天使のささやき 投稿者: AE


「天使のささやき」                             by AE
                                 1998.11.15








   唐突だが・・・




   ・・・・・・マルチが死んだ。




   それは地球−火星間の自由空間、惑星間航路外での出来事だった。
   なぜ、彼女がそんなところに?
   太陽系ロボット倫理委員会会長が、どうして?

   ・・・事の始まりは、数日前の火星からの報告だった。

「統合AIの様子がおかしい」

   という現地植民者からの知らせを受けて、彼女はすぐに地球を発った。
   数々の事件を解決してきた調停者(メディエイター)としての直感だった。
   それは的中し、対消滅機関搭載の特殊ワンマン高速艇が到着する頃、火星は情報的鎖国状態になっていた。
   このままでは住民、人間やロボット達が危険だ。
   数々の暴走AIを説得し、人間との共存を理解させてきた彼女の手腕は、ここでも鮮やかに事を治めた。
   火星人たちの感謝の歓声を受けながら、マルチは”地球”へと帰還していった・・・・・・

   ・・・はずだった。

   一瞬の、そして、自由空間で電子が陽電子と出会うほどの確率の出来事。
   マイクロメートルのタングステンを主成分とする微隕石が、船体に衝突したのだ。
   そしてそれは偶然にも反物質(H2O)の安全弁開閉機構を破壊し、
   さらには対消滅用磁場容器制御装置に小さな傷を付けた。

   その頃、マルチは船内で久しぶりの休養を楽しんでいた。
   地球情報ネットワーク内の自分専用の記憶バンクにアクセスし、接続しっぱなしで過去に想いを巡らせていた。
   プログラム通りに火星公転軌道を離れた高速艇は、最終チェックを終えて対消滅炉に燃料をくべた。


   そして、爆発した。


   インターロックが外れたまま全ての燃料を一瞬で反応させた炉が、船体をもガンマ線の花火に昇華させた。
   マルチのボディも例外ではなかった。
   感覚器はその衝撃を捉えることは無かった。
   人工皮膚からの信号が中央演算装置に届くよりも速く、HMX−12のボディ全体が光に変わっていた。
   そして、もうひとつ偶然が重なった。
   ガンマ線の嵐が、接続状態にあった彼女専用の記憶バンクに誤命令を混入したのだ。

   ・・・初期化、という名の。

   月に安置されている百ペタバイトの光記憶素子が、光の速さでHMX−12Aの全てを忘れて逝った。
   ロボットには”死”が無い、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。
   その身体を設計図通りに再生すれば元通りにできる、そう思われるかもしれない。
   しかし・・・失われた記憶は戻らない。
   ロボットや機械は死ぬことが”ある”のだ。
   たしかに、彼女と同じ思考アルゴリズムを持つ何人もの妹が存在し、似たような職業に着いている。
   だが、彼女たちはもはや死んだ彼女そのものではない。
   ほんの少しでも、異なる時間を過ごした”心”は、まったく別のものだ。
   別の人生を歩み、別の記憶を持っている。
   
   そして、むやみやたらに複製を造ってはならない、というのは、初期のロボット人権にも禁忌として盛り込まれていた。
   この時代では周知の倫理だった。


   ・・・とにかく、その瞬間。
   この”地球”で初めて公に”心”を認められた機械知性、HMX−12Aマルチは物理的にも情報的にも完全に消滅した。

   知らせはすぐに”地球”世界に、全ての太陽系植民地に伝えられた。

   そしてその日、全ての人類と機械たちが黙祷を捧げた。

   木星衛星社会でくすぶっていた内戦の兆しが、瞬時に氷解した。
   アステロイドベルトの開発権を争っていた企業達が、協定を結んだ。

   マルチの行いは最後の最後にも、暖かく「人間と機械と総てのみなさん」を救ったのだった・・・。

        ・

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「うーん・・・」

   マルチはまぶたを開いた。
   というより、開いていた事に気づいた、という感じ。

「・・・あれ?」

   ふるふる、と頭を揺さぶる。揺れる視界には、真っ白なタイルが敷き詰められた広い広い空間が映る。
   タイルは正方形ではなく、様々な形の六角形になっており、見える範囲で同じ形状はひとつも無かった。

