「光差す庭」 暖かい光の遊ぶ、あの中庭に帰ろう。 あなたに再び出会うための、秘密の呪文を唱えよう。 来栖川グループ前会長、来栖川芹香。 女性の身ながら来栖川グループの中心としてそれを支えてきた彼女も、年老いた現在と なっては完全に身を引き、今はただ屋敷の中で、読書とひ孫たちの遊び相手をして時を費 やしている。 彼女とともに来栖川を導いてきた夫も、今はもう、いない。十年も昔に、亡くなってい た。 彼──夫は、古株の重役たちや来栖川の縁者たちが言うところの、いわゆる「庶民」だ った。 学生の時に彼に出会い、多くの障害のあるなか思いを通して結婚した。 妬みまじりの、非友好的な多くの視線。 芹香が知るだけでも、それは数多いものだった。彼が知るそれは、もっと多くて、辛ら つなものだったろう。 だが、彼は変わらなかった。 『ごめんなさい、って?なにがだ?』 『──ん?おいおい、そいつは逆だぜ。ぜんっぜん逆』 『だっておかげで、普通に生きてたんじゃ絶対に体験できねえ色んなことを、体験できて るんだぜ』 『ま、正直やなこともあるけどな。だけどさ、いいことだっていっぱいあるんだぜ』 日頃ぶっきらぼうで、不機嫌にも見える顔。 それが、微笑むと、どうしてこんなにも、包み込むような暖かさを持ち得るのだろう。 彼は、変わらなかった。 大企業には必要悪とも言える内部の不正の数々にも、彼は最後まで反発し、ぶつかり続 けた。 納得いかないことには素直に怒りをあらわす、少年の魂を持ち続けていた。 最後まで。 『なあ。もし俺が先に逝ってもさ。簡単に付いてきちゃ駄目だぜ』 『少なくとも、俺がいいって言うまでは、駄目だ。一生懸命生きてさ。一生懸命楽しいこ とやって、そのあとだな』 『え?わかっていますって?…そうか。いい子だな、俺の奥さんは』 すでに顧問職に移り一線を退いていた彼は、病床のベッドの上で、そういって彼女の頭 を撫でた。 少年の心を持った、だけど父親のように広量な微笑みは、変わらなかった。 「悲しかった?」 ええ。とても。 「寂しくなかった?」 でも、ひとりではありませんでしたから。 あの人の声だって…わたしが想えば、いつだって聞くことができる。 いまでも。 そのための、一緒にいた数十年だったのだから。 「あたしたちだっているしね?」 そう──あなたたちもいる。 あなたたちも、わたしのなかの、大切なお星様だから。 Every man and every woman is a star. Every number is infinite. Here is no difference. 彼女の好きな、少しだけ昔の人の言葉。 どの思い出も、どの人も。 みんな、わたしのなかの、大切なお星様だから。 せりかも。あやかも。 自分と同じ名前の、幼いひ孫たちの頭をなでてやりながら、彼女は囁くような優しい声 でそう言った。 双子の姉妹は嬉しそうな、恥ずかしそうな表情で、黙って曾祖母の抱擁を受けていた。 その日芹香は、病院にいた。病室のベッドに。 なんの病気なのか、彼女自身も知らない。 医者はただ、もうお年ですから──そういうだけだった。 わたしが知る必要のないことだから、誰も言わないだけなんだろう。 彼女自身は、ただ、そう思っただけだった。 ひ孫たちが執事に連れられて、見舞いに来た。 「元気そうだよ。大丈夫だよ」 あやかはそう言って笑い、 ──こくん。 一生懸命な意思を瞳にあらわして、せりかが妹の言葉に頷いた。 この子たちの、想い。 元気なあやかの声。 最近彼女の影響を受け始めて、芹香の集めた特別な外国の絵本を(わからないなりに) いつも持ち運んで開いている、せりか。 窓の外の銀杏の木が、四季に合わせて色々な表情をみせることも。 病室の白い壁の隅っこに、どんな子供が描いたのか、可愛い落書きがあることも。 みんな彼女の大切な、こころのなかの輝くかけら。 それを、そのことを、芹香はこの子たちに伝えたかった。 いまはわからなくても、いつかはそれを知るように。 だから。 わたしは大丈夫。もう、いっぱいの、お星様をもっているから。 せりかも。あやかも。 人はみんな心の中に、自分だけのお星様をもっているの。 誰だって、そう、変わりはないの。ただ、そのお星様を見つけることが出来たかどうか、 というだけで。 彼女がいつもそうしているように、一生懸命に想いを伝える。 いまはわかってもらえなくても、いつかわかってもらえるように。 「じゃあおばあさまも、お星様をもってるの?みつけたの?」 あやかの無邪気な表情に、穏やかな笑みを浮かべて芹香は頷いた。 ──みつけました、と。 今も、ここにあります。 ここに。 深夜。 ふと目が覚めて、ベッドの上の身を起こす。 「よっ」 傍らに立っていた学生服姿の少年が、穏やかな笑みを浮かべて片手を上げた。 こくん。 頷くようにして、挨拶をする。そっけなくもみえるその対応に、少年は苦笑する。 でも、少年は、わかってくれているのだろう。 頷くだけのその行動に、彼女のどれだけの想いがこめられているのかを。 少年を、彼女は知っていた。 とても、よく、知っていた。 「一生懸命、生きたかい?」 こくん。 「楽しかったか?」 こくん。 「そっか。約束、守ってくれたんだな」 あなたとの、約束でしたから。 一番大事な、約束でしたから。 「おばあさまあっ」 今日も、ふたりの幼い姉妹が、見舞いにやってくる。 芹香もいつもの通りに、(自分では笑顔のつもりの表情で)それを迎える。 「ど、どうしたの?」 いつもならなにかお話をはじめる芹香が、今日はいきなり二人の頭を撫ではじめたから か、とまどい照れるせりかとあやか。 「え?つかれてるの?じゃあ、眠ってていいよ。あたしたちが、いてあげるから。おばあ さまが起きるまで」 あやかの言葉に、せりかも同意の頷きを見せる。 芹香は、今度ははっきりと微笑んで、頷いて横になった。 そして、静かに瞳を閉じる。 とても、穏やかな表情で。 「……おばあさま?」 暖かい光の遊ぶ、あの中庭に帰ろう。 あなたに再び出会うための、最後の呪文を唱えよう。 あなたとかわした、ひとつひとつの小さな約束が、 二人を結ぶ ちからとなるように。 「よ、先輩。中庭でお昼寝か?え?夢を見てたって?どんな夢?」 「良く覚えていないけど、幸せな夢でしたって?」 「そっか、よかったな。先輩」 <おわり>