サラリーマン藤田浩之 輪違 第2話 投稿者:AIAUS 投稿日:12月31日(火)20時33分
 ツジノ食品。
 この地域では中堅どころの業務用食材卸業者で、大きな倉庫を持っていることで知られている。
 現在の食材業者の間では、在庫をいかに少なく持って、いかに多くの商品を取り扱うか、
つまり、少量在庫多種目販売がポイントになっているが、ツジノ食品は好景気の時に建ててしまった
大きすぎる倉庫を今も手放さないでいる。
 日本の食生活を支える食材の多くは、輸入品である。
 現地での疫病の流行などによる輸入規制や事故などで起こる流通のトラブルが特に多くなってきた
現在において、ある商品が慢性的に品不足になるのは決して珍しいことではない。
 その点、ツジノ食品は他業者よりも多くの在庫をストックするシステムを持っているので、
緊急時に強い。
『ツジノなら、持っている』
 価格競争では弱いが、信頼できる業者として、ツジノ食品は近隣の会社に愛されていた。


 PULLLLLL、PULLLLLL、PULLLLLL。
「はい、ツジノ食品です」
 コーポレートカラーの紺でまとめられたシックな制服を着た小柄なOLが、電話を取った。
「はい……ええ。もうしわけありません。すぐに手配いたしますので」
 受話器を持った白い手が、わずかに震えている。
 か細い、怯えたような声。
 電話の内容は、なにかのクレームだったようだが、OLの気弱な声に怒りを削がれたのか、
次第に落ち着いたものになっていった。
 トン。
 受話器を置くと、長い髪を後ろにまとめた小柄なOLが、横で事務処理をしている背広姿の
男性をにらんだ。

「藤田ぁっ!」
「はいっ!」

 先ほどの怯えたような声が嘘に聞こえるような、男顔負けの怒声。
 勢いよく立ち上がって直立不動の姿勢を取ったのは、藤田浩之。
 小柄なOLの怒りがよほどに恐ろしいのか、はやくも冷や汗をかいている。
「あんた、何回言ったら、わかるのよ!? 受注単位を間違えるなって!」
「えっ……いや、そんなはずはありません。しっかりとメモを取りました」
 プライベートの時とは違う、丁寧な「です、ます」調で浩之は釈明を始めた。
「沢蟹の甘露煮が1ケース届いたって。あれ、10箱入なの。また、うちで引き取るの?」
 それに対して、まとわりつくような口調でOLは浩之の罪状を固めていく。
「いや。しかし、注文では確かに1箱ではなく、1ケースと……」
「常識で考えたら、わかる。注文した店で1ケースを頼んだことは、過去に一回もないでしょう?」
「はあ、それはそうですが……」
「少しでもわからなかったら、相手先に確認する。これも何回も言ったよね?」
「はい……」
 直立不動で固定されていた浩之の背が、少しだけ前に傾いた。
 落ち込んで、うなだれたのだ。
「同じ失敗を何度もしないで。うちはそんなに余裕はないんだから」
 締めくくるように、とどめの言葉をつきつけると、OLは机の上に貯まった書類の処理に
取りかかり始めた。
 浩之はしばらく立ちすくんだ後、前よりはかなり肩を落として、自分の仕事に戻った。
 
 先ほどの小柄なOLが所用でオフィスを立ち去った後。
 浩之の目の前の席に座っていたOLが、まだ落ち込んでいる浩之に話しかけてきた。
「うーん。めぐみ、今日はいつもよりすごかったねぇ」
 やや茶色がかったロングヘアーを撫でながら、おっとりとした口調で彼女は浩之に優しい言葉を
かける。
「藤田君も、いつまでも落ち込んでいちゃ駄目だよぉ。怒られている間が華なんだからぁ」
「はい。ありがとうございます、松本さん」
 浩之の目の前に座っている女性は、松本リカという名前だ。
 浩之と同い年の女性だが、専門学校を卒業した後にツジノ食品に入社しているので、かなりの
先輩だと言える。
「めぐみも言い方きついけどさぁ。全部、藤田君のことを思ってのことだからねぇ。うん、
恨まないであげてねぇ」
「あはは……はい、わかっています」
 愛想笑いを返しながら、浩之は松本の言葉に何度かうなずく。
(あんな言い方しなくてもいいだろう)
 そうは思うのだが、自分がミスを犯したのも確かだ。
 そんなふうに考えられる程には、浩之も大人だった。
「藤田君、ごめん。ここの伝票なんだけどさ……」
 総務の江村が入ってきて、浩之に色々と質問を始めた。松本も自分の仕事に戻る。
(仕方ねえよなあ。俺、仕事できないんだし)
 自嘲気味にぼやきながら、浩之は江村の質問に答え始めた。


