サラリーマン藤田浩之 輪違 第6話 投稿者:AIAUS 投稿日:12月31日(火)20時28分
「藤田。あんた、痩せたの?」
 痩せた、と聞いて、浩之の机の向かい側に座っている松本の耳がぴくんと動いたが、肥満とは縁がない
体型をしている岡田は、心配そうな顔で浩之に聞いている。
「いえ。まあ、その。プライベートでうまくいっていなくて」
「よかったら、相談に乗ろうか?」
 本当に心配そうな岡田の顔。
 あくまで善意で言ってくれているのはわかっているのだが、人に相談して晴れるような悩みでは
なかった。悪いのは自分。自分の方が悪いのだ。
 土下座して謝ればいいのか?
 しかし、あかりが求めているのは、そんなことではないような気がする。
 では、自分はどうすればいいのか。
 困り切った浩之は、深い悩みに捕らわれていた。
 
「あっ、浩之ちゃん。こんばんわー」
 夜遅くの駅舎の前。
 今日も、あかりは浩之を待っている。
 
 忠犬ハチ公か。おまえは。
 
 昔なら、そんな悪態もつけただろう。
 しかし、今は違う。
「こんばんわ。あかり」
 何の変哲もない挨拶。
 だが、背中一面に冷や汗をかいている浩之には、これが精一杯である。
「今日も遅かったんだね。はい、これ。家で作ってみたんだ。食べてみて」
 自分が帰宅する時間に合わせて作ったのか。あかりが手渡してくれた弁当は、暖かかった。
「あのさ……あかり」
 このまま、昔のような関係に戻ってもいいのか。
 それを、あかりは許してくれるのか。
 何も言い出せなかった。
「なに、浩之ちゃん?」
 以前と変わらない笑顔。
 これが何よりも、今の浩之には恐ろしかった。
 
 
「藤田ー。今日こそは、早上がりしてもらえるよね?」
 浩之の勤務時間のことで、相当上司にしぼられているのか。岡田の怒り顔は、何時にも増して
余裕がない。
「ええっ、いいっすよ。今日は、そのつもりで仕事を早めに仕上げておきました」
 遅く帰ると、あかりに駅舎で待ち伏せされてしまう。
 そのことに気づいた浩之は、全速力で今日の仕事を済ませてしまっていた。
「えっ? あんた、もう終わったの?」
「チェックも二回済ませておきました。完璧ですよ」
「めっずらしーい」
 確かに珍しい。
 よくチェックをさぼって失敗する浩之が、可能な限りの速さで仕事を済ませてしまっている。
 あかりに会いたくない。
 その必死の思いが、彼に普段以上の力を発揮させていた。
 
 
 夕暮れの帰り道。
 それでも浩之は、あかりが誰もいない夜の駅舎の前で待ちぼうけになってはいけないと思って、
わざと彼女が園児を見送る時間に合わせて、その前を通り過ぎた。
「せんせい、さよおならー」
「はい。さようなら〜」
 夕暮れの帰り道。
 あかりが、優しい笑顔で園児たちを見送っている。
「……あいつが保母か。ぴったりの仕事かもしれねえな」
 昔から、誰かの面倒を見るのが好きだった。

 母性にあふれるというか、俺みたいな馬鹿につきあってくれたのは、あいつが面倒見がよかったから
だろう。

 浩之はそんなことを思いながら、彼女には気づかれないぐらいの距離で、彼女の笑顔を見ていた。
「あっ、タカシさん。明日の出し物の準備があるから、手伝ってもらえますか?」
 あかりが、誰か男の名前を呼んだ。
「はい、はい。まかせてよ」
 保育園の奥から出てきたのは、体格のいい男性。
 なんだか、あかりと親しそうな感じだ。
「えへへ。明日、頑張ろうね。きっと、みんな喜ぶよ」
「そうだね。頑張ろうか」
 仕事仲間にしては、話す距離が近すぎるんじゃないだろうか。
 ほとんど息がかかるような距離で、二人は話している。
 同じ保育園で働く保母と保父。
 そこで恋愛感情が生まれても、不思議なことはない。
 そんなことを考えて、浩之は自分の胸が痛くなったことに驚いた。
 
 彼女がどこか別の場所で、別の誰かと幸せになるまで。
 
 それは浩之が望んでいた、二人の関係の終わり方ではなかったのだろうか。
「なにを考えているんだ、俺って奴は……」
 想像通りであれば、あかりは幸せになれるだろう。
 きっと、幸せになる。
 だが、心の奥底では、想像通りでなければいいと望む自分がいることを、浩之は認めたくなかった。
 
 
 次の日も、次の日も。
 あかりはやはり、駅舎の前にいた。
 浩之が先に帰ってしまった時も、彼女は彼を待ち続けているのか、いない時はなかった。
 そして、夕暮れの帰り道。
 見る度に、あかりは体格のいい同僚の保母と親しそうだった。
 この前は、腕にしがみついていた。
 この前は、腰を抱きかかえられていた。

