サラリーマン藤田浩之 輪違 第3話 投稿者:AIAUS 投稿日:12月31日(火)20時32分
 それは夢の中で見た幻。
 あるいは、まどろみの中で見た淡い影。

「浩之ちゃん」
「……」

 いつも聞いていた、懐かしい声。

「…浩之ちゃん?」
「あかり」

 いつも呼んでいた、懐かしい名前。

「痛かったら、すぐに言えよ。我慢する必要なんかないからな」
「……うん」

 かつての睦言。

「んっ。浩之ちゃん……」
 固く閉じられた、まぶた。
 不安げな、怯えた顔。
「……あかり。怖がるな」
 恐れていたのは、果たして、あかりだけだったのか。

「……」
「……」

 沈黙。

「……」
「……」

 長い、長い沈黙。

「……」
「……?」

 疑問。


「……」
「……な、なんでだ?」

 疑問。

「……」
「……さっきまでは大丈夫だったのに」

 疑問は膨らむ。

「……」
「くそっ! なんでだよっ!」

 疑問の次に現れたのは、怒りだった。

「浩之ちゃん?」
「嘘だろ、おい」

 落胆。

「……どうしたの?」
「なんでだよっ、なんでっ……」

 恐怖。

「……」
「なんで……ちくしょう!」

 絶望と羞恥。
 怒りと萎縮。

「浩之ちゃん」
「こんなはずじゃない」

「浩之ちゃん」
「どうしてだ。俺は、あかりのことが……」
 
 疑問と混乱。

「浩之ちゃん」
「浩之ちゃん」
「浩之ちゃん」
「浩之ちゃん」
「浩之ちゃん」

 繰り返して呼ばれる、自分の名前。
 それは呼びかけだったのに。

「ちょっと静かにしてろよっ!」
「ご、ごめん」

 若かかりし時。
 愚かだった時。
 
「く、くそっ、なんでっ、なんで……」
「……浩之ちゃん」

「名前を呼ぶんじゃねえ!」

 思い出すには、あまりにも苦しい、愚かな少年時代。
 締め付けられるような想いと共に、浩之は目を覚ました。


 ゆっくりと目を開ける。
 見えているのは、自分が借りているアパートの部屋の天井。
「……へっ、へへへ。バカか、俺は」
 浩之は自分をあざ笑った後、憂鬱げに身を起こした。
「思い出したって、もう、どうしようもないだろうが」
 睨むようにして、枕元の時計を見る。
 時計の針が差しているのは、午前五時半。
「中途半端な時間に目が覚めちまったなぁ。もう寝られねえじゃねえか」
 二度寝をして遅刻などしたら、どうなるかは経験済みだ。
 社会人は時間厳守。
 そのルールを、浩之は岡田の履いた靴の爪先で、身に染み込むほど覚えさせられている。
 ブゥン。
 まだ動きの鈍い指先でパソコンの電源スイッチをONにする。
 起動の際に起こる作動音が耳障りで、まだ重い脳を活性化させていく。
「さて、なんか面白いニュースは入ってねえかな」
 浩之が見ているのは、いつも巡回しているニュースサイト。
 最近見つけたHPで、ゴシップや嘘も多いが、情報が早くて面白いことが書いてあるところだ。
 アメリカにある雑誌の公式HPだが、アメリカでの生活が長かった浩之も雑誌名を聞いたことが
ない。よほどマイナーな雑誌らしい。
「どこもかしこも陰気なニュースばっかりだなあ。テロが多いから仕方ねえけど」
 陰鬱なのは、今の自分の心。
 浩之は明るいニュースがないかと、ニュースサイトのいたるところを探り始めた。
「はあ? 東アフリカで独立戦争? スポンサーはアジア企業か? ……本当かよ」
 英文で書かれたニュース文。
 その内容は性急すぎると思わせるもので、浩之は唇の端で笑った。
「記者は誰だよ……ツッコミを入れてやろうかな」
 メール・アドレスをチェックしようとしたところで、浩之は手を止めた。
「八つ当たりってもんだよな。情けねえ」
 クリックしかけていたポインタを、ウインドウの「閉じる」に合わせる。
 
