サラリーマン藤田浩之 輪違 第4話 投稿者:AIAUS 投稿日:12月31日(火)20時30分
 昨日の予想通り、やはり女の子の面接の結果は不採用だった。
「今回は御縁がなかったということで。なにかありましたら、ツジノ食品をよろしくお願いします」
 まるで携帯電話の定型文のような畏まった口調で、保科課長が不採用の電話をしている。

 しょうがねえか、今、どこも厳しいもんな。
 
 昨日の女の子が電話の先で固まっている姿を想像して、浩之は少し暗くなったが、すぐに気を
取り直して仕事に戻った。
 今日も忙しい。
 自分の仕事を処理するのに手一杯で、他人のことに構っている暇はない。
 しばらく新人が入ってこないのは痛いが、それでも仕事の量は増えるばかりだ。
 仕事が入ってくるのは嬉しいこと。
 すね蹴りと一緒に、岡田に教え込まれたことを繰り返しながら、浩之は仕事を続けた。
 
「藤田。今日はもう上がっていいよ」
「えっ? でも、まだ仕事は終わっていませんが」
 急に岡田に言われて、浩之は机から顔を上げた。
「あんた、残業時間が大幅に過ぎているでしょ。最近、頑張りすぎだって上がうるさいの。
いいから、後は私に任せて今日は上がりなさい」
「んー。しかし……」
 早く帰っても、別にすることないし。
 浩之が迷って顔を下に向けると、岡田の右足が素振りをしているのが目に入った。
 これ以上迷うと、安全靴のすね蹴りが飛んでくる。
「わかりました。すいませんが、今日はお先に上がらせてもらいます」
 足を引きずりながら帰りたくない。
 そう思った浩之は、逃げるようにしてツジノ食品を後にした。
 
 
「んー。あれは持っておくようにメーカーに言っておいたから、後は到着待ちか。でも、あそこって
結構いい加減なことするからなぁ。もしかすると、うちみたいに小さなところは相手にしてもらえて
ないのかな?」
 帰り道。
 まだ仕事が頭から離れない浩之は、ブツブツとつぶやきながら夕暮れの道を歩いている。
「せんせい、さよおならー」
「はい。さようなら〜」
 夕暮れの帰り道。
 保育園の入り口で、保母さんが預かっていた園児を見送っている。
「ほのぼのしていいねえ」
 自分にもあんな頃があったのか。
 同級生の中には、もう結婚して子供がいる者もいる。
 自分も父親になったら、あんな子供を迎えに来るようになるのだろうか。
 もう少し近寄って見てみようとしたところで、浩之の足が止まった。
 園児を見送っている、一人の若い保母さん。
 彼女の髪を留めているのは、黄色いリボン。
 小さい頃から見慣れた、忘れようとしても忘れられなかった顔。
「……!」
 怯えた小動物のような素早さで、浩之はその場から走って離れていった。
 
 神岸あかり。
 浩之とあかりは、家がお隣同士という環境で育った。
 物心つく前から一緒にいて。
 最初の頃は、おどおどした彼女が側にいてもらうのが嫌だった。
 しかし、些細なことで仲良くなれた後は、一緒にいるのが当たり前の存在になった。
 小学生の頃。
 一緒に公園や山で遊んでいた。
 甘酒を飲んで酔っぱらって倒れた浩之を心配そうな顔で泣きながら見つめている表情を覚えている。
 中学生の頃。
 あかりが志保という「お馬鹿さん」な友達を連れてきたせいで、何度も酷い目にあった。
 特に、受験の時。
 志保が、あかりや志保、そして同じく友人の雅史と同じ高校に行きたいと言い出したせいで、
必要以上に受験勉強してしまったような気がする。
 おかげで、あかりや雅史と同じ高校に入学できたのはいいが、志保もおまけで付いてきた。
 あれは今でも誤算だったと思う。
 しかし、全員そろって入学できた時は、あかりは泣いて喜んでいた。
 思い切り抱きつかれて首が痛かったが、あの時は本当によかったと浩之自身も思った。
 高校の頃。
 第二次性徴期の戸惑いも過ぎ。
 お互いの性を意識し合うようになった頃。
 どちらからともなく惹かれ合う二人がいた。

