Standard 投稿者:dye 投稿日:2月1日(木)00時26分
 …ガタン、ゴトン。
 …ガタン、ゴトン。
 鋼のレールを踏む、リズムと振動。
 ゴオオオォォォォォォーーーーーー!!!
 駆け抜ける風とエンジンの轟き。
 遠くなる、見慣れた街並み。
 近づいては消える、何処となく懐かしい景色。
 小さな駅を通過し、
 大きな駅で停車を繰り返しながら、特急列車は走り続けた。


 終点である、隆山市を目指して。



        ※



 俺【柏木耕一】の大学は、夏休み明けにテストがある。
 その後の採点期間中は、大学構内の主な施設が立入禁止となる為、一週間弱
の休みが設けられている。
 それにプラスし、補講や追試、他大学から招いた講師による、数日間の自由
選択講義が行われる為、総十日間は休みだ。
 通称「秋休み」。
 いつもは、俺も追試に追われる立場だが、同じゼミの【小出由美子】さんと
いう、ノートの神様の存在もあって(この神様には、パフェなるお供え物を数
日間に渡って捧げた)、十日間の休みを確保することに成功した。


 ゴールデン・ウィークより長く、夏休みよりも短い休暇。
 その初日前日から、俺は親父の実家である隆山市を目指し、始発の特急列車
に乗り込んでいた。
 建前上は、亡くなった親父の四十五日を弔う為だ。
 もっとも本当は、従姉妹である彼女に逢う為なのかもしれない。
 あの夏の一夜に結ばれた彼女。
 一連の出来事は、何だか遠い昔のような感じがすると共に、昨日のことのよ
うにも思える。
 所々曖昧なくせに、それが起きたことは強烈に憶えている感覚は、陳腐だが
『夏の夜の夢』という表現が相応しい。


 いつの間にか列車は都市を離れ、やや山間部に面した土地に入っていた。
 山並みにある、僅かな平地を利用した水田の周囲で、緑に溶けた桃色と白の
霞が目に止まる。
 それはまばらに咲く、野生の秋桜。
 まだ満開に至らぬ霞は、その少数に却って、点画のような幻想を湛えている。
 右から左へ。
 山々と草むらの緑はそのままに、そこへ潜む色彩だけが変化を見せた。
 視界に流れてきた黄金色は、遅れ咲きの小さな向日葵たち。
 堅い葉群に見え隠れする、オレンジ色のびわ。
 百舌鳥の手つかぬ柿は、まだペパーミント色で、まるで梨のようだ。
 名も知らぬ小さな白い花と、紅い粒を飾りとする、編み込んだ髪の如き蔦。
 右から左へ。
 点々とした異なる色彩は、徐々に数を減らし、やがて緑の幕を閉じた。
 しばらく続くと、萌えも枯れもない草木で満ちていた空間は、唐突に一本の
巨大な線へと消失する。

 緑から碧へ。
 思わず立ち上がり、窓を開放した。
 吹き抜ける風に、独特の匂いが混じる。

 それは海。

 夏とは違い、日差しと人間に荒らされることなく、コバルト色の淡い水平線
から次第に蒼を強め、中原からは逆に、段々とオーシャンブルーの碧を失いな
がら、汀の白泡へと還っていく層を成している。
 山間部で見た、吹く風になびく草木の波。
 今、目前にある、空と海を染める蒼と碧。
 嗚呼、秋だな………と、単純に思わせる優しい雰囲気が胸をついた。
 美しく、
 そして優しい存在。
 そのイメージに喚起され、大切な人の名が頭に浮かび、唇からこぼれる。

「――か…」

 瞬間、下りの対抗列車が脇を通過した。
 呟きが大きな空気の振動に飲まれて消える。
 続く光の乱舞。
 流れる車体に反射した陽光を受け、立ちっぱなしだった俺は腰を下ろした。
「…………」
 眩しさに瞳を閉じる。
 そう言えば、彼女もまた、秋の生まれだったな。
 ひどく優しい気持ちで、従妹の姿を思い浮かべた。
 豊富な海の幸が示すように、隆山市は日本海に面した土地だ。
 海が見えたことは、その土地に近づいている証でもある。
 窓枠を通し、鼻腔をくすぐる潮風の香が、彼女と俺の距離が縮まったことを、
いっそう強く感じさせる。


