「マジック・グラフィー(上)」 by AE 2000.05.31 呪文は完成した。 三人で叫んだ最後の単語は、肌に貼り付いたヴェールのような感覚を道連れに、空間に溶けた。 入れ代わりに輝き始める、姉のヴェール。 その向こうに霞んで見えるのは、いつもと変わらない優しい微笑みだった。 いくつか、言葉を交わす。 内容など、覚えていられなかった。 今の自分にできる、精一杯の微笑みを返して。 光になって、黒真珠のような夜空に昇っていく姉を見送った。 光は見えないゲートに絞られていき、次第に星雲の腕のように自然に消えて行く。 全てが終わり、始まった。 無事を祝う言葉が周囲から送られる。 親友の言葉。 恩人の言葉。 そして・・・大切な人の言葉、抱擁。 変化はそのとき、起こった。 閉じたゲートの周辺で、輝く粒子の最後の余韻が消えたとき。 視界に異常が現れた。 グラリ、と揺れる。 ただでさえ暗かった公園の風景。 それがゆっくりと屏風のように畳まれ、もう一度開く。 風景は、変わっていた。 暗い。 とても暗い。 「リアンさん?」 「リアン?」 リアンの細い肢体が崩れ落ちる。 健太郎の腕がそれを受け止める。 「リアン?!」 薄目を開けて、リアンは恋人の顔を見つめようとする。 かすれた視界は、少し前とは違った情報を与えてきた。 彼女は気づく。 生れ故郷との絆が完全に断たれた、今この瞬間。 自分は盲目になったのだ、と。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 「・・・リアン?」 優しい声が聞こえた。 目を開けて初めに見えたのは、もちろん健太郎の顔だった。 ぼやけた視界。 それでも、いつも自分が目覚める部屋でない事はわかった。 きっと姉が寝泊まりしていた五月雨堂の一室だろう。 それだけ確認して、焦点が合う前にすぐに目を閉じる。 「健太郎さん・・・」 そのまま上半身を起こそうとして、止められた。 「無理するな。あんな事があったんだ。きっと疲れが出たんだよ」 握られた手。 そこから伝わる体温が、今はとても嬉しい。 さっきの出来事は嘘であってほしい。 姉と離れ離れになったことも含めて。 そう考えながら、勇気を出してリアンはまぶたを開いた。 ちゃんと見えた。 ・・・と、この世界の人間なら判断するのだろう。 何かが足りないことに、リアンはすぐに気づく。 彼女にとって、とても大切だったモノが見えなくなっている。 生まれた時から、物心ついた頃から、常に傍にあった大切なモノ。 ”魔力”が見えない。 それはかつて、世界にたゆたう細い流れのようにリアンの瞳に映っていた。 それが在る所は、光がほんの少し屈折し、言葉にできない色彩が実体を取り囲む。 その流れは、川の清流を大洋に導き、揺れ落ちる木の葉を大地へ誘う。 全ての物理現象の理(ことわり)が、色彩の流れとなって目に映る。 それが”魔力の流れ”だった。 グエンディーナの民はその色彩の変化を読み、操る事を覚え、魔法を学ぶ。 とは言っても、対象にはそれぞれの理があって、思う通りには動かせない。 それを仲介し、操るのがコツだった。 そして何より大切なのは、魔力の流れを”視る”能力である。 リアンの能力は姉ほどではなかったが、王族の中でも抜きん出ていた。 現にこの世界に着いてからも、この世界の弱々しい”魔力の流れ”を視ることができたのである。 晴れた日の日光を運ぶ、まぶしい流れ。 雨上がりの空気に満ちた、清々しい流れ。 どこからでもなく伸びていて、その源は決してわからない。 流れそのものだけを感じることができる。これはグエンディーナでも変わらなかった。 それらが全く見えなくなっている。 おかげで、それとは無関係のはずの可視光の色彩さえ、失せたように見える。 まばたきをしてから、もう一度見た。 健太郎が心配そうに見つめている。 と、そのとき階下から階段を登る音が近づいて来た。 「いきなり倒れるんだもの、心配したわ」 部屋に入ってきたのは結花だった。 厚ぼったい手袋をはめて、小さな鍋を抱えている。 ハーブの良い香りが漂って来た。 「お店に戻って作ってきたの。 リアン、疲れてたみたいだったから。 