 今でも、自分は素直ではなかったと思う。
 あかりは、あんなにも素直に自分の好意を表してくれていたのに。
 自分は外面だけにこだわって、彼女のことを何もわかってやれなかった。
 それが、あの最悪の夜を生み出したのだ。
 
 あの夜以来、浩之は女性を女性として認識すること、男性として機能することが出来なくなった。
 あかりから少しでも遠くへ離れるため、アメリカに渡った。
 だが、そこでも何も変わることは出来なかった。
 英語を覚え、車を運転できるようになり、飛行機の免許さえも取得したが、結局、同じ失敗を
アメリカでもやってしまった。
 また逃げるようにして、日本に舞い戻った浩之。
 実家に戻れば、隣りには、あかりの両親が住んでいる家がある。
 あんなにも彼女を傷つけた自分が、今更、どうやって顔向けすることが出来るだろうか。
 
「眠れねぇ……」
 寝苦しい夜。
 あかりに見つからなくてよかった。
 表情の一つ、言葉の一つ。
 そのどれか一つでも掛けられたら、眠れないだけでは済まなかったかもしれない。
 あかりは元気そうだった。
 笑顔で、園児を見送っていた。
 それだけでいいじゃないか。
 だが、浩之はやはり眠れない夜を過ごすことになった。
 
 
「ふぁああああ」
 大あくび。
 会社でやると岡田にものすごい剣幕で怒られるので、通勤途中の間に出来るだけやっておく。
 結局、昨日は眠れなかった。
 忘れたくても忘れられない。
 当たり前だ。
 多分、自分の顔よりもたくさん、彼女の顔を見て育ってきたのだから。
 だけれども、忘れなければならない。
 あんなことをしてしまった自分が、今さら、どうやって彼女に償いを出来るというのだろうか。
 償いが出来ないのなら、消えるしかない。
 彼女がどこか別の場所で、別の誰かと幸せになるまで。
 それは胸が痛くなるような選択だったが、どうすることも出来ないことだと浩之はあきらめていた。
 
 PULLLLLL、PULLLLLL、PULLLLLL。
 今日も電話が鳴る。
「えっ? また追加? なんとかしなさいよ、あんたんとこの現場っ! ……わかりました。
それじゃ、すぐに持って行かせます」
 岡田の怒った声。
「藤田君。これ頼むわ」
 保科課長から頼まれる、怒濤のような雑用。
「あはは。藤田君、毎日大変だねぇ」
 ばたばたと走り回る浩之を見て、松本が呑気に笑っている。
 仕事をするのはいいことだ。
 少なくとも仕事に追われている間は、余計なことを考えなくて済む。
 悲観的な考え方だったが、今の浩之にはなぜか、そのことが正しく思えていた。
 
 
「藤田。もう上がっていいよ」
「えっ? またですか? 仕事はまだ残っているんですが」
 急に岡田に言われて、浩之は机から顔を上げた。
「一日二日で、あんたが居残りした時間が取り戻せるわけないでしょ」
「んー。しかし……」
 嫌な予感がして下を見ると、やっぱり岡田の右足が素振りをしているのが目に入った。
 これ以上迷うと、安全靴のすね蹴りが飛んでくる。
「わかりました。すいませんが、お先に上がらせてもらいます」
 骨折は嫌だ。
 そう思った浩之は、逃げるようにしてツジノ食品を後にした。
 
 昨日よりも遅い時間。
 同じ道を通っても、あかりがいる可能性は少ない。
 しかし、もし出会ってしまったら?
 地雷源を避けるような慎重さでもって、浩之は別の帰り道を辿ることにした。
 
 
 
 夏は暗くなるのが遅い。
 街灯がなかなか明るくならない帰り道。
 あかりには出会わないだろうという道を選んで、浩之は通勤鞄を片手に歩いていた。
「あっ!」
 もしも、あの夕方、あかりを見かけなかったら。
 もしも、この日に帰り道を変更しなかったら。
 運命。
 そんな名前を持つ歯車。
 その二つの歯車が、長い時間を経て、また再び噛み合うことになった。
 
(第5話に続く)

http://www.urban.ne.jp/home/aiaus/