「保科課長。連判をお願いします」
「わかった。そこ、置いといて」
 浩之から少し離れた席にある課長席。
 眼鏡をかけた紺色のスーツ姿の女性が、黙々と書類を処理している。
 仕事中の浩之が、そちらにちらりと目をやると、先程、彼を力いっぱい怒鳴りつけた、
小柄なOLが自分の席、つまり、彼の席の隣りまで戻ってきた。
「藤田。沢蟹はメーカーに掛け合って、引き取ってもらえることになったから」
 それだけ言うと、小柄なOLはかなり低い位置で固定された自分の椅子に腰を下ろした。
「すいません……また岡田さんに頭を下げさせてしまいました」
 神妙な顔の浩之を見て、小柄なOL、岡田めぐみは少しだけうなずくと、自分の仕事に
取りかかる。その処理の速さは、隣りにいる浩之や向こう側の席に座っている松本の比ではない。
(許してもらえたみたいだねぇ)
 そんな意味合いをこめて、前の席の松本が浩之に微笑みかける。
(ありがとうございます、松本さん)
 そういう意味で、浩之がうなずくぐらいに頭を下げた頃、課長席から声がかかった。
「藤田君。こっち」
 普段から無口な保科課長が、かけた眼鏡の向こうから鋭い視線を浩之に送っている。
(げっ!?)
(あはは。いってらっしゃ〜い)
 固まっている浩之に向かって、松本が笑顔で手を振る。
 案の定、浩之のミスに対する、お小言だった。
(仕方……ねえのかなあ?)
 岡田とは別のキツさを持つ、保科課長の説教を聞きながら、浩之はまた、深く肩をうなだれた。
 
 
 がたん、ごとん。
 線路の上を走る電車が揺れて、一定のリズムを刻む。
 そのリズムに合わせて、吊り広告が揺れる。
 若い男が一人、揺れる広告を見ながら、吊り革につかまって立っている。
 夏の暑い日に混雑する車内。クーラーが効いているはずだが、むっとした熱気が浩之の立っている
場所にも立ちこめていた。
「だああ。やってらんねえ」
 思わず口をついて出る、疲れのこもった溜め息。
 自分の目の前の席に座っている女子高生にくすくすと笑われたが、そんなことにはかまって
いられない。同僚の岡田と保科課長に説教を食らった浩之は、かなりヘコんでいた。
「疲れているみたいだねえ、藤田君」
 隣りに立っている年上の同僚、江村に言われて、浩之は無理に笑顔を作った。
「いや、まだまだ大丈夫ですよ。忙しいのはこれからだし」
 夏はビールの季節であり、それを取り扱う飲食店は繁盛する。従って、それらに食材を卸している
ツジノ食品も本格的な繁忙期に入ろうとしていた。
 浩之はまだ経験がないが、日増しに多くなっていく仕事がそれを予感させている。
「君のいる課は女の子が多いからね。大変だと思うよ」
「はは……最初の頃は、ラッキーとか思っていたんですけどね」
 浩之の所属している課は仕入れ全般を担当しており、課長を初めとして女性がほとんどである。
男性社員として配属されているのは浩之だけだ。
「まあ、これも仕事だからね。上から押しつぶされ、下から突き上げられ。でも、他に食っていける
手段があるわけでもない。なら、歯を食いしばって前に進むしかないよね」
「まったく。そのとおりです」
 江村の言葉に共感を覚えながら、浩之は何度もうなずいた。
 キラン。
 その拍子に、江村の禿げ上がった頭頂部が車内灯を反射して光ったのが見えた。
 バーコード越しにぎらぎらと光る頭。
 そこには仕事に疲れた男の哀愁が共に光っている。
(ああ。俺もこうなっちまうのかなあ)
 江村には悪いと思いながら、浩之は絶望と悲しみを感じて、吊革を持ったまま、立ちすくんでいた。
 
