輝くものを 投稿者:DEEPBLUE 投稿日:9月23日(月)02時52分
 あの冷たくて硬い板張りの世界の向こうに、きらきらと輝く何かがあると信じていた。

 あの子の一途な瞳になら、きっとそんな輝くものが映っているんだろうと。



   輝くものを



 他に誰もいない薄暗い道場で、二人は向き合い構えていた。
 綾香は浅く握った拳を顎の高さに置いて半身に構え、つま先立った足でとんとんとリズ
ムを取っている。
 対する好恵は正中線に拳を並べ、後方の右足に体重を預けた姿勢のまま、不動の構えで
ただ綾香の目をじっと見据えている。
 かつて同門であった二人だが、その後各々の選んだ道がそのまま構えの違いとなって現
れていた。



 練習が終わり好恵ただ一人が残る道場に綾香が姿を見せたのが、ほんの十分前のことだ
った。
 道場の真ん中でひとり、正座し黙祷する好恵の背中に、綾香が声を掛けてきたのである。
「どうしたの?一人で残って」
「いつものことよ」
 姿勢も崩さず、驚いた様子も窺わせず、好恵は背中越しに応えた。
「あんたこそ、何の用?」
「鬱憤晴らしに、つきあってあげようと思って」


 着替えをもってきていない、と言う綾香に好恵が放ってよこしたのは、黒帯の巻かれた
使い込まれた空手衣だった。帯に「坂下」の縫込みがあることから見て、好恵自身の予備
か何かなのだろう。
「久しぶりだわ、コレ」
「空手衣もつけていないのか」
「寝技の練習用に、ジャケットをつけることはあるけどね」
 道衣の類は、基本的に不利なのだと綾香は説明した。
 袖や襟の存在は掴み合いのとき、相手に手懸りを与えてしまう。
「でもね、これ着けてると、やっぱりなんだか安心するわよね」
「そうか?」
 いつも着けてるものだから、私にはわからん、と好恵は素っ気無く応えた。
「じゃ、やろうか」
「ルールは?」
「いつもので」
 いつもの、とは言っても、二人が仕合うことさえ実に久しぶりのことであるのだが。そ
れでもこの一言で、二人にはもう確認の必要も無かった。
 寸止めではなく、本気で打ち合うこと。
 投げも掴みも基本的には無いが、隙あらばこれを仕掛けられても文句は言わぬこと。
 同門時代、二人だけで組み手をするときだけ、二人が決めた暗黙のルールであった。


 始め、の声を上げる者も居ない。
 ただ二人が向き合って、両の拳を掲げる。
 それが、始まりの合図だった。

「――セッ」
 動いたのは、綾香だった。
 野生の獣を思わせる動きで右に、すなわち好恵から見ての左側に跳ねると、一足踏み込
んだ左足を軸にしての右ミドルキックを放ってくる。
「シッ」
 左の肘で、これを叩き落す好恵。
――あいかわらず。
 マウスピースを噛んだ口を僅かに上げて、微笑う好恵。
 始めから、全開なんだな。
 同門時代も彼女は、様子見だとかペース配分だとか、そういうものと無縁の戦い方をし
ていた。
 猪突猛進、というのではない。むしろ、頭脳プレーは綾香の得意とするところだったと
言える。
 どんな局面にでも対応出来る自信があるから、様子を窺う必要が無い。
 最後まで持ち切る自信があるから、ペースを考える必要が無い。
 綾香の戦い方は、そのまま綾香の自意識の顕れだった。
 このとき好恵から見て、綾香の位置は左斜め前方。左半身に構えた好恵にとっては、反
撃のし難い方向だ。
 後方に跳びつつ身体の向きを変え、綾香の位置を正面に捉え直す。
 正面を嫌い、更に左に跳ぼうとする綾香の行動を、しかし好恵は読んでいた。
 カウンターのような左の鉤突きが、綾香の肩口を捕らえた。


