『 朝の溜息 』 投稿者: dye
  注)この話は『痕』『 To Heart 』『LF97』のネタバレを含んでいます。

      なにぶん独善的な話ですが、どうかよしなに。
-----------------------------------------------------------------------

            1.


  ――黄昏の世界に生まれた闘技場

  耳鳴りがしている。風の刃が辺りを暴れまわった影響だ。
  徐々に鮮明になる意識と共に、ぼんやりと柏木千鶴は目を開いた。
  そして気づく。自分を庇う存在に。
「…耕一さんっ!?」
  彼女を抱きしめたまま動かない耕一。相手の背中に回した千鶴の手に、嫌な
温かさを持った液体が絡まる。見なくても分かった。これは血だ……。
「…うぅ」
  傷を触られた痛みからか、耕一の口からうめきが洩れる。
(…良かった…生きてる…)
  背中の具合を見るべく、千鶴は組まれた腕をそっと外す。抱きしめる対象を
失った身体は、途端に前へ崩れた。目に飛び込んでくる背中の裂傷。
(酷い傷。でも、致命傷じゃない)
  事務的に動いているが、冷静さによるものではない。ショックが大き過ぎて
少し感情が麻痺しているだけだ。しかし今は有り難かった。彼にすがって泣き
叫ばずに傷の手当てが行える。さすがに、指の震えまでは抑えきれないが。
(…他のみんなは?  そしてガディムは?)
  止血を試みながら、千鶴は周囲に注意を払った。どこか遠くで音がするが、
視覚は暗い空間しか映さない。

  裂いた衣服で応急処置を済ませた耕一を背負い、千鶴は音のする方へと歩き
始めた。異界の来訪者を倒さない限り、ここからの脱出は許されない。
(仲間と合流を果たし、ガディムを倒して、ここから早く出るのよ…)
  世界を救う為でなく、耕一にちゃんとした手当てを与えたいが為に、千鶴は
黙々と歩き続けた。冷たく暗い結界内では、背中に伝わる従弟の体温がひどく
身に染みる。
  貰い受けた温もりは胸中に溜り、眼窩と鼻腔を刺激する。それは形を成して
外へ逃げ出し、彼女の頬を静かに濡らし始めた。


            2.

  男の耳にギターの幻聴が聞こえている。それは無二の親友にして、弟とも
呼べる存在が弾いてみせたメロディー。
  当時の流行歌だったのか、古いナンバーなのか定かでないが、音楽に疎い
自分が知る数少ない旋律。
「葬送曲には悪くない…」
  柳川は感傷めいた台詞を吐くと、震えるまぶたで視界を覆い隠した。

  自分・耕一・千鶴・神岸の編成で望んだ最終決戦。
  圧倒的だった優勢が、ただ一度のガディムの旋風で逆転した。
  敗北と言ってもよい。
  しかも自分達の意志でなく、烈風に吹き飛ばされての強制逃走。
  重傷を負わされ、こうして自分は独り横たわっている。

  柳川の心には不可解な感覚が生まれていた。
  死への恐怖や終わりへの安堵とも違う。
『あの日』から始まった喪失感でもない。
  ひどく緩慢な静寂に漂う、気だるさにも似た放心感に近いもの。
  それに伴う思考の麻痺。

  肯定も否定しない。
  生への賛歌も、死の忌避もしない。
  笑うのでも、泣くのでもない。
  全てを忘れ、放心した自分の呼吸音を無意味に数えていた。
  この音が止まった時が「死」なのだろう。
  他人事のような考えが浮かぶ。
  まだ呼吸は止まらない。
  数える呼吸がリズムを生み、それに合わせて幻聴が流れている。
  アコースティック・ギターの優しい調べが……


            3.