(――明日、そっちに行くから……)
(……ええ、待っています)


 海に臨んだ鶴来屋とは正反対に、柏木家の屋敷は山へ面している。
 それ故か、幼かった俺達には、山河が遊び場の中心であり、従姉妹達と海に
行った回数は、片手で数え足りる程度に過ぎない。
 この休日、海へ行ってみるのも、良いかもしれないな。
 漠然と思いながら、窓辺に腕を組み、その上に顎を乗せた。
 青空から降る日差し。
 窓縁の冷たい金属に広がる、自分の体温。
 上下の、熱を奪い奪われる感覚を楽しみながら、俺は穏やかに到着のアナウ
ンスを待ち続けた。



        ※



 今日は月曜日。
 朝から家中が落ち着かない。
 千鶴姉さんは、会議で使う大切な書類を忘れて出勤し、慌てて足立さんと共
に戻って来た。
 梓姉さんは、昨夜から夕飯の献立をあれこれ悩み、寝不足のまま登校。
 元気なのは初音。
「今日は急いで帰るからっ!」と、いつもより早起きして、学校へと向かった。
(…だけど、早く登校したからといって、早く帰れるかどうかは、全く関係が
ないと思う……)
 この感じは悪くはない。
 互いの変化にクスクスと微笑み、仕方ないわねと、奇妙な連帯感を確認し合
う光景。
 もちろん、私【柏木楓】も例外でなく………と言うより、私が一番、所在が
なかったような気がしてならない。
 今日は、耕一さんがやって来る。
 自分では、あまり表に出てないはずだと思うけど、昨夜の電話で耕一さんと
話を終えた辺りから、何だか気持ちが、高揚し続けている。
 どんな挨拶をしようか?
 当日、どの服を着ようか?
 何を話そう、何から話そうか?
 単純な問いがグルグルと巡り、気が付けば、お茶を何度もお代わりしていた。
 嬉しく、恥ずかしくもあり、待ち遠しくて、落ち着かない。
 自分の気持ちを表す、全ての選択肢に○が付けれる程、混乱が生じている。
 冷静では居られない。
 鏡を見なくても分かるから。
 そこに映るのは、ダメ押し気味の幸せに緩んだ、自分の上気した頬。


 案の定、よく眠れない時間を過ごし、私は当日の朝を迎えた。
 体育祭の翌日の為、今日は学校が休み。
 だから正午には、私が耕一さんを駅まで迎えに行くことになっている。
 時刻は、午前10時20分。
 耕一さんの到着まで、まだ時間がある。
 そこで私は、アーケードの商店街まで足を延ばした。
 アーケードは駅に近く、待ち合わせに遅れることもない。
 それに一人家にいるよりも、気を紛らわすには事欠かない場所だから。
 学生の私には馴染み薄い、開店したばかりの独特の感覚。
 何だか、まだ寝ぼけているような、起きたての雰囲気が面白い。
 微かに準備を残した、いつもと違う、隙のある慌ただしさ。
 まだ大勢の人で染まらぬ、人でなく品物の匂いする空気。

 その匂いの一つにつられ、自分でも珍しく、化粧品を覗いてみた。
 基本的にお化粧はしないが、時にはナチュラル・メイク程度の薄化粧をする
こともある。
 もっとも、同い年の友人達に言わせると、私のお化粧はしていないに等しい、
慎ましいものだそうだ。
 街頭に面した店先では、秋物の新作が並んでいる。
 淡いピンク色のリップを、一つ手にとって眺めた。
 新しいリップを、買ってみたりするのも良いかもしれない。
 もちろん、初めて披露するのは、耕一さんだと…………嬉しい。
 どうですか? って聞かれた耕一さんは……
 トントン。
(……誰?)
 そこで、肩を叩かれた私は、振り返った。

「!」

「…やっぱり、楓ちゃんか」

 目の前で、耕一さんが笑っていた。

 ………え?
 ―――ええっ!?