「っつ」
 ガードは、ぎりぎりで間に合った。
 防御といっても、始めから上腕を狙って打たれた打撃だ。脇を締め肘を曲げ、筋肉を固
めることが防御となる。
――いいじゃない。
 昔より、威力は上がっている。
 バットででも殴られたように上体が振るえ、拳を食らった場所が内側から熱を持つ。
 努力を苦と思わぬ好恵だ。単調な反復練習を、誰よりも忍耐強くやってのけたのが彼女
だった。
 スピード、柔軟性、テクニック。同門だった当時、どれをとっても綾香が好恵に勝って
いた中で、筋力と体力については好恵に先を許していた。
 もちろん、綾香にはこれが不服だった。自主練習で筋力トレーニングを増やし、朝に弱
い体質を押して早朝に走った。
 パワーとスタミナが好恵に追いついたとき、もはや彼女に不覚を取ることは無くなって
いた。
 それでも好恵は、それからも努力していたのだろう。
 己のペースを乱すことなく、淡々と道を登り続けていたのだろう。
 それが、わかる。
 今、単純な力を比べあえば、ひょっとして好恵の方がまたわたしを追い抜いているかも
しれない。
 そんな想像がたまらなく腹立たしく、そして、楽しい。


 左ジャブ。
 左に跳ぶのは――フェイントか。
 当たりだ。跳ぶ前の位置に残したままの左拳を引き戻しての、引っ掛けるようなフック
が伸びてくる。
 何て、身体の柔らかさ。
 この女は、望めば肉体の全てを意のままにするのかもしれない。ともすれば、自力で心
臓を止めることすらやってみせるのかも。
 ……くだらないことを考えている、自分は。組み手の最中に、何をやっている?
 前蹴り、いや、かかと落としの前振り。……違う、足を上げた体勢から、そのまま後ろ
回し……!
 慌てて引いた好恵の頬を、綾香の踵が掠めていった。そのまま頬肉をもっていかれでも
したかのように顔面が痺れ、視界の片側が数瞬白く覆われる。
「……!」
 好恵のまわりに、彼女自身をすっぽりと覆う円があるとして。
 その360度、すべての角度から、綾香の攻撃は放たれてくる。
 自分には、不可能な数字だ。合わせて10度か、20度かわからないが、どうしても攻
撃を打てない角度が存在する。
 その差を埋めようとは、思わない。
 攻撃を放てる角度など、一点だって構わない。
 誰よりも速く。
 誰よりも強く。
 その一点を貫き通せるのなら。
「セィアッ!」
 放った右中段突きを、綾香は十字受けで受ける。
 構わず。好恵は右足を踏み込んで、ガードの上から己の拳を押し込んだ。


 キィッ――
 食いしばった歯が、軋んで鳴いた。
 正拳中段突き。
 空手の最初の、そして最大の武器。
 腕を重ねて受け止めたそれが、停止せずにねじ込まれてくる。
 重い。
 自分を躰ごと押し飛ばそうとするその拳を、綾香は足指で床板を掴んで受け止める。
 押し負ければ、体勢が崩れる。そこに上段蹴りが来る。基本的だが、効果的な連携だ。
無論、綾香はむざむざそのペースにはまるを由とはしなかった。
「けえあぁっ!」
 体の軸線をずらして拳の威力を受け流すと同時に、相手の顔面に向けて手刀を放つ。
 好恵は、首を傾げてこれを避ける。綾香の指先が触れて、頬に赤い飛沫が飛ぶ。
 こちらを押していた、拳が離れた。その隙を縫って。
「せぃっ――しゃあっ!」
 腹に、左のミドルキック。
 床に降ろした反動でもう一度同じ蹴り足を上げて、屈み込んだ相手の顔面目掛け、下腿
を叩きつける。
 同じ脚での、2段蹴り。
 脛の骨にごつりと当たる硬質の感触に、綾香は喜悦した。


