アズエルの拳 投稿者:dye 投稿日:6月11日(月)03時35分
  全てが初めてだった。
  戦いに敗れ、追われる立場。
 反撃の目途たたぬ、追い詰められた現状。
 自分を包囲する『かつての』同胞達を見回しながら、アズエルは嘆息した。
 彼女が踏む場所は、ニンゲン達が『雨月山』と呼ぶ隆起した地形の頂上付近。
 その北側に当たる、岩場に覆われた場所だ。
 下から吹き上げる夜風に、焼け焦げた独特の匂いが、微かな血臭と共に濃く交じっている。
 その匂いの幾つかは、『かつての』アズエル自身が生んだものでもある。


「―――アズエルよ。なぜ、逃げなかったのだ?」


 重々しい声が夜気を渡った。
 殺気立つ囲みの中央を割り、眼前にエルクゥ最高の強者である『長』が進み出る。
 その名『ダリエリ』。
 なぜ……だと?
 アズエルに苦笑が浮かんだ。
 周囲に理解して貰える説明を『あの時』できれば、今日の状況は無かっただろうに。
 なぜ、逃げなかったのか?
 おそらく……


「その答えは、妹が……『エディフェル』が知っているだろうよ」


 直感的に発した言葉に、周囲がざわつく。
 どうやら、彼等は“復讐”と取ったようだ。
 驚きと困惑、そして怒りの気配の中に「…裏切り者」と囁かれたのが聞こえた。
 ただ長だけが、アズエルの言葉を探るように考えている。


「ならば長よ。私からも問わせて貰おう。―――姉上は、まだ存命だろうか?」
「……………」

 無言で長が何かを投げ寄こした。

「!」

 受け止めたものを確認した瞬間、アズエルの顔から血の気が失せ、すぐさま真紅の色合いを
引き起こす。
 牙を象ったシンプルな造りの首飾り。
 エルクゥの皇姫へのみ与えられる、身と血の証である。
 きっと睨むアズエルに、『長』が淡々と返す。

「残念ながら、『リズエル』は包囲から逃れたと報告にある」
「そうか」
「だが、リズエルも時間の問題。それに汝も最早、逃げること能わぬ」
「……だろうな」

 後に続く言葉は、アズエルの耳に入らなかった。
 安堵に深く溜め息が洩れ、思わず上を向いた目に、真円の月が飛び込んだ。


 …あの時から、月の二巡りが立っていたのか。


 感慨深いものを覚えながら、アズエルは姉の首飾りを握りしめた。
 アズエルの言う『あの時』。
 それは彼女の初めての妹が―――エディフェルが亡くなった日。
 それも、実の姉であるリズエルの手に掛かった、新月の夜のことである。





      〜 エピソードII『 アズエルの拳 』 〜





「エディフェルは、私が……」

 初めて見る、蒼ざめた姉―――『リズエル』の表情。
 皇族に宛がわれたヨーク内の一室。
 厚い沈黙と薄い冷気の中で、姉の右手が小さな赤い飛沫を床に産み続け、自身を濡らす熱い
色が、未だ乾いていないことを主張している。
 もちろん、その色は姉のものではない。
 同じ源から産まれた、アズエル最初の妹のものだ。
 ……いや、妹のもの"だった"。
 姉の顔色は冷たく、さながら死者のように目を閉じて表情を崩さない。
 沈黙を破ろうと、アズエルが口を開く。

「姉上は『掟』に従ったまでのことです」
「……掟……?」

 ぽつりと復唱を果たし、その唇がゆっくりと結ばれた瞬間。

「!」

 アズエルは、姉の蒼白い顔に炎が灯る幻影を見た。
 生まれゆく炎の色は蒼。
 その色は冷たくとも、その温度は朱よりも遙かに熱い。
 心身に伝わった姉の炎に、アズエルは何か覆せない決定が行なわれたような圧迫を覚えた。
 冷静な言動から周囲に誤解されがちだが、リズエルは理知的な面よりもむしろ、思い詰める
ような激しく頑なな部分が本質に近い。
「…………」
 自分のたじろぎが伝わったのだろう。
 姉の炎は内なる深淵に消え、ゆっくりと閉じた瞼が開く。


 その瞳は、既に濡れてはいない。


「……あの娘はね、エディフェルは、私を見ても逃げようとしなかったわ。私は密かに、あの
娘が逃げてくれるのを望んでいた。狩猟の民は、自らが追う者を逃がさず、そして諦めること
もない。だからこそ、私自身が出向いたというのに……」