「あはは、いや、起きた時間が早かったから、電車を一本早めたんだ。自由席
で切符を取ってたし」
「……………」
「何だか、見覚えのある後ろ姿だったんで、声を掛けたんだ」
「……………」

 不意打ちすぎた。
 突然の事態に言葉が詰まり、思考が渋滞を起こしている。
 何か言わなければと気ばかり焦る。
 ただでさえ、私はアドリブ効くような口達者ではない。
 ……だ、だめ。何も、思いつかない。
 とりあえず笑顔を―――
 硬い頬を動かそうとして、ふと、リップを手に取り、嬉々としていた自分を
見られた可能性を思いつき、私は恥ずかしさで、ますます硬直した。
 〜〜〜〜!
 ここがお店の中でなければ、耕一さんの前から逃げたに違いない。
 もしくは、恥ずかしさの余り、この場で泣き出したかもしれない。
 実際、ほんの少し、私の両目は潤いを増していた。
 だが。
 私のパニックを気にすることなく、耕一さんは「元気そうだね」と笑いなが
ら、私の頭に手を置いた。

(あっ…)

 不思議なことに、私の混乱はたったそれで消え去っていた。
 気持ちの全てが、触れた耕一さんの手に集中する。
(…あっ―――あは、あははは……)
 自分の単純さに呆れてしまう。
 いや、それよりも……

「――何だか」
「…んっ?」

「……いいえ。何でもないです」


(…何だか、今の耕一さんの仕草、叔父さんに似ていました……)


 気恥ずかしくて、私は思わず言葉を伏せた。
 小さく、震えるようにためいき。
 胸の奥に納める、微かな感慨。
 そして、今一度の深呼吸。
 うん。
 少し間を置き、ゆっくりとハッキリと、私は言葉を紡いだ。
 精一杯の笑顔と、確かな気持ちを込めて。


「お帰りなさい。耕一さん……」



        :
        :


 …ピチャン。
 一匹の魚が水面を跳ね、生んだ波紋へ消えていく。
 真似るように別の魚が続き、飛沫の群れが銀色に輝いた。
 砂浜に綴られた私達の足跡は、緩やかな波際に飲まれて半分になっている。
 入り江に並ぶテトラポットの一つに腰を掛け、 
 時折、思い出したように吹く、潮風で舞う髪を押さえながら、
 海を……そう、海を見ていた。


 どうしてこんな所へ? と尋ねた私に、頬を掻きながら、耕一さんは海を見
たくなったのだと答えた。
 早めに来た時間を埋める意味で、海で昼食を取るつもりだったらしい。
 アーケードに来たのは、その昼食を買うつもりだったそうだ。

「楓ちゃんと逢えて、助かったよ」

 耕一さんが、コインロッカーに荷物を置いてくる間、昼食の買い出しを私が
担当した。
 アーケード内にあるベーカリーショップで、レタスとマスタード・チキンの
クラブサンドを探し、冷めても美味しい、野菜コンソメのスープを総菜屋さん
で購入。
 クラブサンドは友達から。
 スープは、梓姉さんから聞いたオススメだ。
 そして、耕一さんと合流し、飲み物は道すがら、自動販売機でそれぞれ好み
のものを買った。
 私は温かい紅茶。
 耕一さんは、レモネードを。(本当はお酒がいいのだと、耕一さんは苦笑し
ていた。夕飯まで我慢するとのこと)

 まるで、ちょっとした、ピクニックだった。
 入り江に並ぶテトラポットの一つに腰を掛け、微かに温かいクラブサンドを
かじり、粒マスタードの固まりに咳き込み涙して、その度、スープとドリンク
に手を伸ばす。
 合間に、耕一さんが語る大学の話を聞きながら。
 クラブサンドが尽きると共に、生まれた満腹感に浸りながら。
 次第に口数が減った耕一さんが、嬉しそうに海を眺めているのを、何となく
横目で確認をして、
 この人が喜んでいるのは、私も嬉しい、と改めて、確認を繰り返し、
 眩しい思いに、思わず小さな笑みを浮かばせながら、


 私達は、二人で海を見ていた。



        ※



 ふと、隣の様子に気付く。
 幸せそうに微笑みながら、海を眺める彼女。
 平日の、しかも秋の海は、不思議なくらい人影がいない。
 海もいいけど、この貸し切りの状況に、彼女に構いたくなる。

