ToHeart if.『矢島の事情 〜 告白 〜 』第13話 投稿者:ARM 投稿日:6月30日(金)00時22分
○この創作小説は『ToHeart』(Leaf製品)の世界及びキャラクターを使用しています。
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【承前】

 矢島は、綾香からボールを奪おうとした時の感覚を思い出し、泡立った。

「……ボールが、空気みたいに感触が無くなるなんてコトは無ぇ。……でも」

 矢島は戸惑いの眼差しを、ゴール下にいる綾香にくれた。綾香は薄笑いを浮かべて、矢島のほうを見ていた。

「……いったい、どんなテクニックを使えば、あんなコトが出来るんだよ」

 まったく初めての経験であった。まるっきりシロウトにしか見えない綾香のドリブルの、あんな鷹揚な動きのどこに、ボールを触らせない防御テクニックが隠されているのだろうか。過去の試合を思い返しても、矢島にはそんなテクニックを使った選手に心当たりはなかった。おそらくはNBAのプレイヤーにも居ないであろう。
 しかし、迷っている場合ではない。何としても、シュートを決めて点を取らねばならない。綾香がシュートを決めたので、ボールは自分の手の中にある。

「……3P(スリーポイント)ラインからのシュートを連続して決めていくしかない、か」

 矢島は、この1on1(ワン・オン・ワン)勝負が、通常の2ポイント制ではなく、オールラウンド1ゴール1P制であるコトを口惜しがった。このまま綾香からボールを奪えずに交互にゴールを決めて行くと、先取点を取った綾香の勝利は必至である。
 矢島の勝利の鍵は、綾香がボールを持っている時に、いかにして奪うか、そこにあった。

「どうしたの?かかってらっしゃい」

 綾香は戸惑っている矢島を見て、わざと挑発した。しかし矢島は、綾香の奇怪なテクニックによって冷静さを取り戻したばかりか、かえってその挙動を警戒するようになっていたので、安易に挑発には乗らず、その場でドリブルを始めた。

「……慎重ね」

 綾香は矢島を見て感心した。

「しかし――」

 次の瞬間、綾香は矢島に向かって突進した。
 それは、バスケの全国大会で、数多くの強豪たちと対戦したが、その強敵たちですら足元にも及ばぬ、いや、次元の違う恐るべき瞬発力の発露であった。
 矢島が咄嗟に反応できたのは、綾香の動きを必要以上に警戒していたためであった。綾香が突進した刹那、矢島は右側へ移動した。右手でドリブルしていた所為だが、接近する綾香からボールを遠ざけるのに必然的かつ効率的な防御であった。
 しかし綾香の突進は、尋常ではなかった。まるで床の上を飛ぶような速さで、一気に矢島との距離を縮め、矢島がドリブルしながら自分の背後へ廻したボールに手を伸ばした。
 矢島は、綾香の手が右腰の横に届く寸前、その場でジャンプした。ジャンブしながら身を反転させていた。
 ドリブルしていた矢島のボールが、既に矢島の頭上に移動していたコトを綾香は気付いていなかった。

「でた――――背面シュート!」

 由那は思わず、矢島が3Pシュート以外に得意とするシュートの名を口にしたの同時に、矢島が放ったボールはリングの内側を穿っていた。

「何――矢島、ゴールに背中向けたままシュートして――」
「寿の3Pシュート成功率100パーセントの理由があれさ」

 驚嘆する浩之に、由那はどこか嬉しそうに答えた。

「3Pラインだったら、たとえ後ろを向いていてもシュートを決められるのさ。――リングまでの距離と位置が常に頭の中にあるからね」
「三次元認識力がズバぬけてるんや」

 智子は、矢島がシュートを決めたときに思わず外したメガネをかけ直しながら感心したふうに言う。

「この間の日曜な、TVのニュースに出とったけどな、クレーンの達人てのがおって、パワークレーンでちっちゃな缶を潰さずに掴んで持ち上げたおっちゃんがおってな。距離と位置を頭の中で常に把握できるそうや」

「ふぅん」

 綾香はしてやられた顔で矢島を見た。

「流石、天才3Pシューター」
「こっちも必死なんでね」

 そう言って矢島は、リング下に転がっていたボールを綾香に手渡した。

「どうやってそのボールを来栖川さんから奪い取れるか――さっぱりなんだよ」
「こっちも、取ろうとする前にゴールを決められてしまう。――今以上のダッシュは望めないし」

 綾香はドリブルを始めた。

「――もっとも、この繰り返しなら、先取点を取ったあたしのほうが有利ね」
「やっかいだな――」

 矢島は肩を竦めるようにみせかけて、いきなり突進してきた。綾香からボールを奪うのは綾香の油断を狙うしかなかった。
 しかし、そう簡単に油断するような女が、エクストリームで男女無差別級を制覇する偉業を成し遂げられるであろうか。
 それ以前に、手を伸ばした矢島は、またもボールに触ろうとした瞬間、ボールが空気と化してすり抜けてしまった。

(また――)

