宮内さんのおはなし その四十の九(反則版) 投稿者:AIAUS 投稿日:8月15日(水)00時01分
 中須絵里は物理学を専攻する大学生である。
 幼少の頃から数学の才能に抜きんでいた彼女は、その才能を中学生の頃に見出され、以来、順当に
エリート物理学者としての道を歩んできた。
 今日もまた、ほぼ研究室と化している自室にこもって研究を続けている。
「えっと、ここがこうだから、この定理を利用すると……」
 絵里は研究に没頭し始めると、病的なまでの集中力を発揮する。
 19歳でありながら、すでに教授間で彼女を誰が担当するかで話し合いが始まっているほど才能に溢れた
絵里は、確かに、優秀な学生であると言えた。
 しかし、家事の類はまったくできず、生活能力には恵まれていない。
 そんな絵里にとって、メイドロボが無料で配給されたのは行幸であったのだろう。

 ピタ。
「ひっ、ひょええええええ!!」
 突然、頬に冷たいグラスを押し付けられて、絵里は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「うわぁ、凄い声。そんなに驚くとは思わなかったわ」
 氷が浮かんだグラスを持って、悪戯っぽく笑っているのはTシャツ姿の若い女性。豊かな胸がシャツの布を
苦しげに引っ張っている。彼女は身長が150cmに満たない小柄な絵里と比べると、かなり身長が高い。
「タっ、タニマルチっ! 研究中は邪魔しないでって言っているでしょう!?」
「ごめん、ごめん。冷たい飲み物が欲しい頃じゃないかと思って」
 顔を真っ赤にして怒っている絵里を軽くいなすTシャツ姿の女性。彼女の耳には白い角飾りがついていて、
髪は緑色だ。主人である絵里と対等な口聞きをしているが、彼女はれっきとしたメイドロボである。
 名前はHM−G−9、タニマルチ。
 従来のHM−12型と比べると豊満な体躯をしているのが特徴の家庭用メイドロボだ。
 微笑んでいるタニマルチに、絵里は文句を言う。
「飲み物が欲しかったら、欲しいっていうから。研究の邪魔はしないで」
「でも、絵里ちゃんって研究を始めたら、邪魔されるまでずっと没頭しているじゃない。誰かに止めてもらわないと、
止まらないと思うな」
 タニマルチの言うことにも一理がある。絵里が研究を始めてから、すでに6時間が経過していた。
「そりゃ、ありがたいと思うけど……」
 氷を浮かべたコーヒーを飲みながら、絵里はまだブツブツと文句を言っている。
「夕方になったら、また邪魔させてもらうね。絵里ちゃん、まだお昼御飯も食べていないでしょ?」
「うっ、うん……」
 確かに、タニマルチの言うとおりだ。研究に没頭し始めると、絵里は周りが見えなくなる。
 今年の猛暑は例年に比べて、特に酷い。酷暑である。
 クーラーを効かせているはずの部屋にいる絵里とタニマルチの体には、うっすらと汗が浮かんでいる。
 だが、研究に没頭していた絵里は、自分が全身に汗をかいてしまっていることにも気付いていなかった。
 喉を通る冷たいコーヒーが、非常に心地よい。
「そういえば、そろそろ聡史君が来る頃ね。シャワーを浴びておいた方がいいんじゃないの? 汗くさいよ」
 汗くさいと言われて、着慣れた白衣姿の絵里の顔に焦りが浮かぶ。
「そっ、そうかな? そんなに気になる?」
 試しに自分の体を嗅いでみて、襟は顔をしかめた。
「これはまずいわね。いくら聡史相手でも、汗くさい女って思われちゃたまんないし……」
 憎まれ口を叩きながらも、絵里の顔に少しだけ女の表情が浮かぶ。
 慌てて浴室へと駆け込む絵里の姿を見て、タニマルチはクスリと微笑んでいた。