 
「ただいま〜」
 誰もいないアパートの一室。
 浩之は自分の借りている部屋へ帰ると、どっかりと畳の上に腰を降ろした。
「ふぅ。くたびれたぞぉ」
 独り言をつぶやきながら、近くのコンビニエンス・ストアで買ってきたカップヌードルを用意する。
 お湯をカップの中に入れて三分。
 最近では、時計で測ることもなく感覚で出来上がるまでの時間がわかる。
「独り者の特技ってやつか」
 出来上がったカップヌードルをすすると、浩之は足の指先でテレビのリモコンを操作した。
 パチン。
 騒がしい野球場の歓声がテレビから流れ始める。
 他に見たい番組もないので、浩之はそのまま野球中継を見続けた。
「虎の奴、また派手に負けてんなあ」
 
 PILLLLLLLI、PILLLLLLLI、PILLLLLLLI……
 PULLLLLL、PULLLLLL、PULLLLLL……
 
 携帯電話から鳴る呼び出し音。
 家の電話から鳴るベル。
「また、タイミングよく……」
 浩之はぶつくさと文句を言いながら、背広のポケットに入っている携帯電話を手に取った。
「はい。もしもし、藤田ですが」
「藤田? 岡田だけど」
「あっ、はい!」
 自室だというのに、浩之はパブロフの犬よろしく、立ち上がって直立不動の体勢を取ってしまう。
「明日、早出だからね。遅れるんじゃないわよ」
「それはもちろん。覚えていますよ、はい」
「覚えるだけじゃなく、ちゃんと起きる。寝坊したら、どうなるかはわかっているわよね?」
 高圧的な岡田の声に、浩之の背中に冷や汗が流れた。
「もちろんです。絶対、遅刻なんかしませんから」
「よろしい。それじゃ明日、頼んだわよ」
「はい。おまかせください」
 岡田からの電話は、以上のような内容で切れた。
「ったく、勘弁してくれよ。なんで、自宅でまで怒られにゃならんのだ」
 そう言いながら、浩之はさっきまで鳴っていた家の電話に目をやった。
 すでに、ベルは鳴っていない。
「誰かな? まあ、いいか。大事な用事なら、またかかってくるだろうし」
 食べ終わったカップラーメンの空カップを無造作に床に捨てると、浩之はそのまま、万年床に
寝転がる。
「仕事、仕事っと……ああ、楽しいなっと」
 なかば、やけくそ気味に言いながら、浩之は足の指先でテレビのリモコンを操作して、虎が
負けている野球中継を切った。
 仕事場と自宅の往復。
 休みには、することもなく、ぼんやりと暇をつぶす。
 そんな日々に嫌気が差しているが、特に熱意を持てそうなこともない。
「これじゃ駄目なんだろうなぁ……」
 そう思いながら、部屋の電気を消した浩之は目を閉じた。
 
