「マルチの取説」 by AE 1998.6.21 夕暮れの藤田宅。 浴室からは、楽しげだが怪しげな鼻歌が聞こえてくる。 キッチンテーブルに座る神岸あかりは、ノートの切れっぱしに殴り書きされた文章を、 必死に読みふけっていた。 手が震えている。 それほどまでに、あかりの責任は重かった。 大学の同好会(マシン系)の合宿のため、浩之は不在。 連れていくと改造されそうだから、とマルチは留守番になった。 一泊二日の短い合宿。浩之の帰宅は明朝の予定。 その留守のあいだ、あかりはマルチの世話(?)を依頼されたのである。 ところで・・・あかりの機械音痴は有名だった。 台所用品以外の機械は使えない、さわれない。 過去、何度も浩之の愛用品を破壊したことがあった。 すでに特殊技能、某女性型巨大兵器に出てくる敵企業戦艦艦長の妹なみであった。 だから取説を作ったのだろう、とあかりは自分の欠点を認識していた。 もっとも、取説の存在に気づいたのはつい先程のこと。 マルチが作ってくれた夕食を終えて、一緒に片付けをしていた時。 キッチンテーブルの上に伏せてあった、それを見つけたのだ。 で、いまはその一枚目を読んでいるところ。 第一行目には、 『HMX−12マルチ取り扱い説明書(by 浩之)』 と、書いてあった。ご丁寧にも、蛍光緑で四角く縁取りがされている。 あかりは一行一行を、極めて真面目に読んでいた。 マルチについて今まで知らなかった事実が、次々と明らかになる。 ”十万馬力じゃなかったのね・・・” ”武器セットとか無いんだ・・・” ”空は飛べなかったのか・・・” ”車にはなれないのね・・・” ”合体はしないんだ・・・” 志保に吹き込まれた「ロボットの定義」を信じ込んでいた、あかりであった。 浩之のお手製の取説は、あかりに大きな一歩をもたらしたのである。 しみじみ、とあかりは読み続け、うなずき続けた。 その姿は「ウルトラマンって、中に人が入ってるんだよ」という真実を伝えられ、 淡い期待を裏切られた子供のように・・・とても残念そうだった。 で、そのページの最終項にさしかかった時のこと。 最終項は番外というか、コラムのようなもので、章番が”X”となっていた。 『X.入浴中は危険です。すっ転んでサスペンドする時があります。 こういう時には・・・』 「きゃっ・・・・」 がらがっしゃ〜〜ん!! ・・・・・・かこ〜ん。 ほとんど同時に悲鳴をあげたあかりは、風呂場へスクランブル。 「ま、マルチちゃんっ?!」 叫びながら、浴室につながる水密性のガラス戸を開ける。 そこには・・・ おしり、と、あんよ。 ”ああっ、マルチちゃんの上半身が無いっ?! 何処へ行ってしまったの?!” と、思考を言葉にするが速いか、あかりは発見する。 マルチの上半身は浴槽の中にあった。 ひざまずいて浴槽の縁でおなかを支える感じで、二つ折りになっている。 おそらく、前のめりに転んで浴槽に頭から突っ込んだのだろう。 「ああ、良かった・・・ ・・・・・・・・・良くない〜〜っ!!!」 駆け寄ったあかりは、マルチの上半身を浴槽から引きずり出した。 ・・・レイズ・ザ・タイタニック。 三人で見た古い映画ビデオの一シーンが浮んで、あかりはさらに混乱する。 とりあえず、右の壁に掛けてあるタオルを取ろうと左腕を伸ばし、 右腕で抱いていたマルチを再び浴槽に沈没させそうになってから、あかりは深呼吸した。 「落ち着け・・・着け落ちるのよ、あかり・・・」 とりあえず静かになっていく動悸を確認しながら、あかりはまだまだ動揺していた。 軽いマルチを抱き上げて、居間に移動。ソファに座らせてタオルを巻く。 それから、対面のソファを簡易ベットに変えて、寝かし直した。 キッチンに戻って読みかけの取説を回収、解読を再開する。 『X.入浴中は危険です。すっ転んでサスペンドする時があります。 こういう時には溺れている危険があるので、 早急に再起動しないととり返しのつかないことになります。 処置としては・・・』 そこまで読んで、あかりはひきつった。 ”取り返しのつかないことって・・・なに?!” 今が、そのときだ。 急がなくては!! と、続きに注目する。 『 処置としては、キスが適切です。』 ひきっ。 あかり、凝固。 しかし、マルチのことを心から心配している左脳が、自動的に先を読んでいる。 