 ふ、と。
 眠気に似た快感が全身を覆う。
 視界は白く輝いて、何も見えないのに激しく回転しているのがわかる。
 そう。もう何度も。
 物心ついたときからこの白い空手衣をつけていて、なんどもなんども見た光景だ。
 だから、この先があることを自分は知っている。
 一夜に等しい長さの一秒を立っていられれば自分はまた戦えることを、わたしは知って
いる。

 ア。

 感覚の無い自分の口が発する声を、耳ではなく振動で捉えた。
 真白い視界がトンネルを抜けるように弾け飛び、そこに、綾香がいた。


 あれをくらって、倒れない。
 そうと見た瞬間、体が動いていた。
 ほんの少しの恐怖と、ほんの少しの焦燥と、ほんの少しの喜悦。
 そして、圧倒的な部分の空白に突き動かされるままに。
 掌底で、相手の頬を張る。
 脳を揺らすのに、拳よりも有効な打撃だ。とはいえ、もはやそんなことを考えて打った
技ではない。
 空手を離れ、エクストリームに移ってから有効な技として身につけたものだが、既に体
が覚えてしまっている。
 半プロとして活動している対戦相手を、一発で沈めたこともある掌底。これをまともに
受けても、好恵は倒れなかった。
 もう一発、今度は左に。そう考えて、しかし、今度は好恵の方が早かった。
 大振り気味の、右フック。
 好恵も疲れてきていることを、綾香は確信した。こんな荒い攻撃を仕掛けてくるなんて。
 左腕で受け止めると、続いて左の拳を回してくる。
 スウェイで、これを避ける。打撃を放つ時、当たった時よりも避けられた時の方がスタ
ミナの消費が激しい。避けられる攻撃は、受け止めずに避けるのがベストな選択であるの
だ。
 大振りの左フックをかわされて、好恵の上体が大きく揺らぐ。
 背中が、剥き出しじゃないの。綾香の唇に、笑みが浮く。
 そろそろ、シメる。
 攻撃に転ずるべく、綾香が一歩を踏み出したとき。
「え」
 ふわりと視界の真ん前に浮く、白いかたまりを見た。
 がん、と、後ろの方から音がして、やがて自分の頭がその音よりも後ろにあることに気
付く。
 灰色の花火が、視界に弾けた。


 はじめの左右の鉤突きは、もちろんオトリだ。
 あれだけの大振りで打てば、どちらかの鉤突きをかわしてくるだろうと考えた。
 鉤突きを外されたときに体に加わる回転を逃がさず、そのまま飛び後ろ回し蹴り。
 他の連携と同様、何百回と練習した流れである。それを使おうとさえ考えれば、あとは
体に任せておけばいい。
 綾香の顔面に叩きつけた踵には、確かな手応えがあった。
 当たった瞬間に、背骨を突き上げるような歓喜がある。それは、打点も速度も回転も、
考えうる最高の形で技を放つことが出来た証だ。
 
 なのに。

 口の中を切ったのだろう。綾香は哄笑するように両端を吊り上げた唇を血に染めながら
も、そこに。
 倒れずに、立っていた。


「――器用じゃない」
 怒りと喜びが別の感情であるのなら、わたしの感情があげている叫びは何だろうか。
 今わたしはどんなものからも自由で、今この相手とわたしとは他の何事からも関わり無
く、対等だ。
 それは、どちらが強いとか弱いとかも関係無く。
 ああ。この目の前の、殺したいほど憎たらしい相手は、とんでもなく親友だ。
「よしえっ」
 もう、今この目の前の友人を昨日の敗北から元気付けてやりたいとか、そういうことも
すっかり頭から消え去っていた。
 いや、それはひょっとしてもう、戦いが始まったその時から、どうでもいいものに成り
下がっていたのかもしれない。


