執事の朝は早い。 自分が仕える人間の誰よりも早く起床しなければならないからだ。 まだ朝日が昇りきらない内に服を着替え、朝食を用意する。 彼は目覚し時計を掛けた事はなかった。 既に身体が朝五時起床のリズムに完全に適応しているからだ。 朝食の用意を整えた彼は神経質に腕時計を見ながら次々と主の部屋をノックする。 時間を違えた事は一度もない、それが彼のささやかな自慢であり、誇りであった。 彼の名前は長瀬源四郎、だがこの名前を呼ばない人間が二人いる。 「セバス、おはよ〜」 生あくびをしながら部屋を出てきた彼女、 「おはようございます、綾香お嬢様」 そしてもう一人、 「……」 「おはようございます、芹香お嬢様」 彼の名前は長瀬源四郎、もう一つの名前はセバスチャンである。 彼の一日はこうして始まる、次の仕事は芹香をリムジンに載せて運ぶ事である。 下賎な若者が芹香に近付かないように一喝しながら一旦来栖川邸に戻り、 車の洗車や花壇の世話、昼食の用意をする。 その間に短い昼食を挟み、芹香を迎えに行く。 そして夜、夕食の用意をして全ての人間が食べ終わった後、 遅い夕食を食べてすぐに就寝する。 彼の一日は来栖川一族の為に始まり、来栖川一族の為に終わると言っても過言ではなかった。 息子は言った、僕の作っているモノの、メイドロボの理想はあなたなんだ、と。 それは多分に皮肉だろう、ある一件以来彼と息子の繋がりは途切れ、年に数回顔を合わせれば 良い方だった。 時折思い出しては心臓に杭を刺されるように痛む。 妻の冷たくなった亡骸の前にへたり込んで祈るように手を合わせる息子の姿、 そんな彼を見ても何一つ言葉を掛けられなかった自分の情けなさ。 そしてそんな時でも彼は午前四時に起床し、いつものように朝食の用意をして、 いつものように一日を来栖川の為に費やした。 通夜の時も、葬式の時も、彼は人前で泣こうとしなかった。 執事という存在は主の為に存在するものであり、感情を表に出す事は許されないから。 主の為に仕え、主の為に働き、主の為に身体を張り、主の為だけに存在する…… 「お父さんはそれでいいのかい?」 息子は物心つき、分別が付く大人になってからずっとそう言い続けていた。 「人の為に生きて、自分のしたい事をしなくて、それで幸せなのかい?」 彼の答えは判を押すように決まっていた。 「私は来栖川家の方々にお仕えする事こそが幸せなのだ」 ……結局息子がその台詞を言わなくなったのは彼の母が交通事故に遭って亡くなってからだ。 その日も彼はいつものように午前四時に起床した。 だが今日はいつもと違っていた、確かにいつもと同じように着替え、朝食の用意もした。 そしていつもの通り芹香を車で送り届け、いつものように一旦来栖川邸に戻ろうとした。 だが、道路を法定速度ピッタリで走っている最中、 「!!」 突然前方を何か、正確に言うと誰かが飛び出してきた。 勢い良くブレーキを踏み込む。 タイヤが軋むような音をたててアスファルトと擦れ合う。 幸いにも目の前に飛び出してきた誰かの感触を感じる事はなかった。 慌てて飛び出す。 「大丈夫か!?」 目の前にいたのは小学三年生くらいの女の子だった。 瞳を潤ませてはいるものの、転んだ時の擦り傷くらい以外に外傷は見当たらない。 ホッとため息をついた。 「しっかりしろ、ほら……立てるかい?」 孫を思い出してついつい言葉が優しげになる、芹香にも綾香にも決して出した事のない声だった。 「うん……」 泣きながら頷く。 だが、立とうとはしない。 やれやれとため息をついて、彼は女の子を背中におんぶした。 「お嬢ちゃん、おうちはこの近くかい?」 「うん……」 セバスチャンはそのまま彼女を背負って歩き出した。 背中の彼女は羽のように軽くて彼は本当に彼女を背負っているのか不安になるほどだった。 