サラリーマン藤田浩之 輪違 第7話 投稿者:AIAUS 投稿日:12月31日(火)20時27分
「結婚式、どこにするか揉めちゃって。浩之ちゃん、どんなのがいいと思う?」
 決意はしたはずだった。
「タカシさん、よく食べるんだよ。浩之ちゃんの倍くらい」
 それが当然だと、思いを定めたはずだった。
「この前、タカシさんがね……」
 なのに、何故、あかりは自分の前に現れるのだろう。

 カタカタカタカタ。
 浩之は黙々と伝票のデータを整理している。
「藤田。この前の伝票の処理だけど」
 カタカタカタカタ。
 決着は着いた。
 そのはずなのに。
「藤田?」
 カタカタカタカタ。
 あかりはどうして、自分の前に現れるのだろうか。
「おーい、藤田ーっ?」
 呼びかけていた岡田が軽く、すねを蹴ってみるが、いつものように飛び上がらない。
 顔をしかめもせずに、黙々とデータを打ち込んでいる。
 
 駄目だね、こりゃ。
 
 向かい側の席に座る松本が、お手上げというジェスチャーをしたが、それにも浩之は気づかなかった。
 
 
 あかり。
 物心つく前から、一緒にいた存在。
 彼女が自分の側にいることは、浩之にとって当たり前だった。
 妹のような、友達のような、曖昧な存在。
 その境を踏み越えることに失敗した。

 自分の胸をさいなんでいるのは、ただ、これだけのことなのだろう。
 なら、なぜ、あかりが婚約者の話をする度に、自分の心はざわめくのだろうか。
 あかりは知っている。
 タカシの話をする度に、自分の心が痛んでいくことを。
 ならば、何故、彼女はなおも、自分を駅舎の前で、そして部屋で、待ち続けるのだろうか。
 
 思い悩んだ。
 悲しんだ。
 場違いながら、嫉妬もした。
 そして、あきらめた末、浩之は一つの結論に達した。
 
 自分は、まだ、あかりのことが好きなのだ。
 癒えない傷痕。
 それは、彼女への想いを自分が捨てていない証拠である。
 
 そう思い至って、浩之の肩は軽くなった。
 
 あかりに、自分の想いを告げよう。
 そして、ふられよう。
 
 結果はわかりきっている。
 あかりには、もう将来を約束した婚約者がいるのだから。
 
 最後の決断だった。
 PI,PO,PA……。
 ゆっくりと、時間をかけて携帯電話のボタンを押す。
 自分から掛けることはないだろうと思っていた、あかりの携帯電話の番号。
「はい、もしもし。神岸ですが」
「俺だよ、あかり」
「浩之ちゃん?」
 場違いに弾んだ声。
 今度こそ、最後通告をもらおうと思って、浩之は、あかりを呼び出した。
 
 浩之が知っている中で、もっとも高級なレストラン。
 一度だけ岡田に連れてきてもらって、食材の奥の深さを教えてもらったことがある。
 あかりは普段着で来てしまっていたので、しきりに恐縮していた。
「ひどいよ、浩之ちゃん。こういう場所に連れてきてくれるのなら、前もって言っておいてくれないと」
「大事な話があるんだ」
 自分はしっかりといいスーツを着て来ていた浩之は、有無を言わさずに、あかりに告げた。
「あかりに、どうしても言わなくちゃいけないことだ」
「浩之ちゃん?」
 料理は、もう全て出終わっている。
 空席が多い、夕方のレストラン。
「もっと、早く言い出すべきだったと思う」
 全ての覚悟を終えた浩之は、意外なほど冷静な気持ちで、自分の想いを告げた。
「俺、今でも、あかりのことが好きだ」
「えっ……?」
 言葉に困っているのか、あかりは何も言い出さない。
 差し止められるのが怖かった浩之は、一息に自分の気持ちをさらけ出す。
「すまなかった。一方的に離れたり、一方的に告白したりして。でも、おまえは何も悪くない。
悪かったのは、勇気がなかった俺の方だ」
 もう、何を言われても構わなかった。
 酷い拒絶の言葉でも、冷たい眼差しでも。
 静かに、浩之はあかりの言葉を待ち続けた。
 
 輝き。
 あかりの瞳からこぼれた、涙の輝き。
 ぽろぽろと、その涙はこぼれて、白いテーブルクロスを濡らしていく。
「……わかったよ」
 何故、泣くのだろうか。
 彼女は、怒っていいはずだった。
 あかりの涙の意味がわからない浩之は、次の言葉を待つ。
「はっきり婚約を断ってくるね、浩之ちゃん」
「……あかり?」
 ポケットの中のハンカチで、あかりはゆっくりと涙を拭く。
「ありがとう、浩之ちゃん。初めて、素直になってくれたね」
「あの……あかり?」
 さっき、婚約を断るって言いました?
 浩之が惚けている間に、あかりはバタバタと慌ただしく席を立った。
「あーかーりー」
 呼んでみた。
 だが、あかりは浩之の分の会計もすますと、すでに外に飛び出してしまっている。
 婚約って、そんなに簡単に断れるものなんだろうか。
 窓から差し込む赤い夕日に照らされながら、浩之は愕然とした顔をして、固まっていた。
 
 
「そりゃまあ、簡単に断れないねえ」
「そうよね。だって、仮とはいえ、契約は契約なんだし」
 あかりの不可思議な行動に思い悩んだ末、同僚である江村と松本に相談すると、二人は意外に
親身になって相談に乗ってくれた。
 婚約中の幼なじみに好きだと告げたら、彼女が婚約を断ると言ってきた。
 ものすごく抽象的な内容だったが、江村と松本はすぐに理解してくれたようだった。
「結納金って、女性が原因で駄目になったら3倍返しって言うよ」
「そうそう。娘がそうなったせいで退職金がものすごく減っちゃった人、私、知っているもん」
 金の話も痛かったが。
 あかりが何を思って婚約を断ったのか、浩之は理解することが出来た。
「それじゃ、俺、責任を取ってきます」
 決意は出来た。
 なけなしの貯金をはたけば、なんとかなるだろう。
「責任取ってくるって。どうすんの、藤田君?」
「指輪を買ってくるんです」
 そう言うと、浩之は走って、会社の外へと駆けだしていく。
 その背中を気の毒そうに見つめているのは、江村と松本。
 
「十中八九、騙されているよね、彼」
「そうですね。だって藤田君、純粋過ぎるから」
「いいなあ。ピュアっていうのは大事だよ。本当に」
「そうですよね。騙されても、相手を恨まずに済みますから」
 
「これで買える、一番きれいなダイヤの指輪をください」
 そんなことを言われているとは、つゆ知らず。
 浩之は宝石店で全財産をはたいて、あかりに送るための指輪を買っていたのであった。
 
(第8話へ続く)

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