 構えは、通過点。
 そのまま拳を、脚を、綾香を迎えるために動かす。
 左ジャブ。右の大振りのフックは、誘いだ。振った腕をそのまま後方に伸ばしての、左
ローが来る。
 綾香のラッシュを捌きつつ、自分の拳を突き入れる隙間を探す。
 右脇、左膝、右側頭。隙の穴が開いては、消える。
 どれかの先には綾香の肉体がある。どれかの先には、牙のついた罠がある。
 キック、ボクシング、テコンドウ。あるいは、サバットや中国拳法。
 綾香は、使えるものは何でも取り入れて、自分の血肉にする。
 自分には、空手の技だけだ。
 その空手の技だけで、わたしは綾香と打ち合えている。
 ほら、葵。空手だけで充分じゃないの。
 互角とはいかないけれど、ほら。
 わたしは、立てている。


 一発が防がれる度に、わたしの中で何かが溜まってゆく。
 それと入れ替わりに、頭の中の色々なものが、どんどん削られて行く。
 家のことも。姉さんのことも。葵のことも。――今目の前にする、好恵のことでさえも、
忘れて行く。
 こんなに自分が純粋になれる時間は、他にはないから。
 だからわたしは、戦っているこの時が、大好きだ。


――がつ、と。


 綾香と好恵の拳がぶつかり合い、二人の骨が軋みを上げる。


 あ。――あ。

 その痛みが。
 綾香の最期の、「戦い以外」の部分を忘れさせた。

 好恵の奥襟を掴み、跳躍。
 ハイキックを放つ形から相手の肩に乗り、脚を首に回す。
 肩車に乗った形から、綾香はそのまま、無防備な好恵の頭頂部に肘を落とす。
 暗く静まった道場内に、石を落としたような重い音が響いた。



「あ、あの、宜しくお願いします」
 どもるような小さな声で、小さな身体のあの子は言った。
 あの子も私も、まだ小学生の時。
 あの子が、私のいた空手の道場に入門してきた日のことだ。
 声にも態度にも、内気さがあらわれていた。
 背も小さい。体も細い。
 やっていけるのか、と、あのときは疑っていた。
 入門して間も無いうちに、根を上げて止めていく道場生は少なくない。この子もそうい
う類になるんじゃないかと考えていた。
 出会いの始めにそんなことを考えたことも、葵が入門して一年も経った頃には忘れてし
まっていたのだけれど。
 綾香のように、三度もやれば全てを理解するような図抜けた才能をもっているわけじゃ
ない。
 体付きも才能のうちである格闘技をやるには、むしろハンデの方が大きかったかもしれ
ない。
 けれど、それを補うほどのものを、この子はもっていた。
 素直さと、一途さ。

 だから、この子が空手ではないものに行くことはは、間違いなんだと信じた。
 ただ、空手を止めるというだけならいい。だけど、空手以外の格闘技に曲がるのは、そ
れはこの子の一途さという才能を、失うことだと。
 そして。
 そのまっすぐな瞳がわたしと違う道をみるのであるなら、わたしの進んでる道はなんな
のだろうか、と。



「……」
「あ、起きたあ?」
 視界を覆っていた濡れ手ぬぐいを持ち上げると、横手から間の抜けたような声がかかっ
た。
 暗い。
 照明のついていない夜の道場に、どうやら自分は、横になっているようだった。
「で」
 好恵は、呆れた声を故意に作って、言葉を吐き出す。
「どうしてあんたも、一緒に寝てるのよ?」

 床板に寝かせられた好恵に、頭を付き合わせて垂直になるような位置で、綾香が大の字
になって寝転んでいた。

「んー、別に?ただ、いつもは立って暴れてるところでこうやって寝転がって天井見てる
のって、何だか気持ち良くない?」
 嬉々とした綾香の言葉に、好恵のハァという溜息がかぶさる。
 そのまま二分ほど、無言のまま二人はそこに寝転がっていたが、やがて好恵が口を開い
た。
「わたしの、負けか」
 綾香の最期の技は、二人の習う空手の組み手のルールで言うなら、反則である。空手の
範疇では無い技だ。
 けれど、二人のルールであるなら、これは何も問題ではない。
 それでも好恵が文句を言うなら、綾香は「じゃあ今日はわたしの反則負けってことで」
と素直に言っていたことだろう。しかし、好恵がそれを言わない――考えもしないだろう
ことも、綾香は知っていた。
 人間の頭頂というのは、加減によっては死に至るほどの急所である。
 ただの組み手レベルでやるには、明らかにやりすぎだ。
 これが葵や浩之相手であったならば、綾香はきっと謝っていたと思う。
 ごめん、やりすぎた、と。そして、ムキになってしまった自分を恥じただろう。
 けれど、好恵が相手なら、謝らない。
 やりすぎたこと。ムキになったこと。それは自分の、この友人に対する礼儀だ。
 だから、謝らない。
 代わりに、板張りの床に大の字に寝転んだまま、綾香は満面の笑顔で口を開く。