「まさか、姉上はご自分が討たれることを……」
「……いいえ。私が討とうとしたのよ、エディフェルの愛したニンゲンを」
「…………」
「私が“復讐”の標的になるのも良かった。生き延びてくれさえすれば、ただ、それだけで良
かったのよ。だけど、ニンゲンを庇った妹を、私は――――」


 最後に姉は、妹と添い遂げたニンゲンが、エルクゥを宿していることを告げた。
 衝撃が強すぎたのか、さしたる驚きはない。
 ただ、代わりにふつふつと湧き出る感情がある。
「それは……」
 狩りの対象になる。
 エルクゥは興(…あるいは“狂”だ…)であっても愚ではない。
 自由な存在を望みながら、身を縛る『掟』を持つ。
 それが一族の存続と、高き誇りを守ると信じるがゆえに。
 例えば、同族同士の戦闘の禁令。
 その崩壊を避ける為に、リズエルは実の妹を手に掛けた。
 他者の手でなく、遺恨なき己の手で。
 エルクゥを宿していても、種族の『掟』を負っていないニンゲン。
 ある意味、『掟』のない野に放たれたはぐれ者は、危険な存在だ。
 エルクゥ殺しに躊躇ない身ゆえに、エディフェルの仇討ちを決意することもあるだろう。
 その身には、望みを可能にするチカラが備わっているのだから。


「……どうして、あの娘は逃げなかったのかしら?」


 姉にかける言葉が出ず、アズエルは息苦しさに喉を鳴らした。
 ふと、汗と食い込んだ指の痛みに、無意識に握られた己の拳を見る。
 ハッとして、すぐに視線が姉の手に移った。
 …迂闊だった。
 まだ乾かない、赤く濡れた右手。
 高い自然治癒力を誇る、エルクゥの肉体には有り得ない。
 もはやエディフェルの血でなく、きつく握り締めた自身の掌から流れるものなのだ。

「…姉上」

 アズエルが歩み寄り、そっと姉の右手を包んだ。
 血に滑りながら、堅く閉じた指を一本ずつ解こうと試みる。
 赤い色が自分に。そして自分の温度が冷たい姉の手へと交差する。
 血に滑って作業が進まず、焦りでアズエルの額に汗が浮かんだ。
 自分に落ち着けと言い聞かせながら、何とか姉の手を開き、簡単な手当てが完了する。
 再び沈黙が続いた。
 悲しみも痛みも感じず、ただ息苦しかった。
 だから、その苦しさから逃れるように、アズエルは口を開いた。


「一つだけ聞かせて下さい。あの娘は、泣いて最期を逝きましたか?」

「……いいえ。済まなそうに一言『頼み』を残したわ。そして最期に小さく笑ってね。だから
こそ、余計に辛いのよ」


 幼子のように、姉が自分の手にすがる。
 その仕草を両手で迎えながら、アズエルは声を落とした。
 掌に伝わる小さな震えをなだめるように。
 ゆっくりと、己の考えを確かめるように。


「あの娘も分かっていたのでしょう。姉上が出向いた事を。その辛さも充分に……」

「どうして、そんなことが言えるの? 私を恨んだかもしれないわよ」

「同じ立場として分かる、では不服ですか? エディフェルは、私にとって最初の妹だったの
ですよ。姉上にとって、私がそうであるように」

「…………」

「もう一人の妹。リネットには、私が伝えましょうか?」

「―――ありがとう、アズエル。でも、これは私の役目だわ」


 末妹の部屋へ向かう姉を見送り終えると、アズエルはヨークの外へ出た。
 全てが風に飲まれ、遠くなる一瞬の感覚。
 夜気を切り裂き、木々の隙間を縫い、アズエルは雨月山を駆け登った。
 緑なき山頂付近に辿り着くと、岩肌に腰を下ろす。
 無骨な冷たさを半身で感じながら、アズエルは視線を泳がせた。
 世界は夜が支配している。
 今宵の空に月は無く、薄雲が流れ、星は群れることなく微かに息づく。
 そんな闇の中、炎が目に入った。
 生命の炎ではない。
 遥か足元に揺らめく、ニンゲンの家屋が灯す炎。
 それは小さく、ひどく頼りなげにアズエルの瞳へ映る。
 残された妹を憂い、続いて憔悴した姉に唇を噛みながら、アズエルは失った妹を想い忍んだ。