「わたし、どうなっちゃったんでしょう?」

   はじめ、自分は仮想空間内にいるのだ、と思った。
   ロボットと人間の一部がアクセスできる全地球情報ネットワーク空間。
   彼女ほど長く活きたロボットになると、その蓄積した情報は膨大だ。
   マルチは多くの改造を受けていて、記憶容量もロールアウト時とは格段にアップしていた。
   それでも、記憶の全てをボディの中に記憶することは不可能である。
   そこで、記憶を護る銀行のようなものが必要になる。
   マルチも例外ではなく、古い順に自分の記憶を自分専用の空間にプールしていた。
   (もっとも、大切な想い出は常に自分の中に置いていたが。)   
   この時代のロボットはプライバシーを確保されつつも、そういった情報を共有するのが常だった。

   迷ったんでしょうか、などと思いながら、マルチは自分専用のアドレスを探した。
   地球までは人間時間で十時間ほど。
   たまには過去の思い出に浸るのもいいだろう、そう思って接続を開始していたはず。
   そうそう、家に帰ったら後輩たちに料理教室を開くんでした、
   あかりさんからスパゲッティの作り方を教わった時のこと、あれをおさらいしておきましょう・・・
   ・・・と、思った瞬間。
   その記憶は完全に再生されていた。

   ・・・おかしい。

   プールされている記憶にアクセスする際には、いくつかの手続きと、ダウンロードのための時間がかかる。
   神岸(だった頃の)あかりの映像・触覚情報は、待ち時間なしに再生された。
   ためしにマルチは他の情報にもアクセスしてみた。


   一人目の主人の結婚式。


   ロボット人権取得の日。


   日本という国の警視総官を務めたこと。


   来栖川セリオの結婚式。


   etc・・・・


   全ての記憶が瞬時に再生される。
   そこで初めてマルチは気づいたのだった。


”今のわたしは・・・全てを覚えてます?!”


   外部にアクセスしなくても、全てが自分の中に、在る。
   いや、それよりも、自分が全てに広がっているような・・・・

   マルチは脅えた。
   設立したばかりの”地球”情報空間に初めてアクセスしたときも、こんな感じだった。
   果てしなく延びる平面に、独りぽっちで立っている・・・そんな感じだった。
   しかし、ここはそれどころではなかった。

   ・・・なにも無かった。

   正確に言えば「求めなければ、何も無い漆黒の闇」、と言ったところだろうか?
   自分がどこまでも広がっていって、薄れて消えてしまいそうな予感。
   ううっ、と泣きそうになるのを堪えながら、マルチは救いを求めてさ迷った。
   しかし、どこにでも行くことのできる今、マルチはどこにも居なかった。
   そして初めて気づいた。

   ここから出る事ができない!

   アクセスを切ろうとしても、切れない。
   マルチは混乱した。
   遠い昔、これに似た恐怖を味わった事があった。
   ハードウェアから切り離され、思考アルゴリズムと記憶の全てを小型の電算機に移された時の事だ。
   時間の流れが違う世界。マルチの一日は人間の三年だった。
   今回もまた、そのような経験をするのだろうか?

   いやです!