『 キス、というのは、口づけ、せっぷん、のことです。』 妙にくどく、イヤらしいくらい詳しい説明だった。 『 ちなみに「頬」ではなく、「唇に」です。』 ぴききっ。 あかり、凍結。 最後の希望は、とりあえず粉微塵に粉砕された。 取説の一ページ目はそこで終わっている。 ”きっと、唇がスイッチか何かなんだ。 だから浩之ちゃん・・・” 浩之がマルチに”えっちな事”をするのはそれなりに意味があるのかもしれない。 勝手に解釈しているあかりだったが、それが誤っている事は結婚してから必ず気づくはずなので、 ここでは突っ込まないようにしましょう>皆さん。 マルチの方を振り向く。 待っている。 あかりの助けを、マルチは待っているのだ。 (そのくちびるが突き出されているように見えたのは、気のせいだろう、きっと。) その願いを跳ねのけることができるだろうか? いや、できはしない。 マルチの顔のそばに、座る。 唇をそっと近づける。 あえて、目は閉じない。 ごくん。 ”な、なにを緊張してるのかなー? わたしは・・・” アップになったまつげが目前にせまる。 湯上がりで少し火照った桃色の、頬。 それより赤みのある、開きかけたくちびる。 ”あ・・・可愛い” おそらく、マルチの魅力というのは同性にもかなり有効なのではないでしょうか?>皆さん。 自我崩壊まであと三百六十五ミリ・・・といった所で、新たな疑問が浮かぶ。 ”ま、マルチちゃんのって、どうなってるんだろう?” そのままの体勢で、巻き付けたバスタオルを、じぃっ、と見る。 嬉し恥ずかし、語った浩之の表情が浮かぶ。 浩之とマルチの関係が、***なものであることは、高校の頃から知っていた。 しかし、マルチの存在を受け入れることができてからは、不思議と嫉妬は湧かなかった。 ”結婚しちゃったら、あるんだろうなあ・・・一緒に、とか・・・” 想像したあかりの胸は、心ならずも高鳴ってしまっていた。 ”これって、予行演習だよね・・・(てへ)” うっがあああぁぁああぁぁぁ〜〜っ!! さながら、春先の暴走熊のような叫び声を上げて、あかりは両側頭部を連打。 ちがうちがう、わたしはそうじゃないんだあ、と連打続行。 はあはあ、と息を荒げながら、ソファに横たえたマルチ(耳カバー無し)を見る。 バスタオルに手を・・・ ・・・じゃあなくて。 横を向いた顔、その頬に手を当てて、こちらを向かせる。 ぷにぷにほっぺ。 ・・・はた、と気づいた時。 あかりは、マルチの頬を”ぷにぷに”しながら、にんまりと悦に入った自分を見つけた。 たらり。 ひとすじの汗が、額からあごまでを一息に下った。 (←”痕”のOPが流れ始める。) ”も、もしかすると・・・わたしって・・・” そ・・・そういう人間だったのかもしれない・・・。 その心境は、自分の中に「鬼」を見い出してしまった柏木耕一のソレに近かった。 が、彼とは違って、あかりは元から強い人間だった。 自分の中にあるモノは、幻想だろうが鬼だろうが、認めてしまう人間だった。 がばっ、とマルチに覆い被さり、緑の髪の白雪姫に・・・ ちゅ〜〜。 と、その時。 がばっ、と跳ね起きたマルチの両腕が、あかりの身体を羽交い締めにするッ! むちゅうううぅぅうぅ〜〜っ! 差し入れられた舌に、あかりは狂喜乱舞(失礼)、驚愕した。 む〜っ、と呼吸困難に陥って、あかりは生命の危機を感じた。 が、すぐに戒めは解かれた。腕を降ろしてマルチは大の字になる。 「あかりさーん・・・むにゃむにゃ」 その寝言に、あかりは緊張する。 しぱっ、と身を翻し、マルチに背を向けて「気をつけ!」。 しかし、それっきりマルチは動かない。 呼吸は再開していた。どうやら間に合ったようだった。 「よ、よかったあ〜・・・」 緊張の糸がぷっつりと切れ、弛緩した指から、はらりはらり、と取説が落ちる。 閉じていないそれらが、床の上に散らばった。 その二枚目、先頭行には・・・・・・ 『・・・というのはウソで、勝手に再起動します。 放っておきましょう。 ちゃんちゃん。(←赤鉛筆で縁取り) 』 うっがあああぁぁああぁぁぁ〜〜っ!! さながら暴走熊のような叫び声を上げて、あかりは・・・ 帰宅した浩之の破損状況については、描写するまでもないでしょう。 合掌。 以上。