(……あの人を殺さないで。エディフェルが最期に私へ告げた言葉よ)


 部屋を出ていく際に、姉リズエルが背を向けたまま発した一言。
 …殺さないで、か。
 他種族の助命を請う言葉ほど、エルクゥに似つかわしく無いものはない。
 心優しいリネットなら兎も角、戦闘に於いて“閃光”と異名を馳せた皇姫とは思えぬ。
 間違いなく、エディフェルはニンゲンと触れ、変わってしまったのだろう。

 ――と、そこでアズエルの思考は中断された。
 不意に周囲が締め付けを伴ったのだ。
 それは空気が層をなす鬼気。
 かような存在感を放つ者など、一人しか存在しない。
 振り向くこと無く、アズエルが呟く。


「…『長』か」
「リズエルは、おのが役目を果たしたようだな……」
「…………」
「忘れろとは言わぬ。だが、囚われるのは避けるべきだ」


 生来、頑強な肉体を持つエルクゥに、生存術や戦闘技はある意味、不要な代物だ。
 だが、集団を指揮する立場ともなれば、より的確な指揮が要求される。
 場の空気を嗅ぎ取る者であれば、全体の流れを端の断片から知ることも可能だ。
 エルクゥにとっての『武術』とは、技でなく感覚を養う学問。
 一族の『長』ダリエリは、アズエルと同じ師の元で学んだ、同門の徒でもある。


「……なぁ、長よ。私は自分が滅びる時は、より強い存在の手に掛かる時だと、ずっと思って
いた。それは、エルクゥとして納得できる滅びなのだと。だが、本当はどうなのだろうな?
納得した最期など、無いのではないだろうか?」


 アズエルらしいな。
 軽く笑って見せ、『長』が鬼気を解いた。
 エルクゥ最強の『長』でなく、アズエルに親しい『ダリエリ』が居る。


「満足な最期など存在せぬさ。我ら一族の中に、前身のエルクゥを保持して“輪廻”する者が
しばし誕生するのが、他ならぬ証であろう」
「それは、より強みを目指す為ではないか? 現にエルクゥはエルクゥとして。同じ血筋の内
でしか、輪廻を果たさぬ」
「さあな。己が輪廻して知れば良かろう。―――そうして『妹』も探してみるか?」
「…………」
「…済まぬ。聞き流せ」
「…ふふふ。詫びなら、問いに答えて貰おう。一族の長でなく、ダリエリ個人に。一体、何が
望みで、この辺境の星で何をしようと言うのだ、あなた自身は……?」
「…………」


 突然の沈黙の中、微かな緊張が走った。
 言い難きを話すように。
 憧憬を告白するように。
 ゆっくりと、ダリエリが口が開く。


「我が望みは変わらぬよ。我は、母なる星への帰還を諦めた訳ではない……」
「…そう……か」
「長居した。我は先にヨークへと戻ろう」


 長が去った後も、アズエルは佇んでいた。
  長が吐いた願い。
 それは皆も同じ思いだ。
 だが、翼なき我らに、この辺境の星を抜け、真なるレザムへ帰る術はない。
 ならばこそ、“箱船の巫女”たる『リネット』は貴重なのだ。
 傷ついた“ヨーク”が、その翼を癒す遠き日まで。
 たとえ事態が如何に展開しようとも、ダリエリ個人がその望みを抱く限り。
 エルクゥは可能な限り、個々の欲望を追求する。
 ―――そして、自分も同じく。

 唯一の気がかりが、末妹の行く末だった。
 だが、長の返答を聞いた今、それは解消されている。

「…ふ……ふふふ……」

 思わず、微笑が洩れた。
 アズエルを知る者が聞けば、眉を寄せるような暗さと、危険な響きで。


「……帰還だと? 長よ。妹のエルクゥをこの星に残して帰還するほど、私の心根が冷たいと
お思いか?」


 眼下の小さな炎が消えるまで、しばらくアズエルは岩陰に座り続けた。
 冷えゆく自分の心の奥底に、姉に見た青い炎を重ねながら。



                             :
                             :
                             :



 それから、姉妹二人の戦いが始まった。

 この星へ根付く為に、
 母なるレザムへ帰還を望む者達や、ニンゲンを蔑視する者達と二分する現状を生みながらも、
エディフェルがなぜ逃げなかったのか? は謎のままだった。
 そして今。
 周囲を包む、屈強なエルクゥ達の壁を前にして。
 失った妹と同じ状況に立たされて、改めてその心情が理解できた。
 姉を前にして、なぜあの娘が逃げなかったのか?

