醒めない夢の終わり (前編) 投稿者:dye 投稿日:3月20日(木)06時05分
 これは『痕〜きずあと〜』の設定を扱ったSSであり、当作品の
ネタバレを含みます。
 数多く扱われている題材ゆえ、内容が重複するかもしれませんが、
悪しからずご了承下さい。


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 それは昔の物語。
 されど、今と変わらぬ心語り。
 勲(いさおし)でなく、栄華でもなく、ただ背負い続ける業と―――

 時を経た、忘れ形見なりけり。



          ◆



  赤い蛍達が生まれ落ちる。
  宙に舞う、不規則な飛沫として。
  地を侵す、濡れた温もりとして。

  蛍達の濃い匂いに包まれ、胸が悪くなる。


 「―――やめて……!」


  また一つ、赤い蛍が生まれては、四方に霧散する。
  それは空からこの星に墜ち、
  今一度、死に囚われて地に堕ちる同胞の姿……


 「―――やめてっ! もう、やめてっ! 次郎衛門ッ……!!」


  相手の衣服にすがり、私はその場に座り込んだ。
  舌がうまく回らず、泣きながら、首を振って拒否の意思を示す。
  そんな私に「…大丈夫だ」と殺戮の主が笑いかける。

  返り血で濡れた面を、袖で拭おうとする私を優しく制し、
  なぜ泣く、と困ったように眉を寄せ、



 「案ずるな……すぐ終わらせる」




  そう無邪気に微笑み―――



             、、、、、、
 「だから、放してくれ。エディフェル……」




  最後に唱えた名前が、時を凍らしめた。
  重たい舌が、小さく“違う”と動こうとする。
  でも、代わりに出たのは、声にならない悲鳴。
  喘ぎに掻き消された、あの人を否定する自分の意思。



  ……違う、私は姉さんじゃない。

  ……私の名は『リネット』…………



  目前の笑顔が怖く、
  そして、堪らなく哀しく、
  胸が締め付けられ、息をすることが苦しい。

  冷たい汗と、瞼に増す熱い感情。
  求められているのは、私でない―――私では、ないのだ。
  三人の姉達に、助けて欲しかった。
  でも、親しき人達はいない。
  憎んでも良い人達ですら、今は『彼の人』を除いて誰も動かない。
  熱い感情が溢れだし、両目が開けていられなくなる。

  このままで良い。
  目を閉じていれば、あの人の笑顔は見ずに済むから。
  それでも、暗闇に感じるものがある。
  灰を伴った煙と灼けた大気の肌触り。
  乾いていく血と、焦げる肉塊の匂い。
  風の音に交じる、私以外の二人の声。



 「―――復讐は我らが理。それを逆に果たされるとはな……」



 「それも貴様で終わりだ、『ダリエリ』……」



  胸で増していく痛み。
  絶え間なく続く痛み。
  灼けた大気に喉がかすれ、
  心臓の脈動が手足に響き、
  鐘が鳴り響くように、頭の奥がひどく痛む。
  熱を持って、痺れるようにズキズキと痛む。
  悪夢のような光景を瞼で閉ざしても、痛みが醒めない夢だと追及する。
  鳴り響き始めた、鋼と爪の撃音に耳を押さえてしまう。


  こんな結果は望んでいなかった。
  もう手だてのない段階であることを、絶望に麻痺した冷静さで受け止め
 ながらも、この状況を救って欲しいと強く願った。


  賢く美しかった長姉が闇に浮かんだ。
  強く優しかった次姉が闇に浮かんだ。
  帰ってこなかった姉が最後に浮かび、三人とも静かに消え去った。


  どうか、どうか、お願いだから……
  私の身はどうなっても良いから……





  ――― ダ レ カ   タ ス ケ テ ――――― !!!




  その刹那、「ぶぅぅぅんん」と低い応えが生じ、私は自分の過ち
 に気づいた。
  親しき存在は、まだ残っていたのだ。
  私の友人。
  意思を持ち、疎通を交わす箱船が。
  辺境のこの地に堕ち、地底深く横たわるヨークが、浮上しようと
 身を震わせる。


  ―――っ!


  視界が大きく揺れた。
  戦いに燃え続け、炎と血の蛍が舞った、焼け焦げた大地。
  その上にさらす累々たる屍。
  現実感を失う、余りにも無惨な風景。


  ――― いけないっ!!