「「?」」

 矢島が慄然としたその時、二人の勝負を見守っていたギャラリーの中で、二人ほど眉をひそめた者が居た。
 それは浩之と智子であった。その二人以外の者たちは、矢島の横をすり抜け、思いっきりジャンプしてダンクシュートを決めた綾香の華麗な動きに驚嘆の声を上げていた。

「なんて足腰のバネ――あんな手前からジャンプしてダンク決めるなんて!」
「綾香さんは蹴技が得意ですから、ジャンプは物凄いんですよ」

 瞠る由那の横で、葵が自慢げに言った。

「それにあの身のこなし――軽気功ってヤツなんでしょうね」
「軽気功?」

 きょとんとなる由那に、葵は頷いてみせた。

「はい。凄かったんですよぉ、さっき組み合った時、わたしの蹴りを掴んで逆立ちしたんです――重さがまったく感じなかったんです!」
「重さがない?」
「はい!」

 浩之が訊くと、葵はすっかり興奮していた。

「体重を消しちゃうんですから!あんなの、初めてです!」
「ンなアホな。――体重なくせるンやったら世の中のオンナノコは苦労せんわ」
「でも、本当に重さがなかったんです!まるで空気みたいに――?」

 葵が反論した途端、由那が呆気にとられた顔で葵の顔を見ていた。

「空気って……本当?」
「は、はい」
「そんな――――」

 顔を少し青ざめた由那は、綾香のほうを見た。ちょうど、矢島が綾香の攻撃を交わして2点目を取ったばかりだった。

「どうしたんや、由那?」
「綾香、軽気功とか言うのを使っているんだ……!」
「使っている?」
「うん。――ボールがさ、全然触れないんだ。まるでボールが空気みたいになって――そうだよ、きっと軽気功とかでボールの重さを無くしているんだ!」
「それ、違う」
「へ?」
「ああ、ちゃう」

 浩之に続いて、智子までもがそれを否定した。由那はそんな二人をみて酷く戸惑った。

「なんで…………」
「緩急の動きで翻弄しているんだ」
「?緩急?」
「ボールをドリブルしながら、さ」

 智子は右手で拳を握り、左手で、ポンポン、と叩いてみせた。

「こう、早めたり遅くしたりと、動きに緩急をつけておるンや。恐らく、由那がボールに触った気がせへんのは、ボールを見ていたからなんやと思う」
「?」
「由那の注意を、ボールに集中させて、その一方で強いドリブルを手で制動掛けて、スピードを自在にコントロールし、目測を狂わせたんや」
「それに、綾香は相手の動きを予測し、そのベクトルに合わせてボールを移動させている――多分、信じがたいが残像だな」
「――――」

 由那は唖然とした。自分が気付かなかったコトを、綾香と対戦していないこの二人が見抜いていたのだ。
 由那は知らない。あの天才少女が、過去に、そして近い将来に、この二人から、自分と同じ匂いを見抜き、信を置くと同時に、ライバル視する存在であるコトを。

「ああ見えてもプライド高いほうだからな、綾香は。出来る限り相手と同レベルに合わせて、そのギリギリのところで勝負する。手を抜くってワケじゃなく、テクニックで敗るのが好きな、技巧派なんだよ」
「ホンマ、イヤミなやっちゃな」

 智子は呆れたふうに言って苦笑した。本気でそう言っているようには見えなかった。

「しかしそれを矢島が見抜いたとしても、あの緩急の動きに付いていけるかどうか――まるで猫のようだぜ」

(……まるで猫だな)

 綾香と対峙している矢島も、浩之と同じような感想を抱いていた。そしてドリブルを始めた綾香の顔をまじまじと見つめ、首を傾げた。

(……催眠術でも使っているとか、な)

 錯覚を利用してボールまでの距離感を狂わせているのだから、似たようなものである。しかし矢島はまだその正体に気付いていない。

「どうしたの?かかってらっしゃいよ」

 綾香は不敵そうに笑って挑発する。しかし矢島はその度に慎重になるので、むしろ逆効果であった。

「……やれやれ」

 そう洩らした瞬間、綾香は矢島の真横をすり抜け、ゴールに向かってダッシュした。慌てて翻る矢島だが、追いつけるハズもなく、走り出した時には既に綾香はシュートを放っていた。
 ――ところが。

「あっ!」

 あろう事か綾香の放ったボールはもリングの縁にぶつかってリバウンドしてしまったのである。シュートを決めたものと思った綾香は、勢いでゴール真下まで走っていた。弾けたボールは大きく弧を描き、追いかけてきた矢島の頭上を飛び越して行った。

「しまった!」
「チャンス!」

 矢島が慌ててストップし反転する。同時に綾香が飛び出した。距離的な差は矢島に有利をもたらしたハズだった。
 だが、綾香の瞬発力は、その差など苦もなく、一気に矢島を追い越してボールを掴まえてみせた。

「そんな――――」
「ふー、アブナイアブナイ」

 唖然とする矢島の前で、綾香は冷や汗を掻きながらドリブルを始めた。

(いかん……あの化け物じみた瞬発力で攻められたらひとたまりも――――?)