「楓ちゃん、おいでおいで」
「?」
「もう少し、そうそう…………よっ、と!」
「きゃっ!?」

 ポフッ。
 近づいた彼女を、すくい上げる。
 膝の上、彼女の軽い体重が、自分のものと重なった。

「はいはい、緊張しないで」

 そう言われて、ますます意識する楓ちゃん。
 動揺する彼女も可愛いけど、それはまた次の機会に。

「俺がココに居るのが分かる? 君の側に居るのが……」

 その一言で、すっ、と彼女の身体の力が抜けたような気がした。
 しっとりとした輝きを留める髪を、繰り返しそっと撫でていく。
 安心した表情で、彼女が瞳を閉じた。
 陽光は暖かく、風は軽やか。
 釣り合いの取れた世界で、俺達二人は、身を寄せ合っていた。
 他に何も要らないくらい、とても満ち足りた状態で、すぐ近くに実感できる
互いの存在が心地よい。


「――何だか、このまま寝てしまいそうです……」

「…ああ、俺もだよ」


 彼女の、微笑んだ気配を感じたのは、錯覚だろうか?
 それっきり、二人とも口を閉ざしてしまった。
 言葉を必要としない時間。
 彼女を膝の上に乗せたまま、潮騒と吹く風の音を耳に、俺は目を閉じた。
 自然の音に混じり、規則正しい音が聞こえる。

 ……トクン……トクン……トクン……。
 ……トクン……トクン……トクン……。

 彼女の小さな心音は、ゆっくりと潮騒に重なり始め、やがては一つとなって
波のように遠ざかっていく。

 やがて、世界から音が消えた。
 遮断され、取り残される自分。
 だけど、彼女だけが、重さと温もりとなって、確かに存在している。


 そして、無音の意識の世界に訪れる、彼女の小さな声。
 触れてるものと、伝うものとが一つになる。


「…好きです。耕一さん……」


 どんなにそれが、ありふれた台詞でも、
 誰もが口にする、昔からのお約束でも、
 望む相手から与えられた言葉であれば、
 とても嬉しく幸せに思える。
 それを与えてくれた、相手への感謝と共に。

「もう一度、言って」
「…はい」

 真っ直ぐな言葉。
 大好きな人の声。
 痺れるような甘さと、指先まで染み渡る温もりを確かめながら、俺は愛しい
人の声に耳を傾けていた。
 彼女特有の、一言一言ゆっくりと大切に話す、静かな声音。
 それが途切れると聞こえる、落ち着いた海鳴りの間奏。


        :
        :


「……さん。耕一さん」
「!?」

 前後不覚。
 あっ……どうやら、本当に眠っていたらしい。
 私も先程まで軽く眠ってたんですよ、と楓ちゃんが答えた。

「知ってます? 人が他者の前で眠るのは、安心した証なんだって……」
「?」
「…だから、そういうことなんですよ」

 腕から抜け出し、立ち上がった彼女が、その場でターンを刻む。
 そして、嫣然と微笑んだ。
 彼女にしては、珍しい種類の笑顔。
 男が翻弄され、その意味に戸惑うヤツ。
 笑顔ひとつで済んだ答えに、何だか無念の気がしないでもない。


 目覚めたばかりの目に、夕日が飛び込んで来る。
 それに日焼けしたように赤く染まった、肩に置かれた白い手。
 風になびく黒髪と、それに彩られた微笑みの横顔。
 どこか懐かしい郷愁。
 忘れ得ない遠い日々。

 ――目と目が互いを映した。

 留め絵のように、映し続けた。
 気が付けば、自然と距離が縮まり、互いの吐息が頬を撫でる。
 触れるように、
 体温を伝えるように、そっと唇を許し合う。
 重ねるのではなく、柔らかさを確かめるように、相手の下唇を自分のもので
挟んだ。

「…んっ……」

 鼻先をくすぐる吐息の後、恐る恐る挟み返して、彼女が応える。
 微かに伝わった震えをなだめるように、唇をずらして軽く吸う。 
 時には軽く舌を突き出しながら、深くゆっくりとしたキスを繰り返す。
 やがて、彼女の頭を胸にし、抱き合ったまま、しばらくじっとしていた。

「…こ…う…いち…さん……」

 包んだ小さな身体から、声がゆっくりと漏れた。
 表情を見せることなく、彼女は俺の衣服に顔を沈めたまま、ぎゅっと回した
腕に力を込めた。

「…こ………ち……さ………」

 途切れ、途切れに、再び彼女がささやく。
 泣いているのかもしれない。
 そう思ったが、彼女の顔を伺うことはしなかった。
 確認することで、彼女との抱擁に、隙間を作ることが嫌だった。
 子供じみた理由で、彼女を離さない俺と、子供のようにしがみつく彼女。
 たぶんそれは、離れた距離が約束されている俺達が、ふだん互いに見せない
「甘え」なのかもしれない。
 その距離が埋まる、その日まで。
 自分の側に来てくれと、彼女に言えるその日まで。
 俺は何度でも逢いに来るし、幾度となく抱きしめるに違いない。

