醒めない夢の終わり (後編) 投稿者:dye 投稿日:3月20日(木)06時04分

          ◆◆◆



 娘は考える。
 なぜ自分は生きているのだろう?

 自分の心は、目前の男を憎み切れないでいる。
 この惑星へ一族が降り立った発端は、星海を渡る箱船の不時着陸であり、
自分の操作ミスなのである。
 許しを請うべき相手を失って、己に何が出来ようか?
 一族はこの辺境の星で滅亡という、最悪の結果に至っている。
 それもまた自分が、姉『エディフェル』の恋人だった異民族を手引きした
ことが原因でもあるのだ。
 ある意味、姉の恋人の手を、同族の血で汚させたといってもよい。

 それなのに、男は自分の身を案じていた。
 まだ罵られたり、傷つけられたり、辱められた方が良かった。
 そう叫ぶことは、自分の傲慢さに他ならない。
 たとえそう叫んでも、男は決してそれをしないことは分かっている。
 むしろ、一族を滅ぼしたことを謝罪するだろう。

 誰も罪を糾弾しないなら、自分がするしかない。
 過去を繰り返し視て、自分の引き起こした結果と対峙する。
 何もしないで無為に過ぎていく日々。
 他に何もできない、死ぬことも許されない日々。


 男の無骨な暖かさだけが、変わらない一日の中の彩りだった。


 そして予感する。
 自分の中に生まれる感情を。
 否定し、戒め続けようとして、却って自覚してしまう。
 肉親以外で、普通に接してくれる存在。

 好意でなく、贖罪ゆえに優しく接してくれると分かっていても。
 親しき者を失い、寂しさ故に他者の温かみを求めていると自覚しても。
 頭でそう理解していても、浅ましいと嘆くことも出来ない感情を。


 好きになってはいけない存在を、私は――――


 確信してしまったからには、相手に悟られないと努めた。
 意識して、血と炎の記憶を反芻する。
 あの人が愛しているのは姉なのだと、繰り返し胸中で唱えてみた。
 自分の心を次郎衛門に知られることは、亡くした姉に対する最大の裏切り
に思えたのだ。
 しかし、皮肉なことに、娘の抱いた好意は、時間の経過と相まって男の心
を少しずつ癒し始めていた。
 かつて、姉が次郎衛門に語った現象が起きたのである。

 痕に触れることを気遣うような、ためらい交じりに互いを案じ合う心。
 己の悔恨を抱えながらも、救いをそこに見ていた。
 相手の回復は喜びであり、自分の辛苦は罪のささやかな罰。

 リネットは気持ちの整理をそこに見た。
 男の世話を受けよう。
 自分が責め苦に感じるのならば、それは好都合でないか?
 男に気づかれることなく、苦しみ続ければ良い。
 苦しみ続ける生を送れば、自分への罰になろう。
 愛せない相手を前にし、その傍らにずっと居ること。

 娘は笑みを浮かべた。
 しかしそれは、娘が本来持っていた明るい類でなく、痛々しい決意のもの。
 どちらかと言えば、泣き笑いに近い。

 正しいのか、間違いなのか、どうでも良かった。
 本当に辛いのは、どうやって自分の過去を償えるのか分からないこと。
 唯一許しを請える相手が、無条件に自分を許すことが予想できること。
 自分の罪を忘れてしまいそうになる怖れと、幸せを感じてしまう自分。


 “ 苦しみ続ける生を送れば、自分への罰になろう。
   愛せない相手を前にし、その傍らにずっと居ること ”


 そして、過ぎていく日々の中で気づいてしまう。
 自分の気持ちを伝えられなくても、この人の側に居るだけで感じる幸せ。
 ささやかな幸せに、過去の罪を忘れてしまいそうになる後ろめたさ。
 その誘惑を受け入れそうになる自分への恐怖。



