サラリーマン藤田浩之 輪違 第1話 投稿者:AIAUS 投稿日:12月31日(火)20時35分
 ガタン、ゴトン。
 線路の上を走る電車が揺れて、一定のリズムを刻む。
 そのリズムに合わせて、吊り広告も揺れる。
 若い男が一人、揺れる広告を見ながら、吊り革につかまって立っている。
 帰宅時間の電車の中はひどく混んでいて、クーラーが効いているはずの電車の中も、
寿司詰めになった人の群れで蒸し暑くなっている。
 若い男の目の前に座っているのは、頭がバーコード状に禿げたサラリーマン。
 疲れ切った体を椅子に預けて、こっくりこっくりと頭を揺らして寝入っている。
「ふふっ」
「ねえ、あのオッサン。漫画みたいな頭しているね」
 それを見て、くすくすと笑っているのは、近くの席に座っている女子高生。
(ああ、俺もガキの頃は、あんな風に笑っていられたよなあ)
 疲れた背中を曲げて、若い男は溜め息をついた。
 仕事に就いて一年。
 自分にはサラリーマンは向いていないと思っていたが、これほど不向きだとは思わなかった。
 毎日、上司や同僚に怒られ、仕事では失敗し、得意先に頭を下げて歩く日々。
 ルーチン化した、いけてない日々。
 いいかげん嫌になって来るが、他に飯を食べていく手段があるわけでもない。
「次は、○○駅〜。お降りのお客様は、お早めに準備をお願いします〜」
 気の抜けた車掌の声が響くと、男は目の前に座っているバーコード頭のサラリーマンを
揺り起こした。
「江村さん。降りる駅ですよ。起きて下さい」
「……んっ……んんっ? おっと、もう着いたの?」
 男は目を覚ますと、驚いたようにキョロキョロと辺りを見回した。
 その様子を見て、女子高生がまた可笑しそうに笑っている。
「そうです。乗り遅れると、もう一周することになりますよ」
「そうそう。よくやるんだよね。藤田君、ありがとう。また、明日も頑張ろうな」
「はい。江村さん、お疲れ様でした」
 年上の同僚が、慌てて電車の中の人混みをかきわけて、車掌の立つ出口へと進んでいく。
 その後ろ姿に手を振りながら、若い男はまた溜め息をついた。
(ああ、俺も江村さんみたいなオッサンになっちまうのかな)
 学生の頃は想像もしなかった将来の自分の姿に、男は少しばかりの絶望を感じていた。
 
 
 ガチャ。
 鍵を回し、自分が住んでいるアパートの部屋の扉を開ける。
「うい〜。疲れた〜」
 夏用の背広をハンガーにかけて壁に吊すと、男は部屋の畳の上に座り込んだ。
 テレビを見ようとしてリモコンを捜したが、散乱するカップ麺の空容器の下に潜り込んでしまった
のか、なかなか見つからない。
 わざわざテレビのところに電源をつけにいくのも面倒くさいので、男はそのまま天井を見上げて、
呆けたような顔で、しばらく時間を過ごした。
「腹、減ったよな……」
 ポツリとつぶやくと、男は這うようにして冷蔵庫のところに移動する。
 ガチャ。
 冷蔵庫を開けると、中の冷気が男の頬を撫でた。
「なんでぇ。なにも入ってねえや」
 買い置きは昨日で尽きたはずだ。
 そんなことも忘れていた自分に呆れてしまったのか、男は面倒くさいとばかりに、仰向けに
転がった。畳のイ草が、カッターシャツを通して、男の背中をチクリと刺す。
「買いに行くのも面倒くせえよなぁ。あぁ、どうすっかなあ」
 近くのコンビニまでは、歩いて5分。
 出かけてしまえば済む問題だ。
 だが、仕事の疲れが、男を意地悪く苛んでいた。
 体の疲れよりも気疲れが大きい。
「あぁ、もう。スカッっとすることねえかなあ」
 男はごろりと寝返りを打つと、誰に言うともなしに文句を言った。