  地獄絵図に、巨大な一本の亀裂が走った。
  顎のように線が開き、全てを飲み込んでいく。
  炎も屍も、血の臭う戦場の跡も、土砂に消えていく。



「「「 グオオオオオオオオオォォォォォォォォーーーーーーーッ!! 」」」



  崩壊する世界の中で、二人が最後の一撃を繰り出す。
  私はその結末を見届けられなかった。
  身体を包む燐光に、ヨークが私の転送を試みていることに気づく。


  暗転する意識の片隅で―――
  私は最後の赤い蛍を見たような気がした。


  或いはそれは、二人の対決で散った、生命の炎だったかもしれない。




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    暗闇に光が差すよう、反転して白単色の世界が生まれる。
    焼き尽くす怒りの後なのか、
    泣き疲れた慟哭の色なのか、
    何もない虚ろさを示すのか、
    ただ白い世界のみが、一日の終わりにして明日の始まり。


    夢だと分かっていても、娘は繰り返し過去を見続ける。
    残酷な結末でも、親しき人達に再会することが叶うゆえ。
    そう娘が望む限り、決して消えること無い「痕」から―――



    ―――― まだ、この「夢」から醒めない。




          ◆◆




 雨月山を根城としていた鬼の一族。
 それは土地の領主が派遣した、三度目の討伐隊が討ち果たしたと伝聞される。

 領主とその側近しか知らない事実がある。
 討伐の殆どは、ある男によるものだった。
 男の妻は鬼族の一姫であり、人である男と通じた咎で同族に亡き者とされた
為、男は妻から譲り受けた鬼の神通力を使ってその復讐を果たしたのだ。

 さらに、男しか知らない事実がある。
 討伐の手引きをしたのは妻の妹であり、彼女はまだ独り生きていた。
 つまり、鬼の一族は滅んではいない。

 最後の鬼となった娘は皮肉にも、その滅亡をもたらした男と一緒にいた。
 娘の名はリネット。
 男の名は次郎衛門という。



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 また、あの夢を視ているのか。
 額に浮かんだ冷たい汗を拭いながら、次郎衛門は寝床から身を起こした。

 ―――あの時。
 鬼の力を解放した辺りから、暴走と共に前後不覚に陥っていたらしい。
 五感の鋭敏化により、普段は見えず気づかない事象が己に入ってくる負担。
 それだけではない。
 他者との精神感応により、負の感情すら受け入れ、ある種の同一化を果た
してしまう事態。
 本能とそれを上回る奥底の感情。
 全ての要因が一つとなり、辛くも生きながらえたものの、あの討伐を思い
返すと、自分の行為が空恐ろしくなってくる。


 いや、それは違うのかもしれない。
 むしろ娘を―――『リネット』にこそ、自分の業を見せつけられる。
 表情を失った、抜け殻のような娘。
 過去の夢を往復し、慟哭と悲嘆を繰り返す、生きてはいるが、活きている
とは呼べない状態。
 この娘と向き合うことが、自分の罪への責め苦だった。
 そう自覚するも、相殺するように暗い念を抱え込んでいる。


 あれからまだ一月も経っていない。
 摂取する食も、定期的な休眠も“復讐”までの備えだった。
 疲労と回復も。
 繰り返す思考すらも―――全てが一つの目的へと収束していた。
 研ぎ続ける刃、或いは偶像を彫り出すように、余計なモノを削ぎ落とし
目的へ向けて精錬する感覚は、ひとつの達成意欲を得んが為に。
 ある意味、充実していた。
 大切な者を失い、他に望みも目的も無かった。
 だから復讐を果たした今、何も未練はなく、何を得る必要もないはずだ。
 それこそ、生きる必要もない。

 だが、気付いてしまった。
 未だ晴れていない憎しみに。
 この手に掛けたエルクゥ達の死霊が現れると知れば、殺し足りぬ相手に
再会できたと、自分は小躍りしたに違いない。
 終わりなき狩猟の民であるエルクゥ達より始末が悪い。

