ToHeart if.『矢島の事情 〜 告白 〜 』第15話 投稿者:ARM 投稿日:7月16日(日)02時22分
○この創作小説は『ToHeart』(Leaf製品)の世界及びキャラクターを使用しています。
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【承前】

「――――無しだ」
「?」

 突然、ボールを叩き付けて憤慨する矢島に戸惑う綾香は、俯いている矢島が何か言っているコトに気付いた。

「――――こんな勝負、始めから無しだって言ってンだっ!」

 矢島はそう言うと、ギャラリーの中で、矢島を見ていた由那のほうを見た。

「――由那っ!お前なぁっ!――――」

 その憤慨ぶりは、不断の温厚な矢島を知る者が見たら、――いや、事実、由那を含めたギャラリー全員は、矢島のこんな憤慨した顔は初めて見た。みんな、信じられないような顔をしていた。
 由那は、こんな顔をする矢島を見て、正直怖かった。由那はまだ気付いていなかったが、身体は正直に反応して震えていた。

「――――!?」

 矢島は怯えている由那を見て、ようやく我に返った。そして唇を噛みしめて握り拳を作り、暫しその場に佇んだ。

「…………」

 そんな憮然とする矢島を見て、浩之はほっとした。今の勢いで由那を殴るかと思い、慌てて飛び出して割って入ろうと思ったが、矢島が堪えているコトに気付き、様子を見るコトにした。

(……それにしても)

 浩之は綾香のほうを見た。
 綾香は、矢島の突然の憤慨に呆気にとられていたままだった。浩之は、今の矢島とのやりとりから、綾香がこの騒動の原因である事を理解していた。

「……痛っ……?!」

 その時、突然、浩之は右手に痛みを覚えた。しかし何かにぶつけて傷を負っていたワケではなく、気の所為というか幻覚のような痛みだった。だから直ぐに痛みは消えた。
 やがて綾香が困ったふうな顔で肩を竦めたのをみて、浩之は隣ではらはらしているあかりに目で合図すると、あかりを置いてひとり綾香のほうへ近づいていった。

「?」

 浩之が一歩前に出たのと同時に、ギャラリーの中から進み出た者が居た。

「委員長?」
「なんや、藤田クン?」

 智子は小声で訝しげに聞いた。

「いや、ちっと事情を確かめに」
「……ふぅん。やっぱり、来栖川さんかい」

 どうやら智子も、綾香に原因がある事を見抜いたらしい。浩之は少し心配したが、智子と一緒に綾香の側へやって来た。

「……綾香、いったい何やらかしたんだ?」
「来栖川さん、何や、矢島クンとの約束って?」
「約束?」
「ん?――え、ああ、由那と、ちょっとね」

 智子は浩之よりも、矢島と綾香の会話をしっかり聞いていた。訊かれた綾香は、相変わらず困ったふうな顔で頷いて見せた。

「いったい、どんな約束をすれば、矢島クンをあないに――?」

 智子がそう訊いた時、突然矢島は向きを変え、相変わらず憮然としたまま、体育館の外へ行こうとした。

「お、おい、矢島――」
「悪い、有吉。――気分悪くなった、先、フケさせてもらうわ」

 矢島は、慌てて聞く部長の有吉に、振り返りもせずそう言って右手を挙げた。有吉は酷く困った様子だったが、矢島の憤慨ぶりから今はそっとしてやるのが正解だと言うコトは判っていたので、それ以上は何も言えなかった。
 そして、矢島のその憮然とした様子が、由那をいっそう不安がらせた。

「寿――」

 思わず由那は呼びかけるが、矢島はまったく応えようとはしなかった。
 そんな矢島を見て、綾香は、むっとなった。

「――――矢島くん!」

 綾香がそう怒鳴った時、ようやく矢島が歩みを止めた。驚いたのかも知れない。

「――由那の名誉にかけて言うけど、この勝負を持ちかけたのはあたしだから!それだけは判って頂戴!」

 綾香がそう言うと、矢島は再び歩き出し、体育館の外へ出て行ってしまった。

「……矢島」
「……藤田クン」

 戸惑う浩之は、不意に智子に呼びかけられて、ん?と言って振り向いた。

「……矢島クンのコト、お願い」
「…………ああ、わかってるって」

 智子に言われずとも、そのつもりだったらしい。浩之は慌てて矢島の後を追いかけ始めた。

「……なぁ、来栖川さん」
「?」
「……なんや、アンタが、矢島くんのコトで由那と勝負したようやけど――そうゆうのは、もぅちっと考えてからしぃや」

 智子はそう言って綾香を横目で睨んだ。綾香は意外に鋭いその眼差しに少し怯むが、この手の威圧は根本的に綾香には逆効果であった。

「……迂闊だったのは認めるけどね。――でもまるっきり考えなしってワケじゃないから」

 そう言って綾香は、にっ、と屈託ない笑顔を智子に向けた。そんな笑顔に、智子は酷く戸惑う。

「……アンタ、嫌味な女やね。……わたしはアンタみたいなヒト、好かんわ」
「そりゃ結構」

 暖簾に腕押しな綾香に、智子は呆れたように溜息を吐いた。

「……あー、もうええわ。それよか由那や。――しっかりしぃや由那」

 呆れ顔の智子は肩を竦めてみせ、そして、他の女子バスケット部員達から宥められている、矢島の出ていったほうを見て半べそ状態の由那のほうに近寄っていった。
 入れ替わるように、葵とあかりが綾香の側にやってきた。