 PILLLLLLLI、PILLLLLLLI、PILLLLLLLI……。

「はい、もしもし。藤田ですが」
 ポケットに入った携帯電話を取ると、疲れた男はすぐに電話に出た。
 仕事の癖だ。
「もしもし。浩之? 今、えびす屋にいるんだけど。来る?」
「雅史か。他には誰がいるんだ?」
「うん、矢島がいるよ。まだ、店に入ってないからさ」
「わかった。すぐに行くぜ」
 スカッとすること。
 それが酒を飲むことだとは情けないが、男は先ほどとは打って変わった明るい表情で、
普段着に着替え始めた。
 細めのスラックスにドライTシャツ。
 財布に札が入っていることを確認すると、男はすぐに部屋から出て行く。
 バタン。
 あんまり強い勢いで閉めたので、扉にかかっている表札が揺れた。
『藤田 浩之』
 表札には、そう男の名前が書いてあった。


 値段の割には美味い料理を出すことで人気のある飲み屋、えびす屋。
「お〜い、浩之。こっち、こっち」
 背広姿の小柄な男が、浩之に向かって手を振っている。
「おーっす。相変わらず忙しそうだな、雅史。仕事場から、そのままか?」
「そうそう。病院の事務っていうのも地味に見えて大変な仕事でさ。まだ、仕事残っているんだよ」
 雅史と呼ばれた男性は明るく笑いながら、浩之に答えた。
 それにあわせるようにして、雅史の隣りにいた背の高い男が口を開く。
「よっしゃ、集まったな。それじゃ店に入ろうぜ」
「矢島か。久しぶりだな。また、会社変えたんだって?」
「おう、給料がいいからな。車を売るには違いないから、看板の名前が変わったって、大した問題
じゃねえし」
 高校の頃の同級生は今、敏腕の営業マンになっていた。
 ガラガラガラ。
 店の扉を開ける。
「いらっしゃいませ〜。三名様ですか? あちらのお席が空いておりますので」
 愛想のいい店員が、浩之と雅史、矢島の三人を迎える。
「ラッキーだったな。待ちなしだってさ」
「ここ、繁盛しているからなあ」
 そんなことを話ながら、三人は席に着く。
「とりあえず、生三つ、お願いします」
「あいよ。生ビール三杯、入りま〜す」
 手慣れた様子で注文する雅史を横目に、浩之と矢島はオシボリを開ける。
「今月は何台売ったんだ、矢島?」
「ん〜。六台くらいかな。まだ月半ばだから、これからスパートかけるけどな」
 営業のことはよくわからないが、いい数字なんだろう。
 自分より数年早く仕事に就いた同級生は、もう会社の中核として働いている。
 なんだか引け目を感じて、浩之は下を向いた。
「お待たせしました。生ビールです。それじゃ、注文は?」
「えっと、これとこれとこれ。あと、枝豆を」
 メニューを指差しながら注文していく雅史と、その注文を端末に打ち込んでいく店員。
「よっしゃ。みんな、お疲れ〜」
「ういっす。お疲れさん〜」
「お疲れ様〜」
 チン、チン、チン。
 三人の乾杯に合わせて、ジョッキが鳴る。
 浩之と矢島は一気にジョッキを傾けて、雅史は控えめに口をつけて、仕事の後のビールを
飲み干した。
「ぷ〜。やっぱ夏のビールは美味いよな」
「ああ。五臓六腑に染み渡るぜ」
「二人とも楽しむのはいいけど、限度は過ぎないでよ。明日も仕事だろ?」
 真面目ぶったことを言う雅史の脇腹を浩之が肘で軽く突いた。
「嫌なこと思い出させんな。ったく、変わんねえな、雅史は」
「あはは。まあね。よく言われる」
 明るく笑う雅史につられて、矢島と浩之も楽しそうに笑う。
 次々と運ばれてくるツマミをつつきながら、三人は酒を楽しみ始めた。
「病院っていうんだから、看護婦と仲良くなったりしないのか、佐藤」
「すぐ近くに、高収入で高学歴の人達がたくさんいるからね。そう、うまくはいかないよ」
「ん〜、なんかリアルだな。やっぱ、顔よりは年収かぁ」
 年収という言葉を耳にして、浩之がぐっと喉を詰まらせる。
「そうそう。矢島がよく行く店みたいなことは、なかなか起こらないよ」
「んっ? ナースハットのことか? そうそう、可愛い新人が入ったんだよ。今度、一緒に
行ってみるか?」
「あはは。僕はいいよ。そういうの苦手だし。浩之は好きなんじゃない?」
 風俗店の話を振られて、浩之はまた、喉を詰まらせる。
「あ〜……俺もいいや。金ねえし」
「そうだよなあ。アメリカから戻ってきて、まだ一年しか過ぎてねえもんなあ。なあに、
大丈夫。すぐに、俺みたいに通えるようになるさ」
「矢島はどうしても、そっちの話に行くね」
「おう。夜の帝王だからな」
 笑いながら、矢島は財布の中の入浴料割引券などを見せびらかす。
「まあ、給料の使い方は本人の勝手だからなぁ」
 使えるほど貰っていない我が身を呪いながら、浩之はつぶやいた。
「そうそう。わかってんじゃねえか、藤田。おおい、生二つ。佐藤、ペース遅いぞ」
「二人が早すぎるんだって」
 雅史は笑いながら、やってきた店員に、足りなくなったツマミを注文する。
「飲もうぜ。仕事なんか関係あるか。誰も、俺たち三人を止められないぜ」
「ったく、しょうがねえ奴だな」
 浩之は矢島のテンションの高さに呆れながら、ツマミを口にする。
 こうして、友人と酒の席を共にするのは楽しい。
 仕事の憂さを晴らそうと、運ばれてきたビールのジョッキを、浩之は勢いよく傾けた。


