ToHeart if.『矢島の事情 〜 告白 〜 』第14話 投稿者:ARM 投稿日:7月1日(土)20時34分
○この創作小説は『ToHeart』(Leaf製品)の世界及びキャラクターを使用しています。
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【承前】

「――寿、頑張れっ!」

 由那の大声での声援に、矢島は一瞬、ビクッ、と驚くが、一瞥もくれず、背を向けたまま右手を挙げてVサインを作ってみせた。
 応えてみたが、正直、今の矢島には、綾香に勝てる自信は無かった。
 あの奇怪なボールの軽さの秘密を解く要素は揃ったとは思っている。
 そこから導き出したものは、――信じがたいが、自分はボールの残像か何か、とにかく視覚レベルでのトリックを見せつけられているのだというコトだった。
 そう理解しておきながら、なんてバカらしい結論だろう、と矢島は心の中で呆れていた。そんなコトが本当にあり得るのだろうか。催眠術でも使っていると考えた方がより現実的である。――もっともそれすら非常識の世界に違いないが。
 ドリブルのテンポが乱れているのは、決して息切れではなく、ドリブルする高さを変えていた為だというコトを、矢島は気付いていた。しかしそのコトに気付かなかったのは、綾香の、格闘技で鍛えた身のこなしによるフットワークに翻弄されていた所為である。もっとも、そんな微妙なドリブルのテンポの変化に気付く矢島も、綾香と同類なのかもしれない。
 多くの推測が、綾香とのシュートの応酬の間に矢島の脳裏を交錯した。互いに持ちボールは相手に獲られず、交互にシュートを決めていたので、綾香が常に一点リードしていた。30点まであと10点、矢島は次第に焦り始めていた。

「このままじゃ、矢島、負けちまう」
「由那、あんた、来栖川さんと勝負したんやろ?」
「う、うん――」
「あんたもこんな調子で負けたんか?」
「ち、違うよ――悔しいけど一方的。持ちボールすら、あの身軽な動きで獲られて――」

 智子に訊かれた由那は、そう答えて唇を悔しそうに噛んだ。MVP選手のプライドはすっかりズタズタになってしまったが、相手があの綾香だと思うと、妙に悔しくなかった。次元の違いを思い知らされたとは、こういうコトを言うのであろう。

「へえ。じゃあ、矢島くん、善戦しているんだ」

 あかりが感心して言う。由那はその通りだと思った。自分ですら太刀打ちできなかった綾香から、持ちボールを一度も奪われていないのである。そればかりか、あの綾香が、自分のリバウンドボールを矢島に奪われないよう、必死になっている姿を見て、感動さえしていた。
 前に由那は、矢島から、自分の物真似になっていると指摘され、酷く悔しがったものだが、今、この勝負を見ていると、自分は矢島の物真似などしていないコトを確信した。
 物真似なんて出来るハズもないのだ。こんな、超人的な動きでボールを自在に操る綾香を、その持てる超テクニックを駆使して、この天才と互角に勝負している矢島の姿を見ていれば、自分のテクニックなど足元にも及ばぬものだ、と由那は心の底から思った。
 格闘の天才VSバスケの天才。一見、互角に見えるこの1on1(ワン・オン・ワン)勝負は、その差異が決定的となるだろう。果たしてどちらが上か。
 由那だけは確信していた。
 どうしてこう、矢島の奮闘を見ていると、胸の内が熱くなるのだろうか。由那にとってそれは初めての経験であった。
 多くのギャラリーを虜にしているこの1on1勝負は、あと3点先取した方が勝者となる段階になった。依然、綾香が優勢であった。

「あと3点――――矢島がボールを奪えれば、勝てるのに」

 浩之は、熱狂していた周囲に遅れて、ようやく拳に力が入っていた。その隣の智子も、既に二人の勝負に集中していた。

「せめて、来栖川さんの緩急の動きに追いつければ――いや、それ以上の動きが必要や」
「――もっとスピードがあればいいの?」

 ふと、智子が洩らした言葉に、由那は反応して驚いた。

「あ――ああ」

 智子は目で由那のほうを見て小さく頷いた。

「来栖川さんのフットワークは、素人目から見てもとんでもない速さや――でも、ドリブルは、矢島くんと比較してもお世辞に巧いとは言えへんよ。フットワークが互角なら、あのいやらしい手の動きにも追いつけるハズや」
「でも、あの動きに追いつくなんて――」

