【警告】
○このSSはPC版『ToHeart』(Leaf・AQUAPLUS製品)の世界及びキャラクターを使用しています、たぶん。
○このSSはPC版『To Heart』神岸あかりおよびHMX−12型マルチシナリオのネタバレ要素がある話になっております(話の進行上、性描写がある18禁作品ですが、今回も残念ながらありません<ぉぉぉ)
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ToHeart if.
『淫魔去来』 第4話
作:ARM
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【承前】
4月23日、夕方。
あかりと志保は、浩之に連れられ、浩之の家の夕食に招待された。
玄関を開けた浩之たちは、キッチンのほうからする、りりすの陽気な鼻歌を耳にした。昼休みに、浩之からの電話連絡を受けていたりりすが、夕食の準備を始めていたようである。
「「おじゃましま〜〜す」」
あかりと志保が声を揃えて玄関を上がる。声は揃っていてもそのトーンは正反対で、志保は何故かいつもの図々しさが感じられない、妙に警戒したところがあった。
「あ、そういえば、志保って浩之ちゃんの家って初めて来たんじゃない?」
「あれ、そうだったっけ?」
あかりの指摘に、浩之も気付いて志保の顔を見た。
浩之に顔を見つめられ、志保は少し頬を赤らめる。
「……そりゃあ、呼ばれたコトないからね」
「確かに、こんな喧しいの呼ぶ義理もなかったし」
「ゆーたわね、ヒロ(怒)」
浩之に意地悪そうに言われた志保は、きっ、と浩之を睨み付けた。
浩之はそんな志保をみて苦笑した。
「……まぁ堅くなるなって。今日はゲストなんだから」
にっ、とはにかむように笑う浩之をみて、志保の顔から怒相がすぅっと抜け落ちる。う、ぅん、と言ってまた俯いてしまった。
そんな志保をみて、浩之は志保の意外な細やかさに気付き、少し戸惑った。不断は図々しいばかりの喧しい女としか思っていなかったので、これは意外だったようである。
「え、え……と」
「あらあら、いらっしゃあい」
浩之が志保に何か言おうとした時、キッチンからペタペタとスリッパの音を鳴らしながらりりすがやってきた。
「――――ええっ?!!」
りりすの顔を見た途端、志保が素っ頓狂な声を上げた。
「ど、どうしたの?」
「ヒ、ヒロん家のメイドさんって、こんなに若くって美人なのっ!?」
「あれ?あかりから聞いてないの?」
戸惑う浩之が不思議そうに訊くと、志保は浩之を睨み付け、
「聞いてないわよっ!あたしゃあ、市原悦子みたいなおばさんだと思ってたのよっ!それが何よっ?!何よコレっ!?なんでこんな若くて超美人が、ぐーたらで唐変木で無神経で三白眼で貧乏性で根性無しで甲斐性無しの男の家に住み込みで働くなんてっ!?なんでわざわざ血に飢えたオオカミの群れに、ブルブル震える怯えた哀れな兎ちゃんを放り込むようなコトしてんのよっ!危険ッ!不潔ッ!最低ッ!人でなしッ!鬼!悪魔!エルクゥ!月島兄っ!浮気者の藤井冬弥っ!」
真っ赤な顔でまくし立てる志保に、悪態叩かれている浩之は怒りを通り越してあきれ果てた。
「…………最低人間の仲間に冬弥が遂に加わりましたかって、そんなコトより志保。お前ぇ、ロクでもねぇ勘違いしてやがんな?」
「勘違い様はそっちじゃないっ!若い女ひきづりこんでメイドなんてっ!」
「あの、志保、落ち着いて……(汗)」
怒鳴りまくる志保を宥めようとするあかりだったが、全く効果は無かった。
浩之は呆れて何も言えないらしく、途方に暮れた。
