天使哀笑 投稿者:dye
                      <始めに>

  これは『創造・邂逅・流転・共鳴・集散』(各章5話)の続きものです。
  前話については、図書館のログを参照して下さい。
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  椿の精神接触から目覚めたマルチナスさんと違い、私は当て身からの回復を
待っていた。その加害者は地に転がされ、連れの女性は座り込み、その目前で
マルチナスさんが男の手首を掴んでいる。
「――そんな事させませんっ!」
  小さな友人が間に合った映像を見届けると、私は安堵の息を洩らした。
「は、離せっ!」
  男は片腕で自分を制する少女に焦っている。傍から見ても、明らかに尋常で
ない力が機械の手首に込められていた。加減のない強すぎる力が。
「クッ!」
  2人の姿が消え、組み合ったまま離れた場所に現れる。苦し紛れの秘術にも
少女の縛めが緩む様子はなかった。
  逃れようとする男に対し、優勢である少女は何も仕掛けない。ただ心持ち、
唇がきつく結ばれているように見える。
(マルチナスさん…?)
  微かに感じる違和感に意識を外へと向けてみた。私の身体は眠っていても、
エルクゥの意識信号を受け取ることは可能だ。…少女の意識が鮮やかな白昼夢
となって伝わり始める。まるで自分の感覚のような共有。


(――そんな事…)
  私は守りたい。
(――させません)
  守りたいだけなの。この叫びは、自分にも返っているから。
  男の人の爪を振るう姿が、自分に重なって見える。  
  怖い。私じゃない私が生れそうで。
  それとも、もう私は…


  …皮肉な話だ。彼女は恐怖している。馴染みのない争いに。他人を傷つける
かもしれない闘いに。未知なる不安に。そして、余りにも人間離れした力に。
  まるでジェットコースターの手摺りにしがみ付くように、彼女は男の手首を
握り締めているだけなのだ。右手の加減なき力は怖れ故に他ならなかった。
(強い力を怖れるのは悪いことじゃないわ。でも…)
  混乱する男と脅える少女――この道化めいた均衡が続く訳がない。回復さえ
間に合えば私が楯となり、少女が友人達を抱えて逃げる時間を稼ぐのだが。
  同じ攻撃が出来ない身でも、彼女より防ぎ方は知っている。エルクゥが鬼と
呼ばれた時代の記憶が、この身にはあるのだから。
(…汝の言うエルクゥは鬼にあらず…)
  不意に、沈黙していた椿が私の思考に反応を示した。


(…それは…快楽・闘い・愛憎…生を彩る華を求める…衝動に忠実な魂…)
  衝動に忠実…か。
(…力ゆえに闘争に長けるのではない…)
  そう。でも彼女は違う、拒否してさえいる。
(…衝動に忠実なるからこそ長けるのだ…)
  力があっても、彼女は闘う術を知らないのよ。
(…衝動ゆえの闘争…それがエルクゥ…)


  衝動とは、善悪なき無意識な心の反応。椿の語りは私に不要な講釈だった。
しかし不快ではない。むしろ懐かしさを感じる。
  闘いでの邂逅…あの人を助けた衝動…与えられた心と身体の温もり。思えば
遠い過去も、椿の言う意味では実にエルクゥらしい生涯だったかもしれない…。


  時は止まっている訳でない。その存在を示すように、感慨に胸を詰まらせる
私の視線の先で均衡が動き始めた。
「…マルチ、手を離さず…背後に…回り込みなさい…密着状態なら…魔術の…
攻撃は…」
「…琴音お姉ちゃん!」
  攻撃を削ぐ方法があるのなら使わない手はない。少女が指示に従い、膠着が
破れた。私が回復するまで今はこれでいい。腕を後ろにねじられ、男は不利な
体勢となった矢先。
「確かにお前には放てぬだろうよ。だがな――」
「!」
(いけないっ!)
  男の直線上には、爪を与えようとした無防備な女性がいた。捕らえた手首を
離し、少女が再び正面に回り込んで――立ち尽くす。


  誰もが同じ場所を見ていた。
「―――あっ…」
  地面に小さな珠が生れる。だんだんと増えてゆく紅い水玉模様。
「――あああ…」
  それを覆い隠すように、ゆっくりと沈む身体。

「――――――ッ!」


  言葉にならぬ叫びと共に、少女の内で見えない糸が切れる。緊張か理性かは
判別し難いが、確かに見えない糸は千切れた。彼女の意識を共有していた私は
まるで背中を強打したように麻痺していた。
  伝わった激しさが接触を切断している。額を押さえながら身体を起こす私の
目には、愕然とする少女から手を振り切る男の姿が映った。
(…あっ…ま、まさか…!?)
  重みを伴った感覚――衝撃の余波なのか身体が目覚めていた。そして肉眼が
捉える世界の異変。
「な、何これ…?」
  復活を喜ぶ暇すら忘れさせる幻想が虚空に誕生している。蒼白い光の蛍達が
儚げに漂っていた。ポツリ…ポツリ…ポツリ…。どこからともなく現れる蒼い
光源は急速にその数を増やし、集う輝きで夕闇の帳を剥ぎ取っていく。


                                        −第3話・完−
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          <最も短いあとがき>

レミィ:………。
あかり:………。


         (無言で2人共も退出)−終幕−