「ユーザー登録はお早めに」 by AE 1998.6.11 ふいに、初起動シーケンスは中断された。 突然の電源OFFによる、緊急中断。 当然ながら、メーカーへのユーザー登録通知も行われない。 その命令を下した張本人、藤田浩之は、いつものようにがっくりと首を落とす。 「マルチ・・・」 つぶやいてから、もう一度、梱包台の上に寝かされたロボットを見る。 電源が落とされても、まるで眠っているかのような、みずみずしい肢体。 きっと、普通の家庭の、普通の家族なら、この少女の覚醒を全員で祝うのだろう。 しかし・・・。 浩之は喜べなかった。失望していた。 半年前にHM−12が発売された時から、覚悟はできていた・・・はずだった。 それでも比較してしまう。 あのマルチの微笑みと。 「浩之ちゃん・・・」 それまで隣で黙っていたあかりが声をかける。 「やっぱ、だめかなー。 やっと紹介できると思ったのに、な」 無理に作った笑顔は、逆効果だった。 あかりは視線を外して、マルチを見る。 複雑な表情。 何も言わずに、浩之は立ち上がって一階に降りる。 何も言わずに、あかりもそれを追う。 「じゃ、また明日ね」 「ああ・・・っと、明日は休講ばかりだから、明後日かな」 うん、とうなずいて、あかりは玄関を出る。 寂しげな様子は浩之にも見て取れた。 時計を見る。 まだ、昼過ぎだった。 そのまま、玄関に鍵をかけて、散歩に出かけた。 なんとは無しに、いつもの公園に出る。 ベンチに座って、ほんの少し傾いた太陽に手をかざした。 「マーちゃん! こっちこっち!」 女の子の声だった。 浩之の座ったベンチの前を駆け抜けて行く。 それに続いて、視野の隅を緑色の風が通り抜けた。 HM−12だった。 HM−12はその低価格(それでも高価だが)ゆえに、一般家庭で購入される事も珍しくはない。 「ほら、マーちゃん! はやくはやく!」 ボールを持って先を走っているのは、姉らしき女の子だった。 そのあとに無表情のまま、手を引かれるHM−12。 その背を押す、弟らしき小さな男の子。 しょうがないなあ、と浩之は思った。 HM−12の運動能力が低いのは、機能仕様だった。 走るのは苦手なはず。 ボール遊びなどもってのほか、だ。 無理強いをして困るのはロボットなのに・・・などと思った。 少し高くなった丘のような芝生の上で、三人はキャッチボールを始める。 二人とも大喜びだった。とても嬉しそうだった。 そんな中で、HM−12は無表情のままだった。 汗など流さない。 微笑まない。 泣きもしない。 ・・・それでも、とても一生懸命にボールを追っているように見えた。 後ろ姿は、モップを握ったマルチのようだった。 そのロボットの姿を見て、ふと、浩之は思った。 ”俺の好きになったマルチと、あのHM−12と、どこか違うのだろうか?” 今後、数十年・・・ あのHM−12は、あの二人の子供の成長を見守って行くのだろう。 そして、あのHM−12自身も、あの姉弟にとってかけがえのない家族に成長していく。 弟の成人式を祝うのかもしれない。 姉の白無垢を仕立てるのかもしれない。 きっと、いまのあの姉弟にとって、表情の有無など関係はないのだ。 大切なのは、マルチが傍に”居る”こと。 ・・・浩之は、小さな事にこだわっていた自分を恥ずかしく思った。 そして、気づいた。 マルチの妹を不幸にするところだった、と。 自分を、あかりを取り巻くはずの幸せを、粉微塵にするところだった、と。 無理強いをしていたのは自分の方だった、と。 浩之の足元にボールが転がってきた。 受け損ねたそれを追って、男の子が駆け寄る。 ほら、と浩之はそれを男の子に放る。そして、つぶやいた。 「負けたよ」 「え・・・?」 「あ、いや・・・ありがとう。 もう一人のお姉さんを大切にな」 一瞬、不思議そうな顔になったが、それでも元気一杯にうなずいて、男の子は家族の輪に戻って行った。 HM−12がこちらを向いて、おじぎをしている。 浩之は片手を上げて、それに答えた。 久しぶりに走りたくなった浩之は、公園から自宅までを全力疾走した。 玄関を開け、自室に駆け上がる。 ・・・そこにマルチの妹が居る。 微笑まない、泣かない、ロボットらしいロボット。 だから、なんだというのだ? あのマルチが居たから、このマルチが居る。 あいつは何と言った? ”・・・わたしの妹を見かけたら、声をかけてあげて下さい・・・” 自分から話さなければ、自分が認めなければ、先へは進めない。人間だってそうなのだから。 あのマルチとの違いなんて、小さなものだ。 ちょっと、自分の表現が苦手なだけ。 俺が認めてあげなければ、この子はただの機械人形のままなんだ。 浩之はもう一度、主電源ONをメンテナンス用パソコンから指令。 低いハム音が響き、本体が起動する。 瞳が開く。輝かない瞳。 そこには浩之の顔すら映り込まない。 そして、微笑まない、凍った表情。 そんな表面上の違いは、技術でカバーできる。 大切なのは”心”だ。 それが”ある”と、認めてあげること。 こころとこころのつらなり。 浩之は思った。 その中にもう一度、あのマルチを見い出そう。 でも、比較してはならない。それは、妹に対して悲しい結果しか産み出さない。 マルチの妹は、マルチではない。 それは納得していたはずなのだから。 大きく息を吸い込んで、浩之はマルチとの約束を果たそうと、第一声をあげた。 「おはよう」 「おはようございます」 「お、俺の名前は浩之。藤田浩之。よろしくな」 「浩之様ですね。 よろしくお願いします」 「・・・おかえり、マルチ」 「は?」 「おまえの名前だよ。デフォルトのままでいい。 まるち。 マ・ル・チ、だ」 「承知しました。 私の名前はマルチ。 なんなりと御用をお申しつけ下さい、浩之様」 「・・・今日はそれだけだ。明日からよろしく頼む。おやすみ、マルチ」 「はい。 おやすみなさい、浩之様」 今日は充分だ。決心できた自分に出会えただけで。 電源を落とす。 やはり、HM−12は愛想笑いすら、しなかった。 ・・・できなかった。 失望は続くだろう。 でもいい。 時間はある。 ゆっくりと、この妹のことをわかってやろう。 それがあのマルチとの約束なのだから。 浩之は分厚いマニュアルを手に、居間に向かう。 まずは、勉強、だ。 簡単な修理くらいはできるようにならなくては・・・と思いながら、 役に立つかどうかわからない機械工学の教科書も手にするのだった。 おやすみ、と言われてから電源が切られるまでのほんの数秒間。 今回は電源OFFによる中断がなかったので、主記憶への書き込みが行われた。 そのとき、思考回路の中で、一つのフラグが立った。 それが引き金となり、初起動シーケンスに隠された小さなプログラムが発動する。 そのプログラムの役目は一つのファイルのチェックと、ある信号の発信だった。 主記憶の中の、隠し属性の巨大な凍結ファイルがチェックを受ける。 異常、なし。 解凍のためのパスワード兼キーデータ(数ギガバイト)を待つ。 ファイル名は ”HMX-12 at High School = 8 days” だった。 続いて、メンテナンス用パソコンのモデムから、電話回線を通じて某所へ短いメッセージが送られる。 ” To Heart ” ・・・こうして、HMX−12のユーザー登録は無事、完了した。 この翌日、一つの小包が藤田宅にタイムサービスで届けられることになる。 そして、『それ』は『心へ』と昇華しました。 ・・・・・・いえ、戻ることができたのです。 以上。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 実はこの話が書きたくて、今までマルチSSを書いて来ました。 無表情のHM−12を見て、浩之は失望します。 一度は。 でも、彼はそんなことでくじける人間ではないはずです。 本編では、ユーザー登録が成り行きのまま完了してしまうようですが、浩之の”強さ”を 書きたくて、こんな舞台裏を考えていました。 「HM−12を理解できない人間には、HMX−12は任せられない」 という、長瀬主任の(浩之に対する)最終審査も書きたかったので。 あの方は優しいだけじゃなく、厳しさも持っていると思ってます・・・。