 ――― 自分の気持ちが今、何処にあるのか分からなくなる。



 娘の細かった食が人並みになったことを、男は素直に喜んだ。
 言葉少なく、自分を労る言葉を口にする。

 決して手の届かないものを遠くから眺めるように、娘は男の喜びを見た。
 そして微かに笑って見せた。
 しかし、両眼に揺れていたのは、諦めと絶望の交じった感情だった。



 手を伸ばせない存在。
 心を交わせない距離。
 狂おしく愛しい相手。

                  ………それは、姉の愛した人。
                     今も姉を愛している人。




 改めて、娘が微笑をたたえた。
 瞳の感情は、奥底へと消えた。





          ◆◆◆◆




 雲のようにゆっくりと、昼夜のように刻々と月日が流れた。
 幾度と新緑の草花が芽吹き、秋に色づいた樹葉が雪の下に眠り、そして
迎えた、初夏を控えた梅雨の下り。

 リネットにはもう、娘という呼び方は相応しくない。
 成人した女性へと成長を果たしていた。

 金色の細く長い髪も、白く抜けるような肌も、琥珀色に近い薄赤の瞳も、
亡き姉達とは異なる、この世の者とは思えぬ美しさがある。
 人が見れば『雨月の鬼』でなく、『天女』を連想したに違いない。
 彼女は星船の巫女である皇女だったが、確かにある神々しさを秘めた雅
ある容姿を備えていた。

 だが、もし亡き姉達が妹を見れば、彼女らは眉をひそめたに違いない。
 日輪の如く暖かなリネットが、まるで氷輪の輝きを放っていると。
 確かにどちらも美しく、エルクゥには太陽より月の方が映えるものだが、
姉妹達は、末妹の狩猟の民らしからぬ優しさを愛していたのだ。

 今のリネットは本質的な美しさでなく、後天的な魅力を湛えていた。
 皮肉にも、それは第一皇女であった『リズエル』に通ずるものであり、
一族の長であった『ダリエリ』辺りならば、「やはり姉妹なのだな……」
という感想を洩らしたに違いない。

 そんなリネットの容姿は、次郎衛門にはまた別の意味があった。
 長じて美しくなった彼女の姿には、姉『エディフェル』の面影を伺う
ことが難しくなっていたのである。
 それは純粋に、彼女の外見の変化なのか。
 はたまた、次郎衛門の内面の変化なのか。
 それは彼本人に取っても、何とも答え難い問い掛けだった。

 ただ、リネットを「美しい」と思う心は自覚している。
 それが彼女の姉と初めて出逢った時に、思わず抱いた気持ちと同じだと
いうことも――――


 あの討伐の褒美として、領主に侍に取り立てて貰うことを辞し、雨月の
山野に住み着いて七年。
 一から始めた田畑は倍に広がり、豊かな実を結ぶようになった。
 その出自と容姿ゆえに、殆どリネットが家屋の外を出歩くことはないが、
彼女は食事の支度を行うようになった。
 まだ何処となく影があり、今もなお口数は少ないものの、まるで抜け殻
のようだった当初に比べれば、元気になったと言えよう。
 もう、七年も……或いは、まだ七年と言うべきなのか。
 土地の慣習でいえば、七回忌を行う年でもある。

 今年こそが節目かもしれない。
 山野に作った田畑の中で、次郎衛門は足を止めて立ち尽くした。
 七年の間、自分が勤しんだ日々を思い返す。
 大切なものは、まだ生まれてはいなかった。
 これから彼女がどう感じ、どう思うのか。
 そこから、何かが始まって、初めて今までの七年間が埋まるのだ。

 願わくば、彼女の糧となって欲しい。
 そう願う次郎衛門の目には、穏やかな光が宿っている。
 それもまた七年の月日が生んだものであることを、彼自身は気付いては
いなかった。



            :
            :
            :



 家屋の中を静かに、夕餉(ゆうげ)の煙が行き交っている。
 囲炉裏の灯火は薄暗くとも、夜目の利く二人には充分に明るい。
 見せたいものがある。
 食事が済んだら、自分に着いてきて欲しい。
 夕餉を手にしながら、次郎衛門がリネットに切り出す。