 シャアー。
 シャワーノズルから吹き出る水流が、絵里の体を抵抗なく流れていく。
「ううっ……この裏切り者。あんなにたくさん牛乳飲んだのに」
 シャワーの冷たい水を速やかに流れ落としていく起伏がほとんどない胸を、絵里はジト目でにらんだ。
 絵里の身長は150cmに足らず、バストに関しては70を切っている。不摂生な生活の割には腰はきちんと
くびれているのがまだ救いだが、やはり19歳の女性には見えない。
「この前は小学生に間違われて補導されかかるし……ああ、どうして育ってくれなかったんだろう?」
 天を仰いだが、絵里に降りかかってくるのは神様の返事ではなく、冷たいシャワーだけ。
「あれ? 石鹸が切れている? 弱ったなあ」
 さすがにシャワーだけでは不安だったのか、絵里は浴室から出てタニマルチを呼んだ。
「ねえ、タニマルチ。石鹸の替え出して……」
 絵里の言葉が、そこで止まる。
 彼女の目の前にいたのは、日に焼けた長身のスーツ姿の若者だった。
「よぉ、絵里。シャワー浴びていたのか。今日は暑いもんなあ」
 爽やかに笑いながら、若者は絵里に手を振る。
 絵里は固まったまま、浴室から出たばかりの自分の裸身を見下ろし、次いで、屈託のない微笑みを浮かべ
ながら、自分の体を真正面から観察している若者を見た。
「いやああああああああっ!」
 ドゲシっ!
「ぐほぉ!」
 絵里の前蹴りがまともに鳩尾(みぞおち)に入り、若者はそのまま廊下へと崩れ落ちる。
「なっ、なに、人のお風呂をのぞいてんのよっ、聡史っ!」
「ちっ……ちがう。俺は隣りにあるトイレに行こうとしただけで……」
 ゲシッ、ゲシッ!
 絵里のローキックを数回ほど腹部に喰らって、健康的に日焼けした若者、聡史は気を失った。
「はい、絵里ちゃん。石鹸欲しかったんでしょ?」
 タニマルチは何事もなかったような顔をして、興奮して肩を上下させている絵里に石鹸を渡したのであった。

「まったくもう……人の部屋に入る時は、チャイムぐらい鳴らしなさいよ」
 普段着に着替えた絵里は、まだ怒っていた。
「チャイムを鳴らす前にタニマルチが俺の足跡に気付いて扉を開けてくれたんだよ。わざとじゃない……イテテ」
「湿布を貼りますから。じっとしていてね、聡史君」
 タニマルチの体から漂う、微かな香水の香りを感じて、聡史は鼻の下を伸ばす。
 タニマルチは聡史のそんな様子には気付かないまま、Yシャツをまくって出している聡史の腹に丁寧に湿布
を貼った。絵里はなにかイライラした様子で、聡史のだらしない顔をにらんでいる。
「何しに来たのよ、聡史」
「そりゃ、いつもと同じで理由なんかないよ。ただ、おまえの顔が見たくなっただけで」
「あんたね……いくら、私とあんたが生まれた頃からの幼馴染でも、若い女の子の部屋に男が出入りしていたら、
変に思い出す人だっているんだからね」
 幼馴染。絵里はその言葉で、二人の関係を思い起こした。


 中須絵里と下松聡史は幼馴染である。
 絵里と聡史の田舎は東京ではなく、中国地方の瀬戸内海に浮かんでいる島である。二人はその島で
生まれて、中学生まで毎日、同じ時間を過ごしていた。家は隣同士で、親同士の中も良く、女の子と遊ぶ
よりは男の子と遊んでいた方が楽しいという活発な子供だった絵里は、聡史とまるで兄妹、姉弟のように
して育った。
 数学が得意な絵里が街の高校に行くために一人暮らしをするようになってから、二人の仲は疎遠になったが、
手紙でやり取りだけはしていた。たまに、聡史の方から絵里の部屋に遊びに来るようなこともあった。
 だが、それも絵里の受験勉強が始まる前までで、大学受験の準備が始まってからは、絵里が聡史と
連絡を取るようなことはほとんどなくなってしまっていた。
 そのまま、幼馴染との縁は切れてしまったのだと、絵里は少し寂しく思っていたのだが……。

「東京の会社に就職した。今から、そっちに行く」

 手紙ではなく携帯のメールであったが、聡史から来た久しぶりの連絡はそれだけだった。
 そして、いきなり聡史は絵里の部屋へとやってきたのだ。
 それ以来、絵里が研究に熱中していると、それを上手く邪魔するようなタイミングで聡史が遊びに来るように
なったのである。


