宮内さんのおはなし その四十の十七 投稿者:AIAUS 投稿日:7月24日(水)01時11分
「起立! 礼!」
 ホームルームが終わって。
 ランドセルを背負った同級生達が、一斉に教室から駆け出していく。
「どうしたの、健介君? 帰らないの?」
「みこちゃん? うん。そうだね。帰らないといけない時間だね」
 憂鬱そうに、眼鏡をかけた少年が黒いランドセルを背負う。
 その様子を心配そうに見ているのは、上等な布地の洋服を着た同級生の女の子。
「健介君、家でなにかあったの?」
「ない方がおかしいんだよ、うちの場合は」
 年不相応にニヒルな表情を浮かべる、健介という名の少年。
「……健介君」
 そんな彼を見て、早くも涙ぐみ始めている、河合みこ、という名の少女。
 片方は不遇な家庭環境で育ち、片方は恵まれた家庭環境で育った。
 片方は暗い瞳で世の中を下から見ており、片方は明るい瞳で世の中を上から見ている。
 何もかも違う、二人の少年少女。
 物語は、こんな二人を起点として始まる。
 
 学校の校門の前で、健介は溜め息をついた。
 足を一歩前に踏み出すのが、とても憂鬱なのだ。
「ふぅ。やんなるよな。安らぎの場所が学校の中だけだっていうのは」
(健介氏(うじ。敬称の古語)。今日は遅かったでござるな)
「……あのね。まだ、僕は学校から出ていないはずだけど」
(でも、影はもう校舎から出ているでござるよ)
 健介はいらだたしそうに、夕日を受けて、地面の上を斜めに走る影をにらみつけた。
 彼に呼びかける声は、健介の影から聞こえている。
 にゅ。
 白い棒のようなものが、健介の影の中から姿を現した。
「こら、出てくるなよ」
(承知したでござる)
 にょ。
 水の中に沈むようにして、白い棒は再び影の中に隠れていく。
「勘弁してくれよ、もう」
 背を丸めて歩きながら、健介は夕方の道を急いでいる。
 塾が始まる時間が迫っている、というわけではない。
 自分の後ろをついてくる何かから、少しでも離れたがっている。
 そんな感じに見えた。
 しばらくして。健介が立ち止まって、いらだたしそうな声で後ろを振り向いた。
「……おい。影から出てくるなって言っただろ」
「心配し過ぎでござる。気配は消しているでござるから。健介氏以外には見えないでござるよ」
 先程よりは明瞭に聞こえてくる声。
 ちょうど健介の顔と同じくらいの高さで、夕日で赤く映える壁の一部が上下に揺れている。
 光学迷彩。
 背後の画像と同じ画像を表面に写し出して、周囲の風景に溶け込むという最新の軍事技術。
 自然界では、タコなども同じような能力を持っている。
 その光学迷彩で隠れている人物が喋り始めたので、画像の取り込みがそれに追いつかず、
空間が揺れているように見えているのだ。
 自分の顔の側でゆらゆらと揺れる空間を見て、健介は溜め息を履いた。
「全然、気配消していないって。わかったよ。出てきていいよ。それで、前に側を歩いていた
婆ちゃんが、「幽霊じゃあ!」って言い始めて、大騒ぎになったのを忘れたの?」
「承知したでござる」
 ブゥン。
 光学迷彩のスイッチを切る耳障りな音がして、それまで隠れていた人物が姿を現した。
 体にフィットした光学迷彩スーツを着た、健介と同じくらいの背丈の小柄な女の子。
 耳には白いアンテナをつけており、その髪は鮮やかな緑色だ。
 彼女の名前は、HM−12G−11フウマルチという。
「……とりあえず、その格好をなんとかしてくれ」
 街の風景には場違いな光学迷彩スーツを指差して、健介は疲れたような声で言う。
「こうでござるかな?」
 フウマルチが指で何かの印を組むと、彼女の着ていた光学迷彩服が、健介と同じ年頃の女の子が
着ているような服に早変わりする。
「忍法、変わり身の術。これならおかしくないでござるな」
 満足そうにうなずくフウマルチの表情を見て、健介はまた、頭を抱えた。
「だから、それは忍法じゃないって……光学迷彩とかいう服の機能なんだろ?」
「カラクリを自在に操ってみせるのも、忍者の技法の一つでござる」
 わりと強情なところがあるフウマルチは、健介の疑問を一蹴すると、影を踏まないくらいの
位置まで下がって、彼の後ろをついてくる。
「もう、そろそろでござるな」
「うん。よく飽きないと思うよ」
 背を丸めて歩いていた健介の歩みが急に止まる。
 刹那。彼の足下に黒塗りの十字手裏剣が突き刺さっていた。
「ちっ! 外したか!」
 物騒なことを言う奴がいる。
 健介が面倒くさそうに上を向くと、電柱の上に、黒装束の忍者のような格好をした男が立っていた。
「頑張るね、おじさん。今日で二ヶ月目だったっけ」
 力のない健介の声に、黒装束の男は電柱の上に立ったままで胸を張る。
「ふっふっふっ。もう疲れてきたのか、加藤健介? 今日こそ、おまえが持つ『加藤家秘伝帳』を
ちょうだいするぞ」
 ランドセルの端から出ている、深緑色の巻物。
 健介は男に返事はせずに、後ろで待っているフウマルチの方を向いた。
「ほら、出番だぞ」
「承知したでござる。忍法、剛力の術!」
 耳障りな金属音が響いて、フウマルチの手に鋼鉄のナックルカバーが装着される。
 ガイン!
 電柱は、文字通り鉄拳と化したフウマルチの拳に一撃されて、風の前の柳のように、ゆるやかに
しなった。当然、電柱の上に立っている黒装束の男は、たまったものではない。
「うわっ、うわっとっとっとっ……ぎゃああああ!!」
 バランスを崩した黒装束の男は、大袈裟な悲鳴を上げて、背中から道路に落ちた。
「む、無念……」
 言葉は格好良い言葉を、外面は格好悪い姿を残して、黒装束の男は気を失う。
「去年、健介氏とクワガタを捕りに言った時を思い出すでござるな」
 っくり返って気絶している黒装束の男を見て、フウマルチはそんなことを言う。
「暇があったら、今年も行こうか。今度は、取りすぎるんじゃないぞ」
「承知したでござる」
 やっと健介の機嫌が直ってきたので、フウマルチは表情を変えないままで、安堵の溜め息をついた。
 
