「結婚式、どこにするか揉めちゃって。浩之ちゃん、どんなのがいいと思う?」 決意はしたはずだった。 「タカシさん、よく食べるんだよ。浩之ちゃんの倍くらい」 それが当然だと、思いを定めたはずだった。 「この前、タカシさんがね……」 なのに、何故、あかりは自分の前に現れるのだろう。 カタカタカタカタ。 浩之は黙々と伝票のデータを整理している。 「藤田。この前の伝票の処理だけど」 カタカタカタカタ。 決着は着いた。 そのはずなのに。 「藤田?」 カタカタカタカタ。 あかりはどうして、自分の前に現れるのだろうか。 「おーい、藤田ーっ?」 呼びかけていた岡田が軽く、すねを蹴ってみるが、いつものように飛び上がらない。 顔をしかめもせずに、黙々とデータを打ち込んでいる。 駄目だね、こりゃ。 向かい側の席に座る松本が、お手上げというジェスチャーをしたが、それにも浩之は気づかなかった。 あかり。 物心つく前から、一緒にいた存在。 彼女が自分の側にいることは、浩之にとって当たり前だった。 妹のような、友達のような、曖昧な存在。 その境を踏み越えることに失敗した。 自分の胸をさいなんでいるのは、ただ、これだけのことなのだろう。 なら、なぜ、あかりが婚約者の話をする度に、自分の心はざわめくのだろうか。 あかりは知っている。 タカシの話をする度に、自分の心が痛んでいくことを。 ならば、何故、彼女はなおも、自分を駅舎の前で、そして部屋で、待ち続けるのだろうか。 思い悩んだ。 悲しんだ。 場違いながら、嫉妬もした。 そして、あきらめた末、浩之は一つの結論に達した。 自分は、まだ、あかりのことが好きなのだ。 癒えない傷痕。 それは、彼女への想いを自分が捨てていない証拠である。 そう思い至って、浩之の肩は軽くなった。 あかりに、自分の想いを告げよう。 そして、ふられよう。 結果はわかりきっている。 あかりには、もう将来を約束した婚約者がいるのだから。 最後の決断だった。 PI,PO,PA……。 ゆっくりと、時間をかけて携帯電話のボタンを押す。 自分から掛けることはないだろうと思っていた、あかりの携帯電話の番号。 「はい、もしもし。神岸ですが」 「俺だよ、あかり」 「浩之ちゃん?」 場違いに弾んだ声。 今度こそ、最後通告をもらおうと思って、浩之は、あかりを呼び出した。 浩之が知っている中で、もっとも高級なレストラン。 一度だけ岡田に連れてきてもらって、食材の奥の深さを教えてもらったことがある。 あかりは普段着で来てしまっていたので、しきりに恐縮していた。 「ひどいよ、浩之ちゃん。こういう場所に連れてきてくれるのなら、前もって言っておいてくれないと」 「大事な話があるんだ」 自分はしっかりといいスーツを着て来ていた浩之は、有無を言わさずに、あかりに告げた。 「あかりに、どうしても言わなくちゃいけないことだ」 「浩之ちゃん?」 料理は、もう全て出終わっている。 空席が多い、夕方のレストラン。 「もっと、早く言い出すべきだったと思う」 全ての覚悟を終えた浩之は、意外なほど冷静な気持ちで、自分の想いを告げた。 「俺、今でも、あかりのことが好きだ」 「えっ……?」 言葉に困っているのか、あかりは何も言い出さない。 差し止められるのが怖かった浩之は、一息に自分の気持ちをさらけ出す。 「すまなかった。一方的に離れたり、一方的に告白したりして。でも、おまえは何も悪くない。 悪かったのは、勇気がなかった俺の方だ」 もう、何を言われても構わなかった。 酷い拒絶の言葉でも、冷たい眼差しでも。 静かに、浩之はあかりの言葉を待ち続けた。 輝き。 あかりの瞳からこぼれた、涙の輝き。 ぽろぽろと、その涙はこぼれて、白いテーブルクロスを濡らしていく。 「……わかったよ」 何故、泣くのだろうか。 彼女は、怒っていいはずだった。 あかりの涙の意味がわからない浩之は、次の言葉を待つ。 「はっきり婚約を断ってくるね、浩之ちゃん」 「……あかり?」 ポケットの中のハンカチで、あかりはゆっくりと涙を拭く。 「ありがとう、浩之ちゃん。初めて、素直になってくれたね」 「あの……あかり?」 さっき、婚約を断るって言いました? 浩之が惚けている間に、あかりはバタバタと慌ただしく席を立った。 「あーかーりー」 呼んでみた。 だが、あかりは浩之の分の会計もすますと、すでに外に飛び出してしまっている。 婚約って、そんなに簡単に断れるものなんだろうか。 窓から差し込む赤い夕日に照らされながら、浩之は愕然とした顔をして、固まっていた。 「そりゃまあ、簡単に断れないねえ」 「そうよね。だって、仮とはいえ、契約は契約なんだし」 あかりの不可思議な行動に思い悩んだ末、同僚である江村と松本に相談すると、二人は意外に 親身になって相談に乗ってくれた。 婚約中の幼なじみに好きだと告げたら、彼女が婚約を断ると言ってきた。 ものすごく抽象的な内容だったが、江村と松本はすぐに理解してくれたようだった。 「結納金って、女性が原因で駄目になったら3倍返しって言うよ」 「そうそう。娘がそうなったせいで退職金がものすごく減っちゃった人、私、知っているもん」 金の話も痛かったが。 あかりが何を思って婚約を断ったのか、浩之は理解することが出来た。 「それじゃ、俺、責任を取ってきます」 決意は出来た。 なけなしの貯金をはたけば、なんとかなるだろう。 「責任取ってくるって。どうすんの、藤田君?」 「指輪を買ってくるんです」 そう言うと、浩之は走って、会社の外へと駆けだしていく。 その背中を気の毒そうに見つめているのは、江村と松本。 「十中八九、騙されているよね、彼」 「そうですね。だって藤田君、純粋過ぎるから」 「いいなあ。ピュアっていうのは大事だよ。本当に」 「そうですよね。騙されても、相手を恨まずに済みますから」 「これで買える、一番きれいなダイヤの指輪をください」 そんなことを言われているとは、つゆ知らず。 浩之は宝石店で全財産をはたいて、あかりに送るための指輪を買っていたのであった。 (第8話へ続く)http://www.urban.ne.jp/home/aiaus/