 二人の会話に気付いた浩之が、割って入ってきた。

「……足の速さじゃなく、手足を含めた身体全体の速さは、格闘技で備わったものだ。矢島じゃ到底追いつけない」
「いや、やり方はあるよ」
「「――――?!」」

 智子の言葉に、由那と浩之は同時に瞠った。

「――あのフットワークも、ある時だけは止まる」
「ある時――」

 浩之は綾香のほうを見た。ちょうど、綾香が28点目をダンクシュートで決めていた瞬間だった。

「とても止まるふうには――」
「――――待って」

 由那も綾香のダンクシュートを見ていたが、その顔には何か閃いたモノがあった。

「…………まさか」

 由那はゆっくりと両腕を上げた。それはまるでシュートの体勢を取っているようであった。

「そうや。――シュートの時や」
「駄目だよ!そんなコトしたら、ファウルを取られちゃうよ!」
「……そりゃあ、確かにシュートの時は動きが止まるか遅くなるかするがな、シュート妨害になっちまう」
「――ちゃうわ。シュートの妨害やない」

 智子は急に笑った。その笑みに、浩之と由那はきょとんとした。

「来栖川さんは、シュートも巧くないやろ?さっきから、ゴール決めてるのはみんなダンクシュートだけやで」
「「あ――――」」

 浩之と由那は、声を揃えて驚いた。
 言われてみればその通りであった。矢島はダンクもロングシュートも決めているのに、綾香はダンク以外はすべてシュートを失敗しており、その度にリバウンドしたボールの奪還に必死になっていた。
 一見して互角に見える勝負だったが、その事実を改めて気付いた今、どちらが必死になっているか。矢島はリバウンドのコトを考えないで済んでいるのだ。

「そして、来栖川さんの手から離れたボールは、来栖川さんのいやらしいボールさばきの支配から解放されている――矢島くんの言う通り、リバウンドを制した者が勝者や」
「じゃあ――」
「……そうか。綾香にダンクさせない限り、ボールを奪うチャンスはいくらでもあるんだ」

 浩之のその一言がきっかけだったようである。由那は矢島のほうを向き、大声で怒鳴った。

「――――寿!リバウンドだ、ダンクを決めさせなければ、リバウンドでボールが奪える!」
「由那――」

 その声に、綾香からボールを受け取った矢島が反応して振り向いた。

「だから――――絶対、負けないで!」

 張り裂けんばかりの声援だった。隣にいた浩之たちは驚いて耳を指で塞いでいた。

「――――」

 そんな由那を見て、矢島は呆然となった。
 由那の言う通りであった。既に矢島は、綾香からボールを奪える唯一のチャンスが、ダンク以外のシュートで失敗した時のリバウンドを狙う以外無いと判っていた。判っていたが、頭で考えた通りに、しかし身体がついていかないのだ。精々、リングに近づけないでダンクシュートを狙わせないぐらいしか出来なかった。
 どうする?――矢島は、半ば諦めかけていたそれを、もう一度検討する気になった。
 どうしてかは判らなかった。

 だから――――絶対、負けないで!

 それがきっかけなのかも知れなかった。矢島は、由那のその声援で、“諦めること”を諦める気になった。
 負けられなかった。――負けたくなかった。

 勝負しない?――由那の代わりに。――勝てば、由那と約束したコトを叶えさせて上げる。

 由那が、いったいどんな約束を綾香と交わしたのかは知らないが、そもそもそれが、この勝負の発端であった。
 由那の悔しそうな顔を見て――今まで見たコトもない、由那のあんな気落ちした顔を見て、どうにも収まらなくなった。きっと、綾香が挑発してこなくても勝負を挑んでいただろう。
 自分のことをバカにされたわけでもないのに、どうしてこんなに腹立たしいのか。矢島はその辺りのコトがまだよく判らないでいた。
 しかし、綾香と勝負しているうち、正直、そんなコトはどうでも良くなっていた。とにかく、この強敵を満足の行く勝負をしてみせたかった。そう思ううち、次第に由那のコトはすっかり頭の中から消え失せていた。
 それがここに来て――

 だから――――絶対、負けないで!

 あの一言が、再び矢島に由那の存在を取り戻させた。

(……自己満足じゃ駄目だ――負けられないんだ、この勝負だけは!)

「……?」

 綾香は、矢島の様子が変わったコトに気付いた。
 先ほどまで、自分のフットワークに翻弄されて汗ばんでいたバスケ部の名プレイヤーはそこにいなかった。
 一人のファイターが、自分と相対しているのだ。――そんな緊張感を綾香は意識し始めた。

「……まずいわね。本気にさせちゃったかしら」

 そう言って戸惑いながらも、しかしその魅惑的な口元は不敵につり上がっていた。的が手強ければ手強いほど燃え上がるタイプなのであろう。天賦の才に甘んじている女ではない。それが来栖川綾香なのである。