「……分かりました」

 答えは簡潔な一言だった。
 その出自と容姿の為、滅多に外出をしようとしないリネットにしては
ためらいも迷いもなかった。
 そのまま食事を済ませ、連れ立って山道を歩き始める。
 空は冴え冴えとした満月が昇っていた。
 初夏特有の草いきれに交じり、微かな虫の音が伝わってくる。

 互いに声を出すこともなく、二人は夜道を進んだ。
 時折、雲が月明かりを遮る以外、変化は訪れない。
 やがて目指す方向に気付き、リネットが微かに息を飲んだ。
 立ち尽くした彼女を、次郎衛門が振り返る。

「……イきたく……ないです……」

 掠れた声の拒否。
 月に照らし出された面は、光と同じ青ざめた色をしている。

「……あっ……!」

 びくりと、大きくリネットの肩が揺れた。
 震える彼女の手首を次郎衛門が掴んでいる。

「この通り頼む。どうか、俺の願いを聞いては貰えぬか。俺はリネットに
あの場所を見せる為、生きていたようなものなのだ」
「………………」
「無理は承知の上だ。あの場所は俺の“罪”なのだから。けれど――――」

「…………クダさい」
「なに?」
「……離して下さい。イタい……です」
「す、済まない」

 慌てて握っていた手首を離す次郎衛門。
 赤く付いた跡を見やりながら、リネットがゆるゆると答える。
 青ざめた面は、やや血色を取り戻していた。


「……分かりました」


(……あの場所を……貴方が“罪”と呼ぶのなら……
 私にとっても――――)


「参りましょう、ジローエモン……」


 掠れていた声に意志が宿った。
 責任ある皇女の威厳でなく、
 受難を待つ巫女の響きでもない。

 誰かと対面し、何かを告白するような緊張と、
 これで終わっても良いという類の……解放を前にした安堵感。

 リネットは「次郎衛門」でなく、「ジローエモン」と声に出した。
 過ごした年月に得た発音でなく、出逢って間もない頃の異種族としての
発声に戻したのだ。
 その胸中を悟られぬよう、強い思念を封じることに心を砕く。


 張りつめた者が持つ危うさを持ちながら、星々の輝きが霞む月光の下、
エルクゥの皇女は益々美しかった。




          ◆◆◆◆




 二人が目指す場所とは、鬼の一族が滅した戦場跡だった。
 鬼達の亡霊と、その手に掛けられた人間が祟りなすと、里の者達が噂する
土地は、人足が途絶えて久しい。
 数年の間、そこに足を運んでいたのは、次郎衛門ただ独りだった。

 …ドクンッ……!!
 ……ドクンッ……!!

 一歩進む度に鼓動が高まるのが、手に取るように分かる。
 かつてその場所は、おびただしい血と炎にさらされた土地だった。
 鬼と呼ばれた漂流民が、呪詛を洩らしながら倒れた場所。

 更にその前は、実の妹を手に掛けた皇女が呆然と立ち尽くした場所でも
あった。
 次郎衛門はその日、人生で最大の悲しみを与えられた場所。
 童のように泣きじゃくり、失われる体温にすがった雨月の峠境。


 記憶の刻が、また逆しまに昇っていく。
 討伐隊に参加し、鬼達に敗走する前日。
 月明かりの下、彼女と出会った。
 この世の者とは思えぬ美しさに、魂を奪われたそんな夜――― 


 そんな場所だからこそ。
 リネットに生きている証を見せる為に、次郎衛門は約七年もの間、足を
運んでは力を振るい続けたのだ。
 あの激戦以来、人を越えた“力”は、その場所には一度も使っていない。
 それが手向けでもあり、けじめでもあった。
 償いというよりは、確かな形が欲しかったのかもしれない。


 山道の峠に足を進める。
 この坂道の頂点まで登り切れば、眼下にその場所が広がるはずだ。
 流れゆく時の中で、動かぬものなど何ひとつ無いこと。
 言葉でない、生きている証がそこに在る。


