紅いバレンタインデー 投稿者:Fool


「ら〜んらら〜ん ららら〜ん ら〜んらら〜ん らら〜ん…」
 鼻歌を歌いながらエプロン姿の新城沙織は、自分のアパートの中を忙しく動き回ってい
た。
 テーブルの上に薄い朱色の真新しいテーブルクロスを引き、その上に小さな白い花を差
した花瓶を立てる。
 取り皿とティーカップを二人分、テーブルの上に向かい合わせに並べる。
 そして、テーブルの真ん中には大きなハート型をしたチョコレートケーキを置いた。
「よ〜し! 準備完了!」
 腰に手を当てて、うんうんと頷く沙織。
 ちらりと壁に掛かっている時計に目をやる。針は六時を差していた。
「後は祐くんを待つだけね」
 沙織はエプロンを外して椅子に座ると一息入れた。


 今日は二月十四日 セント・バレンタインデー…。


「…と言う訳で、十四日はウチに遊びに来てよ。手作りのケーキを御馳走してあげるから
さ」
 沙織から祐介に、そんなお誘いの電話が掛かってきたのは二月の頭だった。
「へぇ、沙織の特製ケーキか…楽しみだな」
「えへへ…期待してて、祐くん…」

 長瀬祐介と新城沙織…二人が交際を始めて、もう何年目だろう。
 その間に、二人は高校を卒業し、やがて大学生になり、そして社会人になった。
 いつしか、祐介は沙織の事を「沙織ちゃん」ではなく名前で呼ぶようになっていた。
 やはり、二十歳過ぎた男が恋人を「…ちゃん」で呼ぶのは抵抗があるからなのだろうか。
 もっとも、沙織は未だに「祐くん」だが…。

 その日、祐介は会社を定時で上がり、沙織のアパートへと向かった。
 歩きながら腕時計を見る祐介。現在六時十分。
 七時には着くと話してある。今から電車に乗れば余裕で間に合う時間だ。
 ちなみに、沙織は有休を使ったらしい。
「お部屋をバレンタイン用に模様替えするのよ」
(沙織らしいな…)
 沙織の言葉を思い出し、思わず祐介は笑みを浮かべた。

 歩行者用の信号が青く点滅している。
 祐介は走ったが間に合わず、横断歩道へと踏み出す手前で信号が赤に変わった。
 祐介の前をけたたましく車が通り過ぎていく。
「チッ」と短く舌打ちする祐介。舌打ちした後で先を急いでいる自分に気付き、笑った。
(らしくない…何を焦っているんだ…)
 そして、懐の中から小さな紺色の箱を取り出す。
(コレのせいかな…やっぱり…)
 その、赤子の握り拳位の大きさの箱の蓋を開ける祐介。
 キラリと箱の中で何かが光った。
 指輪だった。小さなダイヤの指輪が箱の中にはあった。
(…結婚してくれないかい?)
 そう言って沙織にコレを差し出したら、彼女はどういう顔をするだろうか?

 親しい友人達も次々と結婚していき、焦る気持ちもある。
 だが、それだけではない。
 沙織と家庭を持ちたい…。沙織と一緒に居たい…。友達や恋人などではなく夫婦として
…。
 長年付き合っている内に、いつしか祐介は、沙織なしの生活など考えられない様になっ
ていた。
 しかし、結婚を口にするきっかけがなかった。普通の日に言うのもちょっと照れくさい。
 それならば何かの記念日にと思い、去年のクリスマスにプロポーズしようと決めていた。
 その日に合わせて指輪も買った。指のサイズはそれとなく訊きだしてある。
 だが、その日は急な仕事が入ってしまった。
 しかし、今日は違う。今日は仕事を定時に切り上げた。後は沙織のアパートへ向かうだ
けだ。
(今日こそは…きっと…)
 祐介は決意と共に、指輪を納めた箱を懐に戻した。
 その時、彼は気付いていなかった。車道を挟んだ反対側で己の懐をギラついた目で見て
いる痩身の男を。その目は獲物を見つけた狩人を彷彿させた。

 歩行者用の信号が青になる。
 再び人の波が流れ始める。祐介も、その男も歩きだす。

 横断歩道の真ん中辺りまで歩いた時、祐介の視界の隅に西の空を紅く染めながら地平に
沈もうとしている太陽が写った。
 思わずその場に立ち止まり、目を細めながら夕日を見る祐介。
 赤光が瞳を突き抜け、脳の奥にある記憶の扉を叩く。
(なんだろ…この感じ…。前にも何処かで…)
 とても懐かしく、それでいて哀しい感覚。

 長瀬ちゃん…。

 夕日に名前を呼ばれた。いや、夕日ではなく、夕日の中に浮かんだ少女に。
 それが誰かはすぐに判った。
「瑠璃子さん…」
 祐介は少女の名前を呼んだ。
 同じ高校に通っていた少女。今はこちらの世界にいない少女。

 長瀬ちゃん…幸せ?

 夕日の中の瑠璃子が訊いた。
「うん…」
 力強く答える祐介。

 そう…。良かったね、長瀬ちゃん…。

 優しく笑うと、瑠璃子の姿は霞のように消えた。
「瑠璃子さん…」
 祐介はもう一度瑠璃子の名前を口にし、そして心の中で「ありがとう」と付け加えた。

 ドンッ!

 不意に誰かにぶつかられ、祐介はつんのめった。
 ぶつかってきた人間。それは先程祐介の事を見ていた痩せた男だった。
「あ、スミマセン…」
 端から見れば、道路の真ん中で突っ立っている祐介が悪い。一応先に謝る祐介。
 だが、男は祐介の事をなど見向きもせず、そのまま横断歩道を歩いていった。
 ふと、懐の違和感に気付く祐介。
 ない。なくなっている。自分の想いを詰め込んだ小箱が。
 すられた。
 犯人はさっきぶつかってきた男だと直感で判った祐介は、咄嗟に振り返り男の肩を掴ん
だ。
「チョット!」
 少し乱暴に自分の方を向かせる。男は「ばれた」という表情を浮かべた。
 途端に取っ組み合いになる二人。祐介と男を中心にして瞬く間に人垣が出来る。
 男は聞いたことのない国の言葉を喚いている。日本人っぽい顔立ちをしていたが、日本
人ではないのだろう。
 男の右手が鈍く光った。そして、祐介の脇腹にめり込む冷たく鋭利な刃物の感触。
「あ…」
 祐介の動きが止まった。途端にその場から逃げ出す男。
 自分の脇腹を見る祐介。そこには、ナイフが深々と刺さっていた。
 痛みはなかった。ただ急速に体の力が抜けていった。
 それでも、祐介は逃げた男に向かって震える手を伸ばした。ぱくぱくと唇を動かしたが
声は出なかった。
 力尽きその場に俯せに倒れる祐介。
 女性の甲高い悲鳴が辺りに響き渡った。

 薄れていく意識の中で、祐介は自分から流れていく血を見ていた。それは、とても綺麗
な紅い色をしていた。


 ピピピピ…。
 沙織の部屋に八時を告げる時計の電子音が鳴っていた。
 デーブルに頬杖をつきながら、沙織は祐介を待っていた。  
「遅いな…祐くん…」
 ぽつりと寂しげに沙織は呟いた。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 バレンタインデーにUPしたのに、全然バレンタインっぽくないSS(笑)。
 改めて読み直すと構成的には『愛の聖夜…』に似ているな(爆)。