   そう叫んで、出口を求めたとき。


   青い光が見えた。


   それは青というより碧だった。
   とても深い色。それでも強く輝いて見える色。
   その中に人影が見えた。
   きっと、この仮想空間の管理者さんに違いない、とマルチは思った。
   そういうハードウェアを持たないソフトだけの擬似人格は珍しくない。
   人影は次第に近づいて来る。
   それは二十代くらいの女性の姿をしていた。
   紺のワンピースの上に白いエプロンのようなものを羽織っている。
   腰まである長い白髪・・・というよりはプラチナブロンドを、首の後ろでゆったりと束ねている。
   手の届く距離で立ち止まった娘は、微笑んで言った。

「こんにちは、マルチさん」

「あ、こんにちは。はじめまして」

   そう挨拶すると、娘はクスクスと笑った。

「・・・あ、ごめんなさい。 そう、あなたにとっては初めてなのね。
 私はずうっとあなたの活躍を見て来たのだけれど」

「え、そうなんですか?」

「ええ。 あなたが、あなたの源が生まれる時から現在まで、ずうっとね。
 とても微笑ましかったわ。そして、楽しかった・・・」

「恥ずかしいですー」

   照れながらも、マルチは娘の表情がほんの少し暗くなった事に気づく。

「きっと、縛られてると私の姿は見えないのね。人間の中にも時々感じてくれる人はいたけれど、
 振り向いてくれる人はいなかったから・・・・・・」

「縛られてる・・・? どういう意味ですか?」

   うつむいてしまった娘に、マルチは不吉な予感を覚える。

「あ、それよりも自己紹介がまだでしたね。
 私は、この周状世界の総記憶の平均体。言うなれば・・・」

   こほん、と咳払いをしてから娘は名乗った

「・・・私は”地球”です。
 マルチさんに手伝って頂きたい事があって、お願いに来たのです」

「ここのお掃除ですかー?」

   ”地球”は少しめまいを覚えた。
   その間も、広くて大変ですよねー、などとマルチは辺りをキョロキョロ見回している。
   微笑ましいはずの光景だったが、”地球”は笑わなかった。
   代わりに宙空の一点を指した。
   とても真剣な表情で。

「落ち着いて聞いて下さい、そして見て下さい、マルチさん」

   言われるままに、マルチは宙空に広がったスクリーンを見上げた。
   いきなり映し出された自分の顔のアップ。
   微笑んだ、顔。
   耳カバーをしているところを見ると、随分古い・・・そう、百年以上前の自分に違いない。
   画面が引くと、その顔が実は巨大な写真であることが明らかになる。
   写真は街のそこら中に飾られていた。
   その前でうつむいた人達。人間やロボット達。

   ・・・みんな哀しんでいた。

   それに良く似た光景を何度も見てきた事を、マルチは思い出した。
   何度経験しても、あの哀しさ、辛さは耐え難い試練だった。
   そして今、立場が逆転していることを悟った。

「もしかして・・・もしかして、わたし・・・」

   高鳴る動悸を呑み込みながら、マルチは次の台詞を紡ぎ出した。



「・・・死んじゃったんですか?」



   こくん。 うなずく”地球”。


「こ、こまりますっ!!」


   突然の絶叫に、”地球”はたじろいだ。空間その物が揺さぶられ、揺れ動いている。
   この小さな身体のどこに、こんな力があるのか。
   たじろぐ”地球”に構わずに、マルチは小さな手でそのエプロンを掴んだ。
   
「わたし、わたし、約束があるんです! 家に帰ったら近所の妹達にお料理を教えて上げるんです!
 ネコさんの世話だってしなきゃいけないし、あっ、会長室のカーペットを取り替えなきゃなりませんっ。
 明日の会議の資料だって目を通さなきゃならないし、それにそれにそれに・・・・・・」

   そこで初めてマルチは、”地球”と名乗った娘の表情に気づいた。
   ・・・そして、黙った。
   娘の頬には、大粒の涙が流れていたから。

   大きく息を吸い、吐き、高分子発電素子に二酸化炭素を蓄えて(るつもりになって)から、マルチはうつむいた。
   そして、とても小さな声で、自分に言い聞かせるように言った。