 ―――そして二人は、坂道を登り切った。





「……あっ……あああああッ……!!」




 眼下に広がる光景を見て、驚愕の声を上げるリネット。


 自分は謀られて、違う場所に居るのではないか?
 いや、そんなことはない。
 辿ってきた道は覚えている。
 見間違うはずはなく、忘れる訳もない。
 だが、何度でも繰り返し『夢』に見た、煉獄の姿は無かった。

 夜闇に漂う水の香り。
 柔らかい若草の薫り。
 あの時、焼け焦げていた大地に、生命が息吹いていた。
 あの時、刻まれた大地の亀裂は、清水が湧き出ていた。


「……嘘……信じ……られない…………」


 流れた闇雲に遮られ、月明かりが薄くなる。
 初めてその時、小さな輝きの存在がリネットの目に映った。


「―――水無月の蛍だ」


 次郎衛門が指さす先で、幽玄の光たちが見え隠れする。
 その数は僅かなもの。
 少なくて頼りないが、それは生命の輝きだった。
 止まっては点滅を繰り返し、ゆらゆらと若草を飛び交うそれは、闇夜の
中で確かに息づいている。

 静かな生命を湛えた幻想的な世界。
 さぁ、と風が吹き、一面が柔らかく葉鳴りの音をたてた。
 葉鳴りに続いて、リネットの白金の髪が優雅に揺れて舞う。


「……これは……貴方が……?」


 呆然とした表情で、傍らに首を向ける彼女。
 半分はな。
 そう答えて、男が坂道を降り始める。
 遅れてリネットが後に続く。

「半分とは?」

「俺がしたのは傷んだ地形を馴らし、山水を引いて潤しただけだ。
 始まりは一本の芽だった。
 名も知らぬ花が咲き、結ばれた実が落ちて、また芽吹いて―――。
 後は、俺は見ていただけだ。自然に還っていく姿を………」


 坂道が終わり、夜に漂う水と若草の匂いが強くなる。
 その中心へ足を踏み入れると、次郎衛門は続くリネットに振り返った。
 蛍の舞う闇の中、向き合った二人は互いにそれぞれ、この時が来たのだと
感慨深く思っていた。

 傷に触れぬよう接してきた男と、
 相反する想いを隠し続けた女と。
 交差する視線には万感の思いがあり、それだけで充分にも感じられる。

 でも、言葉にすることで、明確な何かの形にしておくべきでもあった。
 全てが始まったこの場所だからこそ、此処で終わらせる必要があった。
 流れた月日が見せたのは、生命の証だけではない。
 限りある命だからこそ、立ち止まってはいけないという業でもあった。


「―――もう、『夢』を視る必要は無いのだよ」

「……っ! それはッ……!!」

「必要があるとすれば、ひとつだけだ。
 死んで詫びようか? それとも………殺してくれるか?
 リネットが俺を討つことで、全てを終わらせても良い」

「……いいえ。貴方が私を討って、皆の元に送ることも出来るでしょう。
 ずっと考えていました。
 私が生きていて何が出来るのだろうと。
 でも、この星で私独り、成すことなど何も有りはしない。
 だから、私は『夢』を視続けている。
 自分の“罪”を忘れないように。母なる星へ帰れなかった皆を忘れない
ように……。
 でも、貴方がそれを止めろと言うのなら、私は従いましょう。
 貴方は我らの長『ダリエリ』を破った勝者です。
 だから、貴方が“罪”を感じる必要は無い。
 強き者に弱者を倣わせるのは、我が一族が繰り返してきたこと。
 ですから狩猟の民として、エルクゥ皇族の言葉として繰り返します。
 貴方に“罪”は無い。それを有するのは、弱かった私なんです……」

「ならば、俺は答えよう。
 もう、誰も手に掛けたくはない。
 殺めたり奪ったり、失ったりするのはもう沢山なんだ。
 俺は許されなくても良い。むしろ、赦されるべきではないことをしたと
今でも思っている……」