 PILLLLLLLI、PILLLLLLLI、PILLLLLLLI……
 携帯電話が鳴っている。
「ふぁああああ。はい、藤田ですが」
 寝ぼけ眼をこすりながら、浩之は電話に出た。
「藤田ぁーっ!」
「はっ、はい! おはようございます、岡田さんっ!」
 寝崩れてよれたカッターシャツを着た浩之が、万年床から起きあがりこぼしのように立ち上がり、
直立不動の姿勢を取る。
「……あんた、まさか、まだ寝ていたんじゃないでしょうね?」
 ドスの利いた岡田の声。
 枕の横の目覚まし時計を見ると、早出の出社にはぎりぎりの時間だ。
「とっ、とんでもないです。今、カッターシャツに袖を通したところですよ、はい」
 カッターシャツを着ているのは確かだから、嘘はついていない。
 ただし、夕べから着たままだが。
「わかった。それは信じる。いい? 今日は絶対に遅れちゃ駄目なんだからね。早目に会社に
来るのよ」
「もちろんです。今から出社します」
「よろしい。それじゃ頼むわよ。絶対に遅刻しないように」
 岡田はそれだけを言うと、電話を切った。
「……やべえ、やべえ。遅刻したら、また説教を食らうところだった」
 アイロンを掛け溜めしているカッターシャツに着替えると、浩之は電気カミソリで髭を剃った。
そして、整髪料を左手につけると、手ぐしで髪を整え、右手で手早く歯を磨く。
 朝飯は抜き。
「いってきまーす」
 浩之は誰もいない自室に、そう言い残すと、急いで駅に向かって走り始めた。
 
「起こしてくれて助かったよなぁ。ああ、わびしきは独り身か」
 子供の頃は、毎朝、起こしに来てくれる幼なじみがいた。
 あの時は、自分の方が怒鳴り返していたような気がする。
「ひどいことしていたよなあ。俺もガキだったし」
 わずかに頭を過ぎる悔恨。
 幼なじみの少女に自分がしてしまったことを考えると、夜も眠れないことがある。
 それは、今でも浩之のトラウマだ。
「おっと仕事、仕事っと。怒鳴られるの嫌だもんなあ」
 そのトラウマを振り払うようにして、浩之は駅へと急いだ。
 
 
「おはようございまーすっ!」
 元気のいい浩之の声。
「おはよう、藤田。朝からご苦労様」
 それに応えたのは、すでに作業着に着替えて、藤田を待っていた岡田だった。
「わっ。早いですね、岡田さん。さすがだ」
「あたしは家近いし。それよりも急いで着替えて。早めに搬入を終わらせてしまいたいから」
 岡田の仕事は仕入れの管理であり、倉庫業務は本来、担当ではない。
 だが、今朝のように大型の搬入がある時はヘルプとして使われることもある。
 大型の倉庫を持つツジノ食品ならではの光景だった。
「はい、今すぐ。これ全部、中にやっちゃっていいですね?」
 トラックの荷台から倉庫の前に積み降ろされている大量の商品を指差しながら、浩之は
はつらつとした声を出す。
「そう。場所は、あたしが指示するから。早くやっちゃおうね」
「はい! おまかせくださいっ!」
 浩之はそう言うと、倉庫の地下にあるロッカールームへと走っていった。
 
 食材と言っても、物によって色々な保存方法がある。
 冷凍が必要なもの、冷蔵が必要なもの、常温で保管すべきもの。
 また、ツジノ食品のように大型の倉庫を持っている会社は、倉庫の整理をきちんとしておかないと、
棚卸しの時に泣くハメになる。
「藤田。それはあっちに。丁寧に運んでよ。割れ物だからね」
「ういっす。了解です」
 手慣れた動作でフォークリフトを操作しながら、浩之はフォークを商品が置かれたパレットの下に
差し込んだ。
「助かるねえ。さすが、岡田さんが仕込んだだけはあるわい」
 近くで作業をしていた髭面の倉庫作業員が、冷やかすようにして笑う。
「藤田のやつ、免許だけは飛行機から戦車まで運転できるぐらい取っているのよ。どこで取ったのか、
知らないけど」
「アメリカに何年もいたって話だろう? 英語もペラペラって聞いたぜ。俺らと違って、出世頭
だよなあ。岡田さん、今のうちに捕まえておいた方がいいぜ」
「……」
 それを聞いていた岡田の目がすうっと細くなる。
「ちょ、ちょっと待った。今のは冗談……いっ、いってー!」
 岡田の履いている安全靴で脛を思い切り蹴られた髭面の作業員が、その場にうずくまる。
「すいません。そこ危ないですよー」
 浩之の運転するフォークリフトが、近くに迫ってきていた。
「そのまま轢いちゃっていいから。作業を急ぐわよ」
「じょ、冗談じゃねえ!」
 転げるようにして、髭面の作業員はあわててフォークリフトの進路から逃げ出す。
「バーカ。岡田さんをからかって、ただで済むわけねえって言っていたのはおまえだろうが」
「うっせえ。うっかり口が滑ったんだよ」
 同僚にからかわれた髭面の作業員は、笑いながら、他の作業場へと走っていく。
「ここの人って気持ちいい人が多いですよね」
 パレットを指定の場所に降ろした浩之は、フォークリフトを元の位置へと走らせながら、
岡田にそう言った。
「あたりまえ。あたしが勤めている会社だもん」
 小走りに横を駆ける岡田の微笑みを見て、浩之は少しだけ羨望のようなものを感じていた。
 