 答えは、単純に逆だった。
 逃げられなくなったのだ。
 それこそ、姉の姿を目にした為に。
 ニンゲンと肌を重ねたからではない。
 姉と対峙した瞬間、妹はエルクゥでなく、エディフェルという、ただ一人の娘となったのだ。

 なぜ、我らを傷つけてでも、己の欲求に従わなかった!
 我らが恨むとでも思ったのか?
 逃げて良かったのだよ。
 我らを捨て、自分の幸せを追求しても良かったのだよ。
 生きていれば……
 生きてくれてさえいれば!

 エディフェルよ、私は涙を流さぬ。
 さりとて、祝福の言葉を投げるほど、寛容でもない。
 姉上を傷つけ、小さな妹を泣かせ…………本当に馬鹿な娘。
 私はね、エディフェル。怒っているのだよ。
 お前にも。
 そして、愚かしい『私』にもな。
 本当に我らは………揃いも揃って姉妹なのだな。
 済みません、姉上。
 そして許してくれ、リネット。
 私もまた、逃げられぬよ。
 この状況から。
 そして、自身の『願い』に。

 姉リズエルの首飾りを掴み、ずっと見上げていた月から、アズエルが視線を外す。

 私はもう、決めたのだから。
 姉上に生き延びて貰う。
 たとえ、一時の逃れであっても。
 ほんの数日、数時間の長さであっても…………生きて欲しい。

 それは、姉がエディフェルの良人を討とうとした時と似ている。
 ただ、違うのは、アズエルの勝敗がどちらに転んでも良いという点だった。
 たとえ、アズエルが敗れても、姉はダリエリを“復讐”の標的とする可能性が高い。
 心に深い傷を与える事となっても、生への本能は切り離せない。
 エルクゥとはそういう生き物だから。
 むろん、アズエルは己の生を諦めた訳ではない。
 が、その覚悟を促す程、目前の壁は強大で厚いことを、種族の本能と経験が告げている。


 ……それでも長よ、私は貴方とここで戦う――――!


 沸々と静かに、体温が上昇する。
 未来を諦めた訳ではない。
 過去を捨てたのでもない。
 悲しみも怒りも、今は無かった。
 文字通り、今この瞬間だけ、戦い以外の全てから解き放たれていた。
 駆り立てるような快さに、心が歓喜の歌をつむぐ。
 アズエルが発し始めた空気に、周囲が緊張と沈黙で呼応する。
 ただ一人、アズエルの淀みがないその様に、ダリエリが笑みを洩らした。


「まったく炎のように、混じりけ無き娘よ。臆することはない、高貴なる炎を名乗る者!
汝は咎人である前に一人の狩猟者。そして我もまた、長である前に、一人のエルクゥ……」


 アズエルに柔らかな笑みが浮かぶ。
 それは澄み切っていて、却って見る者の胸を突く。


「貴方のそういう所は好きだったよ。他のエルクゥの、他者を卑下した優越感とは違う、自ら
に対する信念や誇り高さ……」
「…その賛辞、覚えておこう」


「…では」
「応ッ!」


「エルクゥ皇族が一姫、“猛り高貴なる炎”アズエル、征く!」
「エルクゥ一族が『長』“墜ちし焔皇”ダリエリ、叩き伏す!」


 炎の異名を持つ二人は、互いに地を蹴った。
「?」
 アズエルの初手が爪の斬撃でなく、拳を振ったことにダリエリが眉を寄せる。
 エルクゥの爪。
 昔の侍が、攻撃に「斬」を、暗殺に「刺」を重視したように、その両方を兼ね備えた爪は、
エルクゥの筋力とスピードを生かした最良の武器だ。
 遙か後年に於いて、柏木一族の面々が「痕」本編や、黒いラルヴァを巡った事件に於いても、
その使用頻度には高いものがある。
 だから、この時アズエルの取った行動は、ダリエリには不可解なものだった。