「―――でも、私は貴方を許しますよ。姉達もむしろ『許して欲しい』と
請うに違いありませんし、私もまたそう願います」


 ふふふっと、リネットが寂しげに微笑んだ。
 対して、目元を緩ませる次郎衛門。


「許してやってくれ……か。
 エディフェルもそう言っていたよ。やはり姉妹なのだろうな……」


「そう……ですか。
 私たち姉妹の中で、エディフェル姉さんは最も仲の良い姉でした。
 ずっと妹であった為、初めて姉の立場になった姉さんは、私をとても
可愛がってくれたんですよ。
 私が物心ついた時から、姉はずっと傍に居てくれました。
 遊ぶ時も、食事を取る時も、眠る時まで……」

「何だか、目に浮かぶようだな」

「ええ、私達はずっと一緒でした。
 同じものを喜び、同じように楽しみ、同じ時間を過ごしていた。
 だからでしょうね。私が――――」


 リネットの目線が下がり、振るえるような吐息を吐いた後、唇が再び
言葉を紡いだ。



「―――私が、姉さんと同じ人を好きになるのは………」



 自分の発言に、沈黙が降り立った。
 月や雲の流れすら聴こえそうなくらい、耳が相手の言葉を待つ。
 もう戻れない日々と共に、全てを裏切ったような気がしていた。
 永遠に烙印を押されても良い。
 ただ、謝罪を向けるのは姉エディフェルだけだった。
 手の掛からない妹だと誉めてくれた姉に対して、最初で最後の我が侭。
 相手に受け入れて貰うつもりなんて無かった。
 死者が相手では敵わない。
 いや、姉が相手では勝ち目がなかった。
 美しく心から自慢だった、同じ血の流れる存在。
 そんな姉が、生命を賭して愛した次郎衛門。


 訳も分からない恐怖は後から訪れた。
 リネットの膝がその場に崩れ落ちる。
 乱れた衣服の裾の先が清水に浸かり、瞬時に重たくなっていく。
 もう、どうすれば良いのだろうか。
 もう、どうなっても良かったのだ。
 似て非なる思考が、ぐるぐると頭の中を回る。
 ずっと胸に抱え続けた感情は苦しかった。
 どうしても、言わずには居られなかった。
 この場所で今しか言えないと思ったのだ。


 溜め込んでいた全てを解放するように、涙が際限なく流れ落ちる。
 両手で顔を覆い、嗚咽を洩らし続けるリネット。
 その震える肩を、そっと大きく暖かな掌が包んだ。
 親愛な関係の抱擁には距離があり、全くの他人にしては知り過ぎている。
 そんなひどく中途半端な触れ合いで。

 その掌にすがりたい衝動を堪えながら、彼女は嗚咽の隙間から、自分でも
思ってもみなかった言葉を紡いだ。


「……姉さん達を、返して下さい……」


 子供じみた恨み言が、次郎衛門を傷つけることは承知している。
「……済まない」
 男の短い詫びに、自分が何故この言葉を吐いたのか理解していた。
 認めてしまったのだ。
 逢いたい……と思った瞬間、もう決して逢えぬのだと。
 心が別れを認めてしまったのだ。
 閉じこもっていた家屋も、夜毎に繰り返していた『夢』も。
 全ては“罪”でなく、辛すぎた現実を退ける“檻”だとしたら。


「……姉さんは、もう居ないんですね」

「ああ、そうだよ」 


 堪えきれず、リネットの嗚咽が再開した。
 そんな彼女を胸に抱きしめながら、次郎衛門もまた地に膝を落とした。
 果たして、リネットの感情が純粋に思慕なのか。
 姉の思い出を遺した存在への、寂しさから来るすがりなのか。
 判るわけがない。
 答えは有るようでいて、それでいて無限にひしめき合っているのだから。
 ただ、その中から一つを選ぶことが出来るだけ。
 正しいのか間違いなのか、自身が判別を下すだけ。
 人の心はままならぬものであり、不可思議と豊潤を―――禍々しさと神秘
を宿すものなのだから。
 だから、怖ろしくもあり素晴らしくもある。