「……だからさぁ、俺がりりすさんを襲うだなんて、そんな恐ろしいマネは……」
「恐ろしい?」
志保のパニックぶりにも平然と、にこやかな笑みを絶やさずにいたりりすだったが、浩之が口にしたその言葉を聞いた途端、笑顔はそのままにこめかみに怒りの四つ角を浮かべた。そして、徐に屈むと、履いていた右足のスリッパを脱ぎ、それを掴むと、立ち上がりざまに浩之の顎めがけて振り上げた。
「――――ういにんぐ・ざ・れいんぼ〜〜〜〜っ!!」
DOGOOOOOOOHHN!りりすの背景に巨大な虹が幾重も起立し、スリッパのアッパーカットを受けた浩之の身体が、これまた突然背景に出現した銀河の果てまで吹き飛ばされた。手で叩いたのではない。りりすはスリッパの爪先だけで、浩之の身体を吹き飛ばしたのである。浩之は宙に大きく弧を描き、そのまま玄関の三和土に激突した。ギャグシーンなのでとりあえず距離感は無視して欲しい。
「……誰が恐ろしいですって?」
りりすは何とも魅惑的な笑みを浮かべたまま聞いた。声も笑っている。なのに迫力だけは、一部始終をみていたあかりや志保を圧倒させた。
「まったく、こんな、か弱い女性を恐ろしいだなんて、失礼ですよねぇ、ほほほっ♪」
「は……ははっ」
志保は引きつった笑みで頷いた。とりあえず、浩之がこの女性を襲えるコトは絶対ないと納得出来たようである。
「……あかりやヒロが学校で言ったコトはマジなのね(汗)」
「えーと、長岡……志保ちゃんだっけ?」
「え?」
「あれ?りりすさんって、志保と会ったコトあるの?」
りりすが志保の顔を見てその名前を口にしたので、あかりは驚いた。
するとりりすは首を横に振り、
「あにゆってんの?だってお昼に、浩之ちゃんが招待する、ってゆったじゃなぁい?今来た女のコは二人、そのうちの一人があかりちゃんなんだから、単純な引き算じゃないの♪」
「ん……そうだね」
ちょっと納得のいかないところがあったが、しかしあかりはりりすの話はもっともだ、と頷くしかなかった。
「さぁさぁ、みんな上がって上がって♪もう準備出来ているから♪る〜ん、ら〜ん、ら〜〜ん♪」
りりすは嬉しそうに言うと、メイドドレスを翻してキッチンのほうへ戻って行った。
「あ、浩之ちゃんも引きずってきてね♪」
「……うぐぅ」
浩之はまだ三和土に突っ伏したままだった。それを見てあかりと志保は苦笑した。
りりすが用意した夕食は、浩之の母親ですら作ったコトの無いような豪勢な料理ばかりであった。
「スゲェ……、でもこれ……」
「あー、安心して良いわよ。足は出ていないから。値切りは商店ならではの醍醐味よねぇ」
嬉々として言うりりすを見て、浩之とあかりは、商店街の八百屋や肉屋の店主に値切り交渉しているりりすの姿を思い浮かべた。多分、一円単位まできっちりと。恐らくは、この、黙っていれば絶世の美女と誰もが思うこの美貌からは予想も付かない、セコい色仕掛けまでも動員して。想像の範囲なのに、自然と苦笑してしまった。その想像がまた、りりすの料理を口にする二人の舌に、不思議な味わいを加味させていた。
「浩之ちゃん、このエビチリ美味いね」
「おう。辛いようで辛すぎないし、噛むと弾けるような海老のプリプリ感が、海老本来が持つそれ以上に生まれている。茹で具合が絶品だ」
「ふふっ。茹でるコツは企業秘密〜〜♪」
「えー?りりすさん、教えて下さいよ!」
あかりは本気でコツを知りたいらしく、席から身を乗り上げてまで訊こうとする。これには浩之も驚くが、つくづく料理が好きなんだなぁ、と感心した。
そんな明るく食事をする浩之やあかりとは対称的に、志保はまるで借りてきた猫のように、大人しく席に座って料理を見つめていた。
(……?)