振り返って背中を見る。 ――そこにはちゃんと彼女がいた。 涙を必死に堪えながら……多分膝が痛むのだろう……彼のがっしりとした首にしがみついていた。 セバスチャンは彼女に向かってできるだけ優しい口調で家の方向を問い質した。 彼女は首に回していた手で家の方向を指し示した。 あっち、そっち、そこを右。 セバスチャンは車を置きっぱなしである事も忘れ、彼女が指し示す方向へ歩いていた。 「え……?」 セバスチャンは一瞬あっけにとられた。 彼女が「ここ」と言って降りた地点は……どこかの小さな公園だったからだ。 「おじちゃん、ありがと」 彼女は深々と頭を下げると、公園のブランコに向けて駆け出して行った。 「お嬢ちゃん、脚は……」 そう言おうとして止めた、きっと痛みもとうに消えているのだろう。 子供というのはそういうものだ、目の前に楽しい事さえあれば過去の痛みなんてすぐに忘れてしまう。 羨ましい、と思った。 過去の痛みを引き摺る人間として。 明くる日、前日と同じ場所を通りかかった時の事だ。 昨日の娘が飛び出してきた場所と同じ横道に一人の女の子が立っていた。 ……中学生だろうか? 今時珍しいくらい古風な紺色のセーラー服だった。 ああ、とセバスチャンは思った。 昨日の娘の姉妹だろう、と。 クリッとした瞳に微笑んでいる口元の辺りは妹とそっくりだった。 妹と違って髪はおさげだったが、そのおさげの先に結び付けられているのは昨日の彼女と同じ 黄色のリボン。 彼女はセバスチャンの車を見付けるや深々と頭を下げた。 セバスチャンは車を降りて、手近な場所に駐車すると彼女の元へ歩き出した。 「昨日のお嬢さんのお姉さんですかな?」 そうセバスチャンが言うと彼女は何となく困ったように微笑みながら、 「はい……お姉さん……みたいなものですね」 そう言った。 「妹君の脚の具合は大丈夫でしたかな? 結構勢い良く擦りむいたと思ったのですが……」 「ええ、もう元気ですよ」 それはよかった、とセバスチャンは微笑んだ。 「あの、それで……少し歩きませんか?」 その提案にセバスチャンは一瞬逡巡したが……いいとも、と答えた。 「今時珍しい制服ですな」 セバスチャンは彼女の制服を見ながら言った。 「はい、でもまだこういう制服の学校も結構あるんですよ……」 「お嬢様達が通っている学校は双方とも実に現代的な服装だからなァ……」 感心したように呟く。 その台詞に彼女は振り返って、 「お嬢様……?」 そう不思議そうに言った。 「ああ、これは失礼。わたくし来栖川家の執事をしておりますセバスチャンと申します」 「セバスチャン……? あの、失礼ですけど……日本人の方……ですよね?」 「はい」 セバスチャンは当然というように頷いた。 「このセバスチャンと言うのは芹香お嬢様がつけてくださった愛のニックネームなのです」 「愛のニックネーム……?」 彼女は困ったような微笑みを浮かべながら 「じゃあセバスチャンさんでいいんですよね?」 そう言った。 「さん付けはなさらなくて結構です」 「でも、それじゃあ失礼だし……やっぱりセバスチャンさんって呼ぶ事にします」 セバスチャンは何だか背中にくすぐったくなるものを感じた。 「私の制服も珍しいけどセバスチャンさんの職業も珍しいですよね」 彼女はセバスチャンの横を歩きながらそう言った。 ……確かに今時、執事なんてのを生業にしているのは日本でも珍しいだろう。 ましてや最近は執事の代わりのメイドロボという存在がどんどんメイド、執事という 役割を侵食している。 実際の話、来栖川家でも執事と呼ばれる人間は彼ぐらいのもので後はほとんどが メイドロボによってその役割を交替されていた。 メイドロボが出た頃からセバスチャンも少し感じていた。 彼等によって自分達の役目を終わらされる日が来ると。 