「はい、アイスコーヒー。聡史君はブラックでよかったわよね?」
「あっ、はい。ありがとうございます、タニマルチさん」
 なぜかメイドロボ相手に頭を下げながら、聡史は少し顔を赤らめて氷が浮かんだグラスを口につけた。
「こら、視線がいやらしい」
 聡史が横目でタニマルチの豊かな胸を見ていることに気付いた絵里は、いかにも軽蔑したような目で
注意した。
「仕方ないだろ、自然に目が行くんだから」
「ふんっ! スケベ!」
 裸を見られた絵里は、完全に機嫌を悪くしている。だが、聡史はそんな彼女をうまくなだめながら、
仕事で気付いたこと、最近流行っているもの、面白かった映画などのよもやま話をしていく。
 絵里は愛想のない憎まれ口を叩きながらも、時たま興味があるような表情を見せる。
 タニマルチはそんな二人の様子を、優しく見守っている。
「ところで、タニマルチさんは映画とか行かないんですか?」」
「えっ、私? ……そうねえ。絵里ちゃんとレンタルビデオを見ることはあるけど、自分達でどこかに
見に行くってことはないわね」
「面白い映画があるんですよ。今度、一緒に見に行きませんか?」
 聡史は勢い込んで話しているが、タニマルチは横に視線を向けて、悪戯っぽく微笑んで答えた。
「怖い顔でにらんでいる人がいるから、止めた方がいいと思うなあ」
 聡史が恐る恐る絵里が座っている方向を見ると、確かに、絵里が自分の顔を子供が見ると泣き出しそうな
恐ろしい形相でにらんでいる。
「あっ、あはは。それじゃ、また機会があったら。よかったら絵里、一緒に行かないか?」
「ふんっ!」
 絵里は顔を背けている。完全に機嫌を損ねてしまったようだ。
 聡史が帰るまで、絵里の機嫌は直らなかった。

「駄目じゃない、絵里ちゃん。せっかく、聡史君が映画に誘ってくれたのに」
「なんで駄目なのよ。研究が忙しいのに、あいつと映画に行っている暇なんかないわよ」
 白衣を着込みながら、絵里は面倒くさそうにタニマルチに答える。
「聡史君、本当は絵里ちゃんを誘いたかったんだと思うなあ」
「まさか。あいつのお目当てはタニマルチ、あなたよ。どうせ、私なんてどうでもいいと思っているんだわ、あの馬鹿」
 タニマルチがやれやれといった調子で肩を動かす。
「素直じゃないわよねえ、本当に」
 タニマルチの持っているフライパンの上で、野菜炒めがジュっと音を立てた。

 その頃。
「あああ、またやっちまった。絵里を誘うつもりだったのに……どうしても、タニマルチさんの方に目が行って
しまうんだよなあ」
 聡史が道端で頭を抱えている。タニマルチの言っていたことは、どうやら正解だったようだ。