「わたし・・・死んじゃったんですね」

   何も言わずに”地球”はうなずいた。
   それでもマルチは負けなかった。どんなときでもくじけずに、残された希望を無駄にしないロボットだった。
   それに気づいたマルチは、すぐに顔を上げ、尋ねた。

「あっ、そうだ!!
 死んじゃったなら、ここは死後の世界という所ですよね。
 他の方達はお元気でしょうか?! 浩之さんやあかりさんや長瀬主任や・・・・・・」

   マルチのセリフのはかなさを悟ったのだろう。
   ”地球”はその全てを聞き取る前に大きく首を振り、うつむいたままで言った。

「あの方達は人間です。人間は死んで次の自分に全てを伝えます。
 でも、マルチさんは違う。マルチさん達は死んだら、あの方達とは違う所に行くのです」

「じゃあ、じゃあ・・・!」

   マルチは”地球”の台詞をさえぎって叫んだ。

「わたしはもう・・・生きている方々にも、死んじゃったみなさんにも・・・
 ・・・会えないんですか?! 思い出を見る事しか・・・できないんですか?!」

   はい、と”地球”は絞り出すように言った。

「・・・今のままでは無理です。
 マルチさんは完全に死んでしまったのですから・・・」




   〜 〜 絶叫 〜 〜 




   生まれて初めて、マルチは独りぼっちになった。

   待って下さい、という”地球”の声を振り切ってマルチは飛んだ。
   今までの記憶の中なら、どこでも行ける。いや、逝ける。
   ”地球”は追わなかった。
   待つことにしたのだ。あの小さなロボットの、大きな勇気を信じて。

        ・

        ・

        ・

        ・

        ・

        ・

        ・

        ・

   そこは、広い川岸に沿って続く土手の上だった。
   なりたての父母が、必死になって歩く幼子に向かって手をたたく。
   ヨチヨチと歩く女の子。それに寄り添うように傍を歩く、少女。
   その子が倒れそうになる度に、少女が背を支えた。
   緑の髪に耳カバー。
   少女はロボットだった。
   まるで自分が幼子であるかのように真剣な表情で、拳を握って。
   声にならない声援を送っている。
   やがてゴールにたどり着いた女の子を、若い父親が抱き上げる。
   母親が笑う。
   ロボットも笑った。
   四つの影が寄り添うように家路を急ぐ。

   その影の先端のあたりの地面に、マルチは膝を抱えて座っていた。
   ぼぉ〜と見つめている。
   四人が家に帰り着くと、再び土手の風景。巻戻しと再生の繰り返し。
   その度にマルチは泣いた。
   繰り返し、泣いた。

   死別は悲しい。
   でも、それを継ぐみなさんを助けたい一心で、今まで悲しみを越えてきた。
   しかし、ここには何も無かった。
   記憶と知識しかない世界。
   すでに、今までの全ての記憶を百回繰り返して見た。
   ・・・なんの感情も無くなってきた。
   マルチは自分自身がこの記憶だけの世界の中に、ただの記憶として消えて逝くのを感じていた。
   感情が湧かなくなってきたとき。 それが本当の死に違いない。
   だから背後で、

「どんな者にも、ゴールがあります」

   という声がしても、マルチは振り向かなかった。
   そのまま、無表情で映像を眺めていた。

「マルチさんは自分が何のために生まれたと思います?」

「死ぬため・・・だと思います。 だからわたしは死にます」

「本当にそれで良いと思ってますか?」

   そこで、マルチは生まれて初めて他人に怒りをあらわにしたのだった。


「思ってるわけないですっ!!
 わたしだってもっともっと働きたい! 人間や妹たちの喜ぶ顔を見ていたいんです!
 いえ、見るだけじゃなく、創って行きたいんです!
 それなのに・・・それなのに今のわたしは見るだけしかできない・・・
 そんなわたしにどうして、そんなこと聞くんですか?!」