 
 健介の自宅は一軒家で、山を切り開いて作った住宅街のちょうど頂上に位置している。
 長い坂道を上って、ようやく家に帰り着いた健介は、玄関の扉の前で絶句していた。
「ただいま、お母さん……なにをやっているの?」
「にっ、忍法、自縄自縛のじゅつ〜、っていうのは駄目かしら?」
 母親が忍び縄と呼ばれるロープでがんじ絡めになって、玄関でひっくり帰っている。
「また、忍び道具を整理しようとしていたの? 駄目だよ、父さんの道具を勝手にいじっちゃ」
「でも、お掃除の途中で、どうしても気になっちゃって……健介、ほどいてくれる?」
 お茶目な表情でお願いをしてくる若作りの母親に、健介は軽い頭痛を感じた。
「健介氏の手を煩わさずとも。忍法、八方斬り!」
 また耳障りな金属音が響いて、フウマルチの手に、今度は刀身が短いカタナが装着される。
「ちょ、ちょっと待って、フウマルチちゃん! この服、お気に入りなんだから!」
 以前、同じことがあって、フウマルチはロープを斬ろうとして服ごとズタズタにしたことがある。
 フウマルチの前に立つと、健介は手慣れた動作で絡みやすい構造の忍び縄をほどいた。
「ふぅ、焦っちゃった。あのまま、みんなが帰ってこなかったら、ママ、このまま干物になっちゃう
んじゃないかと思って。みんなみたいに縄抜け出来ないし」