 夕方。
 大学の講義を受け終えた絵里がタニマルチと一緒に歩いている。
「ありがとう、絵里ちゃん。お買い物手伝ってくれて」
「食べるのは私だけなんだから、当たり前のことよ」
 絵里はそう言いながら、タニマルチと一緒に買い物袋を下げて、帰り道を進んでいた。
「うわあ。あんたよりも胸が大きい人がいますよ。ほらほら」
「こら、玲奈さんに失礼なこと言うなっ!」
「いいわよ、それぐらいで怒ったりしないから。矢島君がさっきから、その人の方ばかり向いているのはとっても
気になるけど」
「ぐっ、ぐはぁ。俺は玲奈さん一筋ですよ〜」
「そうなんじゃよ〜。フラれた数は50人。もう玲奈が最後の賭けなんじゃよ〜」
「いらんことばっかり言うな、マルチ〜!」
「ギニャーっ! めいろほろひゃくひゃいひゃんひゃい〜」
 矢島に頬を引っ張られてヤジマルチが叫んでいる。その声を聞きつけて、タニマルチと絵里がよってきた。
「こら、そこのあんたっ! メイドロボだからって、小さな女の子をいじめていると、私が許さないからねっ!」
 買い物袋を下げながら胸を張り、そう言い放ったのは絵里。
 矢島は慌てて、ヤジマルチの頬を引っ張っていた指を離す。
「ああ、違うんだ。これは俺とこいつ特有のコミュニケーションみたいなもんだからさ」
「わしの頬っぺたはモチじゃないんじゃよ。千切れたら修理代もらいますよ、修理代っ!」
 怒っているヤジマルチを放っておいて、矢島は絵里に現状を説明する。その絵里の背中越しに、
タニマルチがひょっこり顔を出した。その勢いで、ゆさゆさと彼女の胸が揺れる。
「おっ、おおおっ……がっ!」
 前半の声はタニマルチの胸をもっとよく見ようとして矢島が身を乗り出した声で、後半の声は玲奈に足を
踏んづけられて、矢島が上げた悲鳴である。タニマルチは矢島の方を見て、にっこりと微笑んで挨拶を
した後(この間、矢島の足の上に乗っている玲奈の足の圧力がさらに強まっていた)、ヤジマルチに
話し掛けてきた。
「ヤジマルチお姉さん。久しぶり〜。この方がいつも自慢している、ご主人様の矢島さん?」
「べっ、別に自慢なんかしてないんじゃよ」
 タニマルチの言葉に、ヤジマルチは顔を赤くしてソッポを向く。
「でも、通信ではいつも矢島さんのお話ばかりしていたじゃない。もう、ヤジマルチ姉さんったら。
隅に置けないんだから」
「ぐっ、ぐっ、ぐほ……(玲奈の足の圧力、さらにさらに強まる)」
 矢島の顔面が蒼くなり、彼を見つめる玲奈の視線はさらに冷たくなっているが、タニマルチはかまわずに
話を続ける。
「私のマスターの絵里ちゃんも、ヤジマルチお姉さんぐらいに素直だったら。ねえ、絵里ちゃん。少しは
ヤジマルチお姉さんみたいに積極的にスキンシップしないと駄目よ?」
「おお、おおおおおっ……(玲奈の足の圧力、さらにさらにさらに強まる)」
「えっ、ええい。それ以上言うとグーでぶつんじゃよ。それよりも、そっちのお嬢さんは誰なんじゃよ? あんたの
マスターの妹ですか?」
「はあ?」
 名指しをされて、絵里が戸惑う。
「あんたのマスターって、女子大生じゃろ? どう見ても、そっちのお嬢さんは小学生なんじゃよ〜」
 ガビーンっ!
 大げさな擬音を上げて、絵里がヨロヨロと倒れる。
 言動からして小学生のようなヤジマルチに小学生扱いされたのは、さすがに答えたのだろう。
「うっ、うっ、うわああああああん!」
 悲痛な鳴き声を上げて絵里は走り去っていく。
「ありゃ? わし、なんか酷いことを言ってしまったんじゃろうか?」
「絵里ちゃんは変に気にするところがありますから。ヤジマルチお姉さんが心配しなくても大丈夫ですよ」
 そう言いながら、タニマルチは買い物カゴを下げたままで、絵里を追って走っていく。
「おおっ。やっぱり胸が揺れて……ぎゃはあっ!!」
 バコン(矢島の足のどこかが壊れた音)。
「矢島。おまえの名前は漢の誇りとして、永遠に語り継がれていくんじゃよ……」
 足を踏み砕かれた矢島が、玲奈の機嫌を直すのには、しばらくの時間が必要であったようだ。