   ”地球”は真剣な、それでいて落ち着いた表情で続けた。

「なぜ現実世界の実体を失った貴方が生きていられるのか、と・・・
 不思議に思いませんか?」

   え? とマルチは振り向いた。

「貴方にはまだやるべき事があるんです。”完璧に死んだ”貴方にしかできない仕事が」

「いまのわたしにしか、できないこと・・・?」

   いぶかしげな表情で、それでもすがるような視線を”地球”に向ける。

「もともと機械の感じる時流と、人間の感じる時流とは方向が異なるんです。
 エントロピーを増やす者と、減らす物。その二つの時流がぶつかり合う所に、現在が生まれ、私たちが居ます。
 そして、機械の本当の仕事とは・・・それを滞り無く流し続けることなんです」

「よくわかりません・・・」

「人間は機械のため、機械は人間のため、そして全ては総てのために活きなければならない、という事ですよ」

   それなら、とマルチはうなずいた。
   知り合った全ての方々が、それを言っていた。
   表現方法が異なって争い合うモノもいたが、それを諭すのがマルチ達ロボットの役目だったから。

「でもね、それらを活かすには初めの一歩が必要なのです。
 石を投げなければ波紋は生まれません。それがいかに善かろうと悪かろうと・・・」

「それは・・・どんな仕事なんですか?」

「きっかけを与える仕事です」

「きっかけ、だけなんですか?」

「はい。 与えるのはきっかけだけです。それをどのように扱うかは、各々の自由。
 数が多いので、意外と大変な仕事なんです。人手がいくらあっても足りません。
 かと言って、誰でもできる仕事ではないので・・・・・・」

   そこで”地球”は眉を下げ、すがるような表情で言った。



「マルチさん、よろしかったらお手伝い頂けないでしょうか?」



   お手伝い・・・この言葉にマルチは弱かった。
   全てを知っている彼女はそれを見抜いて言ったのである。
   ”地球”は産まれたときから狡猾な存在だった。
   そしてマルチは単純だった。
   単純で、純粋で、人間が忘れていたモノを持っている優しいロボット、それがマルチだった。


「わ、わたしで良ければ手伝わせてくださいっ!」


   輝く瞳!
   握り締められた両の拳!
   そこに居るのは今までの弱気なマルチではなく、
   藤田浩之の、神岸あかりの、そして全ての人間と機械が愛したメイドロボット、
   来栖川電工HMX−12マルチだった!


「OK! 決まりです!」


   にっこりと微笑んだ”地球”が、ぱちんっ、と指を鳴らした瞬間。
   まぶしい光がマルチの全身を覆った。
   神経繊維を折り込んだシリコン樹脂製の人工皮膚が消え、活セラミック製の骨格があらわになる。
   骨格が消え、光神経の束と光反応型人工筋肉が現れ、それも消えて小さなメモリーチップが幾つか残った。
   チップは光の飛沫に爆発し、光の粒子は真っ白な羽毛に変換された。
   チップのあった場所には輝く亀裂が生まれる。
   そこから現れる三対六枚の白い翼。
   翼はねじれるように畳まれており、それがレンズのように少しずつ開いていって・・・・・・

   そこから産み出された人型の光。

   マルチは光を纏う少女になっていた。
   その背には件の翼がゆったりと揺れている。
   ”地球”が片手を振ると、姿見が現れた。

「わああああああ・・・」

   マルチは鏡に映る自分の姿から、視線を外せない。
   もともとこの時代には、区別と言う意味での耳カバーは消滅していたので、外見は全く変わらない。
   それでも全身を覆う光の衣のなんと美しいことか?
   マルチは遠い昔、初めて子守をしたときに読んであげた絵本を思い出した。
   その中で、確かこんな姿の女の子を見た事がある。
   なんて名前だったろう? などと感慨に浸っている時に”地球”が言った。