 みんなみたいに。
 加藤家は、戦国時代より続く忍者の家柄である。
 忍者といっても、映画のようにスパイとして副業を行ったりしているわけではない。
 ただ、慣習として、家風として、代々、技術を受け継いでいるだけである。
 祖父は曾祖父より、父は祖父より、そして、健介は父より、忍者としての教育を受けた。
 まだ何もわからない頃の健介は、自分は将来、忍者になって、どこかの大名に使えるのだと本気で
思っていた。そんなことは出来ないと知ったのは、つい一年ほど前のこと。
 小学生三年生の健介の夢を、担任の教師は笑いながら砕いたのだ。
「大名も忍者も、もうどこにもいないよ」
という言葉によって。
 フウマルチが加藤家に仕える「忍者」として家にやって来たのは、その直後の頃だった。
 
 健介が自分の部屋で勉強をしている。
 カリカリカリカリ。
 ノートの上を走る鉛筆の音。
 シュっ、ドスン!
 そして、共に響く、騒がしい音。

 カリカリカリカリ。
 シュっ、ドスン!

 カリカリカリカリ。
 シュっ、ドスン!

 カリカリカリカリ。
 シュっ、ドスン!

 二十分も続いた頃、健介がいらただしそうに後ろを振り向いた。
「フウマルチ。僕が勉強している間は、手裏剣の練習はやめろって言っただろ」
「そう言われても。拙者にとっては、これが勉強でござるから」
 正座をしたフウマルチの向こう側にある壁。そこには木の板で出来た的が立て掛けられている。
 そして、その的に突き立っているのは、五寸釘のような小型の手裏剣。
 まばらに散って斜めに立つフウマルチの手裏剣を見て、健介は首を横に振った。
「わかった。それじゃ、下に降りるから。僕が前を通る時に手裏剣を投げるなよ」
「承知したでござる」
 シュっ、ドスン!
 シュっ、ドスン!
 シュっ、ドスン!
 部屋から出て、一階に降りようとしている健介の耳に、フウマルチの投げる手裏剣の音が聞こえる。
 しばらく立ち止まって、健介は手裏剣の音に耳を傾けていた。
 
 することがなくなった健介は、ソファーに座ってテレビを見ている。
 やっているのは時代劇。
 忍者達に襲われている姫を、刀を構えた侍が助けに入る場面だ。
「……そんな振り方しないって。やられ役だから、どうでもいいんだけど」
 言っても仕方がないことだと思いながらも、画面の中の忍者達の一挙一動に文句をつけてしまう。
「健介、お風呂入ったわよ」
「はーい、すぐ入るよ」
 健介は気怠げに返事をして、ゆっくりと体を起こした。
 目はまだ、忍者達の動きを追っている。


 その頃。
 別の家の風呂場で、賑やかな会話が聞こえていた。
「フン、フン〜。特殊パーツSya-Hat01を装備している今、わしに怖いもんはないですよ」
「目にシャンプーが入って痛がるロボットっていうのもなあ。すごいんだか、不便なんだか」
 シャンプーハットを被って髪を洗っているヤジマルチ。湯船の中に入っている矢島は、その様子を
呆れながら見ている。
 細い手足、まったく凹凸のない平べったい胸。ロボットだけにホクロ一つないが、矢島は
それを見ても何とも思わない。
「ギニャ!? ヤジマスキー! あんた、なに人の裸をじろじろ見ているんじゃよ!?」
「いや、クラスメートの藤田がさ。おまえと一緒に風呂に入っていると言うと怒るんだよ。
変なこと言う奴もいるもんだな、と思ってさ」
 プロトタイプであるHMX−12マルチにとって重要な関わりを持っている藤田浩之の名前を聞いて、
ヤジマルチも首を傾げる。
「マルチお姉様と一緒に入ればいいだけじゃろうに。確かに、変な意見じゃよ。軍法会議に
照らし合わせるべきじゃろうか。思想犯は投獄すべきじゃよ」
「だよなあ」
 矢島とヤジマスキーは顔を見合わせて、二人で不思議がっている。
 このような関係もまた、浩之にとっては羨望の対象になっているのだが、矢島もヤジマルチも
日常のことになっているので、まったく気付く様子はなかった。
 バシャー。
 矢島にお湯をかけてもらってシャンプーを洗い落とすと、ヤジマルチは猫のようにプルプルと
頭を横に振った。
「おい、やめろ。お湯が散るだろうが」
「どうせ、また湯に浸かるから関係ないんじゃよ。ほら、とっとと入浴しますぞ」
「まったく。おまえ、まともに俺の言うこと聞いたことねえな」
 ぶつくさと文句を言いながら、矢島とヤジマルチは湯に入ろうとバスタブの縁をまたいだ。
 その時。

