○この創作小説は『ToHeart』(Leaf製品)の世界及びキャラクターを使用しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−【承前】
矢島たち男子バスケ部部員たちは、騒がしくなり始めた女子バスケ部を後目に、グラウンドへショートランニングに出ていた。
20分ほどして体育館に戻ってきた矢島は、荒い息を整えながら入り口を潜った時、奇妙な光景に遭遇した。
リング下で、由那はがっくりと俯けていた。その顔はどこか青ざめていた。
その横では、あの来栖川綾香がボールを抱え、目の前にいる由那をどこか神妙な面もちで見つめていた。
「…………何があったんだ?」
矢島は、近くにいた女子バスケ部員の一人に訊いた。
「――あ、矢島先輩。――実は、平光先輩と来栖川綾香さんが1on1(ワン・オン・ワン)の勝負をしたんですが……」
「1on1?あの来栖川綾香と?」
「はい……。でも、平光先輩、一度もボールを奪えないまま――」
「奪――――?!」
思わず矢島は瞠った。由那が、全国大会でMVPまでとったあの由那が、綾香に1on1勝負で敗北したとは、とても信じられなかった。
しかし、現に綾香は、打ちひしがれている由那を黙って見つめているではないか。とても勝者が逆とは思えるハズもない。
「とにかく凄いんですよ。平光先輩がボールを獲りに仕掛けても、凄い身のこなしで交わし――いえ、すり抜けてしまうんです!」
「すり抜ける?」
「ボールに触れようとすると、――ほら、シャボン玉を掴もうとすると、シャボン玉が空気の流れにのってすり抜けてしまうみたいな――とにかく触れないんですよ!」
「…………?」
どうにもこの女子部員の説明は要領を得ておらず、矢島には分かり難かった。大体、ボールが触れないと言うコトがあるのか。
「…………おい、由那、どうした?」
とにかく本人に訊いてみるのが一番だった。矢島は男子部員たちに先に準備に戻れと言って、由那の元に近寄った。
声をかけられた由那は、一瞬、ビクッ、と何かに怯え、そして矢島のほうを見た。今にも泣き出しそうな顔だった。
「なんだよそのツラ?怖いモンでも見たのか?」
事情を知らない矢島は、笑いながら言い、そして綾香のほうを見た。
「……何、やったの?」
「ちょっと勝負――大切な、ね」
「ふぅん――だから、どうしたんだ?」
矢島は、もう一度由那に訊いた。しかし由那はまた俯いて何も答えようとはしなかった。
言えるハズもない。矢島の就職先を賭けて行った勝負に完敗したなどと。由那は悔しそうに俯くばかりであった。
何も答えない由那に、矢島は苛立った。
「……言わなきゃわからねぇだろ?」
「鼻っ柱折っちゃったからねぇ」
ボールを抱き抱える綾香は、妙に意地悪な口調で言ってみせた。
「何か、こいつ、失礼なことやったの?」
矢島は二人の様子から、由那を悪者扱いにしていた。大方、綾香に由那が喧嘩を売ってきたのだろうと思ったのだ。
だが、矢島は訊いてみてから、違和感を感じた。
(…………ていうか、由那(こいつ)、そう言う女だっけ?)
第一、矢島にこんな失礼なコトを言われても、由那はまったく怒らないのである。由那を知る矢島にとって、それは余りにも異様なコトであった。
「別に失礼なコトは言わなかったわ」
戸惑い始めた矢島に、綾香が微笑んでいってみせた。
「ある賭をしたの。由那が勝てば――」
「やめてっ!」
答えようとするその声を、由那が悲鳴のような声で遮った。
「由那――」
「……いいの。――喧嘩じゃないの。…………つまんない約束だし」
そう言って由那は自嘲気味に笑った。
いつもの由那らしからぬ、哀しげな笑い方であった。だから余計に矢島は不安になった。
「……由那、お前、何を約束したんだよ?」
「お願い――訊かないで」
「…………」
理由も事態もさっぱり分からないのに、一方的に拒絶されて、はいそうですか、と納得できるほど矢島はお人好しでも従順でもなかった。だから今度は、綾香のほうを向いた。
「いったい、どんな約束したんだよ?」
「それは教えられない。――特に、矢島くんには」
綾香は、にぃ、と不敵そうに笑った。
「何で?」
「何でも、よ。――女の子同士のヒ・ミ・ツ、うふん」
そう言って綾香は、何とも淫靡な笑みを浮かべた。これには矢島も何も言えなくなった。
「……参ったなぁ」
「残念でしたぁ♪」
すっかり気になって困った顔をする矢島を、綾香はじっと見つめた。そして、続いて、その横で黙り込んだまま落ち込んでいる由那を見て、ふむ、と唸った。
「…………これぐらいで諦めちゃうなんて失望モノねぇ」
「!――――」
「どうする?まだ挑戦する?」
「う…………」
綾香は由那を挑発するが、由那は黙ったままであった。
そんな由那を見て、矢島は、よほど力の歴然とした差を見せつけられたのだろう、と思った。まさか格闘チャンピオンの来栖川綾香が、バスケットでもそんな才能を発揮するとは思いもしなかった。
そう思う一方で、矢島は、挫折している由那に苛立った。一度くらいの敗北でこんなに落ち込む女だとは思わなかった。――思いたくもなかった。いったいどんな負け方をしたのか。
ボールに触れようとすると、――ほら、シャボン玉を掴もうとすると、シャボン玉が空気の流れにのってすり抜けてしまうみたいな――とにかく触れないんですよ!