「アーイ、ウィ〜〜ンっ!」

 隣で寝転ぶ好恵の方からちっ、と舌打ちする音が届き、綾香はますます笑みを広げた。



「ねえ、好恵。あんたは勘違いしているようだけれど、エクストリームは、競技でありル
ールでしかないわ。技術を伝えるものじゃない」
 制服に着替えてから、二人は灯りを点けた道場で向き合って座っていた。
 双方ともに、胡座をかいている。他に人がいるわけでもないから、遠慮もない。
「あの子は、空手でそれに挑もうとしているだけ。あの子は、決して空手を捨てたわけじ
ゃないわ。むしろ空手を信じて、広い世界で自分を試そうとしているの」
「……そうか」
 それは、けれど綾香に言われるまでも無く、昨日の試合でなんとなく伝わっていた。
 最期まで打撃に拘った、葵の戦いは。自分に何かをわかって欲しいのだと、必死に伝え
てくるものだったから。
「あんたは知らないだろうけど、エクストリームのルールで打撃系の選手ってすっごく不
利なの。そりゃあもう、かなり一方的に。それを知ってるはずなのに、あの子はやっぱり
空手をメインにしてる。それはやっぱり、自分の習っていたものを信じてるからでしょ」
 綾香は、饒舌だ。
 綾香も綾香で、一途で真面目なあの後輩を心から可愛がっていることを、好恵は知って
いる。
 けれど、葵がなによりも、綾香自身に憧れる思いで総合への道にすすんだことを、この
女は一体自覚しているのやら。
「総合ルールで、ハイキックと崩拳が必殺技ってのもナンだけどねー。ま、そういうのも
、あの子らしくていいんじゃないかしら」
「笑い事じゃないだろう、まったく。そんなことも教えてないのか」
 呆れ声の好恵に、綾香はにいっと歯を出して笑い、おいおいにね、などと言った。
「それよりさ、あんたが時々教えてあげれば、葵も喜ぶと思うんだけどな」
 口には悪戯っぽい笑みを浮かべているわりに、綾香の瞳は真剣だ。
 その目を、だいぶ長い間見詰めておいてから、好恵は考えとくわ、と答えた。
 それで、綾香はこんどこそ本当に、笑顔になった。



「ようし、良い感じだぞ葵ちゃん」
 ミットの鳴る乾いた音が、神社の木々の間を縫って響く。
 浩之の言葉に頷き、なおも右足を振り上げようとする葵の耳に、
「だめよ、それじゃあ」
冷静な響きをもった、聞き慣れた声が届いた。
「好恵さん」
「何だよ、何か用か」
 険を帯びた浩之の視線を軽く受け流し、好恵は続けた。
「蹴り足の軌道の、頂点じゃなくて落ち際のあたりで当てるようにしなさいって、教えた
でしょ?」
「……あ」
 存外に穏やかな好恵の表情に、葵の顔にみるみる喜色が浮いた。
「じゃ、もう一度やってみなさい」
「あ、はい!」

 しばらく、事情が飲み込めない様子で二人の顔を交互に見回していた浩之であったが、
やがて好恵の促すような視線と、葵のまっすぐな視線に晒されている自分に気付く。
 浩之はぱちぱちと瞬きをすると、ま、いいかと呟いて笑みを広げた。
「よし来い、葵ちゃん!」
 浩之の構えた、ミットに。
 今日で一番重く、強い音が生まれ、響いた。