 自分の想像は、きっと間違いがないのだろう。
 あかりには、もう別の恋人がいる。
 自分は、あかりにとって、ただの幼なじみになっているのだ。
 
 そう考えると、浩之は少しだけ気分が楽になり、代わりに、胸にぽっかりと穴が
空いたような気分になった。
「なあ、あかり」
「なに、浩之ちゃん?」
 ここで、こんなことをしていたら、まずいんじゃないか?
 そう言い出したくても、言い出せなかった。
 自分が、あかりの恋人に殴られる。
 それは別に構わなかった。
 道化の役だけれども、それは自分にふさわしい役目だと浩之は自覚していた。
 だが、そのせいで、あかりの大切にしてきたものが壊れてしまったら。
 その時こそ、浩之は自分のことを許すことが出来そうになかった。
「明日、俺、会社が休みなんだ。だから、待っていても来ねえぞ」
 初めて、そんなことを言った。
 今までは、あかりが待っているなら待たせておけばいいと放っておいた。
 しかし、自分を待っていることで、あかりに迷惑がかかるのなら?
 それは自分の責任だと、浩之は思った。
「ふーん。やっぱり、仕入れの仕事って土日休みが取れないんだね」
「ああ。忙しいからな」
 いつかは自分のことを忘れてくれるだろうか。
 そう思いながら、浩之は改札口をくぐった。
 
 
 ガタン、ゴトン。
 線路の上を走る電車が揺れて、一定のリズムを刻む。
 そのリズムに合わせて、吊り広告も揺れる。
 若い男が一人、揺れる広告を見ながら、吊り革につかまって立っている。
 帰宅時間の電車の中はひどく混んでいて、クーラーが効いているはずの電車の中も、
寿司詰めになった人の群れで蒸し暑くなっている。
「……なあ、あかり。なんで、おまえが電車に乗っているんだ?」
「えっ?」
 吊り革につかまって揺られている人々。
 その中に、あかりがいる。
 ここが私の定位置だと言わんばかりに浩之の右側にいて、時々、肩を押されて、「きゃん」と
悲鳴を上げていた。
「えっ、じゃなくて。おまえ、こんな時間にどこかに出かけるのか?」
「うん。大切な用事があって」
 大切な用事って、なんだろう。
 もしかすると、今から、体格のいい保父のところに出かけるのだろうか。
 こんな時間に出かけるということは、きっと泊まって帰るのだろう。
 耐えられない。
 浩之は、そんな言葉を心の中でつぶやいてから、自分にはそんなことを言う資格がないことに
気づいて、目の前が暗くなった。
 
 今でも、自分のことを好きでいてくれる。
 そんな都合のいい夢を見る資格は、自分にはない。

 それはわかっていたが、それでも浩之は悲しかった。
 
 
 
「たっだいまー」
 平然とそう言いながら、あかりが自分の部屋に入っていく。
 浩之は、自分の目を疑った。
 夜の帰り道。
 あかりがいつまでもついてくるので、どうしたのかと思ったが、あかりの恋人が自分の家の近くに
住んでいる可能性もあるので、浩之はずっと黙っていた。
 あかりも、何も言わないで浩之の後ろをついてきていた。
 そして、部屋の鍵を回した瞬間、あかりはそうすることが当然のように、浩之の住んでいるアパートの
部屋のドアノブを回して、その中に入っていった。
「あの、あかり……?」
 特定の恋人がいるのに、平気で他の男の部屋に上がり込む。

 彼女は、こんな女だっただろうか?
 少なくとも、自分が知っている彼女は……。
 
 そこまで思い至って、浩之は首を横に振った。
 きっと、ここで自分に引導を渡すつもりなのだろう。
 神妙な顔で畳に正座し、あかりが何か言うのを待った。
 
 トントントントン……。
 響いてくるのは、久しく使っていなかった包丁が、まな板の上でリズムを刻む音。
 ジュワー。
 漂ってくるのは、油が肉を焦がす香ばしい匂い。
「ちょっと待ってね、浩之ちゃん。今、夕食を作っちゃうから」
 最後の晩餐か……。
 あかりの優しい声が、今は死刑宣告のように聞こえる。
 暗澹たる気持ちで、浩之は正座を続けていた。
 