 俺は、あいつから逃げたんだ。
 今さら、その痕は消えねえ。
 
 浩之は心の中についた醜い裂け目に虚ろな目を向けると、深く溜め息をついた。
 
 
「おはようございまーすっ!」
「おはよう。藤田君、あいかわらず元気いいねえ」
 にこやかな笑顔で挨拶を返すのは、年上の同僚の江村。
 禿げ頭に朝の日差しが反射してまぶしい。
「ええ。それだけしか取り柄ありませんから」
「あはは。謙遜、謙遜。それじゃ、今日も頑張ろうか」
「はいっ!」
 元気よく返事をして、浩之はツジノ食品の自分の部署へと向かった。

「おはようございまーすっ!」
「おはよぉ〜」
 遅めの出社なのか、まだ制服に着替えていない松本が、眠そうな声で挨拶を返した。
 松本が着ている夏の私服は薄い布地で出来ていて、健康な男性には目に毒だったが、
浩之は別に気にした様子はない。ほとんど駆け足と言えそうな速さで、部署へと駆けていく。
 
「おはよう。ほら、藤田。FAXが溜まっているよ。早く処理して」
 部署に入ってきた浩之を無愛想な声で迎えたのは、いつも職場に一番に着いて仕事を始めている
岡田だった。浩之の方に振り向いたので、後ろに結わえた髪が静かに揺れる。
「はい。早速、処理します」
 真面目な表情で岡田に返事をすると、浩之は仕事に取りかかった。
 
 カリカリカリカリ……。
 カタカタカタカタ……。
 オフィス内に響く作業音。
 たまに鳴る電話に応対する他は、話し声もしない。
 真面目な職場環境。
「そう言えば、岡田。今日、面接希望者が来る日やなかったか?」
 思い出したように保科課長が口を開く。
「ええ。時間を割いてもらうようになります」
 作業を止めた岡田が返事をすると、保科課長は首をひねった。
「そやろ? でな、もうそろそろ、ロビーの方で待っとってもええんちゃうか? さっきな、
ロビーの方を回ったんやけど、誰も来とらんかったで」
 岡田の頭の上に疑問符が浮かぶ。
 確かに、もうすぐ面接の予定時間になる。
「どこかで迷っているんでしょうか? 大きな倉庫が目印だとは言ったんですが」
「知らん人から見たら、倉庫はどれでも大きく見えるんちゃうかなあ」
「あっ……」
 保科課長の素朴な疑問に、岡田が口を開けた。
 ツジノ食品が位置する場所は商工業地域であり、倉庫は数え切れないほどある。
 そして、計画的に建てられた、この地域は、格子状に整列しており、初めてで迷わない者は少ない。
「ねえねえ、藤田君。チャンスだよぉ」
 困っている岡田を見て、松本が向かい側の机で仕事をしている浩之に話しかけた。
「えっ? なにがですか?」
「今、岡田が困っているじゃない。それで、僕が探してきます、なんて言ったら、ポイント高いよぉ」
 岡田のポイントアップ……そう言われて、浩之は苦笑いを浮かべる。
「別にいいですよ。そんなの」
「ええっ〜? つまんないのぉ」
 独特のスローペースなのでわかりにくいが、松本は残念がっているようだ。
「相手は携帯電話を持っとらんの? それで連絡つくやろ」
「いえ、持っていないそうです……」
 岡田の眉間に、小さく皺が寄る。
 会社の場所をわかるように、きちんと説明しておかなかったのは、確かに岡田のミスだ。
 求人票に略式の地図が書いてはあるが、それは絵心がまったくない保科課長が書いたものであり、
「こいつはわからねえ」とツジノ食品の社内でも評判になっていた。
「仕方あらへんなあ。時間ぎりぎりに来るかもしれんし。わからんかったら、電話で連絡くれるやろ」
 保科課長はなんでもないことのように言うが、珍しく犯したミスに、岡田は狼狽している。
 そこに、浩之が当然のように口をはさんだ。
「保科課長。私が回りを見てきますよ。もしかしたら、近くで迷っているだけかもしれないし」
「なるほど。ほな、よろしく頼むわ」
 やはり、なんでもないことのように言う保科課長を、岡田が慌てて止める
「えっ? でも、それはあたしが行かないと……」
「平日は岡田がおらんと仕事にならんやろ。いいから、藤田君に任せとき」
「はい。お任せください。頼りになる雑用係ですから」
 冗談っぽく、どんと胸を叩く浩之に、岡田は小さく頭を下げた。
(いいですよ、って言いながら、やるじゃん、藤田君)
 悪戯っぽく笑う松本に、浩之は小さく笑いを返していた。