「――お、おい」

 それに最初に気付いたのは浩之だった。

「――綾香さん、なんで――」

 驚く葵が見たものは、矢島に向かってゆっくりと両腕を上げて、後屈立ちになった綾香の姿だった。腰をやや落とし、左脇を締めてどっしりと構えるそれを、しかし拳法の構えであると見抜けたのは、その二人と、ギャラリーの中にいたエクストリーム部の面々くらいである。見ようによっては、ボールが頭上を飛び越していくのを防ごうとディフェンスの姿勢を取ったふうにも見えなくもない。

「……まさか、バスケ勝負だってコト忘れてないだろうなぁ、綾香」
「というより、本気になったのかも知れません」
「本気――?」
「はい」

 葵はゆっくりと頷いた。

「それだけ矢島先輩が――今の矢島先輩が手強いと思ったんでしょう。――目が違います」
「目?」
「まっすぐ――綾香さんを見つめています。目はひとつも泳いでいません」

 葵がそう言った瞬間、矢島がドリブルしながら綾香めがけて突進してきた。

「あのままじゃぶつかる――」

 あまりの勢いに、誰もがそう思ったその時、矢島は突然後方へジャンブし、その反動でロングシュートを放った。まるで綾香に突進して跳ね飛ばされたような、そんな光景であった。
 しかし矢島の放ったボールは、見事に28点目をマークした。

「何で綾香、ディフェンスしなかったんだ?」
「無駄だと思ったんやろ」
「無駄、って……」
「今まで獲れへんかったのに、急に獲れるようになるワケあらへん。――ただのポーズやろうけど、もっとも得意とするスタイルで矢島くんの出方を見切ろうとしたんやろ。奪わんが、絶対奪われへん。次の来栖川さんのシュートで勝負が決まる」
「次、って、まだ29点目――」
「それを阻止されて、逆に矢島くんに29点目を取られたら、それでお終いやと覚悟したんやろ――本気になった矢島くんが相手やから」
「…………」

 この勝負は一度でも相手にボールを奪われたら、それで決着がついてしまう。それだけ拮抗した勝負なのだ。
 そして矢島は、本気になった。綾香を見据えるあの目は、浩之たちから見ても判るくらい、不退転を覚悟した気迫が漂っていた。それに気付いたから、綾香は自分の得意とするスタイルで応戦する気になったのだ。

「……んー」
「?」

 今まで、二人の試合ぶりに圧倒されて沈黙していたあかりが、小首を傾げて唸った。

「それ以外にもあるよ。ボールの獲り方」
「「「「へ?」」」」
「んーとね――」

 続いてあかりが口にしたそれに、浩之たちは、あっ、と驚嘆の声を上げかけた。
 だがその時、浩之たちは別のものに気を取られた。
 ギャラリーたちの注目を一身に浴びていた綾香から感じられた、言い知れぬ気配。次第に、その顔から笑みが薄れ始め、どこか微睡んでいるような雰囲気に、浩之たちは酷く驚いた。

「『夢想の構え』――」
「って、綾香がもっとも得意とする、集中力バリバリの状態のアレか?」

 一見、呆然としているように見えるそれは、かつてエクストリーム大会で、相手の隙を誘うばかりか、それが対戦相手の一挙一動を、全身の五感すべて、いや第六感の域まで駆使して集中し警戒する、綾香独自の構えであった。綾香いわく、その構えの時は相手の動きを先読み出来るというのである。昨年の大会で、この構えで闘ったのは、予選最終で闘った、西日本空手大会で優勝した鷹橋という琉球唐手使いと、決勝戦で死闘を繰り広げた葵との勝負だけである。引き出しの多い綾香だが、決め手に無闇は無い。
 浩之と葵の会話の直ぐ後、その二人から拡がった沈黙の波紋が、ギャラリーたちを静まり返らせた。
 静寂は一瞬だった。
 綾香は爪先を上げ、ドリブルしながら矢島に突進した。
 同時に、矢島は綾香のほうを向いたまま、後方へ飛び出すように後ろ向きのままリングのほうへ駆け出していた。
 その動きに、綾香は左へ飛び退いた。トラベリングやダブルドリブルのようなファールは、ボールが綾香の掌に吸い付くように動いてしまえば恐れるコトはない。
 だが矢島は、その動きに反応して――まるで綾香と同じように、目ではなく、全身の五感を駆使して見抜いたかのような素早い反応で、綾香の居る右へ跳んだ。一瞬にして追い付いていた。
 綾香は迫る矢島に臆するコト無く、更に左へ掛け行く。右手でドリブルするボールは、無防備に矢島のほうへ向いていたが、緩急の動きがそれを防ぐハズである。事実、矢島はその無防備さを警戒し、安易に手を出さずにいた。
 だが、綾香がリングのほうへ急に身体を向けた時、矢島は更に前に出た。
 そして、綾香が緩急の動きで支配するボールへと手を差し出した。
 掴めるハズはない。――浩之も由那も、そして綾香もそう思った。
 あり得ないコトが起きた。
 一瞬ではあったが、綾香が緩急の動きでドリブルをしていたボールに、別の方向から力が掛かった。――矢島の指先が、ボールに触れたのである。
 その瞬間、綾香がドリブルしていたボールが、綾香の頭上を越えて弾け飛んだ。