当初は誰もそんな事考えもしていなかった、欠陥品だらけのロボットに執事やメイドの代わり が勤まるものかと…… だけどセバスチャンには分かっていた、きっと様々な欠点は直されて メイドロボが代理品となる日が来るに違いないと。 「あの……セバスチャン、さん?」 心配そうに彼女は声を掛けた。 「……あ、申し訳ない。少々考え事をしていたもので……」 「考え事……ですか?」 「いや……何でもない事です」 彼女に言ってもしょうがない事だ。 「あ……それじゃあ私この辺で」 ペコリと頭を下げた、彼女が「この辺」と言った場所は昨日と同じ公園だ。 「妹君によろしくお伝えください」 彼も深々と頭を下げた。 彼女はコロコロと笑い声を挙げると駆け出して行った。 その晩。 来栖川芹香が学校の宿題を終わらせた頃、ドアをノックする音が聞こえてきた。 「……」 どうぞ、と呟いても自分の声が届かない事に気付き、自分でドアを開ける。 「……?」 どうしたの? セバスチャン。 彼女はそう言った。 「お嬢様の知恵を拝借したい事がございまして……」 ・ ・ ・ 「お嬢様、幽霊というものは……実在するものでしょうか?」 セバスチャンは差し出された椅子に座るのを拒否し、直立不動のまま言った。 来栖川芹香は意外な質問に首を傾げながらもハッキリと答えた。 「……」 幽霊は存在します、と。 「それは生きる人間に害を成すためでしょうか?」 続いての問いには彼女は首を振った。 「……」 この世に未練があったり、憎んでいたりする人間は生きる者に害を成す事があります。 でも幽霊というのは人間に害を成すほどこの世を憎んでいるものは少ないのです……。 かなり長い台詞だったがセバスチャンは一言一句漏らさずに聞き止めた。 「そうですか……では最後にもう一つだけ質問をお許しいただけますか?」 「……」 どうぞ、と芹香は頷いた。 「仮に自分の愛する人間が幽霊になって自分の前に現れたとして……どういう態度を取れば よろしいと思われますか?」 芹香はその問いに困ったような表情を浮かべた。 どう答えれば良いのか分からない。 セバスチャンはその表情を窺うと、 「いえ、無体な質問でございました……それでは失礼します、お嬢様」 「……」 芹香はごめんなさい、と呟いた。 その台詞にセバスチャンは深々と一礼し、 「とんでもございません、有り難いお言葉です」 そう言って部屋を出て入った。 芹香は不思議そうに彼が出て入った後の部屋のドアを見つめていた。 一方、セバスチャンは自分の部屋に戻ると机に向かった。 そしてペンを取り、考え考えペンを走らせる。 ……長い、長い手紙になりそうだった。 明くる日、セバスチャンは机に突っ伏したまま寝ている自分に気付いた。 うーん、と伸びをすると身体のあちこちが痛む。 ヨレヨレになった服を着替えて、いつものように仕える主たちの部屋をノックして回る。 芹香は昨日のセバスチャンの様子が気になっていたので、食事の間チラチラと彼の様子を 窺っていたが普段とまるで変わりない彼の様子に少し安心した。 ……きっと何かの本でも読んだのだろう、そう思った。 「時にお嬢様」 登校途中、普段は全く口を開かないセバスチャンが急に芹香に声を掛けた。 「……?」 「藤田殿とは……その……上手くいっておるのですかな?」 その言葉に芹香は一瞬で茹蛸のように真っ赤になった。 彼女の様子を見てセバスチャンは少し安心したように、 「どうやら上手くいっておられるようですな、結構な事です」 そう言って微笑んだ。 「……」 芹香がどうしてそんな事を聞くのか問い質そうとした時、学校へ到着した。 「お嬢様、到着いたしました」 そう言ってセバスチャンは運転席を降りた。 戸惑いながらも芹香はセバスチャンによって開かれた車のドアから外に降りる。 