 数日後。
「フン、フフフ、フン〜♪」
 鼻歌を歌いながら、タニマルチが絵里の部屋を掃除している。
 絵里は今、大学に忘れたレポートを取りに行っているところだ。
 とん、とん、とん、とん。
 聞き慣れた足音が聞こえてきたので、 タニマルチはすぐに扉を開けた。
「いらっしゃい、聡史君。絵里ちゃんはすぐに帰ってくるから、待っていてちょうだいね」
「おっ、おじゃまします……」
 絵里がいない時に訪問したのは初めてなので、聡史は少し緊張しているようだ。いつもなら騒ぐところ
なのに、床に腰を下ろし、タニマルチがお茶を持って来てくれるのを静かに待っている。
「あっ、あの、タニマルチさん。相談したいことがあるんですが……」
「絵里ちゃんのこと?」
 お茶を持ってきたタニマルチは座卓を出すと、その上にお茶とお茶菓子を置き、興味深そうに聡史の
顔を見つめた。
「えっ、ええ。そうです。絵里のことなんです。俺達、昔から一緒に暮らしていて、あいつの声がいつも
聞こえるのが当たり前の生活を続けていたんです。あいつは高校の時に街に出て行ってしまったけど……」
「ふんふん、それで」
 タニマルチは身を乗り出して、聡史の話に聞き入る。
「うっ……あっ、あの、すいません。胸、下ろしてもらえませんか。すいません、気になるので」
 聡史は顔を真っ赤にしながら、座卓の上に乗っているタニマルチの大きな胸を指差した。
「あっ、気になる? ごめんね。私ったら、そういうのには鈍くって」
 タニマルチは腕組みをするようにして両腕で胸を隠すと、聡史に続きを話すようにうながす。
「あ〜、えっと、その。わざわざ東京で仕事を見つけたも、本当はあいつがいるからで……」
「早い話、絵里ちゃんのことが好きなのね?」
 単刀直入。
 聡史は顔が真っ赤になるが、聡史は随分と長い時間ためらった後、首をコクンと縦に振った。
「それじゃ、なにも問題ないわ。絵里ちゃんだって、聡史君のことが大好きだもの。愛し合う二人が結ばれる
のは自然の摂理。すぐに告白しちゃいなさいよ」
「あ〜……えっと、そのつもりだったんですが」
 聡史は肩を落とし、恨めしそうに上目遣いでタニマルチの顔を見た。
「絵里の横にいつもいる、あなたが気になってしまって」
「えっ、私?」
 タニマルチは驚いた顔で、聡史の言葉に答えた。
「あ〜、えっと、その。非常に失礼な言い方になってしまうと思うんです。タニマルチさんは優しくて親切だし、
いつも絵里のことを大事にしてくれているし……だから、その、誤解しないで欲しいんですが」
 しばらく前置きが続いた後、聡史は正直に告げる。
「あなたの胸が気になってしまって仕方がないんです。心では絵里に、ずっと一緒にいて欲しいって言うつもり
なんですけど、本能があなたの胸の方に行ってしまって……」
 情けない、だが、正直な若い男性の告白。
 タニマルチは不思議そうな顔をして、自分の胸を手の平でつついた。
 ぽよぽよ。
 弾力のある球体が弾むが、タニマルチは別に恥ずかしがる様子も見せない。
「でも、これって作り物なのよ。私の心と同じで。魅力を感じてくれるのは嬉しいけど、絵里ちゃんと比べる
ようなものではないわ」
「あ〜、その。頭ではわかっているんですけど」
 聡史は真剣に悩んでいる。
「そうね。一回、触ってみる? 多分、本物と感触が違うから、がっかりして幻想が崩れてくれると思うけど」
 意外な提案。
 聡史はブンブンと首を強く横に振って、その魅惑的な提案を拒否した。
「だっ、駄目です! そんなことしたら、本当に俺、頭で物が考えられなくなってしまうっ!」
「やってみないとわからないでしょ」
 グイッ!
 タニマルチが強引に腕を引っ張るが、聡史はそれを拒む。
「やっ、やめてください。マジでやばいんですって!」
 ガタンッ!
 タニマルチが乗った座卓が倒れ、タニマルチの体が宙に投げ出される。
「きゃあっ!」
「あっ、危ないっ!」
 悲鳴を上げて倒れるタニマルチと、それを庇おうとする聡史。

「ただいま〜」

 絵里がドアを開けるのが後五分早いか遅いかしていれば、後の悲劇は防げたのかもしれない。
「………………」
 絵里はドアを開けたまま固まっている。
「あっ、あはは。やあ、絵里。これは誤解……」
「おっ、重いです、聡史さん。はやく退いてください〜」
 胸まで上着がまくれ上がったタニマルチの上に、聡史が乗っかっている。