不意に、女子部員の言葉が蘇った。彼女たちも驚かせるような一方的な勝負が、先ほどまでここで繰り広げられていたのだろう。矢島はもっと早く帰って来られれば、と後悔した。
(触れないボール…………なんだかなぁ)
「――――諦める気?意気地なし」
由那と綾香の勝負を想像しようと苦労していたその時、綾香のキツイ口調が矢島を我に返らせた。
綾香に睨まれ、誹られても、由那は何も答えようとはしなかった。
その不穏な様子に、矢島は流石にまずい、と思った。
「それくらいにしてやってよ、来栖川さん――」
「――矢島くんは黙ってて」
いきなり綾香は、苦笑する矢島に険しい眼差しを浴びせた。これには矢島も面食らった。
「――由那が言い出したコトなのよ!なのに――こんなコトで諦めてしまうようでは、情けないったりゃありゃしない!これじゃあMVPの名が廃るわね!」
「お、おい……」
いったい綾香をここまで怒らせた理由は何なのか、矢島は非常に気になったが、とにかく綾香の気を静めないととんでもないコトになるのは目に見えていた。
そして、ここまで言われても反論すらしない由那に、矢島は余計に苛立ち、頻りに由那の様子を伺った。だが由那は相変わらず俯いたままであった。矢島は綾香に代わって自分が由那をとっちめたい気分になった。だがここまで由那を我慢させている理由が、矢島本人にあるとは、思いもしないだろう。
そして綾香は、一向に何も言わない由那を見て、“本当に”苛立ち始めていた。ここまで言われれば、何度でも掛かってくるだろうと思ってワザと挑発していたのだ。
「――ったく。こんなつまんない勝負させないでよ!」
カチン!その一言が、今の今まで我慢していた由那に、怒りのスイッチを入れさせた。
ところが、である。
「――つまんない、って、それ、言い過ぎじゃないのか?」
何と由那が先にキレる前に、矢島がキレてしまった。
「こいつなりに反省しているのにさ、そこまで言うコト無いだろ!」
「え…………?」
綾香はまさか矢島がキレるとは思いもしなかったらしい。半分演技で怒鳴っていたので、笑みとも怒相ともとれる何とも複雑な顔で、唖然となってしまった。
そして矢島の怒りに、由那も綾香へ湧いた怒りを忘れてて驚いてしまった。
「ちょ、ちょっと、寿……」
戸惑う由那は恐る恐る声をかけてみるが、すっかり矢島は頭に血が上っていて聞こえていないようだった。
そんな矢島を見て、綾香はしばし唖然としていた。だが、唖然とする一方で、その回転の速い頭は、計画の変更を直ぐに思い立った。――よりいっそう、自分が楽しめる方向に。
「……ふぅん。なら、矢島くんなら、つまらなくない勝負は出来るってワケ?」
「へ?」
「由那がまったくやる気がないようだし――矢島くんが代理でリベンジしてもいいわよ」
「何……?」
「それとも、あたしが女だから勝負なんか出来ない?」
「く――――っ、そんなコトねぇよ!」
「ちょっと待てよ、寿!」
「おいおい、矢島……」
綾香と口げんかを始めた矢島に気付いた、男子バスケ部の部長である有吉が、呆れ顔で止めに入ってきた。
「何やってんだよ、矢島らしく無ぇなぁ」
「ほっといてくれ!」
「おい…………(汗)」
「――なら、勝負しない?――由那の代わりに」
「勝負?」
「そう。――勝てば、由那と約束したコトを叶えさせて上げる」
「「約束――」」
戸惑って振り向く矢島と、驚く由那の声がピッタリと重なり、二人は同時に顔を見合わせる形となった。
「由那、約束って――――」
「あ…………」
矢島は訊くが、またもや由那は黙り込み、俯いてしまった。
そんな由那に、矢島は、はぁ、と溜息を吐いた。
「――いいだろう。勝負してやろうじゃないか!」
