まだその輝きを失ってはいない。
照りつける太陽の中、耕一と千鶴は並んで歩く。
他愛もない話をして、千鶴が笑う。
日光が、その笑顔を鮮やかに彩る。
耕一は、そんな千鶴を見て、少し微笑んだ。
三年前の痕は、少なくともそこには見られない。
と、千鶴が不意にこっちを向いた。
「耕一さん」
何かを、期待するような、そんな千鶴の表情。
「もうすぐ、卒業ですね」
「………………」
「以前に私が言ったこと……覚えています?」
以前。
『大学を卒業したら、こちらに来て下さいますか』
「もちろん、覚えているけど」
耕一のその言葉を聞き、千鶴は再び前を向く。
何かを期待するような、そんな表情のまま。
卒業。
そう、もうすぐ俺は大学を卒業する。
あのとき俺は、千鶴さんの言葉に何も言うことが出来なかった。
けど、今なら……
「千鶴さん……」
「耕一さん」
耕一が、かねてより千鶴のために用意して置いた言葉を言おうとしたとき、唐突に千鶴がそれを遮った。
そして、一つステップを踏んで耕一の方に向き直り、静かに言った。
「あの場所へ、行きませんか」
と。
あの場所。
耕一が自らの呪われた地に打ち勝ち、そして千鶴を守った場所。
かつて、地元の人々からは『雨月山』と呼ばれた場所。
いつの間にか、辺りは赤く染まっている。
その場所の堤防の上に、二人は腰掛けていた。
ただ黙って、時の流れに身を委ねる。
否、千鶴は先程から、耕一の方をちらちらと見ている。
何かを訴えかけるように。
ややあって、耕一が口を開いた。
「千鶴さん……俺も、前に言ったよね」
え? という表情を、千鶴が浮かべる。
「『俺が千鶴さんを、幸せにしてあげる』って」
耕一は、千鶴の顔を正面から見つめ、ゆっくりと言った。
「千鶴さん……結婚して欲しいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、千鶴の目に涙が浮かぶ。
「ありがとう、耕一さん。けど……」
「え?」
千鶴は、そこですっ、と立ち上がる。
その横顔が、夕日に当たり、赤く染まって見えた。
「けど……耕一さんは、本当にそれでいいんですか?」
「……本当に?」
「私は、正直言って、耕一さんのその言葉を待っていました。けど、耕一さんのその言葉が、私への同情からのものだったら、私は……あなたを、苦しめたくないから……」
そこから先は、嗚咽にかき消されてしまう。
耕一は、ゆっくり立ち上がり、千鶴をそっと抱き寄せた。
「もう一度言うよ、千鶴さん。……俺と、結婚して欲しい」
千鶴が、何かを言おうと口を開きかけるが、それより早く、耕一は次の言葉を紡ぎだしていた。
「俺が、千鶴さんのことを愛しているかどうか……それは、千鶴さんが一番よく知ってるだろ? 俺は、千鶴さんと一緒にいたい。それじゃあ、駄目かな?」
千鶴の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「耕一さん……こういちさんっ」
そのまま、耕一にすがりつく。
やがて、笑みを浮かべ、耕一の方を向く。
そして、二人の唇が、重なった。
季節は巡り、春が訪れる。
小さなチャペルで、一組の夫婦が誕生した。
夫の名は、柏木 耕一。
妻の名は、千鶴。
その姿を見ていた千鶴の妹たちは、その性格がよく現れた反応をしていた。
「しかし、耕一もこれから苦労するよなー。なんせ、千鶴姉が嫁さんじゃねー」
「梓お姉ちゃん、そんなこと言ったら駄目だよ」
「……そうだね……」
そして、彼女たちの前に、新郎新婦が姿を見せる。
「……奇麗」
そっと呟いたのは、初音だ。
千鶴が纏う、純白のウェディングドレス。
そして、二人の顔に浮かぶ、幸せそうな笑み。
そんな二人に送る、彼女たちなりの祝福。
「耕一、がんばりなよ! 千鶴姉が相手じゃ、大変だろうけど」
「……おめでとう、姉さん、耕一さん……」
「千鶴お姉ちゃん、とっても奇麗だよ……お兄ちゃん、お姉ちゃん、おめでとう!」
そんな義妹たちに、耕一は笑みを浮かべ、
「……これからは、本当の家族になるんだ。改めて、よろしくな」
と言った。
家族。
三人はしばらくその意味を考えるようにして、そして、頷いた。
千鶴は、そんな妹たちと夫を見て、優しげな笑みを浮かべた。
この人となら、やっていける。
それは、そんな笑みだった。
<完>