  神岸あかりも千鶴と同様に、空間をさ迷っていた。ガディムが放った旋風に
吹き飛ばされたまでの記憶はあるが、その後は定かでない。
  無意識に傷を直したのだろう。目覚めた時の身体に、切り傷どころか打ち身
の跡すら見当たらなかった。
(早くみんなの所に戻らなくちゃ…)
  あかりは唯一とも言える癒し手である。他の者は彼女のように、自力で傷を
治せない。そしてこの決戦に、彼女はその理由で編成に加えられている。

  仲間を探して歩きながら、あかりは既視感めいたものを覚えてた。
  何故だろう?  ひどく懐かしくて温かい。
「…あっ」
  答えを得て、思わず立ち止まる。
  誰かを探す行動。それは幼い頃、泣きながら浩之を探した公園の思い出。
「ふふっ」
  それに暗い空間は、雅史を入れた3人で通り抜けた路地裏を連想させる。
(あの時は確か…)
  暗い路地裏を抜けると、そこは光と風が満ち溢れていた。ここも同じだ。
ガディムという巨大な闇を孕んだ結界の向こう側には、光溢れる世界がある。
そして自分を待つ存在も。
(…すぐに帰るから)
  ここには居ないぶっきらぼうな誰かに告げ、あかりは再び歩き始めた。


            4.

  ガディムの紅い瞳が柳川を見下ろしている。
  2度目の遭遇の始まり。

「*******************」

  幻の調べに、ガディムの咆哮が協奏する。獣の知性でも分かるのか、己が
近づいても動かぬ柳川を見て、咆哮は耳障りな哄笑へと変わる。エサ(世界)
を目前にした喜悦も入っているのだろう。
  それは構わない。
  ただ、自分の呼吸が止まるまでの間は静かにして欲しい。全てを食い尽くす
顎から生まれる不協和音は幻聴をかき消し、柳川の聴覚を陵辱している。
「…黙れ!」
  叫びは音を成さず、唇を震わせただけで終わった。そんな自分を嘲笑うかの
ように、ざわめきがより大きくなる。

  柳川は立ち上がろうと身を起こした。失血による目眩に加え、情けない程に
身体が震える。力がうまく入らない事に感じる苛立ち。

(…奴を黙らせてやる)
  地に吐き捨てた唾が紅い。
(――――な)
  ざわめきが潮が引くように消える。
(―――うな)
  体温の耐え難い上昇と、心を塗り尽くす激情。

「ワ・ラ・ウ・ナァァァァァァァーーーーー!!!」
  絶叫の『飛翔』が、降下へと変わる。
  そして爆発した主の感情に従い、双方の爪が縦横無尽に走った。
  刻まれる痕の群れは、ガディムの哄笑を悲鳴へと転じさせている。
  その叫びを頼りに、遠く離れた千鶴とあかりは先を急いだ。


            5.

「神岸さん!」
「柏木さん!」
  ガディムの暴れる震動が感じられる地点で、二人は合流を果たした。
そして互いに、柳川が死闘を繰り広げている事を直感する。
「神岸さん、耕一さんをお願いします。私は柳川さんの援護に…!」
「あっ、はい…」
  背中の耕一を降ろすと、すぐに千鶴は跳躍した。しかし、現場に辿り着いた
彼女は何も出来ずに立ちすくむ事になる。
  そこには――


  そこには『虐殺』を発動させた柳川がいた。
  立ち入りを拒む周囲の空気は、千鶴の錯覚だろうか?
  張り詰めた緊張が、死闘の静観しか許さない。

(柳川さん…あなた…泣いているの?)
  千鶴に生まれる漠然とした想い。ガディムの傷から飛び散る黒い血化粧に、
男の表情は定かでない。
  闘いにおける喜悦や殺意が、柳川が他人に見せる感情の常であった。その為、
初めて見る怒りに千鶴は戸惑っている。畏怖でなく、痛みを感じさせる怒りに。

(これが鬼哭というものかもしれない。涙の流れぬ、憤怒の鳴咽……)
  男の姿は、いつしか鬼へと変化している。『獣の力』による一撃。
「グオォォォォォォーーーーー!!!」
  ガディムの悲鳴を凌駕する雄叫びが空間を疾駆する。

  爪が走っては返り、裂いては戻った。
  傷の上に新たな痕が生まれ、それから流れるものが覆い隠す。
  鬼は四肢の爪では飽き足らず、口腔を開いて牙を突き立てた。
  反撃の旋風を起こす暇を与えられず、ガディムが喚き散らす。
  その悲鳴すら黙らせようと、鬼の攻撃はより苛烈なものとなる。


