サラリーマン藤田浩之 輪違 第5話 投稿者:AIAUS 投稿日:12月31日(火)20時29分
 髪を留めている黄色いリボン。
 神岸あかり。
 今も彼女は、同じリボンをしていた。
「えっ……?」
 何でもない、夕暮れの帰り道。
 少しだけ大人びた彼女は、不思議そうな顔で自分の方へ向かって歩いてくる浩之を見た。
 
 まさか覚えていないよな。
 このまま、通り過ぎちまえば……。
 
 幼い頃から見飽きるほど見てきた、あかりの顔。
 見間違えるはずもなかった。
 コツコツコツ。
 浩之の革靴の音が、アスファルトに響く。
 二人はすれ違った。
 なにも、リアクションはない。
 
 ……やっぱり忘れちまっているか。
 
 一抹の寂しさを感じながら、浩之は足を前に進める。
 
 全部、終わっちまったこと。
 覚えているのは、馬鹿な俺一人。
 まあ、そういうことだよな。
 
 あかりの足音は遠ざかっていく。
 寂しいとは思う。
 だが、それが一番よかったんじゃないか。
 浩之は、そう自分に言い聞かせていた。
 
 
「……浩之ちゃん?」

 声をかけられて、肩が震えた。
 聞き飽きるほど、側で聞いてきた声。
 少年の頃の愚かさで、二度と聞く資格がなくなったはずの声。
 トトトトっ。
 背中越しに、あかりが駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「……!!!!!」
 走る。
 何も考えられずに、浩之は走り出した。
「浩之ちゃんっ!」
 怒ったような、悲しんでいるような声。
 しかし、浩之は怖かった。
 何が怖いのか、自分でもわからない。
 だが、あかりがまだ自分をまだ覚えていること。
 変わらず、自分のことを「浩之ちゃん」と昔の呼び方で呼んでくること。
 その全てが怖かった。
 
 はぁ、はぁ、はぁ。
 駅まで一気に走り抜けると、浩之は壁に手をついて、荒い息をついていた。
 多分、今、鏡を見たら、青い顔をしているのだろう。
 
 怖い。
 
 そう思いながら、浩之は改札口を通った。


 PULLLLLL、PULLLLLL、PULLLLLL。
 今日も電話が鳴る。
 仕事をしていれば、昔の嫌なことは忘れられる。
 それは甘かったかもしれない。
 今は、あかりのことが頭から離れない。
「忘れてくれていない。許してもくれていない……」
 ブツブツとつぶやきながら、書類に向かう。
「藤田。あの件の処理だけど」
 岡田が怒り顔で近寄ってきているのだが、自分のことで手一杯の浩之は、注意がそちらに回らなかった。
「藤田君……おーい?」
 浩之の机の向こう側で仕事をしている松本が、おどけたように手を振ってみせるが、まだ浩之は
気づかない。何度呼びかけても答えないので、岡田の機嫌が悪くなってきた。
「藤田くーん。そろそろ危ないよー」
「……えっ?」
 気づくと、目の前に岡田が立っていて、蹴り足を宙に浮かせている。
「はっ、はいっ! なんでしょうか?」
「例の件の処理。前にやったことと同じ手順で」
「わかりました。やっておきます」
 仕事に集中しなくては。
 そう思うのだが、なかなか手につかない。
 結局、その日はまともに仕事が出来なかった。
 
 
 帰り道。
 岡田に文句を言われたが、無理を言って遅くまで仕事をした。
 問題になるのは、今日はどの道を通って帰るか、ということ。
 最初の帰り道は、あかりが勤めているだろう保育園の前を通ることになるから却下。
 昨日通った帰り道は、あかりの帰り道と一緒になるから却下。
 それなら、新しい帰り道を歩くしかない。
 浩之は、大分遠回りになってしまうが、疲れた体をひきずって帰り道を歩き始めた。
 