 久しぶりの、あかりの手料理は美味しかった。
 弁当で何度も食べさせてもらったが、やはり作りたては味わいが違う。
「美味しかった、浩之ちゃん?」
「ああ、美味かった。あいかわらず、家事は天下一品だよ」
「えへへ。嬉しいなあ。そんなに褒めてもらったの、ものすごく久しぶり」
 少し大人びた、あかりの笑顔。
 彼女が求めているのは、幼なじみの延長なのか。
 もしもそうだとすれば、あかりの恋人は、きっと、そのことを快くは思わないだろう。
「なあ、あかり。その、まずいんじゃないか。若い男女が、こんな時間に二人きりになるっていうのは」
「えっ、なんで? 私と浩之ちゃんだよ。まずくないよ」
 まずいはずだ。
 もしも自分が、あかりの恋人と同じ立場でそんなことをされたら、きっと彼女を許さない。
「それに、俺は車を持っていないから、おまえを送る手段がない。早く帰らないと、終電が
なくなっちまうぞ」
 言いたいことがあるなら、早く言ってくれ。
 そういう思いを込めて、浩之はあかりを急かしていた。
「終電も関係ないよ」
「……なんで?」
「だって、今日。泊まるつもりで、浩之ちゃんの部屋に来たんだから」
「なっ……」
 思わず立ち上がりそうになったが、浩之は懸命に自分を落ち着かせていた。
 彼女が何を考え、何を求めているのか。
 そのことを見極めなくてはいけない。
 
 布団は一枚しかない。
 独身の安月給。
 枕も一つしかないので、浩之は、あかりを布団に寝かすと、黙って床に転がった。
「ねえ、浩之ちゃん。怒っている?」
「……ああ」
 あかりに背中を向けたままで、浩之はそう答えた。
 あかりは、布団から顔だけを出して、じっと浩之の背中を見つめている。
「でも、こうするしかないと思ったんだ。ずっと、このままじゃいられないよね」
「……そうかもな」
 あかりは何を考えているのだろう。
 自分の知っている彼女はもっと……。
 そこまで考えて、また浩之は考えるのを止めた。
 あかりから離れて、何年が経ったのか。
 きっと、その間に彼女も別の恋をして、一人前の女になっているはずだ。
「それに浩之ちゃんなら、噂になっても言い訳が立つから」
 言い訳が立つ?
 何のことだろう?
 言葉の意味がわからなくて浩之が寝返りを打って振り返ると、あかりは布団から指を出して、
浩之のへその下三寸を指さしていた。

 ふぉぉおおおおおおおおお!!!!!!
 
 その指が指し示す意味を知って、浩之は悶絶しそうになった。
 もしも流せるのなら、血の涙を流していたかもしれない。
 あかりは知っているのだ。
 彼が、もはや男性としては機能しなくなっていることを。
 当然だ。
 彼女との一夜が、その原因なのだから。

「……ひどいな、あかり」
「うん、ひどいよ。私、安全だって知っているから、思い切れたんだ」
 落ち込んだ浩之の声に答える、あかりの声のトーンは硬い。
 ついに始まった。
 浩之は、あかりの顔をじっと見つめて、次の言葉を待っている。
 だが、彼女からは、何も言い出してくれなかった。
「それでも、おまえの彼氏が許してくれないんじゃないか?」
「彼氏?」
 あかりは不思議そうな顔をして、浩之を見つめている。
「ほら。あの、タカシさんとかいう。体格のいい保父さん。おまえ、あの人と付き合っているんじゃ
ないのか?」
「えっ? えっ?」
 言っていることの意味がよくわからないのか、あかりは考え込んでいる。
 もしかしたら、自分の思い違いか。
 わずかな希望を込めて、浩之は自分がそのことを知った経緯を話してみた。
「悪いとは思ったんだけど。早上がりの時に、おまえが仕事している姿を見ていたんだ。そしたら、
すごく親しそうな男がいただろ。てっきり、つきあっているかと思ったんだ」
「つきあっているわけじゃないよ」
 浩之の胸に、一瞬、安堵が広がる。

「お見合いの相手。もう婚約しているよ」

 ガツンと来た。
 まるで後頭部を殴られたような衝撃。
「はっ、ははは……そうだよな。あかりも、もう結婚をしてもいい歳だもんな」
「そうそう。早く結婚しなさいって、お母さんがうるさくて。タカシさん、いい人だよ。真面目で、
体力もあって、優しくて。子供たちにも、とっても慕われているんだ」
 平然と、あかりはそんなことを言う。
 今、浩之は、あかりが昔と変わらない態度である理由がわかった。
 一人前の男として見られていない。
 だから、部屋に泊まるというような真似が平気で出来るのだ。
 その日の夜。
 浩之とあかりは、たくさん昔の話をした。
 
 もう、迷いはなかった。
 悩んでいるのは自分だけだった。
 あかりは、昔の自分の幼なじみは、もう過去を振り切って、自分の人生を歩んでいる。
 この胸の痛みは、自分が受けるべき当然の痛みだ。
 悲しかった。
 泣いて、あかりに行かないでくれと言いたかった。
 だが、そんな資格は自分にはない。
 今できることは、彼女が幸せになる姿を見送るだけだ。
 そう決意すると 浩之は静かに、しかし熱心に、昔の思い出を話す、あかりの言葉に耳を傾けていた。
 
(第7話に続く)

http://www.urban.ne.jp/home/aiaus/