  千鶴は身じろぎせずに、目前の死闘を見ていた。
  冷たい興奮が身を包んでいる。戦慄めいた、肌を粟立てる胸騒ぎ。
  勝敗は誰が見ても明らかで、一方的な展開となっていた。
  でも――
  嬲られるガディムと責める柳川の両者は泣き叫んでいる。
  痛みに吠え、怒りに四肢を振り回し、そして逃れようとしていた。
  心沈む光景は、まだ続いている。
(…神岸さんがここに居なくて幸いだった)
  辛い思いをする人間は少なくていい。
「早く終わって――!」
  不可視の縛めに捕らえられた観客は切に願った。
  今、耕一の温もりが傍にないのをとても寂しく感じながら……
  

  ――やがて、神狩りの時間にも終焉が訪れる。


  慈悲に近い止めの一撃に崩れ落ちるガディム。
「*******************」
  きしむような断末魔が千鶴を金縛りから解き放ち、ようやく冷たい汗を拭う
ことを可能とする。彼女はすぐに動き始めた。

「グオォォォォォォーーーーー!!!」

  空間の隅々まで響き渡る、勝ちどきの咆哮。
  歓喜でなく、憤怒の冷めやらぬ叫び。
  千鶴には哀れに思えて仕方がない。
  彼女は置いてきた2人の方へと駆け出している。
  今は勝者の姿を見ないでおく事が、せめてもの労わりだと思えた。
  彼を独りにさせてあげよう。
  いつもの皮肉めいた笑いを浮かべる余裕が生まれるまで。
  他人の言葉に耳を傾けられる平静を取り戻せるまで。

  ――帰還はそれからでも遅くない。


            6.

  ――祝賀会の翌朝

  明けやらぬ空を迎えた鶴来屋の玄関で、柳川は自分以外の人影に気づいた。
皮肉めいた笑みを浮かべ切り出す。

「…随分、早いな」
「従業員の方達はもう働いていますから、会長の私が起きていても不思議じゃ
ありません。それより、あなたの方こそ…」
「…………」
  千鶴の切り返しに、彼は答えない。
「…行かれるんですね」
「…ああ」
「皆さんに黙ってですか?」
「昨夜の馬鹿騒ぎで充分だ。今日辺り、記念撮影でもされたら敵わんからな」
「クスッ」
  苦笑いに忍び笑い。
「そっちの柏木にもヨロシクな」
  柳川は呟くように言うと、早朝の隆山市街へと去っていった。


「耕一さん、もういいですよ」
  千鶴の声に応じて、耕一が玄関の影から姿を現す。
「気まずいだろうと思って、人がせっかく隠れていたのに…」
  千鶴が微笑む。
「アイツを止めるのが俺の役目と思っていたんだけど、違ったのかな?」
「…そうみたいですね」
  私にも分かりません…とも込められた返答。誰かを必要とする事と他人を
ブレーキにする事は、似ているようで大きく異なる。
「まあ、いいか。今の所こっちで手一杯だし」
「…あっ」
  背後から耕一の腕が、千鶴の肩を優しく抱きすくめる。
「あ、あの…こ、耕一さん?  み、皆さんがそろそろ起きて――」

  自分を包む耕一の体温に顔を赤くしながらも、やがて観念して下を向く。
  伝わる温もりは、決戦で背中に感じたものと比べものにならない。
  その熱さに、千鶴はひどく幸せな溜息を一つ洩らした。


                                                  [了]
-----------------------------------------------------------------------
                    <あとがき>

  『痕』を考えれば、『LF97』の柳川は確かに違和感あります。
  でも、ダークヒーローっぽい部分や某イベント、鬼と人の意識の奇妙な融合
を見てると、個人的にこちらを応援したいので本編を書きました。

  独善ですが、答えを出していない未完の部分があっても良いと思っています。
(自分の話の柳川像がこれです)勿論、答えの出ない話とは別ですが。

  ちなみに千鶴さんがヒロイン(というより主役だ…)なのは、足立さんの
イベントが原因です。それでは。