ささみのフリッターを頬張った浩之は、そんな志保の様子にようやく気付いた。
そこで浩之はようやく、志保を夕食に招いた目的を思い出した。りりすの料理が美味すぎて、当初の目的をすっかり忘れていたらしい。実際、りりすの美味極まりない料理に夢中になって、志保とりりすを対決させるという悪巧みなどどうでも良い気分になっていたコトもあったが、家に招いてからの志保の様子がずうっとおかしいコトも、無意識に悪巧みを躊躇わせていた一因と言えるかもしれない。
兎に角、志保らしからぬ様子に、浩之は戸惑った。
「……なんだよ、志保。気分でも悪いのか?」
「う、うん……べ、別に」
そう言って志保はエビチリを摘み、口に入れた。
「…………凄く美味しい」
「……のワリにつまらなそうな顔するんだなぁ」
「……いいじゃん」
不思議がる浩之の前で、志保はエビチリをパクパク食べ始めた。次第に頬が赤くなってきているコトから、本人もそれが美味いコトは分かっているらしいのだが、どこか心ここに在らず、そんな雰囲気があった。
「やっぱり美味いだろ?」
ニヤニヤ笑って訊く浩之に、エビチリを頬張っていた志保は無言で頷いた。余りにも大人しすぎる志保に、浩之は、何を気にしているんだか、と不安を感じた。
「こら、浩之ちゃん!」
志保を見ていた浩之の頭に、りりすが、こつん、と軽い拳骨をくれた。
「志保ちゃんの食事を邪魔しちゃダメ」
「そ、そんなコトしてないって(汗)」
「問答無用」
そう言ってりりすは浩之の耳をひっぱる。
「あたたっ!か、勘弁してよ、りりすさん〜〜!」
浩之は痛がってみせるが、どこか笑っているように見えるのは、りりすに構われるコトが嬉しいのだろう。
そんな浩之を見て、志保は浩之たちに気取られぬよう、はぁ、と小声で溜息を吐いた。
「――ん?」
ふと、浩之を叱っていたりりすが、浩之の口元に付いているご飯粒に気付いた。
「ちょっと」
と言うなり、りりすは浩之の口元に付いているご飯粒を摘み取ると、ぱくっ、と食べてしまった。
それを見たあかりと志保は、たちまち頬を赤くしてしまった。お弁当を食べられた浩之に至っては、あかりたち以上に顔を真っ赤にして硬直してしまった。
そんなあかりたちの様子に気付いたりりすは、あら、と困ったふうに苦笑いし、
「あ、ごめん、あかりちゃんにお願いしとけば良かったわね」
「え……あ、あの、その……!」
急に振られたあかりは、一層顔を赤くして俯いてしまった。漫画的表現があれば、ここであかりの顔から湯気が吹き出ているであろう。
しかしその隣にいた志保は、そんなあかりの反応に反比例するように、みるみるうちに醒めた顔になっていった。不断の志保ならここで茶々を入れるところであろう。そんな志保らしからぬ様子を、しかし和んでいる浩之たちは気付いていなかった。
「――し、志保、そのオリーブ油使ったドレッシングのサラダも旨いよぉ(汗)」
恥ずかしがっているあかりは、これ以上リリスのペースに翻弄されるのを避けようと、ようやく食が進み始めた志保に、手前にあるサラダを嬉しそうに勧めてみた。
「ほら、それセロリ入ってるでしょ?志保、セロリ苦手だけど、騙されたと思って食べてみて!りりすさん、セロリ嫌いでもセロリが楽しめる特別な味付けを開眼したんだって〜〜!」
あかりに言われて、志保はオリーブ油のドレッシングが掛かっているセロリにフォークを刺し、まるで浮かされたように躊躇いもなくそれを口に入れた。
「ねえねえ、本当でしょ?りりすさんって凄いよ――――?!」
あかりが嬉々として言ったその時だった。突然、志保は席を立ち、あかりを睨み付けたのである。
「――あかりっ!」
「し、志保っ(汗)」
「おいおい志保、セロリを勧められて味が合わなかったって怒るなよ……」
「――腹立つくらい美味かったわよっ!あたしが腹立っているのは、そんなんじゃないのっ!」
「「「へ?」」」
志保の突然の激高に、りりすまでもが呆気にとられてしまった。
「あかりっ!あんたねぇ、何、能天気にしていられるのよっ!」
「の、能天気、って……」
怒りの矛先を向けられているあかりは、どうして志保が怒っているのか全く分からず、困惑の余り半べそをかいていた。
「おい、志保!何、あかりに当たってるんだよ?」
浩之はあかりが泣き出しそうになっているのを見て、慌てて助け船を出した。
「ヒロには関係ないわよっ――いや、まったく関係ないワケじゃないけど……」
「へ?」
「ああっんっ!もう嫌ぁっ!」
癇癪を起こした志保はいきなり席を立ち、
「あたし、帰るっ!」
「「えぇっ?!」」
突然何を言い出すのかと驚き絶句する浩之と、悲鳴のような声で驚くあかりとりりすの前で、傍らに置いていたカバンを抱えると、玄関のほうへ行ってしまった。