「その拳が、汝のエルクゥへの抵抗か……?」

「我が爪は、敵を切り裂く剣(つるぎ)。一族へ向けるに非ず! 同族の血を吸わぬ剣は、我が
願いにして、我が意志なり!」


 ついて出た叫びは、自覚の表れ。
 姉が妹を討った晩。
 事の衝撃や、哀れみと悲しみの感情に揺れながら、あの夜アズエルは生まれて初めて、姉を
嫌悪したのだ。
 それは、姉が妹のエルクゥを継いだ存在を話した時に芽生えた。
 エルクゥを宿していても、種族の『掟』を負っていないニンゲン。
 ある意味、『掟』のない野に放たれたはぐれ者。
 それに対し、一族に禍根が残らぬよう、自らの手を血に染める『掟』に従った姉。
 理屈は解っている。
 事情も解っている。
 だけど、芽生えた感情は無視できなかった。
 押さえつけて、意識の奥底に葬る事で、全ては終わったつもりだった。
 それでも根は残り、今この場にて、唐突に吹き出している。
 感情を御し切れていない。
 それは戦士としてマイナスであろう。
 だが、その負点を原動に、アズエルは攻撃を繰り出し始めた。


「オオオオオオオォォォォォォーーーー!!!!」


 解き放たれた故に一切の迷いが無く、そして皮肉な事に彼女の攻撃は、強烈な自身の衝動を
糧とするエルクゥそのものである。
 言うなれば、それは“自然体”だった。
 そして徐々に、夢中で攻撃を繰り出すアズエルが“技”のみでなく、その戦闘の中で天賦の
“質”を顕現し始めていることに、ダリエリは気付いた。

『魅せられている』

 冷静な戦士ゆえに、ダリエリは自分の感情を肯定していた。
 時として、このような種がまれに登場する。
 努力や経験とは異なる、天賦や運命が味方する者。
“天才”と呼ばれる貴種や、“偶像”とされる英雄。
 幼い頃より彼女の生い立ちを。
 その身に宿す血を知るダリエリには、より相応しい言葉が言える。


 ―――即ち、“皇(おう)”と。


 それは、戦闘力や美貌では無い。
 リズエルは敢えて『それらしく』振る舞おうとし、諦めた自分は『別』を目指した。
 どうしようもない資質を備えた、此処には居ないはずの存在。
 居れば、二手に割れての争いなど起きなかっただろうに。

 その『皇』が、この最中に顕現するとは。
 それも『女』にして、『次女』とは――――


 何とも皮肉な事よ……!


 一滴の汗が頬を滑り、ダリエリは薄く笑った。
 相手の興奮に、自分が伝染し始めている。
 動作を極めるということは、一切の無駄が無くなることでもある。
 つまり、最小限の動きと一連の流れは“速く”且つ“美しい”。
 互いの動きに美を見た。
 そして、同じ領域に在ることを喜び、だからこそ、その僅差を以て激しく交差する。
 それは死闘より、むしろ師弟の手合わせにも似ていた。

「『爪折り』かっ…!?」

 弧を描く拳が、爪の側面を薙ごうとする。
 予測よりも、アズエルの動きはやや速い。
 ……惜しいな。
 ダリエリは、思わず呻いた。
 自分は戦士として、既に完成の域に在る。だからこそ、これ以上の進展は難しい。
 逆に目前の娘は未完成であり、それゆえ限界がまだ見えない。
 彼女が今ある場所は、かつて自分が歩んだ所であり、それ故に見通せる。 
 だが、その限界点は見通せない。

 ……見たい!

 無論、それは自分の我が儘と知っている。
 だからこそ。
 未練を断つように、ダリエリは大きく構え、そして吐いた。


「アズエルよ、次が最大にして、最後だ……」


 自然と咆哮が生まれ、そして――――
 剛と捷を兼ね備えた肉体に、単純な命令を下す。
 すなわち、全力でと。
 使用していなかった筋肉の束が、流れる闘気に目覚めて『増強』を始める。


「…行くぞ」


 巨体が疾った。
 左から肩口に入る振り抜き。
 分かっている。
 予測できている。
 しかし、単純な爪での攻撃が、圧倒的なスピードと破壊力、そして単純ゆえに難しい。
 迷いの無い一撃。
 それは、この攻撃に絶大な自信を持っている表れ。
 逆にこの一撃を凌げば、勝機は訪れる。
 そう、アズエルは直感し、心の赴くままに動いた。
 間合いがゼロとなったことを、視覚でなく、巨体が起こす風で受け入れる。
 その風に押されるように、交差の瞬間、左後ろへとアズエルが半円の動きで引いた。
 同時に腰構えになる右の拳。

 ……っ!