スフィーのこともあるけどさ、長瀬さんも言ってたじゃない? リアンはこれからのことを考えなくちゃ・・・」 結花は鍋を枕の脇に置き、蓋をとった。 はい、これ、と小さな取り皿に盛り、渡す。 リゾットのようだった。とても良い香りだ。 「あ、ありがとうございます・・・」 いつものように、結花の手料理の香りは食欲をそそった。 健太郎が手伝い、リアンは床の上に上半身だけ起こす。 無言だったが、背中に触れる手の平は大きく、とても優しく感じた。 ・・・たしかに空腹だった。 小さく会釈してから、結花から渡された小皿を受け取る。 美味しそうな香りの料理にスプーンを伸ばす。 そして、見た。 ・・・何と形容したら良いのだろうか? 食べることによって、栄養となるモノ。 湯気の水蒸気を運ぶモノ。 そういった流れが鮮やかな色彩となって、昨日までは見えていた。 それが今はどうだろう。 色調の失せた、新聞記事のようなモノトーンの料理・・・・リアンには、そう見えた。 一口だけ食べて、リアンはスプーンを置いた。 食欲が湧かない。 「すみません・・・まだ落ち着かなくて・・・」 好意を無駄にするまいと、それだけ言うのが精一杯だった。 「ううん、いいのよ。 台所に置いとくから、朝にでも食べるといいわ」 そう言って結花は健太郎に目配せした。 「・・・今夜はそっとしておいてあげなさいよ」 「な、なに言ってんだ!」 「あんた、歯止めが効かなそうだから。 気をつけてね、リアン! あんまり甘えさせちゃダメよ!」 そう言ってクスクス笑いながら、結花は部屋を出ていった。 元気な足音が降りていき、玄関のドアの開く音、閉まる音。 沈黙。 この家で二人きりになるのは初めてだな、と思っていた時。 リアンは健太郎に、背中からそっと抱きしめられた。 「ありがとう、リアン」 「・・・健太郎さん」 「リアンは故郷よりも俺を選んでくれたんだよな」 こくん、とうなずく。 「必ず、幸せにする」 もう一度、うなずく。 大きな胸に抱かれながら、奇妙な違和感を感じた。 このあいだとはちがう、壊れ物を扱うような、やさしさ。 健太郎は優しい、とリアンは思う。 きっと、自分の身体に何か異常があると気付いているのだろう。 その晩、リアンは健太郎の手を握ったままで、静かな眠りに落ちた。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 翌日。 横になっていろ、と言う健太郎に逆らって、リアンは店の手伝いをすることにした。 動かずにはいられなかった。 休んでいると、凍りついた風景に閉じ込められてしまいそうだった。 なにより、健太郎の傍に居たかった。 ・・・とは言っても、全く経験の無い骨董屋の手伝いである。 当面はレジ担当、ということになった。 客足の跡絶えた時を見計らって、健太郎による骨董のレクチャーを聞く。 とてもわかり易い説明だったので、リアンは感心した。 掃除の仕方、整理の仕方。 健太郎が文字どおり手取り足取り教えてくれる。 その手が肌に触れるたびに。 触れていたい、とリアンは思う。 この狂った視野を閉ざし、健太郎にしがみついていたい・・・。 だから、健太郎が正月の骨董市に出かけると聞いた時、一緒に行きたいと言った。 遠方の同業者から、どうしても受け取らねばならない品があるのだそうだ。 初めての取引になるので、断るわけにいかない、とも。 「休んでいた方がいい」 今度は健太郎は譲らなかった。 もっともな話だろう。 この真冬に汗を浮かべて何かに耐えている、そんな恋人を連れ回すわけにはいくまい。 できることなら、ずっと傍に居てやりたい、と健太郎は思っていた。 リアンはリアンで、そんな良人の葛藤に気づかないほど子供ではなく、ほどなく留守番を引き受けた。 二,三時間ほどで戻るから、と言う健太郎を見送ってから一時間が過ぎた。 売り物ではない年代物の柱時計が、十三時を告げる。 その振り子の音は、妙に心地好かった。 ”魔力の流れ”が欠けた今、視野以外の情報が自分を繋ぎ止めていてくれる。 妙に長い一時間だった・・・・それもそのはずだった。 思えば、姉の帰還から今までというもの、常に健太郎が傍に居てくれたのだ。 独りだ、と思った。 そして、来客も無かった。 どんよりと曇り始めた店の外。 