「こちら、お鞄とお弁当でございます」 それを受け取ると芹香はセバスチャンの方を振り返り、振り返り歩いて行った。 「いってらっしゃいませ、お嬢様」 セバスチャンはそう言って一礼する。 彼は彼女が学校の門をくぐって校舎の中に入っていっても ずっと頭を下げたまま身動き一つしようとしなかった。 普段より、ずっとずっと長く頭を下げた後、彼は車に乗り込んだ。 ……あの場所で彼女と逢う為に。 車を例の横道の手前で止めた。 やがて彼女が現れる。 小学三年生の彼女でもなければ中学生の彼女でもない。 現れたのは歳の頃五十代と思われる初老の女性。 彼はその女性を良く知っている、いや知っていたという方が正しいか。 「お前だったんだなァ……」 感心したように、懐かしむように、でも少し痛々しくセバスチャンは呟いた。 「お久しぶりです」 彼女はそう言って頭を下げて、微笑んだ。 キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴って午前の授業の終わりを告げる。 何となく安堵した空気が教室に漂い始めた。 芹香は弁当を手に持って中庭で食べようと、廊下を歩き出した。 「よっ、センパイ! 一緒に弁当食べようぜ」 浩之の提案を二つ返事で了承すると、彼等は中庭のベンチに腰掛けた。 既に浩之はパンの袋を破ってパクつき始めている。 芹香も弁当の袋を広げた。 「……?」 パサリと何かが地面に落ちた。 どうやら弁当の袋の中に挟み込んでいたらしい。 ……どうも手紙らしい。 表には力強い字で「芹香お嬢様へ」と書かれている。 拾い上げてくるりと裏を見ると、そこには「セバスチャン」と名が記してあった。 弁当を食べるのも忘れて慌てて封を切る。 読み進む内に芹香の顔色が変わり始めた。 「……ん? どうしたの、センパイ?」 バッと芹香は立ち上がって駆け出した。 普段の動きからは考えられないほどの早さだった。 「センパイ!?」 浩之もパンを飲み込んで慌てて追い駆ける。 「ちょ、センパイ! どうしたんだよ!?」 芹香は走りながら浩之に手紙を渡した。 走りながら浩之もそれを読み始める。 『親愛なる芹香お嬢様へ。 突然の手紙、真に驚かれた事と存じます。ですが心を落ち着けてお読み下さいませ。 わたくしセバスチャンはお嬢様にお仕えして十八年、そして尊敬する大旦那様にお仕えして 五十年以上もの月日が経ちました。 人にどう思われているのか計り知れませぬがわたくし、ずっと幸せでございました。 大旦那様と一緒に危険をくぐり抜けた事も、 大旦那様待望のお孫様の執事として任命され、そしてそのお孫様が美しく成長なされる姿を見守る事も、 ずっとずっと幸せでございました。 わたくし思うに人の幸せはそれぞれでございます、その幸せを見付ける事こそが困難なのでは ないでしょうか? それからするとわたくしは幸運でした、これ以上ない幸せをずっと享受し続けていたのですから。 ですがわたくしには一つだけ後悔し続けていた事がございました。 ……妻の事です、わたくしは妻の死に目に立ち会えなかったばかりか、妻が死んだその翌日も いつものように執事の仕事を続けていました。 それが為、わたくしは息子との間に深い、癒せそうにもない溝まで作る事になってしまいました。 もしかいたしますとこれは天が与えた罰だったのかもしれません。 幸せを両方得ようとした愚かで欲深なわたくしへの罪だったのかも。 ですが、最近になってわたくし、長年のこの問いに対して一つの答えを出せそうなのです。 わたくしの元へ……妻がやって来たのです』 「小学生の姿で現れた時は気付かなかったよ」 セバスチャンはそう言って微笑んだ。 公園のベンチに座って寄りそう二人を他人が見たら仲睦まじい夫婦と思った事だろう。 