 グスッ。

 絵里が鼻をすする音が聞こえた。
「……聡史だけは違うって思ったのは、やっぱり、私が夢を見ていたからなんだね」
「えっ、絵里っ……」
 ダッ!
 絵里はうろたえて手を伸ばす聡史の言葉に答えず、部屋の外へと駆け出していく。
「絵里! 待ってくれ、絵里っ!」
 顔面蒼白になった聡史は、タニマルチのことなど、まるで眼中になかった。必死の形相で絵里の
背中を追う。
「やれやれ……世話が焼けるんだから。絵里ちゃんと聡史君」
 タニマルチはずれた上着を直し、逃げる絵里と追って行く聡史の姿を見送っていた。
 彼女のセンサーは聡史の足音を聞き分けることと同じように、絵里の足音を聞き分けることもできる。
 すべては、タニマルチの予定通りであった。


「まっ、待ってくれよ、絵里っ! 話ぐらい聞いてくれってばっ!」
「うるさい、うるさい! ついてくるな、馬鹿聡史っ!」
 街行く人々が物珍しそうに痴話喧嘩をしながら走るカップルを見送っているが、そんなことなど気にせずに、絵里は
どこまでも走り続けていく。彼女よりも足が遅い聡史にとっては、出来るのは力の限り声をかけることだけだった。
「どうして、俺のことを信じてくれないんだよっ! 俺がそんなことをするような奴だって、子供の頃から思っていた
のかよっ!」
「知らないわよ、そんなのっ! どうせ、あんただって私のこと、小学生みたいな変な女だって思っているんでしょ!?」
「思うわけないだろっ! そうじゃなかったら、わざわざ東京まで追いかけたりするかよっ!」
 ダダダダダタタタタタ・タタタ・タタ・タ・トトトトト・ト。
 絵里の足音が緩やかになり、そして、止まる。
 立ち止まり、絵里は聡史の方を振り返った。聡史はゼエゼエと息をつきながら、なんとか絵里に追いつく。
「……嘘つき。そんなわけないじゃない。あんた、高校の後半は手紙をくれなくなったくせに」
「出したよ、何度も! 返事をくれなかったのは絵里の方だろっ!」
 絵里の動きが固まる。そう言えば、郵便受けに溜まったチラシがうざったいので、中身をよく見ずにまとめて捨てていたことが
何度もあったような覚えがある。重大な不始末を思い出した絵里のコメカミに冷や汗が浮かぶ。
「で、でも、私の部屋に来ても、いつもタニマルチの方ばっかり見ているじゃないの」
「おまえの方を向くと、おまえはいつも顔をそらすだろ。眺めている時間は、タニマルチさんよりずっと多いぞっ!」
 そう言われれば、聡史がタニマルチの方を見ているのを切ない思いで観察している時間よりは、そっぽを向いて憎まれ口を
叩いている時間の方がずっと多かったような……絵里のコメカミに浮かぶ冷や汗の量が増える。
「で、でもでも、あっ、えっと、その……」
 聡史の顔が絵里の顔に近づく。頬に聡史の息がかかるのを感じて、絵里の心臓が跳ね上がった。
「昔から言っているだろ。ずっと一緒にいて欲しいって。もう一回言わないと、わかんないのか?」
 絵里の肩がビクンと揺れ、ついに観念したように、聡史の胸に頭を預ける。
「……うん、わからない。何回でも言って。できれば、一生」
 聡史と絵里の唇が重なる。
 タニマルチの予定は概ね、達成されたようだった。


 翌日。
 歯ブラシと歯磨き粉を持っている絵里に、タニマルチが声をかける。
「あれ、どうしたの、絵里ちゃん。歩き方が変だけど。どこか怪我したの?」
「うっ、うん。ちょっとね」
「初心者なんだから、あんまり頑張り過ぎたり、独創的なチャレンジしちゃ駄目よ」
「わかっているんなら、聞くなぁあああああ!!」
 今日も今日とて、絵里の蹴りが飛ぶ。

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  おまけ

 足にギブスをつけた矢島が登校している。
「おっ、おいっ! 矢島、大丈夫か?」
 バスケ部の仲間や同級生が心配そうに答えるが、矢島は決まって、こう答えた。
「漢の勲章さ」

 矢ふすまのようになって、浩之が登校してきた。
「おっ、おいっ! 藤田、大丈夫かっ!?」
 さすがの矢島も心配になって浩之に声をかける。
「おっ、漢の勲章さ……」
「No! アタシの獲物ちゃんデ〜スっ!」
 そそくさ、そそくさ。
 浩之の悲鳴とレミィの放つ弓の音を後にして、矢島は無事に学校へと着いた。

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