「ヤジマルチお姉様っ!」

 ガン!
 プス。
 
 いつの間にか湯船に忍び込んでいたフウマルチが、飛び出てきたのだが。
 頭は矢島の股間に。
 アンテナはヤジマルチの股間に。
 見事に直撃していた。
「はあああああっ〜〜!」
「ぎにゃあああっ〜〜!」
 夜の住宅街に悲鳴が響く。
 
 
「なんということをするんじゃよ! もう少しで矢島はお婿に行けなくなり、わしはお嫁に行けなく
なるところだったんじゃよ!?」
 ヤジマルチにポカポカと頭を叩かれて、フウマルチは土下座をして謝っている。
「誠に申し訳ござらぬ。拙者、お姉様と矢島様に、そのような御無礼を働くつもりはなかったので
ござる」
「ぎにゃー! 男の宝物と女の宝物を台無しにするところだったんじゃよ。反省が足りないですよ」
 もの凄い怒り様のヤジマルチに、さすがに矢島も気の毒になったのか、まだ続いている痛みを
我慢して仲裁に入った。
「それぐらいで許してやれよ、ヤジマルチ。せっかく妹が遊びに来てくれたんだろ?」
「う〜。それはそうなんじゃが……」
 ふくれっ面をするヤジマルチの頬を、矢島は指先でつついた。
「ほら、これで終わり。フウマルチ、だっけ? あんたも頭を上げていいよ。主人の俺が許すって
言っているんだから、それで終わりだ」
「かたじけない。寛大な御言葉に感謝するでござる」
 矢島にもう一度だけ頭を下げると、フウマルチは床の上で正座をした。
「それで何の用事ですか? あんた、つまらない用事だったら△木馬の刑じゃよ」
「どこで覚えるんだかな。そういう言葉を……」
「矢島のベッドの下に隠してある本の中からじゃよ」
「勝手に覗くな!」
 いつものように漫才をする矢島とヤジマルチ。
 だが、フウマルチはそれにペースを崩されることなしに、重々しく口を開いた。
「実は、拙者の君主である健介氏のことなのでござるが……」
 悩みの相談だと気付いて、矢島とヤジマルチは慌てて居住まいを正す。
 説明は簡潔だったが、十分程度、フウマルチの言葉は続いた。

「はあ。今時、忍者の跡継ぎねえ。それは悩むだろうなあ」
「今時……で、ござるか。いや、そうかも知れないでござる」
 矢島の言葉尻にフウマルチは少しだけ眉を上げたが、問題の本質はそこにあるので、素直に
首を縦に動かした。
「忍者の家系に産まれた。でも、今時、忍者になれと言われてもな。困るよな」
 同意をうながそうと自分の方を見る矢島に、ヤジマルチは答えを返す。
「わしらは別に困らないんじゃよ。今まで、わしのお姉様や妹達に会ったと思うんじゃけど。
みんな、自分に与えられた特徴に疑問を持つことはなかったじゃろ。わしらにとっては、特徴は
他機と差別化するための重要な要素じゃから。大事に思うことはあっても、邪魔に思うことは
ないんじゃよ」
「そういや、形式番号にこだわっている奴もいたな。G−17だったっけ?」
「ナナマルチのことですな。あいつ、「7」という数字が自分の特徴だと思っとるもんじゃから。
わしを抹殺して、HM−12G−7に入れ替わろうとしているんじゃよ」
 矢島とヤジマルチの会話に、いちいちフウマルチは深くうなずいている。
「拙者は情報収集能力に特化した機体として、忍者として作られたでござる。だから、健介氏の
悩みはわからんでござる」
「でも、なんとかしてやりたい。そうだよな」
 もう一度、フウマルチは深くうなずく。
「よし。俺に任せておけよ」
 頼もしく胸を叩く矢島に、フウマルチとヤジマルチの二人は頭を下げた。