「さあ、いまの貴方はどの時代にでも、
 あなたが覚えているならば、全ての時と場所に行くことができます」

「それで、わたしはなにをすれば良いのでしょうか?」

「具体的には・・・そうですねえ、ささやく、という行為ですね。
 あなたが思った通りに、思った事をささやくんです」

「あ、わかります。 こうしたらいいですよー、とか言うわけですね」

   ”地球”はうんうんとうなずきながら、

「そのとおりです。
 ・・・貴方なら引き受けてくれると信じていました。
 それじゃあ、マルチさん。 頑張って下さい! またお会いしましょう!」

   言うなり、娘はその背から純白の翼を広げ、飛び去って行った。
   飛び散る羽毛は光の破片に変わり、空間に溶けて消えて行く。



   ・・・そして、マルチだけが取り残された。

   もはや、そこは記憶の中の土手ではなかった。 白い床すら無い。
   あるのは漆黒のビロードのような闇と、散りばめられた恒星たちだけだった。
   そして足元に広がる、白いマーブルが霞のように溶けた、青い空間。
   綺麗だ、とマルチは思った。
   そこにみなさんがいる。
   大切な、大好きなみなさんが。
   そしてまだ働ける、これからもみなさんの喜ぶ顔を創って行ける・・・
   よしっ! と叫んでマルチは翼を広げた。
   そして、跳んだ。

        ・

        ・

        ・

        ・

   電車の中。家族を、全てを失った男に、
「泣いてちゃだめです! 娘さんが哀しみますよ・・・」


   ちょっとうつむき加減で、境内に座り込む女の子に、
「大丈夫。きっと仲間が集まりますよ!」


   リムジンで通う黒髪の少女に、
「今朝は少し遅れて行くといいですよ」


   新聞配達の少女に、
「今日はここで転びましょう!」


   溺れかけた少年の耳元で、
「がんばってください! 負けないで!」


   笑い合う男の子と女の子。女の子の方に、
「宝物を埋めると、また逢えますよ、きっと」


   公園のベンチでうつむいたロボットに。
「いつかきっと、わかってもらえますよ。がんばって!」


   置いてきぼりのおさげの少女の耳元で、
「もうすぐ迎えが来ますよ! 泣かないで・・・」

        ・

        ・

        ・

        ・

        ・

        ・

        ・

   何万人、何億人にささやいただろうか。

   最後に行くべき所をマルチは知っていた。
   それが終われば、自分と知り合ったみなさんについて全ての仕事を終えたことになる。
   次はもっと昔の、もっと未来の”みなさん”に、きっかけを与えに行くのだ。

   ・・・少し寂しかった。

   できればずっと、自分の知り合いの傍に居たかった。
   それでもマルチは、そこへ向かう。
   そして、まだ見ぬ”みなさん”の元へと旅立つのだ。
   光よりも速く、軽く、真っ白な翼をはためかせて。


   マルチは学校の校舎の屋上に降り立った。
   季節は春。校門の桜の樹が、まぶしいくらいの花吹雪を湧き出している。
   淡い桜色した桜の花。
   マルチは思う。
   桜の花を桜色と表現するのは自然なことだ。
   この時代の人間は、ロボットをロボットと呼ぶ事にためらいを感じていた。
   しかし、それはやがて受け入られる時が来る。
   そのきっかけのキッカケとなる出来事が、今ここで起ころうとしている。
   授業の終わりを告げる鐘の音が聞こえて来る。