「お、おい、志保ッ?!」
慌てて浩之が志保を追いかけるが、キッチンを出た途端、玄関から飛んできたスリッパが顔面にヒットし、もんどりをうつように転けた。どうやら浩之の、今日のアンラッキーアイテムはスリッパらしい。
あかりは余りのコトに混乱し、直ぐには立ち上がるコトは出来なかったが、浩之が志保のスリッパアタックで倒れたのを見てようやく我に返り、倒れている浩之を介抱しようと駆け寄った。
「浩之ちゃん、大丈夫?」
「まぁ、何とか――志保の野郎、何がどうしたって言うんだよ……?!」
「わからない…………何でなの?」
赤くなっている鼻をさすりながらゆっくりと起き上がる浩之を介抱するあかりは、志保の突然の癇癪の理由を考えてみるが、いくら考えても心当たりは無かった。
そんな志保の癇癪を、始めは呆気にとられてみていたりりすは、浩之の介抱にあかりが席を立つと同時に、ふむ、と小首を傾げた。
何かを考えているようなのだが、しかしそれが、志保が癇癪を起こした理由を考えているようには見えなかった。
ニコニコと笑っている時からは想像もつかない、険しくそして妖しい光を放つ眼差しをしているりりすを、浩之もあかりも気付いていなかった。
* * * * *
浩之の家を飛び出した志保は、追い付かれないようずうっと走り続けていた。
そのうち、駅前まで走ってくると、遂に息が切れる。しかし誰も追いかけてこないコトに気付いているらしく、振り返りもせずに立ち止まり、ゼイゼイと喘いだ。志保が居る駅前の歩道は、帰宅途中のサラリーマンたちの往来が激しく、喘いでいる志保の身体に軽くぶつかって行くが、志保は全く気にしてもいない様子であった。
志保は兎に角、あの場から逃げ出したかった。
あのままいれば、きっと志保はあかりをもっと咎めていただろう。あるいは、今まで我慢していたコトまで口にしてしまったかも知れない。それが怖かった。
あかりを傷つけたくない。――気の置けない大切な親友を失いたくなかった。
だが、その想いこそが、志保に癇癪を引き起こさせた理由なのである。
志保は、あかりが浩之のコトを好きなのを知っていた。
なにげにあかりを見れば、その傍には浩之がいる。その光景は、志保ばかりか、周囲の者達にも当たり前すぎる光景だった。
なのに、いつも一緒にいる二人を見て、志保はどうしてあかりが浩之の彼女でないのか、不思議でならなかった。
神岸あかりと言う少女は、家庭的で同性からも好かれるタイプだが、その性格は大人しすぎるきらいがあり、自分の気持ちを面と向かって口に出せない少女――なんだ、と志保は捉えていた。
自分とは異なるタイプ。思ったコトは直ぐに口に出してしまうのが自分。
だから、あかりとうまく反りが合っていたのだろう。自分の我がままを、笑って許してくれる、親友。それでいて、長岡志保という騒がしい自分を理解してくれている、優しい親友。
――本当は、何も解ってはいないのだ。
浩之が、学校に試験運用テストでやってきたマルチを甲斐甲斐しく世話している姿を、遠くから淋しげに見ているあかりが、志保には堪らなく嫌だった。
ロボット如きに気を取られている男を遠くから心配してみている女。バカバカしいにも程があった。所詮はロボット。男を取られると心配するほうが可笑しいのだ。
なのに、志保はあかりにそれを面と向かって言えなかった。――言えるワケがない。
志保はそんなあかりを持て余しているうち、マルチは学校から去っていった。
それと同時に、あかりの顔から不安の色が消えたのを知り、志保はほっと胸をなで下ろした。当然の結果と思っていても、何処か不安だったのかも知れない。
もう、あかりの想いを邪魔する者は居ない。この調子なら、放っておいても、いくら唐変木の浩之でもあかりの気持ちに気付き、彼氏彼女の間柄になるだろう。
二人の仲を邪魔する者さえ居なければ。
「……ヒロのバカ…………あたしが………………どんな気持ちで居るか、分かりもしないで………………あかりを傷つけてばかりで………………」
志保は俯いたまま、呻くように呟く。
それは、今夜初めて口にした本心ではない。
浩之が、あかりにつれなくするたびに口にしていた、呪詛であった。
浩之には、あかりのような娘がお似合いなのだ。だから、とっととあかりと結ばれてくれれば、諦めがつく。
なのに、浩之は何処の馬の骨とも知らない女を家に住まわせてデレデレし、あかりはあかりでその馬の骨に、マルチ相手には見せていた嫉妬心すらなく懐柔されていた。それがこの上なく志保には腹立たしかった。
もし浩之があのりりすという女とくっついてしまったら、自分は莫迦を見ていたコトになるのだ。それがどうしても許せなかった。そんなくらいなら、自分があかりから浩之を取ってしまっても構わな――
パンッ!
