笑う次郎衛門  投稿者:beaker



 次郎衛門は笑うことが大層苦手である。
 否、笑うだけでなく悲しむことも苦手である。
 それは父親と母親の教育に依るところが大きいのかもしれない。
 父親は次郎衛門を侍であるように教育した。
 笑うな、男の癖にところ構わず笑うべきではない――
 泣くな、男が泣くということは大層みっともない――
 感情を律せよ、感情を無闇に曝け出すのは侍ではない――
 そんな事を言っていたように思う。
 母親はただ、それに唯々諾々と従うだけの女である。
「飯」と言えば飯を作り、「風呂」と言えば風呂を沸かし、黙って
夫に付き従う――そんな人だ。
 だから愛しいなどと思ったことはない。
 死んでも何とも思わなかった。
 かくして笑わない、悲しまない、感情を律する理想の侍が形成さ
れた。
 次郎衛門は父の教えを有り難いと思ったことこそないが、疎まし
いと思ったこともない。
 確かに笑いたい時に笑えない、悲しみたい時に悲しめないことは
不便であるが――それが侍であるからしょうがない、と半ば諦観す
るような気持ちであった。

 これに変化が起こったのはエディフェルと出会ってからである。
 エディフェルと出会い、一時――恋のようなものをして、そして
死にゆく彼女を抱き締めた。
 その時始めて次郎衛門は声を荒げて泣いた。
 悲しみ、怒り、鬼になり、エディフェルの妹と出会い、戦い、勝
利した。
 そうして今はここにいる。
 鬼――エルクゥの討伐の為、共に戦った友人のほとんどは皆、既
にこの世におらず、エディフェルもその姉二人も――もういない。
 唯一エルクゥの群れで生き残ったのは――リネットだけである。
 そして次郎衛門は再び侍の仮面を被った。
 鬼退治の功績により与えられた屋敷で、こうしてリネットと共に
暮らしている。
 ……不思議なものよなァ。
 ポツリと呟いた。
 思えば自分とリネットだけがこうして生きている。

「何が不思議――なのですか?」
 何時の間に傍らに来たのか――リネットが声を掛けてきた。
 出会った頃に着ていたあの変わった衣服ではなく、極普通の着物
である。
 日本人には永遠に縁の無い金色の髪に良く映えていた。
「いや、何でも――ない」
「そう……ですか」
 少し寂しそうな目つきでリネットは微笑んだ。
 エディフェルのことを考えていたのが分かるのであろう。
 何か声を掛けようとして――止めた。
 何を言える訳でもない。
 慰めねばならぬことが分かっていても――何も言えない。
 否、慰める必要など――ない。
 そう強く思って酒をあおった。

 次郎衛門は時々思い返したようにリネットを抱く。
 気紛れに。
 最後までいく時もあれば、途中で急に止めてしまうこともある。
 途中で止める理由は大抵エディフェルのことだ。
 抱いている最中、不意にエディフェルを思い出す。
 罪悪感ともかつての愛情とも知れぬ何かが次郎衛門の心に湧く。
 そうすると、リネットは半身を起こし、
「今宵はもう……止めにしましょう」
 そう言う。
 反論すればいいものを、曖昧に返事をして最後は頷くだけ。
 俺は悪くない、悪くないのだが――
 では誰が悪いのだ。
 次郎衛門は隣の布団に移ったリネットをちらりと見た。

 リネットはその髪の色を気にしてか滅多に外に出ることはない。
 ただ、時々外で遊ぶ子供を見て遠い目をする時がある。
 次郎衛門は訊いた、
「子供が――欲しいか?」
 リネットは悲しそうに頭を振る。
「子供にも――この血は受け継がれましょう。わたしはまた――こ
のような悲劇を繰り返したくありませぬ」
 では、
 では自分達は何の為に生きているのだろう。
 それでは、それではまるで――
「生き乍ら――死んでいるようなものではないか」
 そう言った。

 その言葉にリネットが今まで見せたことの無い表情を浮かべた。
 怒っているのか悲しんでいるのか――どちらも入り混じった表情
である。
「あなたも――」
 瞳に涙が滲んだ。
「あなたも――同じようなものではありませんか」
 そう言って、リネットは立ち上がって走って行った。
 違う。
 自分はそんな――そんなつもりではない。
 伝える言葉が見つからないのだ。
 どう感情を表せばいいのか解らぬのだ。
 確かにエディフェルの事を今でも愛している、
 しかし、愛していない、というのもまた嘘ではない。
 道歩く時、酒を飲む時、女を見た時、リネットを抱いた時、不
意にエディフェルの事を思い出す。
 その時は確かに愛している、愛していたと言えるだろう。
 しかし――それ以外、エディフェルの事を記憶の奥底に仕舞って
いる時はリネットをこの上なく愛しいと思う。

 伝わらぬ。
 愛している事が伝わらない。
 次郎衛門は根底の原因が自分の感情表現の乏しさにある事に気付
いている。
 だが笑うことができぬ、悲しむこともできぬ。
 リネットと共に笑いあえたらどんなに楽しいだろうと思うが――
できぬ。
 そして、この言い訳を言葉に乗せて伝えることも――できない。
 侍だから、いや、それはただの言い訳だ――
 次郎衛門は単に――不器用なだけだ。
 それを侍という仮面のせいにして生きているだけだ。
 リネットと過ごせば過ごすほど、焦燥感が募った。