「綾香さん……」
「何をしたの、綾香?」
「ん…………、まぁ、色々と」

 当惑げな面もちをするあかりに訊かれ、綾香は少し困ったふうに笑った。綾香にとって、あかりは良い意味で苦手なタイプの女性だった。親身になって叱ってくれる、お母さんタイプに弱いのだ。

「正直、やりすぎたって思ってるけどね。――でも、別の意味で、良い意味であの二人に刺激になったんじゃないかな」
「刺激?」
「うん」

 頷いた綾香は、足元に転がっていたバスケットボールを拾い上げ、それをゴールリングを見ずに放り投げた。
 そのボールが一瞬にして、リングの縁にまったく触れず、その内側をすり抜けたのを目撃できたのは、あかりと葵、そしてたまたま綾香のほうをみたバスケ部員の数名だけだった。3P(スリーポイント)ラインの外側から決まったそのシュートは、それをただの偶然で片づけて良いものか。そもそも、矢島や智子達は、綾香はダンクシュート以外は決められないと言い切っていたが、由那との勝負の前に、MVPの栄誉を受けた由那を唸らせたくらい、華麗なシュートを決めていたではないか。こんなふうにシュートしていけば、矢島との勝負でも圧倒的な勝利を得ていたであろう。

「上手……」

 あかりは今の状況を忘れて感嘆した。

「そうでもないよ。あたしはそれほど器用な女じゃないし」

 綾香は謙遜する。謙遜するのだが、あかりの賛辞とはまったく無関係な、別のコトに気を取られているようなその返答は、綾香らしからぬ頼りない口調をしていた。

   *   *   *   *

「おい、矢島ぁ」

 ちょうどその頃、矢島の後を追っていた浩之がしつこく声を掛けていた。だが、矢島は一向に振り返りもしないでクラブハウスのほうに向かっていた。
 そんな矢島を見て、浩之は少し腹が立った。

(…………痛っ)

 浩之はまた、右手に痛みを覚えた。
 浩之はそんな痛みを、先ほどからずうっと感じていた。そしてその理由も、矢島を追いかけているうちに大体見当が付いていた。
 その痛みのお陰で、浩之は冷静さを取り戻した。

「…………平光さんが追いかけてきたぞ〜」

 浩之が惚けた口調でそう言った途端、ようやく矢島は足を止めて振り返った。
 しかし振り返ってもそこには浩之の姿しかない。浩之の嘘だった。

「…………」

 振り返ったものの、矢島は、今の口調から浩之の嘘だと言うコトは何となく判っていた。振り返ったのは、単にきっかけが欲しかったのかも知れない。

「……何で付いて来るんだ」
「綾香がロクでもないコトを言ったんだろ?――済まねぇ」
「……何で藤田が謝るんだよ」
「ダチだからさ」

 そう言って浩之は苦笑した。矢島は、誰の、と思ったが、あえて訊かなかった。

「……俺には、矢島が何を腐っているのか、よくわかんねーけどさ。――やっぱ、あれはやりすぎじゃねぇのか?」
「やりすぎ?」
「ああ」

 浩之は頷いた。

「平光さん、泣いてたぜ。――泣くの、初めて見た。それと、矢島があんなに怒るのも、な」
「…………」

 黙り込む矢島を見て、浩之は右手をさすった。矢島が黙り込むほど、浩之の右手には鈍い痛みが走った。

「だけどさ――」

 浩之は、右手の痛みが次第に強くなっているコトを感じた。――自分は“そのコトに触れようとしているのを判っているのだ”。

「――叱るのを止めたのは、平光さんの気持ちを判ってやったからだろう?」
「――――」

 矢島は思わず唇を噛んだ。

「――なあ」
「…………」
「……しゃあねぇよ。誰だって完璧じゃないんだ。俺だって、似たようなヘマやらかしたことあるし」
「……?」
「前にさ。あかりを泣かせたコトがあるんだ」
「神岸さんを――」
「全面的に俺が悪ぃんだ。――だから、余計に腹が立っちまってさ。今のお前みたいに」「――――」