 朱線が胸に刻まれたが、それは予測の範囲。
 アズエルの“引き”が止まり、生まれた捻れと溜めを以て、放たれる交差の反撃。
 それも予測の『ハズだった』。

 ……連撃だと!?

 右腕を振り抜いた体勢のまま、ダリエリの肩口が追撃を見せている。
 引いた分、アズエルの攻撃に遅れがあった。

 接触の寸前、足踏みの溜めと共に、直線から横への運動をダリエリの全身が生み出す。
「くっ!」
 アズエルもまた、辛うじて二撃目をかわす。
 ダンッッッ!!!
 土塊が跳ね上がった。
 強烈な踏み込みで、前傾したダリエリの動きが止まる。
 アズエルの顔色が変わった。
 このスピードで無理な運動をすれば、筋肉に断裂が―――いや、そうか! アレはその為の
『増強』だったのか!

 だとすれば、次は『左』!!

 今までの軌道に十字を切る形で、延びきった左腕が下からすくい上がる。
 くっ……!
 追い込まれた緊張に集中が研がれ、意識の中で手足の枷が外れた。
 それが刹那の神速を可能とし、奇跡に近い回避を生む。

 ブンッ!

 今度も逃れた。
 が、辛うじて避けた左腕の手首を、右手が掴む光景を見て、ぞくりと背が寒くなる。
 大きく崩れた体勢のアズエルに。
 反転し、下に向けられた左掌。
 その上から叩きを重ねる右腕。
 それはさながら、両手持ちの剣の如く振り落とされ――――

 …避けられない!

 そう自覚した瞬間、迷うことなくアズエルは、攻撃に転じていた。
 ここが生死を分かつ“死線”であることを、研ぎ澄まされた“直感”が告げている。
 いや、自分とダリエリが共に肌で解っている。
 狙うは、ただ一つ。
 組まれた腕の間だ。
 掌同士で組んだ間なら、肘を合わせることで、咄嗟に閉じることも出来よう。
 また、肘を落とす攻撃へ転じることも可能だ。
 だが、片腕の手首を掴んだそれでは、関節の構造上、隙間を埋めることは難しい。
 狙いは絞られた。
 どちらの攻撃が当たるか?
 後はただ、それだけの事だった。


「オオオオオオオォォォォォォーーーー!!!!」

(…貰った!)


 ―――ハズだった。


 …血煙が舞った。
 双方に。


「アズエルよ、お前を仕留めるなら、この片腕は惜しくない……」 


 離す暇さえ惜しみ、己が手首を握り潰した拳が直撃したのだ。
 肉を斬らせて、骨を絶つ―――と常句にある。
 だが、ダリエリは肉も骨も投げ出して、生命そのものを絶ちに来た。


 油断した訳ではない。
 ただ、自分が及ばなかっただけだ。
 覚悟に於いて。
 灼熱の痛みを胸に感じながら、アズエルは呻いた。
 恐らくダリエリの手首は、ヨークの再生培養器を通して、数日の内に治癒されるだろう。
 ダリエリは愚かではない。
 自身の傷が癒えるまで、リズエルとの戦闘は控えるに違いない。
 自身を除く配下の者では、余程のことが無い限り、彼女と渡り合える人物はいないのだから。
 その束の間だけでも、リズエルは時間を得ることが出来る。


 自分の戦いが終わったことを、アズエルは悟った。
 後は、姉に任せよう。
 だから、目前の兄弟子に、勝者へのはなむけの言葉を囁こうとする。
 自分の本心と、先に逝く者としての……
 誠実に自分へ向き合ってくれた礼を……
 貴方の“強さ”と自分の“喜び”を……


 ああ、もう時間が少ない。
 自分の色あせる、生命の炎が視えるのが恨めしい。
 何を話そうか?
 何を話せばいいか?
 上手く働いてくれない頭が、唇がもどかしく――――悔しくて、目頭が熱くなる。