「何が――」
「矢島くん、やっとあのボールに触れたんや」

 呆気にとられている浩之たちの中で、一人だけ冷静な顔をしていた智子が言った。

「触れた――まさか?」
「あの緩急の動きを見切ったんですか?」

 浩之の隣で葵が瞠った。
 その横で、智子は、やれやれ、とぼやいて破顔した。

「……着実に秘密を解いていった結果や。どうやら、あかりが思いついたコトに気付いたらしいわ」

「……矢島くん、いったい――」
「最初は、目」
「?」

 驚く綾香に、ボールを拾い上げた矢島は、自分の目を指して言った。

「俺の目の動きを見て、俺がどれを狙っているか見抜いていたんだよな。そして、」

 次に綾香の足を指し、

「まるでアイススケートみたいに、床を滑り行くようなそのフットワーク。その場でドリブルしているように見えて、実は微妙に、俺の動きに合わせて移動し、交わしていた。――そんなところかな」
「……正解」

 綾香はトリックを見破られて苦笑した。

「……だけどね、口で言うほど簡単な敗りかたじゃないハズよ。あたしは矢島くんの動きを読み、動きに合わせて、ドリブルするボールの速さに緩急を与えた」
「スピードのフェイントってヤツだな」
「そう。――ボールに触れるには、そのボールの速度を見切るしかないわ」
「だけどね」
「?」
「ドリブルしているボールの“軌道”ばかりは、緩急の動きは関係ないだろ?」
「――――」

「でしょ、浩之ちゃん?」

 あかりは自慢げに笑った。

「野球のバントを思い出したんだ。上下にドリブルするボールの軌道を見抜いて、そこに手を出せば、絶対ボールに触れると思ったんだ」
「あの来栖川綾香が相手、っちゅーコトでチト難しく考えていたみたいやね、あたしたち。……確かに、どんなにボールにスピードを付けてもな、ボールが移動する軌道だけは変わらへん」

「単純な敗り方だけど、それを成す為にはまず、ボールの動きを見抜かなければならない。――どうやって見抜いたの?」
「んー」

 矢島は唸り、

「何となく」

 いい加減な答だが、綾香は訊くまでもなく判っていた。天才的な3P(スリーポイント)シューターの条件として求められる、ズバぬけた三次元認識力は、移動しながらその位置を常に把握する。それを逆手に取り、移動するボールの位置を頭の中で固定して、自分が動いていると仮想し、ボールの動きを見切ったのだ。そして恐らくそれは、頭ではなく、身体が反応したのだろう。
 矢島は、苦笑する綾香の前でロングシュートを決め、29点目を先取した。

「――ゲーム・オーバー。あたしの負け」
「まだ2点もあるけど?」

 訊かれて、綾香は首を横に振った。

「生憎、切り札の防御を敗られては、ね。――あたしには矢島くんのパーフェクト・ロングシュートを敗る術は思い当たらないの」

 綾香が苦笑しながら敗北宣言をした瞬間、ギャラリーたちは一斉に絶叫した。

「やったぁっ!矢島が勝った!」
「凄い!凄いよ、矢島さん!」

 熱狂するギャラリーたちを見て、矢島は勝利の酔いから直ぐに醒め、やれやれと困ったふうに笑った。

「……まったく」
「あたし、すっかり悪役ね」

 綾香は意地悪そうに言うと、ゴールから転がってきたボールを拾い上げた矢島は肩を竦めてみせた。

「そーなると、その魔王を倒した英雄に、ご褒美を上げないとね」
「ご褒美――、って、いったい由那とどんな約束したのさ?」
「あれ?言ってなかったっけ?」
「聞いちゃいない見ちゃいない知っちゃいない」
「そう言われればそうね。――んーとね、由那と約束したんだ。あたしに勝ったら、矢島くんの就職先を世話して上げるって」

 次の瞬間、凄まじい音が体育館内に響き渡り、歓喜していたギャラリーたちを一気に引かせた。
 音は、矢島がもたらしたものだった。矢島はいきなり、抱えていたボールを、思いっきり床に叩き付けたのである。あまりの勢いに、ボールは天井まで届くかに見えたほどだった。

「――――無しだ」
「?」

 矢島の突然の行動に戸惑う綾香は、ボールを叩き付けて俯く矢島が何か言っているコトに気付いた。

「――――こんな勝負、始めから無しだって言ってンだっ!」

       第15話へ つづく

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