 その日まで……その日まで――――



        ※



 止まっていた時間が、再び動き出す。
 でも、それはあくまで私達の感覚であって、見渡せば辺りは、徐々に夕闇が
広がっていた。
 夕凪を迎え、吹いていた風、鳴り響いてた海も、遠く静かに潜まっている。

「…帰ろうか?」
「はい」

 集めたお昼のごみを片手にし、空いた方の手を、耕一さんが私に差し出した。
 じんわりと、互いの温度が交差する。
 軽く掌に力を込めると、ぎゅっと力強く、でも優しく応えが返って来た。
 それだけで、胸が一杯になる。
 ずっと、離さないで下さいね。
 溢れそうな胸の内で、私はそっと呟いてみた。

「ああ、そうだ。楓ちゃん」

 思い出したように、耕一さんが上着のポケットを探る。
 出てきたのは、紙袋が一つ。
 その中から、小さなリボンの付いた、手のひらサイズの小箱。

「はい、これ……」
「何です?」

 中から出てきたのは、小さなリップ。
 私がアーケードで手にしていた、秋の新作の一つ。

「…いつの間に?」
「へへっ、荷物をコインロッカーに置いてくる時に、ね」
「……変だと思っていたんです。一緒に行きます、って言ったら、トイレにも
寄るつもりだからって、断るし……」

「これ、見てただろ?」
「…やっぱり、見てたんですか」
「うん、まあね」
「………………」

 リップの蓋を開け、改めて中身を覗いた。
 秋を思わせる、優しい軽めの、ライト・オレンジ。
 今の私に、赤は煌びやかすぎる。
 ピンクでは、何となく子供っぽい。
 だから、手に取って眺めてみたオレンジ。

 この新作は、パッケージに【You ← He】と銘打たれていた。
 説明書きによれば、これは『ゆうひ』と読むらしい。
 おそらく、夕日も掛けているのだろう。
 軽くパール色も入ったこのオレンジは、光線の具合によっては、ハチミツ色
に輝いて見えた。
 まるで、数分前に見ていた、夕暮れの海のように。


「…耕一さん」
「んっ?」
「大事にしますね」
「…ああ」


 しばらく無言の数歩が続く中、さらに繋いだ手へ力が込もる。
 もちろん、それは無意識の仕草。
 それを認識し、何だか気恥ずかしくて、視線が下を向く。
 私と耕一さんの歩み。
 ふと、耕一さんの歩行が、今日一日ゆっくりとしたものだと気付く。
 たぶん、これは意識しての仕草。


「…耕一さん」
「何?」
「嬉しいです」
「へへっ」


「…耕一さん」
「うん」
「また一緒に来ましょうね、海」
「ああ、約束するよ」


 握っていた手が離れ、小指同士が指切りに結ばれる。
 軽く笑い合った後、再び合わさる掌。

 まだ潮風の匂いする歩道を抜けて、最寄りの駅を目指す。
 他愛もない受け答えを繰り返し、私達は歩き続けた。
 やがて、完全に辺りが暗くなり、夜の風が吹き始めている。
 微かな冬の気配する、頬に冷たい風。
 でも、掌は暖かい。
 満たされた胸が温かい。


 今日を思い返しながら、私はひどく幸せな気持ちで歩いていた。
 たぶん、傍らの人も同じだと確信して。


                          −Fin−
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         <あとがき>

 当初の題名は、「秋休み」でした。
 昨年に作り始めたものの、途中でストップ。
 再開のキッカケは、Foolさんとの縁で始めた某ゲーム。あるヒロインを
クリアした感想が、今の題名になっています。

 ちなみに、肌の色が白い人は、淡い色からダーク色まで、似合う口紅の色の
幅が広がるそうです。
 さらに、髪の黒い人は、色味のハッキリした色が似合うとか。
 本当はオレンジよりも、ピンクやローズ系が合うみたいです。
 ……すみません。ネタ優先で誤魔化しました(苦笑)。

 それでは、またの機会に。
                                      −2001.2.01(TH)−