「あなたを驚かそうと思って……ゴメンなさい」 「いいさ、気付かなかった私が悪いんだ」 「どうしてお気付きになられたの?」 「そのリボンさ……」 セバスチャンは彼女の白髪を結わえているリボンを指差した。 「そのリボン、私が初めてプレゼントしたものだったろう?」 「ああ、やっぱり覚えて下さっていたんですか」 嬉しそうに彼女はリボンを弄くった。 「お前はボロボロになってもずっとそのリボンで髪の毛を結んでいたもんなァ……」 セバスチャンは彼女の髪の毛のリボンを懐かしそうに、いとしむように触った。 「それにこの場所にも見覚えがありません?」 悪戯っぽく彼女は笑った。 「ここはあなたが私にプロポーズしてくれた場所ですよ」 セバスチャンは辺りの風景をきょろきょろと見て、 「ああ、そうか」 と頷いた。 なるほど、懐かしい気がした訳だ。 セバスチャンは改めて彼女に向き直り、 「……どうして……?」 彼は「どうして」とだけ言った。 きっとその後に続く疑問が多すぎて上手く頭が整理できなかったのだろう。 「怖がると思ったから……ゴメンなさい」 「自分の妻を怖がる人間がいるものか」 「それでもちょっと心配でしたし、それに……」 チラリと彼女はセバスチャンを見つめた。 「私があなたの前に現れるという事は、その……」 「分かっている」 穏やかに微笑を浮かべた。 「お迎えに来たのだろう?」 「私が来た方が安心すると思って……」 「そうだな」 セバスチャンは空を見上げた。 「五十年……お疲れ様でした」 彼女は座ったままぺこりとセバスチャンに向かって頭を下げた。 「そうだな、五十年か……長かったようにも思えるし、短かったようにも思えるなァ」 「いつも幸せそうでしたから、あなたは」 「ああ、幸せだった……もう私の心は幸せでぎゅうぎゅう詰めなくらいな」 「……そうですか、良かったですわね」 「心配しなくても私の代わりになる者もできた、私以外に芹香お嬢様を心から理解してくれる 人間も一人見付けた、彼ならきっと……芹香お嬢様を幸せにしてくれるはずだ」 だが続いて不安げな顔付きになった。 「ただ一つだけ未練がある、息子の事だ。……自分の思いを精一杯手紙にしたためたつもりだが 分かってくれるかどうか……」 だけど彼女は微笑んで、 「大丈夫、私達の息子ですよ。きっと分かってくれるはずです」 「そうか……それで……お前は……私の事をどう思っているんだ?」 「どう?」 質問の意図が分からないように困った笑みを浮かべる。 「私を……憎んではいないのか?」 「まさか」 彼女はセバスチャンの問いを一笑に付した。 「何故だ? 私は……お前が死んだ時も……執事の仕事をしていたんだぞ。 お前が死んだその時も、死んでからも、ずっと……」 泣き出したセバスチャンを彼女はそっと抱き締めた。 「私は知っていますよ、私が死んだ夜、あなたがベッドで泣いてくれていた事を。 葬式の時、血が出るまで自分の手を握り締めていた事を。 そしてずっと、ずっと私の事を忘れないでいてくれた事を」 「赦して……くれるのか?」 彼女の胸に抱き締められながらセバスチャンはそう呟いた。 涙が彼女の服に染みを作っていた。 「赦すも赦さないも……」 クスリと彼女は笑った。 「私は始めから怒ってなんかいませんよ」 その答えにセバスチャンは安堵の表情を浮かべた。 「そうか……よかった……本当に……よかった」 『おそらく、わたくしの死期が近い事を知らせに来てくれたものと思います。 わたくしはもう歳も七十を越えようとしています。充分生きました。 わたくしは時代に乗り遅れた人間でございますが、それでもわたくしの代わりが できるまでは、とそれなりに頑張らせていただきました。 そして最後の役割であった芹香お嬢様の傍にいるという役目も 藤田浩之殿が代わりを務めてくれるでしょう。 