「ん〜。ところで、佐藤。一つだけ、どうしても言っておきたいことがあるんだが」
「飲み過ぎだって、矢島。もっ、もたれかかって来ないで」
 矢島に絡まれて、雅史が困っている。
 別に助けることもせず、浩之はビールを楽しんでいる。
「なあ、おまえ。最近、禿げてきたんじゃないのか?」
「だから、禿げてないって。なんで飲みに行ったら、同じ話ばっかりするんだよ」
「ん〜、そうかなあ。絶対、生え際が後退していると思うんだがなあ。なあ、藤田はどう思う?」
「そうだなあ。昔よりはバックしているかもな」
 浩之の言葉に、普段は温厚な雅史の顔色が変わる。
「ひっ、浩之まで。僕は禿げていないし、禿げない。父さんだって、まだ禿げていないんだから」
「でもよぉ、おまえの爺ちゃん、若ハゲだったって話だろ?」
「隔世遺伝っていう言葉もあるからな」
「ちっ、違うってばっ!」
 ムキになる雅史の様子を見て、矢島と浩之が大声で笑う。
 いつも、この話題で雅史をからかっては、二人は遊んでいる。
「矢島こそ、禿げたら、すごいことになるんじゃないか?」
 思わぬ雅史の反撃に、矢島は首を傾げる。すぐに、浩之は雅史の味方を始めた。
「……ああ、そう言えば、髪の毛が立っているからな。回りから禿げたら、漫画に出てくる
無人島の椰子の木みたいになるな」
「なるかーっ!」
 楽しい。
 こうして、友人と酒を飲むのは楽しい。
 浩之は笑いながら、そのことを強く感じていた。
 
 
 チュン、チュン。
 窓の外を飛ぶ、雀の声。
 ベルを止めたばかりの目覚まし時計を見ると、浩之は体を持ち上げた。
「ふぁ〜……また飲み過ぎちまったな。雅史に悪いことしたなぁ」
 どうやって自分の家まで帰ったのか記憶がない。
 歯を磨き、顔を洗い、髭を剃りながら思い出す努力をしたが、見事に記憶が飛んでいる。
「まあ、いいか。どうせ仕事、仕事で忘れちまうんだし」
 アイロンの掛け溜めをしていたカッターシャツに腕を通すと、浩之は背を伸ばした。
 鏡に映る顔は、昨日のしょぼくれた顔ではない。
「おっし、行くかぁ」
 ガチャ。
 扉を開けると、朝の光が目に染みた。
 カツ、カツ、カツ。
 アパートの外のコンクリートの床を踏んで、革靴が鳴る。
 藤田浩之、本日も会社に出社。
 
(第2話に続く)

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