 夜の帰り道。
 あかりどころか、他の人ともすれ違わない。
 夏だというのに、今夜はなんだか肌寒かった。

 俺の考え過ぎか。
 あかりだって、仕事がある大人の女になっちまっているし。
 俺みたいな駄目な男にかまえるほど暇じゃないだろうし。
 
 あかりに出会わない帰り道。
 何よりも、それを一番強く望んでいたはずだが、浩之は寂しかった。
「寒っ……」
 冷たい風に吹かれて、思わずスーツの上着の前を止めた。
 
 
 カーン、カーン、カーン。
 踏み切りの警笛が鳴る音。
 浩之は、目を丸くして立ちすくんでいる。
 夜の駅。
 駅舎の壁にもたれかかって待っていたのは、あかりだった。
 じっと下を見て、誰かが来るのを待っている。
 その誰かは、自分以外の誰かではないだろうか。
 そんな確率の低い期待をしながら、浩之は改札口へと向かったが。
「あっ。浩之ちゃん」
「……」
 甘い考えは、脆くも崩された。
 
「浩之ちゃん、アメリカから帰ってきたんだねー。この近くで働いているの? 私、ここの地区の
保育園で保母さんやっているんだ」
 知っている。
 ツジノ食品からの帰り道、優しい笑顔で子供たちを見送る、あかりの姿を浩之は見かけていたから。
「ひっ、久しぶりだな、あかり」
 なんとか口にした、何年かぶりの幼なじみとの言葉。それはとてもひきつっていたように思う。
「うん。お久しぶりっ!」
 いきなり言葉で刺されるかと思った。
 いや、本当に刺されていてもおかしくはない。
 それだけのことをしたのになぜ、あかりはこんなにも嬉しそうに笑えるのか。
「一年ぐらい前に、アメリカから帰ってきたんだ。今は、食材関係で働いている」
「へえ。食材って、お肉とか、お野菜とか?」
「ああ。そういうのも扱っているが、やっぱり加工食品が多いな。倉庫は冷凍物だらけだ」
 久しぶりに出会った幼なじみ同士の、ありきたりの会話。
 切り付けられることを恐れていたはずなのに、あかりが何も昔のことを触れようとしないことに
浩之は奇妙ないらだちを感じていた。
「それじゃ、俺、明日も仕事だから。じゃあな」
「うん。またね、浩之ちゃん」
 またね。
 その言葉が重く、改札口をくぐる浩之の肩にのしかかっていた。
 
 
 あの情けない夜から。
 卒業する時まで、浩之は、あかりを避け続けていた。
 朝、彼女が迎えに来てくれても。
 昼、弁当を作ってきてくれても。
 夕方、一緒に帰ろうと誘ってくれても。
 雅史に忠告され、志保に泣いて怒鳴られても、浩之は自分の行動を改めなかった。
 受験が始まり、自由登校になった季節。
 浩之は意図的に、あかりから離れるように登校した。
 結局、大学は受けなかった。
 あかりの住んでいる家の隣り。
 そんな場所にある自宅から離れなければ、自分が駄目になると思っていた。
 アメリカ大陸に渡り、何度か死にそうな目にもあった。
 自分が成長したと、あかりの前に出ても大丈夫なくらい大きくなったと思いこんでいた。
 同じ屈辱の夜。
 少年だった頃と、何も変わっていなかった。
 どうしたノ?
 心配そうに話しかけてくる青い瞳が忘れられない。
 何も変われなかった。
 浩之は自分自身に絶望して、再び日本の土を踏んだのだ。
 
 なのに、どうして。
 あかりは、あの時と同じ瞳、同じ笑顔で笑えるのか。
 恐ろしかった。
 思い切り罵倒されて粉々にされた方が、まだ気が楽だった。
 自分が、あの純粋な彼女に何をしたのか。
 それが何よりも、浩之には恐ろしかった。
 
(第6話に続く)

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