志保は、両手で自分の頬を強く叩いた。突然のコトに、周囲の歩行者たちは驚いて志保を見た。
注目を浴びている志保は、そんな周囲の目など気にしていられなかった。邪な迷いを振り切る。その気持ちで一杯だったからだ。
今まで、そうしてきた。そしてこれからも。
今のポジションに、今の関係に、志保は満足していた。男女でも親友で居られると信じたかった。――信じるコトで、自分は、あかりと浩之の前では長岡志保で居られる。自分は強い女なのだ。
「……ふぅ」
志保は仰ぎ、苦笑しながら溜息を吐いた。浩之やあかりに比べて、志保はそう言った面では大人であった。
「……あ〜〜、どうしようかなぁ。……帰ったら電話であかりに謝っとくかなぁ…………?!」
腕を持て余し、考え込む志保の視界に、見覚えのある人物が小さく飛び込んだ。
「――まさか?」
その予想だにしていなかった人物は、志保が居る歩道の、走ってきた向こう側に立ち、じっと志保を見つめていた。その人物が、逃げ出した自分を追ってきたのだ。
(でも何故?)
志保は、その人物が自分を追いかけて来た理由が分からなかった。
「……何で――あっ?!」
呆然としていた志保は、その人物が突然、近くのビルの影に隠れたのを見て驚いた。そして無意識というより衝動的に、その人物が隠れたビルのほうへ駆け出して行った。
問題のビルの前に着いた志保は、その人物が隠れたと思しき、ビルの影にあった路地の前にやって来た。
その人物は路地の中には、影も形も見られなかった。
「……追いかけてきた癖に、何で逃げるワケ?」
志保は戸惑うも、どうしてもその人物が自分を追いかけてきた理由を知りたくて、そのまま探そうとその路地の奥へ歩き出した。
少し進んだ先に、またL字の曲がり角に差し掛かった。志保が入った路地は、先程居た歩道とは逆に全く人通りがなく、陽も落ちた所為もあって実に見通しの悪い場所であった。奥に進めば進むほど寂れていき、本当にここは町田の駅前なのか、と問題の人物を追う志保に不安を募らせていった。
その人物を追う義理も義務もない。ただの好奇心で追いかけているだけなのだ。
また少し進んだところで――志保はふと思う。どうして追っているか、と。
そこで志保に混乱が生じた。――どうして、好奇心など湧いているのか?
「……え…………あれ…………なんで…………?」
志保はそこで、いつもの自分らしからぬ行動に戸惑った。
好奇心の強い女だと言うコトは認めている。――しかし、迂闊な女ではない。――そんな女ではないハズだ。そう信じていた。
では何故ここにいるのか?どうしてこんなコトをしているのか?
そもそも、探している相手は、あのどこの馬の骨とも知れぬ女――
暗がりで呆然と立ち尽くす志保は、その背後の壁から、ぬぅっ、と伸びる二本の腕の存在に気付いていなかった。そして、見る見るうちにその壁から、壁の色をした人の輪郭が生じ、やがて色だけが抜け落ちた。
志保はまだ気付いていなかった。その奇怪な人影が延ばした一対の腕が――白蝋の色を成し、やがてそれがたおやかな女性の腕となって、志保の身体を羽交い締めにした。
「きゃあっ!?」
突然、何者かに羽交い締めにされた志保は悲鳴を上げた。
「嫌ぁっ?!何、誰、誰よっ!?離しなさいよぉっ!」
驚いた志保は羽交い締めにされたまま暴れるが、志保を捉えた腕は、それが外見から女性のモノと知れるがしかし力は男のもの、いや、強靱な腕力は人外のものであった。そもそも、壁の中の二次元から三次元へ抜け落ちたそれが人のものであろうハズもない。
「……長岡……志保さん」
「――?!」
背後から、耳元に囁かれたその声が、聞き覚えの新しいものと知った時、志保は愕然となった。
「……神崎……りりす……?!」
羽交い締めにされている志保は振り返るコトが出来なかったが、確かに志保を羽交い締めにしている人物は、先程志保が見つけてその後を追っていた、あの藤田家のメイドであった。
しかしその彼女が、まさか今、一糸纏わぬ姿をしているなど、志保は考えもしないだろう。りりすはその神の仕業のような見事なプロポーションをする裸体を志保に密着させているのだ。
「ちょ、ちょっとぉっ!何をいきなりっ!離してよっ!」
相手がりりすと知るや、志保は急に強気になってまたりりすの腕を振り解こうとするが、りりすの腕の力は一向に衰える様子はなかった。
「…………志保さん。貴女に二三、確認したいコトがあるの?」
「か、確認んっ?!」
志保が思わず素っ頓狂な声で言ったのは、りりすの質問に驚いたのではなく、りりすの声がその何処か甘く切なげな響きをしていたからであった。そう、まるでベッドの上で、恋人の耳元で囁く、何処か淫猥な――
「……貴女…………“りりす”に逢ったコトがあるかしら?」
つづく