「ぶはーっ! 終わった、終わった」
 汗だくになった浩之は大きく伸びをすると、ロッカールームから持ってきたタオルで汗をぬぐう。
 今頃、自分が本来いる部署は忙しくなっている頃だから、急いで戻らなくてはならない。
「はい、お疲れさん。どうせまだ、御飯は食べていないんでしょう?」
 隣りで同じように汗をぬぐっていた岡田が、近くに置いていたポーチから弁当箱を差し出してきた。
「えっ……おっ、岡田さんが俺なんかに!? 嘘!?」
 信じられないものを見た、という顔で、浩之は岡田の顔を見る。
「こりゃあ槍でも振るんじゃないのか?」
「いやいや、槍じゃなくて隕石が落ちてくるね。滅亡は間近だ」
 その様子を覗き見していた作業員達も好き勝手なことを口走る。
「うるさい。黙って食え」
 岡田の目がすうっと細くなる。
「はっ、はい! いただきますっ!」
 危険を感じた浩之は、直立不動の体勢のままで、すぐさま弁当箱の蓋を開けた。
 もちろん、作業員達はとばっちりを受けないうちにダッシュで逃げ出している。
 いつもとは少しだけ変わった、朝の搬入風景だった。
 
「いやぁ。ありがとうございます。手作りの弁当なんて、本当に久しぶりだった」
 本来の仕入れの仕事に戻った浩之は、明るい声で隣の席の岡田に礼を言った。
「別に大したことないわよ。余った材料で作っただけだし」
「いえいえ。とんでもない。とても美味しかったです。仕事にも張りが出るというものです」
「いや、そういうつもりで作ったわけじゃ……」
 照れた岡田が指で頬を掻く。
 その指先に巻かれているのは、白い絆創膏。
(健気だよねぇ、岡田)
(あれでまだ思い出さないんだから、藤田君も相当なもんよね)
 その向こうの席で話しているのは、松本ともう一人のOL。
 昨日は休日で休んでいた、吉井ゆかりである。
 岡田、松本とは高校時代からの友人で、彼女だけは大学を卒業している。
 縁合って同じ会社に入社したが、吉井だけは仕入れではなく、営業として働いている。
 慎重で知的な性格の吉井は、照れて無表情のまま顔を赤くする岡田を、懐かしそうな表情で
見つめていた。

「手作りかぁ。今日はラッキーだったよな。めちゃ久しぶりだったもんなあ」
 家に帰った浩之は、まだニコニコと笑っていた。
 ギャグセンスと家事能力だけは恵まれていない浩之にとって、家庭料理は滅多に食べられない
御馳走だ。
「岡田さん、いいなあ。また作ってくれないかなあ」
 どちらかというと御主人様と犬という関係なのだが、そんなことをつぶやいてみて、浩之はまた、
ニコニコと笑う。

 子供の頃は、頼んでいなくても料理を作ってくれる幼なじみがいた。
 彼女にはもう会えない。
 
 そんなことを思い出して、浩之の笑顔が固まった。
 万年床に寝ころんだ浩之の顔が、鉄の棒を飲んだような表情になる。
「……アホか、俺は」
 思い出さなくてもいいこと。
 思い出したくないこと。
 思い出しても、もう取り返しのつかないこと。
 幼なじみの少女は、もう、そういう存在になってしまっている。
 浩之はあきらめ顔で、部屋の電気を消した。
 
(第3話に続く)

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