天使帰還 投稿者:dye
                       <始めに>

   これは『創造・邂逅・流転・共鳴・集散・哀笑』(各章5話)の続きです。
   前話については、図書館のログを参照して下さい。
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  敗北の悪夢「醒めない夢」にケリを付ける必要が俺には残っている。
  そう、向かうべきは――


  …柏木邸は留守だった。無意味な待ち時間が過ぎ、街は夕暮れを迎えようと
している。随分とつれない対応だった。
  仕方なく俺は「水門で待つ」と記した文を玄関の扉に残し、そして「柏木」
の表札に、5本の爪痕を刻んだ。柏木家の者ならば、この痕を無視することは
出来ぬはずだ。
(柏木耕一に縁があれば誰でもいい。最後に狩るのが奴でさえあれば…!)

  俺は水門を目指して歩き始めた。そこはかつて敗れた場所であり、邪魔なく
闘いが行える舞台でもある。停止した過去は、そこから再び動き始めるのだ。
  夜に飲み込まれてゆく空を眺めながら、俺はため息を洩らした。続けて深く
吸い込み、微かに冷えた空気を肺腑に染み渡らせる。
  咆哮の衝動を喉で噛み殺しながら、俺は静かに夕闇へ息吹を返した。水門に
辿るまで同じ行為が続く。飽きることなく、繰り返し、何度でも…。

  ・
  ・
  ・

  大きな紅の染みがゆっくりと広がっていく。まるで紅の椿みたいに、お腹に
咲いた華は鮮やかだった。
  男の人の左手が爪を放ったのが先か、身体の自由を瞬間的に奪った『血』が
攻撃したのが先か…その光球が当たったのかさえ、よく分からない。夢でない
ことだけが確かだった。頬をつねらなくても、痛みが身体を支配している。
「あうっ!」
  光球を造ろうとして失敗してしまう。お腹の熱さと痛みが強過ぎて『血』の
声も聞き取りにくい。何も出来ず横たわったまま、雪の冷たさにすがった。

「帰らなきゃ…」
(どこへ?)
「かえらなきゃ…」
(誰の元へ?)
「カエリタイ…」

  問答を続ける意識が霞み始める。
「………」
  誰かの名前を言おうとして、唇が動かなかった。
  言えない名前に、胸の奥がぼんやりと熱を持つ。
  思い出せないけど、何だか心地よい気持ちが残っている。
  だから、そのまま眠ることにした。いい夢が見れそうで……。

  ・
  ・
  ・

「…ハァ、ハァ……くそっ!  うまく跳べぬ。ここは一体、どの辺りなのだ?
何やら水音がするが…」
「――ここは三途の川さ。地獄の鬼もいるけどな…」
「!」
  男が振り返った先には、俺の姿はもう消えている。危険を感じ、男が視線を
戻した瞬間、俺の右腕が相手の右半身を背中から貫いていた。

(逃がした獲物に再会とは幸先がいい…)
  血の温もりがもたらす、灼けるような充足。
  ふつふつと沸く甘美な衝動が確信を生む。俺は間違っていた。悪夢は元から
存在していなかったのだ。
  敗北に震える「醒めない夢」はもう見ない。悪夢は終わり、柏木耕一を爪に
掛ける夢、期待が全身を熱くする「冷めない夢」が始まるのだから。

「…な…なぜ…お前が…ここに…」
「…フッ。俺の方が聞きたいくらいだ。こっちは、殺したいほど愛しい相手と
待ち合わせ中なんでな。貴様は邪魔者なんだよ」
「…そうか…だったら…ますます邪魔をしないとな…」
  血を溢す唇でニヤリと笑うと、男は何やら呟き始める。
「2度も逃がすつもりは無いッ!」
  右腕を引き戻そうとした瞬間、周囲に奇妙な感覚が走った。


「…やってくれたな」
  俺は見渡す限りの荒野を前にたたずんでいた。背後も同じ光景が続いている。
ここが日本でない事だけは確かだった。何故なら、沈んだはずの太陽が空高く
輝いている。
  右腕に貫かれたまま、男は既に絶命していた。こいつが放った最後のチカラ。
一矢報いたつもりなのだろう。満足そうな笑みさえ浮かべている。

  地平線まで広がる荒野。男には悪いが、俺は絶望するつもりは無い。狩猟は
生存の術でもあるのだ。
(生き抜いてやる。そして必ず日本に帰り、柏木耕一を…!)
  皮肉にも、かつて死を与えかけた男が今では希望をもたらしている。
  微かな唇の歪みが、やがて声を伴う。
  それは十年ぶりに発した太陽の下での哄笑だった。


                                        −第1話・完−

                                        以下、分岐のED
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  柳川の登場は今回で最後です。(前回から随分、間が開きましたが…)
  これも『帰還』の一つになんです。帰還を目指す者と言った所でしょうか。

  あっ。水門に来た柏木さんが、すっぽかされた後日談は書きません(汗)。