 誇りも意思もなく、際限のない渇きを抱く自分こそが、
 人を越えた“力”でなく、化生の如き“執着”こそが、



 ……そう。鬼退治の英雄こそが、『真なる鬼』なのだから。



 自分は怖いのだ。
 掴んだ刀の先を、唯一生き残った娘へ向けそうになる衝動が。
 自分は恨めしいのだ。
 失った存在を、無意識に娘の中に見出そうとする己自身が。
 いっそのこと、娘に蔑まれ、憎まれ、殺されても良いと思えた。
 愛と憎は背中合わせという。
 どちらも己でありながら、昼間の青空に浮かぶ朧気な月の如く心許ない。

 それを繋ぎ止める鎖が『リネット』だった。
 確かな罪の形として目にする罰が彼女だった。
 失った存在の面影を視るのが、血縁の娘だった。

 娘の夢は毎夜続いていく。
 悩みの種は尽きず、何も思いつかなかった。
 ただ、己とリネットを食わせる為に、毎日が過ぎていく。
 できることと言えば、それだけだった。
 償いのつもりはない。
 正確に言えば、そんな余裕すら無かった。
 自分独りで生きていくことは易しいが、他人を養うことは骨が折れる。
 生命を奪うのは簡単なのだがな。
 暗く笑ってみたが、出たのは寂しく乾いた声だった。


 川に向かいて魚を捕り、山に入りては山菜を摘む。
 時には罠を仕掛け、弓矢を手に野兎や鹿といった獣を追い立てた。
 それだけでは足らず、山中に田畑を作ろうと試んだ。
 土地から小石を一つずつ拾っては捨て、巨石を砕いては運ぶ。
 使い慣れぬ肉が痛み、長く単純な作業に心根がすり減る。
 矮小なる我が身に、ちっぽけなチカラ。
 いかに人を越えた身であろうとも、生み出すものは余りにも小さい。

 刀でなく鍬を携え、血豆を生みながら、地道に精を出す。
 朝露に濡れ、夕立を頭からかぶりながらも、毎日必ず作業を進める。
 今の作業が、未来(さき)で実るとは限らない。
 ただ、こうして共に在りながら、ゆっくりと実るその時を待っていくだけ。
 水を測り、虫を払い、葉の色を伺う。
 ただ、その時を信じて、限られた作業を繰り返す日々。
 平凡な日々の雑多な出来事が、晴れない心を少しずつ眠らせていく。
 手を休めては過去を想い、再開しては今を思った。
 夜にリネットの追憶が伝わって来ても、痛みでなく“後悔”を感じるよう
になった。
 差すような痛みでなく、重石を抱えたような、しっかりとした負荷として。
 動きを妨げるが、その重さは不快ではない。
 受動的な痛みとは違って、対処を行うことができる。



 気が付けば、化生の如き“執着”が薄まっていた。
 時の流れが解決したものと、
 強くはないが、捨てきれない感情が去来した結果によるものだった。
 それは“迷い”であり、“苦悩”であり、
 “恐怖”であり、“悲しみ”といった、人間の弱さから生まれるもの。

 そして、“執着”もまた人の持つ弱さだと気付いた時、遅まきながらも
生まれてくる感情があった。



 ――― リネットの『夢』を終わらせたい。



 償いではない。
 かつては、その流れてくる夢を見ることが、自分の贖罪にも思っていた。
 しかし、罪のない彼女が、自分の“救い”ではいけない。
 そんな生を送ることは、違うのではないだろうか?

 以前とは違い、リネットは人並みの食事を取るようになった。
 僅かな受け答えもするし、軽く笑ってみせたりもする。
 でも、疲労感が漂う、虚ろな印象は拭えない。
 本当に笑っているような印象がないのだ。
 それに、彼女が夜に見る夢は、今もなお続いている。

 生きていること。
 それは、こんなものじゃない。
 復讐の念が眠りつつある今なら、自分にも何か出来そうだった。
 それは言葉でなく、別の形で示せるはずだ。

 何事も起きぬまま、数年の月日が過ぎようとしている。
 何も出来ないまま、幾度となく四季が移り変わり巡る。
 日が暮れては夜が明けていく。
 だが、流れゆく時の中で、動かぬものなど何ひとつ無い。
 それもまた、生きている証でもあるのだから。


 だから、次郎衛門は動き始める。
 リネットに生きている証を見せる為に。