「ええっと……結構、若い女の子だな。年は……なるほど。女子大生の就職難って本当なんだなあ」
 渡された写真と履歴書を見ながら、浩之は商工地域の味気ない道筋を歩いている。
 もう約束の時間は過ぎたが、面接を希望する女性からの連絡は会社に入っていない。
「結構、近くにいるのかもなあ。ここらへん、公衆電話もないし」
 夏の日差しに吹き出してきた汗をぬぐい、浩之は辺りを見回した。
 見えるのは業者の社屋と、それに挟まれるようにしてある民家ばかり。
「焦っているだろうなあ。俺も面接の時は結構、緊張したもんだし」
 履歴書の写真に載っているのは、生真面目な顔をして写っているショートカットの若い女性。
 一浪して女子大に入って卒業した後、就職浪人をしているらしい。
「つれえよなあ。俺みたいに不真面目な人生を送ってきたわけじゃないのに」
 面接を約束した時間に遅刻する。
 結果は、もうわかりきっているだろう。

 PILLLLLLLI、PILLLLLLLI、PILLLLLLLI……。
 
 ズボンのポケットに入れていた携帯電話が鳴ったので、浩之は電話を取った。
「はい、藤田です。あ、岡田さん? ええ、まだ見つかりません。会社には行っていませんか。
どこに行っているんでしょうね……なるほど。わかりました。もう少し探したら、会社に戻ります」
 岡田のすまなそうな声には気付かないふりをして、浩之は電話を切る。
「さて、本腰入れて探さねえとな。岡田さんの恥になっちまうし」
 そうして、浩之がもう一度、辺りを見回すと、紺色のリクルートスタイルをした若い女の子が、
焦った顔をして、彼の方へ走ってくるのが見えた。
「すっ、すいませ〜ん! 道をお聞きしたいんですがーっ!」
 小柄な体についた細い腕をいっぱいに振って、浩之に呼びかけてくる。
 女の子はパンプスの底が擦り切れそうな程の速さで走ってくると、浩之の目の前で止まった。
 夏の炎天下を、リクルートスタイルのままで走り回っていたのか。
 日に焼けた顔の上を、汗の粒が伝っている。
「もしかして、あなたが松原さんですか?」
 自分の前で立ち止まって、肩で息をしている女の子を見て、浩之は社会人口調で話しかけた。
「はっ、はい! 私が松原葵です……あ、あの、どうして、私の名前を御存知なのでしょうか?」
「ええ。今から、あなたに面接を受けてもらうツジノ食品のものですから。お待ちしておりました」
 ツジノ食品の名前を聞いて、面接志望の女の子、葵の肩が震える。
「すっ、すいませ〜ん! 昨日も下見に来たんですが、どこにあるのか見つけられなくて……」
 平謝りを始める葵を、浩之は落ち着いてなだめた。
「謝らなくても大丈夫。まずは会社に来て下さい。それから面接を頑張って。結果が良かったら、
話す機会はいくらでもありますから」
「はっ、はい! 頑張りますっ!」
 写真と同じ生真面目な表情で答える葵の姿に、浩之は一年前の自分の姿を思い出して、
懐かしい気持ちになっていた。

「うー、暑かった。炎天下の中を歩き回るもんじゃねえな」
 缶コーヒーを飲みながら、浩之は食堂で休憩をしていた。
 保科課長が気を利かせてくれて、面接が終わるまで休憩時間をくれたのだ。
「コーヒーだけじゃな……おっ、そうだ。自販機があったよな」
 食堂に備え付けてある、パンの自動販売機。
 好物のカツサンドはまだ売り切れていない。
 
「腹が減ってはなんとやら……よっと」
 ボタンを押すと、下の取り出し口にカツサンドが入った包みが落ちてくる。
「考えてみれば、学生の頃から、俺の食生活って進歩してねえよな……俺の人生って一体」
 かじったカツサンドをコーヒーで流し込みながら、わびしい自分の人生を振り返る浩之。
「そろそろ面接終わったかな。多分、いい結果にはならねえだろうけど」
 食べ終わったカツサンドの包みをゴミ箱に放り投げると、浩之は食堂の椅子から腰を上げた。
 今日の仕事は、まだまだ残っている。



(第4話に続く)

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