平日のこんな日は、きっと客足も遠退いているに違いない。 そんなことを考えていると、昼食を取り忘れていたことに気づいた。 あいかわらず、食欲は無い。 それでも何か食べなければならない。 結花さんの所へ行こう、と外を見ると、小雨が降り始めていた。 身をかがめ、入口の脇にある傘立てに腕を伸ばした時。 視界が落下した。 カランカラン、とその音は周囲の空気に響き渡った。 思わず伸ばした指先をかすめて、輝きが床に着地する。 慌てて座り込み、追う。 震える指ですくい上げ、かける。 「あ・・・」 また、落ちた。 祖父の強力な付帯魔法すら、威力を失ったらしい。 ツルのない不思議な眼鏡は、その意味を失って、リアンの膝元に転がっていた。 もう一度すくい上げて、見つめる。 祖父から贈られたこの眼鏡には、祖父らしい強いイメージの色彩が灯っていたはずだった。 それが今は、全く無い。 いや、魔力はまだここに在るのだろう。 だが、リアンはその流れを視ることができない。 それゆえ、リアンにとってのそれは存在しないのだ。 リアンは悟った。 魔法力とは、”視る”能力そのものなのだろう。 だが、視るためには、それを反射させるための光源がなければならない。 グエンディーナにあって、今のこの世界には無いもの。 それは”魔力の流れ”を照らす、光源ではないか? 光源・・・太陽・・・・・・太陽?! 姉の魔力の本質は、いわば太陽だった。 自分の生命力を、相手に注いでしまうような術者だ。 いま考えれば、とリアンは思う。 自分がこの世界の”魔力の流れ”を視る事ができたのは、姉の輝きが照らしていたからではないのか? そして、祖父のかけた帰還魔法というヴェール。 きっとそれも異世界で彼女達を見守る役目を持っていたに違いない。 彼女達に関わるグエンディーナの魔力を、保持する役目を。 昨夜、帰還魔法は解除された。 祖父との絆が断たれた。 姉も帰ってしまった。 ・・・そして、もう二度と逢えない。 色彩が欠けた視界。 それが、急にぼやけた。 レンズの上に、滴が落ちる。 いくつも、いくつも。 ”わたし、独りぼっちなんだ・・・” もちろん、健太郎の存在は身も心も含めて、とても愛しく、強く感じる。 この孤独感は、そういった類のものではない。 異国に放り出された・・・いや、突然地面が無くなったような、そんな喪失感。 そして見えていたものが見えなくなる、そんなハンディキャップ。 こちこち、と振り子の音が響いている。 つい先程までは味方だった音が。 早まった心音の、その狂ったリズムを浮き彫りにする。 「っ!」 リアンは駆け出した。 壊れた眼鏡を置き去りにして。 そして店内の幾時代を経た品々は、ただただ黙っているだけだった。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 柱時計が、十五時を告げた時。 健太郎は床に落ちたリアンの眼鏡を見つけた。 「俺は・・・バカだ!」 彼女の全てを百パーセント知っているわけではない。 これからわかっていこう、と思っていた。 だが、彼女の苦しみはそれを待ってはくれなかった。 異世界のお姫さま。 帰れない、故郷。 きっと自分には理解できないような変化が、彼女を襲っていたに違いない。 自分では慰めることの出来ない、苦しみが。 そう思うと、居ても立ってもいられなかった。 「くそっ!」 床を殴る。 気が動転している。 しかし、むやみやたらに探し回っても無駄だとは判断できた。 手の平の上で、眼鏡のレンズが電灯の光を反射する。 手がかりはこの品だけだ。 とても大切な眼鏡だと言っていた。祖父からの贈り物だ、と。 その時のはにかんだ笑顔を、今でもはっきりと覚えている。 ふと、健太郎は思い立ち、あの時のように自分の鼻にかけてみた。 落ちた。 ・・・健太郎はリアンの苦しみがわかったような気がした。 そして、今の自分に何ができるのか、も。 店内を見回す。 探し物は細かい品を並べている、陳列棚の上にあった。 大きな円形レンズの、六十年代に流行った眼鏡。 恋人のツル無し眼鏡と見比べる。 うん、とうなずいて、二つの眼鏡を大事に懐にしまい込む。 それから傘を手に取り、後ろ手に入口の鍵をかけて、走り出した。 雨は先程よりも激しく降り始めていた。