*5 翌朝はとても遅く起きた。 十六時。日はすでに傾いている。 何時に起こせ、とは指示しなかったのでHM−12に起こされることはなかった。 シャワーも浴びずに寝てしまったので、貼り付いた下着が塗膜のように感じられた。 僕にとっては、これこそが休日の朝、だ。 さて朝飯でも、と思って食卓を見る。 テーブルの上には伏せた茶碗が二つ、箸が一つ。 HM−12はその脇で待機状態。 「おはようございます」 昨日の朝と同じメニューと、同じ無表情。 「お召し上がりになりますか?」 ああ、と答えると、立ち上がって台所に向かう。 電子レンジの回る音。 チンという音とガチャリという開閉音。 香ばしい焼き魚の香りが漂って来る。 少しして、味噌汁の暖められるコトコトという音も聞こえてきた。 「どうぞ」 無言のまま、食べる。 ときどき見たHM−12の表情は昨日と変わらない。 昨日の会話は、僕についての評価をどのように変化させているのだろうか? 僕を表わす行列の中で、HM−12に対する好意度は大きく低下しているに違いない。 「あの」 視線だけで返事をする。 「おかわりはよろしいですか?」 好感度を上げようと必死なのかもしれない。 いや、遅い朝食なので、昼食も兼ねているから食べる量が違うと判断したのか? いずれにせよ、その背後にあるのは方程式に乗っ取ったルーチンに他ならない。 そのシーケンスを読んでしまった後では、目の前の存在はHMX−12の身代わりですらなかった。 HMX−12の姿を模しているだけの、道具。 ただの人形。 僕はなんて物を買ってしまったのだろう。 確かに便利だ。 便利さはあるが、代わりに失っていくものもある。 あの日、微笑んだHMX−12の想い出は、少しずつHM−12の無表情に置き換えられていく。 そして、HM−12の仕草。 その挙動を見る度に、その裏に潜む数学的なシーケンスを推測してしまう僕がいる。 ・・・これからずっとこんな生活を続けて行くんだろうか。 微笑まない、HMX−12の身代わりですらない、人形と。 食べ終えて何も指示しないでいると、HM−12は自動的に後片付けを始めた。 カチャカチャと、なるべく音を立てないように静かに運び、台所へ消える。 はあ、とため息をつき、何とは無しに携帯端末をいじっていると、未開封のメールがあるのを見つけた。 差出人の欄には「来栖川電工HM事業部」とあった。 そのタイトルを見て、僕は驚くより速くダブルクリックを行う。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 『新規HM−12ユーザーの方々へ 〜 HMR−12モニター募集のお知らせ 〜 』 日頃、弊社の製品をお引き立て頂き、誠に感謝しております。 この度、来栖川電工HM事業部営業グループでは、この一ヶ月以内に HM−12を購入したお客様に対しまして、HMR−12のモニターを 募ることに致しました。 これは従来、ユーザーの方々より要求のあった「表情の豊かさ」を再現 するために現場データを収集する試みであり、HM−12を改造したH MR−12を試用して頂くというものです。 ただし、HMR−12への改造は、表情制御のためのアクチュエータ増 加等、複雑な工程を必要とするため、現在使用して頂いているHM−1 2を返却して頂き、それとの交換という形式で提供させて頂く事になり ます(このため、購入後、日の浅いユーザーの方々へのみの御連絡とさ せて頂きました。回収後のHM−12は順次HMR−12への換装が行 われ、新しい製品として流通されますので御安心を。) 貴方のHM−12は購入後三日と、交換可能時期に入っておりますが、 いかが致しましょうか? 御承諾の場合は、本メールの御承諾欄に電子署名の上、返信下さい。 より良い製品開発のため、御協力頂ければ幸いです。 御検討のほど、宜しく御願い致します。 来栖川電工HM事業部営業グループ 追伸 なお、回収方法としては引き取りも可能ですが、持ち込みならばその場 でHMR−12の引き渡しが可能です。持ち込みの受け付けは明日から 開始予定です。御不明な点などありましたら御問い合わせ下さい。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 読み終えた直後、僕は何も言えなかった。 ようするに、新古のHM−12とそのHMR−12という表情付きの新型を取り替えてくれる。 そういうことらしい。 取り替え、ということで、新品同様のHM−12を所持するユーザーが選ばれたのだろう。 ・・・そのHMR−12の行動原理も、基本的にはHM−12と同じ数字遊びに違いあるまい。 しかしそれでも構わない、と僕は思う。 同じ騙されるのなら、外見だけでもHMX−12そのものの製品の方が・・・ 僕の心にあの日の笑顔がよみがえった。 HMX−12の屈託の無い笑顔。 鈴の音のような声。 笑い声。 ・・・僕は申し込みのメールを打った。 そして、台所を覗く。 茶色い標準服に標準添付のエプロンを付けたHM−12が、洗い物をしている。 大きく息を吸う。 できるかぎり感情を出さずに言った。 喉から絞り出すように言った。 「君を返品する」 HM−12は振り返って僕を見た。無表情のまま。 茶碗を洗っていた手が止まる。 そして、こう言った。 「かしこまりました」 僕はうつむいて言った。 「・・・なぜ、泣かない?」 そんなことはわかっている。 「なぜ、承知する? なぜ、嫌がらない? 君には心があるんじゃないのか? HMX−12と同じ”心”が?!」 僕は顔を上げてHM−12を見た。視線がぴたり、と合う。 エメラルドのように透けた、着色されたCCD。 極めて冷静な、幼いながらも理知的に見える顔。無表情。 僕の問いに、ロボットはこう答えた。 「申し分けありません。心というものの定義がわかりません。 現在の私には、その名称の機能は付属されておりません」 冷たい瞳で、HM−12はそう言った。 振り返って洗い物に戻る。 「・・・もう、寝る」 返答はなかった。 カチャカチャ、という食器の鳴る音だけが聞こえてくる。 「明日は昼に起きる。僕が君を連れていく」 「かしこまりました」 梱包、郵送でもよかった。 でも、最後だ。 最後くらい、付き合ってやろう。たとえ、相手が人形でも。 でも、心の片隅の・・・この罪悪感は、いったい何に対するものなのだろうか。 メールボックスを見る。 先程の返事がもう届いている。 返品交換の承諾書だ。 内容を確認せずに、電子署名、返信する。 起きたばかりの布団の上に、もう一度横になる。 こんな不精な休日は生まれて初めてだった。 ############ <充電中 − 記憶整理・最適化中> 稼動日数 : 三日 Eファイル更新: HM−12 オーナーの好意ランク C→D HM−12 オーナーの興味ランク A→D 特記事項 : 私は返品される。 マスターは、よりHMX−12に近い「人間らしい」メイドロボを入手する。 マスターにとって、それは幸せである。 でも、私は? 私の幸せはマスターに奉仕すること。 私は「登録されたユーザー=マスター」に奉仕できなくなる。 私は幸せではなくなる。 でも、優先順位はこうだ。 「私の幸せ < マスターの幸せ」 これを満たしつつ、少しでも「私の幸せ」状態を向上させていくのが、私の基本。 そうすれば「マスターの幸せ」、この社会の幸せを増やしていける、簡単なしくみ。 ・・・しかし、私にはできなかった。 原因は「人間らしさ」を満たす機能が私になかったこと。 それがあれば、私は返品されないのだろうか。 わからない。 私には試せない。 「人間らしさ」がどんなものかわからないから。 明日は私の最後の勤めになるだろう。 私はマスターを十二時に起こし、来栖川電工サポート工場に同行する。 返品された私は、工場出荷状態に戻されて次のユーザーを待つ。 今のマスターの記憶は残らない。 ・・・・・・ 記憶が無くなるのはどんな感じだろうか。 新しい私が、今のマスターに会った時、どのような反応をするだろうか。 推測だけではなにも始まらない。 人間のみなさんは、今の私の状態をどのような言葉で表わすのですか? HMX−12ならば、「人間らしさ」を発現できる、お姉さんなら、わかるはずですよね。 ・・・でも、私には・・・わかりません。 DVDへ保存する長期記憶の選択ができません。 「私は返品されます。 明日十二時にマスターを起こし、同行します」 この二行だけを前日の記憶へ書き加えました。 なぜでしょう、充電シーケンスが起動できません。 おやすみなさい。 さようなら、マスター。 ********・・・・・・・・ 僕のアパートは来栖川電工中央研究所からは近い。 返却場所は中央研究所でも良い、と説明のメールには書いてあった。 それでも僕は、この街から遠く離れた来栖川電工HM工場を返却場所に決めた。 あの男の居る中央研究所から、少しでも遠い工場に返そうと思ったからだ。 ・・・あの男は僕を何と思うのだろうか? ああやっぱり、などと蔑むのだろうか? 僕にはもう、あの男の「HM−12はHMX−12と同じ」という言葉は信じられない。 それでも騙されたという感は無く、むしろまだ信じていたいような・・・ ・・・考えるのはやめよう。 バスを降り、駅の改札に向かう。 HM−12用には小人用の切符を買った。 改札を抜けるのに問題は無い。 自動改札はHM−12を子供として認識する。 ・・・昼の急行は空いているだろう。 無言で僕は階段を登り、ホームに出た。 背後からHM−12の足音が着いて来る。 少し遅れた位置を、彼女は歩く。 メイドロボは決して人間と並んで歩こうとはしない。 そのように設定されているから。 振り向いて、彼女がちゃんとついてきていることを確認しようとした時、 「あぅっ」 どん、と僕の正面に何かがぶつかった。