 矢島は眉間をピクピクと動かして戸惑った。そんな予想通りの矢島を見て、浩之は、しゃあねぇなぁ、と呟いた。

「……モノの勢いはもう、どうにもならねぇ。……だけど、自分が悪いと思っているなら、後でちゃんと謝っとけよ。そのほうが絶対ぇ良いし」

 まるで自分の心を見透かしたような浩之の言葉に、矢島は顔には出さなかったが、本気で驚いた。
 だが次第に矢島は、自分を見て苦笑している浩之を見て、そして前に自分の所為であかりを泣かせたコトがあるという話から、浩之に見透かされてしまった理由をようやく納得した。

「……ああ。判ったよ」

 浩之は、降参したような笑顔で頷く矢島を見た途端、右手の痛みが失せた。

「そっか。――つーか、さ」
「ん?」
「矢島。お前、本当は平光さんのコト、好きなんじゃねーのか」
「はぁ?」
「好きと言っても、友達としてじゃなく――ひとりの女として」
「……はぁ?」

 唐突な話である。矢島は戸惑う前に呆れかけていた。
 しかし浩之は、何も根拠が無くて言ったワケではない。矢島の荒れっぷりをみて、かつての自分を重ねていたのだ。そう、あかりに素直になれなかった自分に。

「俺もわりかし、鈍感なほうなんだが。――ほら、前に委員長に告白してフラれた時」
「?」
「委員長、俺と矢島が似ている、って言ったコトがあるだろう?」
「似ている?」

 ――藤田くんと同じやな。

「――あ、ああ」

 智子にフラれるという嫌な思い出だが、それでいて不思議と、忘れたくないあのシーンが、矢島の脳裏に蘇った。正直、忘れかけていたが。

「そン時はそんなもんか、と思ったけどさ。実際、矢島に俺と似たようなコトされてさ、いやぁ、そんなに似ているなんて、やんなっちまったよ」
「……どーゆー意味だよ、それ?」
「他意は無ぇ」
「……ちっ」

 矢島は不機嫌な顔で舌打ちした。

「――で?」
「?」
「どっちなんだよ?」
「どっち、って――――」

 浩之までもが由那のコトを訊くとは、と、矢島は呆れた。

「――そんなの、藤田には関係ないだろう」
「関係あるさ。――あかりの時も、委員長の時も、俺、お前に色々関わっただろうが」
「――――」

 言われてみればそうであった。あかりはともかく、智子を矢島に紹介したのは浩之であった。

「こうなると腐れ縁ってヤツだ。……それに、色々似ているところもあるしな」
「顔は似てねーぞ」
「誰が(笑)。そうじゃなくって、俺とあかりがそうであるように、矢島と平光さんの関係が、さ」
「――――」
「お互い、鈍感ってところも似てそうだし」
「ンなもん、似なくていい。――それに俺は、別に、」
「――じゃあ、なんで怒ったんだよ」
「それは、由那が来栖川さんとロクでもない約束をしたから――」
「怒ったのはそれだけじゃないんだろ?――綾香と口論になった理由は」
「……え?」

 きょとんとする矢島に、浩之は頭を掻いて溜息を吐いた。

「綾香はああいう女だけど、真っ向から人を怒らせるようなヤツじゃない。特に、矢島みたいな真面目タイプを相手にする時は、口論なんかで怒らせるほどバカじゃない。――そんな相手を挑発するとしたら、裏で何らかの考えがあってのコトだ」
「考え?」
「例えば、相手の本気を試したい時」
「――――」

 言われてみれば、由那をうち負かした綾香が、しきりに由那に浴びせていた言葉は罵倒と言うより挑発のものであった。矢島をキレさせたあの一言は罵倒であったが、あの時はああでも言わなければ、由那もリベンジを決意しないだろう。その前に自分がキレてしまったので、あの挑発に由那が乗っていたかどうかは、今となっては矢島に知る術もない。
 そしてもし矢島が、綾香が決して矢島達に引けを取らないキレのあるロングシュートを使わず、不慣れなドリブルとミドルシュートだけで勝負していたコトに気付いていれば、綾香が決して感情だけではなく、何らかの意図を持って勝負に望んでいたというコトにも気付いていただろう。
 矢島は考えた。どうして綾香は由那を挑発させたのか。――どうして由那に、ああまで言って勝負させたかったのか。
 どうして、由那は綾香と勝負したのか。――――

「あ」

 矢島は思わず間抜けな声を上げた。
 由那は、自分の望みのために綾香と勝負したのだ。
 綾香は自分に勝てば、矢島の就職先を世話してやるという約束を、由那と交わしていたのである。
 勝ったところで、自分には一円の得にもならない勝負の為に、由那は向きになっていた。それを矢島はようやく思いだした。

「……なんで、そんなコトを?」

       第16話へ つづく


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