「ひとりぼっちということ」 投稿者: beaker

「ただいま、かえりました」
長瀬源五郎は何十本目かの煙草を強引に灰皿に擦り付けると、
慌てて声の方角へ向かった。
一呼吸をしてからドアを開ける。
「遅くなってすいませんでした」
ぺこりと頭を下げる。
源五郎は首を振って彼女を出迎えた。
「おかえり、マルチ」


〜〜〜〜〜ひとりぼっちということ〜〜〜〜〜


長瀬源五郎はいつも通りに対応しようとした。
ともすれば全身の力が抜け落ちそうだった。
それを堪えるため、何とか源五郎は言葉を口から絞り出した。
「初の朝帰りかあ、マルチもとうとう不良になってしまったねえ」
そんな軽口を叩く。
マルチはいつものソケットスーツに着替えてデータをホストコンピュータに
移し替えていた。
いつも通りの作業をいつも通りにする退屈で贅沢な時間。
だがこれも今日で終わり。

今日は七日目。
マルチのテスト期間が終わり、全てのデータをホストコンピュータに移した後、
倉庫で永遠に眠りに就くことになる。
そう、永遠だ。
やがてその体も破壊される時が来るだろう。
私は果たしてそれに耐えることが出来るのだろうか……?
「…五郎さん、源五郎さん、源五郎さん?」
マルチの呼びかけに源五郎は自分が深く考え込んでいたことに気付いた。
「ああ、何だいマルチ?」
「あの、さっきから遅くなってすいませんと謝っていたんですが…怒ってるん
ですか?」
マルチは心配げに問い掛けた。
源五郎はマルチの声が聞こえないほど、自分が考え込んでいたことに気付くと
それをごまかす為にマルチの頭をくしゃくしゃと撫でてやった。
「あ……」
「怒ってないよ、怒ってない」
ニッコリ笑ってマルチを安心させた。
せめて最後の日くらいはこの娘に気を遣わせるような事が無いようにしたい。
痛烈にそう思った。


「さあて、今日の作業はもう少しで終わりだよ」
「いつもと比べて長くありませんか?」
ちょっと不思議そうな顔でマルチが源五郎に言った。
「さあ、そうかい?」
源五郎はとぼけた顔をした。
そうだ、
たとえ一分一秒でも長くマルチを生かしておいてやりたい。
目の前で微笑んでもらいたい。
我が侭と分かってはいるがそう思った。
それでもやるべき事はいずれ尽きる。
仕方が無いので源五郎は毎日毎日聞いていた学校での事をもう一度聞いた。
マルチは身振り手振りを使って様々な出来事を語り始めた。


「それで浩之さんが助けてくれて……」


「パンも代わりに買ってくれて……」


「お掃除してるとえらいって頭を撫でられたので……」


「はい、浩之さんもあかりさんも皆大好きです……」


最後のマルチの報告が終わった。
源五郎は苦渋に満ちた表情でお別れの言葉を何とか紡ごうとした。
が、それは突然のノックの音で途切れてしまう。
「室長!! ただいま戻りましたっ!」
「室長!! もう時間切れでっす!」
「マルチちゃんとそれ以上二人きりになるなんて我々は許しません!」
ドアの向こうからマルチの開発スタッフが全員ぞろぞろと入ってきた。
「さあ、マルチ。一人一人に挨拶しようか」
源五郎はそう言った。


「横田さん、いろいろとありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる。
驚いたことにマルチは途中退職した幾人かの人間まで正確に覚えていた。
彼らに起こった細かい出来事まで。
源五郎は今更ながらマルチを過小評価していたことに気付く。
一人一人にお別れの挨拶を述べた後、全員での集合写真を撮る事にした。
マルチがいつも寝ていた場所を中心に集まる。
みんな、笑顔だったがどこか寂しい笑顔だった。
これから先の事を全員が分かっていたからだ。
長瀬源五郎はずっと聞きたかった事を聞く事にした。

それは万能の力を持った神への嫉妬・挑戦だったのかもしれない。
マルチには出来るだけの擬似的な感情プログラムを組み込んだ。
愛情・喜び・悲しみ・驚き……そう言ったものは確かにマルチの中に存在している
と言える。
だが、それでは人間に近づいた事にはならない。
源五郎は拳を握り締めてマルチに向き直り、こう言った。
「マルチ…………」
振り返って何事かと首をかしげるマルチ。
「恐いかい?」
そう言った。
マルチは目を瞑って二、三度瞬きした後、しっかりとこう言った。
「はい」
その時、源五郎はマルチが、他のメイドロボ、セリオ、いやこの世に存在する
全てのコンピュータを越えたと確信した。
マルチは全てのロボットに理解不能な感情を会得したからだ。
恐怖という感情を。
もしそれがマルチにあるのならば、それはこれから先、孤独への恐怖だ。
それ以上恐怖について聞かれなかったマルチは黙っていつもの椅子に座り、
何がしかの配線を接続した。


その時マルチは漠然と何気ない一つの出来事を思い出していた。
浩之と一緒に帰ろうとしていた時の事だ。
雅史が「これからサッカー部なんだ」と言い残して去っていこうとする時、
浩之は「がんばれよ!」と言って親指をぐっと立てた。
その仕草が不思議に思えたマルチは帰り道にそれについて質問した。
浩之はこれは「激励のしるし」だと答えた。
「頑張れ」「大丈夫」という意味に使われるのだと。
マルチは気に入ってそれを浩之の前でだけ使っていた。
今こそそれを使う時だろう。
そう思ったマルチはぐっと拳を握り締めてこう言った。
「私の妹たちを……よろしくお願いします」
そう言って目を閉じ、親指を立てた。
手はそのままだった。
最後の激励のしるしだった。

源五郎はマルチの電源スイッチを切ると、無言で自分の部屋へ戻っていった。
集まった開発者も無言で片づけを始めたり、あるいは自宅へと戻っていく。


源五郎は自分の個室に立てかけている集合写真をふと手に取った。
こちらは開発が終了し、マルチが完成した直後の写真だ。
全員が全員晴れやかな笑顔でマルチを囲んでいる。
源五郎はぽたりぽたりと写真ケースに何かが零れ落ちていくのを見て、
ようやく自分が泣いている事を理解した。


写真の中のマルチはいつもと変わらない笑顔。


それが無性に悲しかった。




<おわり>