 それが判るくらいには、次郎衛門は年を取ったのだ。
 だから、この場では何もできないのかもしれない。
 ある意味、途方に暮れながら、男はゆっくりと時を待った。

 リネットの嗚咽が止まった。
 さらに沈黙の後、男の胸に顔を埋めたまま、リネットが口を開く。



「私は生ある限り、この地が癒えるのを見届けようと思います。
 その日まで、私と共に居て下さいますか?」

「……ああ」

「次の年の蛍も、一緒に見て下さいますか?」

「約束しよう」

「……では、もう少し、このままで居て下さい」



 次郎衛門は答えず、無言のまま態度で示した。
 伝わるものがある。
 エディフェルと同じ娘の匂い。
 エディフェルと違うぬくもり。
 閉じた瞼の影で、美しい面影が優しく微笑を見せた。

 胸が少しだけ苦しかった。
 そんな顔をしないで欲しい。
 自分は―――自分は―――
 胸に起こった衝動に、しばらくして男は胸中で頷いた。

 自分が本当に謝りたかった相手。
 それは“守れなかった”エディフェルに対してなのだ。
 どんな罪を背負おうとも、彼女ただ独りが存在して欲しかった。
 彼女が死した時、自分も骸を抱いて後を追っても良かったのだ。
 だが、自分は悲しみと怒りを優先した。
 愛しい者を奪った存在達に、全てをぶつけなければ、死んでも死にきれ
ないと頑なに思った。
 その激情は薄くなり、今は眠りかけている。
 むしろ今、胸を占拠する最も大きな感情は―――


 ……済まない、俺を許してくれ。


 愛しい追憶に何度も詫びながら、温もりを抱く腕を少し強める。
 エルクゥを授肉した身に、リネットの動揺が伝わってきた。
 “力”を解放し、偽らざる気持ちを発露させる次郎衛門。
 今の自分が、未来(さき)でどうなるかは分からない。
 ただ、こうして共に在りながら、ゆっくりとその時を待っていく。

 驚きに開かれたリネットの目から再び涙が零れ、それを無骨な指が優しく
拭い受け止めた。
 嬉し涙にむせびながらも、彼女が「貴方に取って、自分は何なのか?」と
意味する問いを、エルクゥの信号で投げ掛けた。

 迷うことなく、男は思念を以てこう伝えた。



  “ 自分の最期を看取る者だ ” ……と。





                           <了>

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          < あとがき >


 以前、半端に作ったリネット絡みのSSで出来なかったことを、今回で
果たしたつもりです。
 1998年のクリスマスですから、実に五年ぶりですか。
 平たく言えば、その時より年を取ったから書けたとか。
 とりあえず、個人的なリベンジ終了です。

 実際は、本編の初音嬢の供述から、次郎衛門の世話をする内にリネット
が……という流れなんですが、ちょっと思う所があり反転させました。

 耕一達が遊ぶ水門。
 商店街の花火を始め、隆山市に貢献した祖父の存在。
 山沿いに構えた柏木家の住居。
 初音シナリオの、首飾りと共に遺された父の言葉。

 絡めたい要素もまだ有りましたが、余り欲張るものでもないだろうと、
割愛して以上の形に。
 多くの方々が過去に扱った題材で、新鮮みや面白みに欠けるでしょうが、
読んで頂いたことに感謝を申し上げます。


 あと、ライアーソフトさんの『腐り姫』と、その絵師・中村哲也さんの
同人誌『辻の天狗』が無ければ、完成は無かったと思います。
 『痕』を遊んでいた頃を思い出させ、『エディフェル』魂が復活する程
本当に感情が揺さぶられましたから。


 それでは、この辺で。
 またお目に掛かる日がありますように。

                      −2003.03.20(木)−