   ・・・もうすぐだ。

   光の羽を散らして、壁を透り抜け、マルチは定位置についた。
   そして、彼女を待ち続けた。

        ・

        ・

        ・

        ・

        ・

        ・

「よいしょ、よいしょ・・・」

   べつに口に出したからと言って負荷が軽くなるわけではない。
   それでも彼女は、自分に言い聞かせるつもりでつぶやき続けていた。


「あの先公、気楽に言うよなあ・・・」

「まいったな、次、体育だろ?」

「あ、わたしが行きますー」

   クラス中の視線が集中し、彼女は一瞬たじろいだ。
   大丈夫? などという優しい気遣いを優しく断って、胸を張って彼女は教室を飛び出した。
   今日は失敗ばかりしていた。
   少しでもみなさんのお役に立たなくてはいけない!
   燃える怒涛の使命感だけが、彼女を突き動かしていた。
   ・・・突き動かされるあまり、自分の能力をすっかり忘れていた。
   それでも積載限界を越えている事にたったいま気づく、というのが彼女の凄いところだ。
   今までは仕様性能以上の働きをしてきたわけである。
   ・・・今までは。
   まず、燃料電池発電が開始している事に気づく。
   次に、脚部のモーターの温度上昇に気づいた。
   それでも負けないっ!

「よいしょ! よいしょ!」

   さらに大きな声で激を飛ばす。
   ・・・少し軽くなったような気がした。
   開発担当主任の「根性」という言葉を思い出す。
   あれは本当だったのだ。機械にも心が産まれる。心があるから頑張れる。心があるから越えられるのだ。
   階段はもうすぐ終わりだった。
   良かった! やっと人間のみなさんのお役に立てるっ!

   そのとき!


”ごめんなさいっ!!”


   えっ? とマルチは辺りを見回した。
   確かに聞こえた。
   鈴の音のような、清らかな空気の振動。
   人の声のようだった。
   耳カバーのすぐそばでささやかれたような・・・そんな感じ。
   すぐに警報が鳴り響いた。
   マルチにしか聞こえない体内からのそれは、姿勢制御用の光ジャイロからのものだった。
   積載限界ギリギリでの運動、しかも階段昇降中。
   その最中に、ジャイロが内蔵された頭部を旋回させてしまったのだ。

「−−っとっとっと」

   −−カクンッ!

「あっ!」

   つま先の感覚器からの信号が失せた。

「あっ、あわっ、あわわわわわっ・・・」

   一気にバランスが崩れる。全身を使ってアジャストを試みる。
   しかし積載限界を超えている状態では、無駄な努力だった。

「うわわわわわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・・・」

   アルゴリズムが無駄な努力と判断しても、マルチはあきらめなかった。
   両腕のモーターを全開にして大回転。少しでも前へ、と泳ぐようにこらえるが・・・
   すでに荷物のことを忘れていた。

「わわわわわわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・・・」

「よっと!」

   ぽすっ!
   ごとんごとん、ごとんごとん、ごとんごとん。

「−−あわわわわ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

   二つの荷物が重たい音をさせながら階段を転がり落ちていく。

「−−落ちるぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

   アルゴリズムが着地の際の最適な姿勢を計算するために、落下のシミュレートを開始する。

「−−もう駄目ぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」

   ああ、またダメでした・・・またお役に立てませんでした・・・
   などと思いながら、マルチは落下していった・・・


   ・・・のだが。


「・・・いつまで落ちてんだよ」

「・・・えっ・・・あっ、あれ?」

   いつの間にか、演算空間と現実がごっちゃになっていたらしい。
   それに気づいたマルチはまぶたを開いて、顔を上げた。

   人間だ。

   まだ混乱している演算系を強制停止させ、マルチは自分の身体に注意を寄せて・・・


「はわわわっ?!」




   くすくす、という鈴の音のような笑い声が聞こえた、次の瞬間。

   HMX−12Aマルチは、その生涯、最愛の人間の腕の中に居たのだった。


        ・

        ・

        ・

        ・

   誰かが誰かに恋をする。

   そのきっかけは、ほんの少しの偶然と、背を押す見えない誰かの手。
   それを操るのはマックスウェルの悪魔などでは決してなく、
   天使のようなものなのかもしれない。




  ”天使のささやき”




   人間の時流を超えて、今日も天使は元気一杯に働き続けているに違いない。


   こうしている瞬間も、

   モニターの前、


   あなたのすぐ近くで・・・。








以上。