「……長よ。満足な最期は…………」


 胸を貫いた巨腕に手を添えて、必死に言葉を紡ぐ。
 白く混同し始める意識。


「…絶望も過去へ移れば…………だからさ……」


 何を言っているのか、自分でも解らない。
 ただ解るのは、大事なことだという……



「……貴方の願いも、いつの日か――――」



 言葉を続けることなく、アズエルの身体は崩れ落ちた。



        ※



 …怒りは湧いてこない。

 戦いの興奮が去り、ダリエリは自分に狩猟の民本来の冷静さが戻ってくるのを感じた。
 爪の斬撃と異なり、殴打のダメージは、エルクゥの肉体でも直ぐには抜けぬ。
 現在に加え、目に見えぬダメージが、後日に吹き出す為だ。
 そして何よりも、片腕の治癒が最優先だった。
 いかにダリエリとて、今すぐ皇姫最強の実力者リズエルと戦えば、敗れる可能性も大きい。
 少なくとも、月の一巡りの間、リズエルを追うことは出来ないだろう。
 結果として、アズエルは自分の足留めに成功したのだ。
 蓄積されたダメージを感じながら、ダリエリは地に横たわる皇姫を見下ろした。
 アズエルの敗因は解っている。
 最後の攻撃に於いて、彼女は狙いを心臓や腹部でなく、顎に定めたのだ。
 スピードなら自分に利があると思い、それ故に“生け捕り”を目論んだに違いない。
 熱を失ってなお、拳を解かないアズエルの腕を、健在な方の手で取る。


(汝も妹と同じく、エルクゥを離れていくのか………それが叶わぬことと知りつつ)


 血塗られること無かった爪。
 硬く握られたままの拳を開こうとして、ダリエリは行為を中断した。
 彼女の手に、投げ渡した皇姫の証。リズエルの首飾りが握られていることに気付いて。
 アズエルの首にも、同じものがある。


(何処となり、好きに彷徨うが良い。また再び、巡ったエルクゥのまみえる日まで…………)


 中断した行為を再開する。
 娘の掌から取り出したリズエルの証を、リズエル自身のものと重ね、己の掌に包む。

 ……ピシッ!

 澄んだ音と共に、証が粉と化した。
 他の同胞には、追放したように見えただろうか。
 それとも――――解放したと知れただろうか?
 おそらく前者であろう。
 エルクゥには、獲物を陵辱する習慣はあっても、死力を尽くした戦士を汚す礼は持たない。
 背後から、微かに非難めいた視線を感じる。


「これでこの星には、リネットの首飾りを残すのみとなったか……」


 一族に禍根が残らぬよう、自ら血に染めた手を見ながら、ダリエリは呟いた。
 リズエルは妹を手に掛け、自分もその上の妹を討った。
 次もどちらかが、己の手を同族の血に染まることは避けられない。
 負ける気はしない。
 さりとて、気が進むものでもない。


 ……いずれ自分もまた、同族の者に討たれるやもしれぬな。


 それはリズエルだろうか?
 それとも――――
 立ち尽くすダリエリの姿は、ひどく疲れて見えた。
 やがて吼えることもなく、その姿は闇の中へと跳躍した。
 配下のエルクゥが次々と続く。
 辺りはしんとなり、岩場に散った証の粉片が、月の光を浴びて、キラキラと輝いている。
 それらもまた、下から吹き上げる夜風に乗って流れた。
 その先には人里があるはずだった。
 アズエルがこの場から見下ろした人里が。
 人里の灯火を求める虫達のように、証の粉片は雨月山を降っていった。



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         <あとがき>


 …四ヶ月ぶりになります。
 どうも、お久しぶりのdyeです。

 「エピソードII」と銘打ってますが、単品で読めるように造りました。
 単純に、前作で触れた「アズエルとダリエリの戦闘」を、文章にしただけです。

 直接的な戦闘能力を有する面々(初音嬢を対象から除く為に、敢えてこう書きます)の
中で唯一、梓だけが『爪』を使用した記述が出てきません。
 LF97でも、技にはありませんし……(笑)。
 この辺から喚起したのが始まりでした。

 自分、エディフェルのファンですが、彼女=楓に思えない人間でして……(汗)。
 たぶん、前世と全く同じでは転生の意味がない、と根底にある為かと。
 だから「似て非なる」を目指して、敢えてアズエルは少々「外し」を試みました。
 違和感を感じた方が居られましたら、それはそれで正解です。
 それと、聞き慣れぬ「設定」の数々は、創作であることをお断りしておきます。

 では、この辺で。

                                      −2001.6.11(MO)−