 ある日のこと。
 次郎衛門はリネットが鏡の前で自分の髪の毛を梳いているのを見
た。相も変わらず美しい金色の髪である。
 だが、それはこの国の人間には無い色だ。
 街へ出れば多くの人間が奇異の目で見るだろう。
 故にリネットは滅多に表に出ることはなかった。
 次郎衛門が禁じた訳ではない、ただ、こう言っただけだった。
「お前の髪の毛は珍しいな……ここの人間にはない色だ」
 そう言っただけである。
 酔った拍子に言っただけである。
 しかし、リネットはその何気ない言葉をどう解釈したものか――
以後は余り外に出なくなった。

 リネットは髪の毛を梳き終わると、じっと自分の髪の毛を見た。
 手で摘み、くるくると指に巻き付ける。
 その様子はなかなか微笑ましいものがあった。
「あ……」
 見ている次郎衛門に気付いたのかリネットは振り向いて笑顔を見
せた。
「何をしておる」
 次郎衛門が訊いた。
「髪を――」
 リネットは思いがけないことを言った。
「髪を染めようかと――」
「何と」
 さすがに次郎衛門も驚いた。
「黒に染めれば外へ出ても奇異に見られることもないかと……」
「何を気にする必要がある」
「ですが――」
 そこでリネットは言葉を切る。
 気にしているのはリネットではなくあなたである、と言いたいの
だ。
 違う、とは言えない。
 街へ出ると奇異の目で見られる。
 リネットも、共にいる次郎衛門もだ。
 元来目立つことが嫌いな次郎衛門は思ったものだ。
(髪が黒であったらなァ――)
 しかし、思っただけだ。
 人の髪の色にまでいちいち口出しするようなものではない。

 だが――リネットは次郎衛門の意図を汲み、髪を染めようとして
いる。
 ――癪に障る。
 次郎衛門は急激に自分の心が冷めるのを感じた。
 リネットは気を遣いすぎる。
 こちらが少し腹を立てれば本格的に怒り出す前に自分が謝り、こ
ちらの怒りは不完全なままでどこかへ流れて行ってしまう。
 エディフェルのことを考えていると、怒ればいいものを、悲しそ
うな顔をして遠ざかってしまう。
 今も自分は「髪の毛を染めろ」などと一言も言っていないのに、
こちらに気を遣って染めようとしている。
 器用すぎるのだ。
 少しは我侭を言ってくれればいいものを。
「なら、勝手にすればよかろう」
 次郎衛門は語気を少々荒げて言うと不機嫌そうにその場を去った。

 ――その日は普段より多く酒を飲んでいた。
 酒でも飲まねば気が晴れぬ。
 盃に月が映った。
 真ん丸と。
 ああ、今宵は……満月か。
 盃の月は次郎衛門の微かな手の動きに合わせてゆらゆらと揺れた。
 面白くなって盃を揺らす。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 盃の中の月は波打ち、形をぐにゃぐにゃと変える。
 人の心も同じ。
 瑣末なことで揺れて形を変える――
 なみなみと注がれた酒をぐいと飲み干した。

 こんな時、エディフェルならば何と答えるだろう。
 苦笑いしながら酒を注ぐだろうか。
 それとも――
「あ……お酒を飲まれているのでしょうか?」
 思考が遮られた。
 振り返る。
 髪の毛は――月に反射して煌いていた。
「――染めなかったのか」
「あなたが――厭そうでしたので」
 わずかに微笑んでからリネットは隣に座る。
「綺麗ですね――」
 言葉に促されて次郎衛門も再び月を見上げる。
 ……訊いてみるか。
 エディフェルではなく、リネットに。
 リネット自身の考えを。
「なぁ、リネット」
「は……きゃぁっ!」
 リネットが次郎衛門の身体に抱き着いた。
 余りに突然の事だったので、盃をひっくり返してしまう。
 ぱしゃ、と手にかかった。
「何だ、何事じゃ」
 震える手でリネットが暗がりの廊下を指差した。
 ちゅう、と鼠が顔を出した。
 かなり大きい――溝鼠というやつである。
 鼠はやがていずこかへ消えていった。
「もう行ったぞ……ほれ、何をしておる」
「本当ですか?」
 リネットはガタガタと震えながら次郎衛門の腕にしがみ付いてい
る、その様子は幼子とまるで変わらない。
  . . . . . . . . . . . .
 次郎衛門はくすりと笑った。
 その声に思わずリネットは顔を上げる。
「え……?」
 どうした、と次郎衛門は問い掛けた。
「今――笑って……」
 言われて次郎衛門は自分が笑っている事に始めて気付いた。
 なかなか信じられなくて、顔を手で弄る。
 何とも言えない珍妙な仕草に今度はリネットが笑った。
「何が可笑しい」
「いえ――」
 そう言っても笑うことは止まらない。
 しばし、しかめ面をしていた次郎衛門も笑い出す。

 先の疑問、エディフェルなら――
 否、リネットならば――どう答えるのだろうか。
 次郎衛門は盃に映る酒のことを言った。
 リネットはしばらく考えていたが、やがて答えた。

「そうですね、確かに――人の心は瑣末なことで揺れまする。です
が――いくら形を変えようとも月は月、月それ自身が変わりさえし
なければ――それで良いのではないでしょうか」

「いくら揺れても月は、月……」
「そうですね」
 そう言ってリネットは次郎衛門にもたれかかった。
「そうだな」
 短く答えて、次郎衛門は再び、
 くすりと笑った。


<了>




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