 そんな時だった。矢島は、綾香のドリブルを見て、あるコトに気付いた。

(…………なんだ……このドリブルのテンポ…………?)

「……今ので息切れでもしたんか?」

 最初に智子が気付いていた。

「……なんか、緩急の動きが乱れてる――今がチャンスなんだけどなぁ」
「チャンス――」

 浩之がそう洩らした途端、はっと由那は矢島のほうを見た。

「――寿!チャンス!今ならボールは獲れる!」
「獲れる?!」

 いきなり、由那に声を掛けられた矢島だったが、その根拠はまったく知らないので戸惑うばかりだった。

「――まずい」

 しかし綾香は、見抜かれたものと思い、慌てて飛び出し、矢島を左に迂回してゴールを目指した。
 その動きに、矢島は身体が反応した。咄嗟に綾香のほうへ飛び出した矢島は、綾香の前に回り込むコトに成功した。

「……あっちゃあ」
「まんざら勝ち目がないワケでもなさそうだな――シュート成功率はこっちが上」
「痛いところ突かれるわね――」

 にぃ、と笑った瞬間、綾香は左へ横飛びした。
 同時に、矢島も綾香を追って――いや、なんと綾香が飛び出した反対側へ飛び出していた。
 すると、綾香は突進を止めて、矢島のほうを向いた。
 矢島は困った顔をする綾香を見て、にっ、と笑った。

「……正解か」
「下手な小細工だったかしら」

「ねぇ、浩之ちゃん、どうして綾香さん、ゴールに走るの止めたの?」
「止めたんやない」

 答えたのは智子だった。

「どうやら、矢島くんも気付いたみたいやな」

「…………成る程、俺の“目”か」

 矢島がそう言うと綾香は軽く舌打ちした。

「……目で動きを先読みしていたの、バレたか」

「目で見ているものを追う――相手の動向を読むのにこれほど最適なモノは無え」
「??どういう意味」

 由那は、感心しながら言う浩之の言葉の意味が解らなかった。

「つまり、相手が何を見ているかで、次の行動を予測するんや。目は口ほどにモノを言う、っちゅうヤツやな。まったくハンパやない洞察力の持ち主やな、あのお嬢様は」

「……矢島くん、あたしのボールではなく、あたしの足元を見ていたから、てっきり引っかかるものと思ったけど。――怖ろしいわね」

 綾香は、今のダッシュで引き付け、シュートをわざと失敗させて、“矢島が駆け出した方向へリバウンドさせた”ボールをキャッチしてダンクを決めようと思っていたのだ。
 無論、このまま反対側へ回り込んでシュートを決めても良かった。しかし、綾香はそのシュートが決める自信が無かった。それに失敗したボールは、やはり矢島の居る方向へ弾け飛んでしまう可能性が大だった。
 憮然とする綾香のほうへ、矢島は振り向いた。

「……バスケは、シュートを決められる者より、リバウンドを制する者が、本物の勝者。そんなコトを言っていた人が昔、居たわね」

 矢島は頷いてみせた。
 頷きながら、矢島は頭の中である疑念を整理していた。

(……あの時、由那は、チャンスだ、と言った。そして来栖川綾香は、慌てて仕掛けてきた。…………それに、あの時の奇妙な…………変に乱れたドリブルのテンポ!)

 綾香が慌てて仕掛けてきた時、綾香のドリブルは乱れていた。それは単に、ダッシュの連続で息切れした所為かと思ったが、その割に、息切れしている様子も無かった。その奇妙な変調を、矢島は気になって仕方がなかった。
 やがて矢島は、はぁ、と溜息を吐くと、先ほど、ギャラリーの中から声を掛けてきた由那のほうを見た。

(由那は、来栖川綾香の秘密に気付いたんだろうか――気付いて俺に声を――――あれ?)

 その瞬間だった。矢島は、あるコトに気付いた。
 その事実は、余りにも意外すぎて、思わず矢島は勝負を忘れ、気を抜いてぽかんとしてしまった。
 それを綾香は見逃すハズもなかった。綾香は即座にゴールを狙い、その場からシュートして決めてみせた。

「ああっ!何やってんだ、寿!」

 そんな矢島を見て、由那は呆れ返って怒鳴った。

「う、うっせぇ!お前が変なコト――――あ、いや」
「?何だよ、変なコトって?」
「な、なんでも無ぇやっ!ほら、来栖川さん、ボールくれっ!」

 矢島は口ごもり、妙に慌てながら綾香にゴール下に転がっているボールを要求した。

「……まったく、何、狼狽えてるんだか」

 由那は矢島の背を見て、呆れ返って溜息を吐いた。
 だが、そんな矢島を見て、何故か、ふっ、と湧いた安堵感に、由那は笑みをこぼした。
 そして、深呼吸して、

「――寿、頑張れっ!」

 由那の大声での声援に、矢島は一瞬、ビクッ、と驚くが、一瞥もくれず、背を向けたまま右手を挙げてVサインを作ってみせた。矢島なりの返答なのだろう。

       第14話へ つづく

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