 キンコンカンコーン、キンコンカンコーン!
 全ての授業が終わったことを告げるチャイム。
 HRが終わって、健介は黒いランドセルに教科書を積め、帰る準備をしていた。
「健介君」
 名前を呼ばれて、健介はそちらの方に振り向いた。
 呼んだのは、クラスメートの河合みこ。
「どうしたの、みこちゃん」
「うん。一緒に帰ろうと思って」
 みこと健介は同じクラスであり、世間話をするぐらいのことは今まで何度かあったが、
そこまで親密な仲ではない。
「どうして?」
 気が利かない健介がそんなことを聞き返すと、みこは困ったような微笑みを浮かべた。
「家に帰っても誰もいないから。帰り道だけでも、誰かとお話ししたいなと思って」
 それなら女友達と帰ればいいだろうに。
 そう言いかけて、健介は教室を見回した。
 みこの親しい友達は、みんな帰ってしまっている。
 いつも一緒に帰っているのに、なんで。
 健介が首を傾げている間に、みこが横に並んでくる。
 黒いランドセルと赤いランドセル。
「……別にいいよ。大して、面白いことも話せないけど」
 いつもより積極的な、みこに気圧されたのか。健介は渋々とうなずいていた。
 
 学校の校門の前で、健介は立ち止まった。
 今も、自分の影の中に隠れているはずのフウマルチが出てくると困る。
(おい。今日は出てくるなよ)
 影に向かって小声で話しかけてみるが、何の返事もない。
 健介は、自分の影に向かって疑問の視線を投げかけたが、横を歩いている、みこが不思議そうな
顔をしていたので、あきらめて校門の外に出た。

「それで、健介君って……」
「うん。そうだね」
 適当に生返事を繰り返しながら、健介は帰り道を歩いていく。
 みこの話すことは、家族のこと、趣味のこと、好きな歌のこと。
 別に興味がないわけではないのだが、健介の意識は別の方に集中している。
 ランドセルの端から出ている深緑色の巻物、『加藤家秘伝帳』。
 なぜか、これを狙ってやって来る物好きな連中がいる。
 今時、忍者になんてなれるわけがないのに。
 普段はフウマルチが追い払ってくれているのだが、姿を見せない今日は、最悪の場合、自分で
撃退しなくてはいけない。
 よりによって、今日は、みこが隣にいる。
 彼女を盾にされては、ひとたまりもない。

 そんなことを気にするぐらいなら、『加藤家秘伝帳』など渡してしまえばいいのに。

 健介の頭には、その選択肢は思い浮かんで来なかった。

「あの……健介君?」
 生返事ばかりの健介が気になったのか、みこは彼の顔を覗き込むようにして、話しかけた。
「みこちゃん。そのまま、動かないで」
 健介の腕が、みこの肩をつかむ。
「きゃ……」
 驚いた、みこが小さな悲鳴を上げようとした瞬間、彼女の体は横に大きく飛んだ。
 
 バサ。
 
 細い黒紐で作られた網。
 それが、みこと健介がいた場所に投げ落とされていた。
 いつの間にか両際の壁に立っていた男達が、呆然とした顔で何も捕らえていない黒網を
見ている。
「けっ、健介君……」
 みこの肩を左手でしっかりと抱えた健介は、大人の陸上選手が飛ぶような距離を跳躍して、
見事に網から逃れてみせたのだ。
「みこちゃん。しばらく待っていてね」
 いつも、何かつまらなそうに窓の外を眺めていた健介。
 それとは別人のような表情をした健介が、みこの前に立っている。
 健介はランドセルを地面に落とすと、自然体の構えで、両際の壁から降りてくる二人の男を
待ちかまえていた。

「う〜、う〜」
「動いたら、いかんですよ。あんたが出ていったら、それで終わってしまうじゃろ」
 その様子を遠くで見ているのは、矢島とヤジマルチ、フウマルチ。
 矢島に腕を捕まれているフウマルチは、健介の危機を見て飛び出そうとしていたが、
それをヤジマルチに注意されている。
「拙者は健介氏を守るのが使命でござる!」
「大丈夫。あいつらの目的って、ランドセルにある巻物なんだろ。小学生に、そんなに手荒な
ことをしないって」
 楽観的な矢島の言葉。
 その言葉を覆すようにして、襲撃者である男の膝蹴りが健介の腹に入った。