わたくしが成すべき事はは最早この現世には残されておりませぬ。 できれば妻と共に過ごせる場所へ行けるよう望んでこの世を去りたいと思います。 大旦那様、旦那様、奥様、綾香お嬢様、そして芹香お嬢様。 わたくし、幸せでございました。本当に幸せでございました。 わたくしは死ぬ直前まで来栖川家の執事であった、という事を誇りにしたいと思います。 本当に、本当に、本当に、ありがとうございました、ありがとうございました。 乱筆乱文をお許し下さい。 それでは。 追伸:もう一つ添えられた手紙は息子に渡すようお願い申しあげます セバスチャン (長瀬源四郎)』 「……!」 芹香は走りながら校門に寝そべっていた黒猫に声を掛けた。 その声に応じて黒猫は辺りの匂いを嗅ぐと走り出す。 浩之も手紙を握り締めながら後を必死で追い駆ける。 「センパイ! じーさんの場所は……?」 「……」 彼が案内してくれます。 そう言って芹香は黒猫を指差した。 黒猫の動きは素早かった。 だが、もっと驚いたのは芹香の足の速さだった。 いつもののんびりした彼女とは思えないほどのスピードに浩之は驚嘆する。 「ん? あそこの公園……?」 浩之と芹香は公園のベンチに座っている黒服の老人を見付けた。 駆け出す。 「セバスチャン!」 芹香が驚くほどハッキリと叫んだ。 だけど彼はその声に答えなかった。 「おい、じーさん! 目を覚ませよ! おい!」 浩之が両肩を掴んで揺さぶった。 だけど彼は目を覚まそうとはしなかった。 芹香の眼に涙が溢れ出す。 「セバスチャァァァァァン!!!!!!!!」 叫んで抱き締める。 初夏の光の中、老人は今にも起き出しそうなほど穏やかに目を閉じていた。 だけどその眠りからは二度と覚める事がないのだろう。 初七日が終わり、芹香の気分もようやく落ち着き始めた頃、 セバスチャンの手紙の最後の追伸を思い出した。 届けなければいけない、彼女は新しい運転手に方向を指示した。 一方の源五郎は両親の墓の前でぼんやりとしゃがみ込んでいた。 「……」 結局、彼は死ぬまで執事だった。 別段来栖川家が憎かった訳ではない、そして彼は父親が憎い訳でもなかった。 すれ違いが少々長過ぎただけで素直にお互いの気持ちを伝えあおうとしなかった。 溝は深くなるのも容易だが、埋める事もまた容易なのだ。 自分に腹が立った。 「……」 「あ、芹香お嬢様……これはどうも……」 芹香は二人の墓の前で手を合わせると無言で彼に手紙を渡す。 ここからは彼等の領域だ、そう思った彼女はすぐにその場を立ち去った。 源五郎は困惑しながら封を開いて読み始める。 読み進む内にぽたりぽたりと涙が手紙に滴り落ち、ところどころ字が滲み始めた。 「どうして……どうして……もっと早く……」 涙が止まらなくなった。 『親愛なる息子へ。 お前と理解し合えぬまま、この世を去る事を許しておくれ。 だが、理解こそしなかったものの、お前が私に伝えたかった言葉くらいは分かっているつもりだ。 お前が長年私に問い掛けていた疑問、私の答えは言葉が足りなくて不満だったろう。 確かに私の幸せは来栖川家にお仕えする事だった、だがお前が望んでいた通り、 お前と、妻と共に暮らした日々もまた私の幸せだったのだよ。 不甲斐ない父だったと思われても仕方がなかったのかもしれない、だが私は胸を張って言える。 私は妻を愛していたし、お前も愛していた。 それは来栖川家に対する忠誠とはまた違うものだ、違うもの同士を比べてもしょうがあるまい。 お前のこの手紙に対する返事が聞けない事は無念だが……だけどお前が伝えたい事は分かってると思う。 なあ、源五郎。お前も私を愛してくれていたのだろう?』 <了>http://www.teleway.ne.jp/~beaker/index.htm