 ドボッ!
 健介の腹が蹴られて、嫌な音を立てる。
 みこの悲鳴。
「そのまま、おとなしくしていろ。俺たちの目的はおまえなんかじゃなくて、そこの娘なんだ」
「そう。金持ちの娘だからな。おまえみたいな貧乏ったれに用事はない」
 腹を押さえてうずくまる健介を馬鹿にするようにして、男達はみこの方へ近づいていった。

「こ、これはピンチなんじゃよ。フウマルチ、なんでもいいから飛び道具発射!」
「心得たでござる!」
 ヤジマルチの命令で、フウマルチの右腕から連装銃が飛び出す。
「ちょっと待てって。これからだろ」
 それを矢島が遮った。
「なんでじゃよ? あいつらの狙いは、巻物なんかじゃなくて、あの女の子じゃろ?
このままだと誘拐されてしまうんじゃよ」
「それに、健介氏が」
 必死の表情で言うヤジマルチとフウマルチを見て、矢島は首を横に振る。
「見てろって。あいつ、目が死んでないから」

「い、いや! やめてください!」
 誘拐犯に手をつかまれて、みこが悲鳴を上げている。
「おい。薬もってこい。用意してあっただろ」
 みこの手をつかんでいる男が、相棒の方を振り向いた。
 ミシ、ミシ。
「ぐっ、ぐえっ……」
 細い腕が相棒の男の首に、細い足が相棒の胴体に絡みついている。
 腹を蹴られて地面に倒れていたはずの健介が、男の背中に飛び乗って絞め技をかけているのだ。
 たかが小学生のガキ。
 そう思って、まだ息が残っているうちに全力で振りほどこうとしなかったのが、男の敗因だった。
 
 どた。
 
 電源が切れた機械のように、健介に締め上げられた男は力をなくして倒れる。
「このガキ……」
 相棒を絞め落とされた男は、ギラついた目でナイフを取り出した。
 夕日が反射して、鈍い金属の光が輝く。
「その刃物、研いでないね。駄目だよ。弱いくせに、武器の手入れをさぼっちゃ」
 健介の笑みが、男の神経を逆なでした。
「でりゃああああ!」
 裂帛の気合い、なのだろうか。
 ナイフを構えた男が健介に飛びかかる。
 健介はそれに対して、動こうともしない。
「健介君!」
 みこの悲鳴。男のナイフが、無惨に健介の肩口に刺さる。
 はずであった。

「あ……え……?」

 ガキン。
 鈍い音がした。
 男が突きかかったのは電柱。同時に、額をしたたかに電柱に打ちつけた男は、目を回して、
相棒の上に倒れる。
「みこちゃん。携帯電話を持っている?」
 なんでもない様子で、健介は壁の上に座っていた。


 パトカーのサイレンの音。
 護送されていく誘拐犯達。
 みこは、いつの間にか姿を消した健介を捜して、野次馬達の中を歩いている。
「いいのでござるか。挨拶をしなくて」
 その様子を、民家の天井の上に座って、健介とフウマルチが眺めている。
「いいよ。手柄を誇ったりはしない。それが忍者だろ」
 忍者。
 健介の言葉に、フウマルチの目が大きく見開かれた。
「ついに決心なされたのでござるな、健介氏」
「そんなに大袈裟なもんじゃないよ。でも、ふてくされているよりは、走っている方がいいだろ」
 そう答えた健介の表情は、いつもより凛々しくて、フウマルチはなんだか誇らしかった。

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(おまけ)

 それからしばらくして。 
「ヒロユキ! 本当だって! ニンジャ、ニンジャがいたのデス」
「忍者なんかいるわけないだろ、今時」
 呆れたように答える浩之に、レミィは一生懸命、昨日見たことを説明している。
「女の子がネ。手を叩いたらネ。黒装束の男の子が、こう上からシュタっと降りてきたのヨ」
「はあ。忍者ごっこでもしていたんじゃねえの?」
 
 健介は、仕える主君を見つけたようである。

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