「寿!?」
「そうこなくっちゃ♪」
全ては自分の思い通り。思わず嬉しそうに笑う綾香はまさに小悪魔であった。
「勝負は1on1で、30点、先に獲ったモノ勝ち。それでいい」
「それで勝負していたんだろ?構わないよ」
「おいおい…………」
有吉は肩を竦めた。しかしその一方で、彼もこの勝負を見てみたいと思っていた。
噂に聞く、天才美少女格闘家。文武両道の美姫の実力はいかほどか。女子バスケ部も止める者もなく、果たして矢島対綾香の1on1勝負がついに始まった。
その時だった。
「おー、居た居た」
あかりと智子を引き連れ、綾香のお守りにやってきた浩之が体育館に現れた。
「……?何や、この人だかりは?」
バスケットのリングを中心に出来ている人だかりを見て、智子は戸惑った。
「あ、葵ちゃん」
あかりが、人だかりの中にいる葵の姿を見つけて声をかけた。
「あ、神岸先輩、藤田先輩、保科先輩、こんにちわ!」
三人に気付いた葵が駆け寄ってきて挨拶した。
「なんだい、これ?」
「はい、バスケ部の矢島先輩が、綾香さんとバスケットの勝負をするコトになって――」
「バスケ勝負ぅ?」
浩之は呆れたように言った。監視の目が無いのを良いコトに、早速、騒動を起こしてくれたな、と思わず仰いだ。
「……つーか、何で矢島が綾香と勝負するんだよ?」
「賭け、だそうです」
「賭けぇ?」
「私もよく判らないのですが、女子バスケ部の平光先輩と最初勝負して、平光先輩を負かせたら、何か行き違いがあったようで、矢島先輩と口論になってしまったんです」
「口論、ねぇ……」
浩之は呆れ顔で後頭部を掻いた。
「あの温厚な矢島と口論つー時点で、ぜってー綾香がワザと挑発したんだろうってコトは容易に想像つんかだが」
「ワザと?――――あ、そう言えば何か、妙にニヤニヤしていました……」
「やっぱり」
浩之は肩を竦めた。
同時に、歓声が上がった。
「何だ――――あれ?」
歓声が聞こえたのは、人だかりのほうだった。浩之はその場でジャンブして、向こうの様子を見た。
そして、驚いた。
「――綾香がゴールを決めていた」
「本当ですか?」
「あの矢島くんが、まさか苦戦?」
「行ってみよ」
気になった四人は、急いで人だかりの中に入った。
ゴールの下では、床を見つめて唖然としている矢島と、ボールを拾い上げた綾香が居た。
「…………何だよ、矢島、床なんか見てて」
「やっぱり、凄いよ、綾香」
浩之の隣には、偶然、由那が立っていた。
「おう、平光さん」
「あ、藤田くん――」
「凄い?何が?」
「あ……え、うん、寿が、ドリブルしていた綾香のボールを獲ろうとしても、やっぱり一つも触れなてないんだ」
「ボールに触れない?」
「うん。――さっきボクも勝負して判ったんだ。――綾香がボールを持っている間、あのボールはまるで空気のように――――実体が無くなっているんだ」
「実体がない?」
驚く浩之の顔は、先ほど体育館に帰ってきた矢島が瞠ったそれと同じだった。
そして今の矢島は、打ちのめされていた由那と同じ顔をして呆然としていた。
「――まずは、1点先取。………………さぁ、いつまでも驚いていないで続けましょう」
「――――あ、ああ」
矢島は、綾香からボールを奪おうとした時の、あの不気味な感触を思い出した。
うっすらと感じた、バスケットボール特有の表面の粒の感覚を覚えた瞬間、突然ボールが手元から消滅してしまったのだ。まるで幻に触れてしまったような、そんな感覚だった。
しかしいつまでも驚いている場合ではなかった。
ふと、顔を上げた時に飛び込んだ、人だかりの中で、いつの間にか居た浩之の横で不安げな顔をする由那を見て、矢島は唇を噛んだ。
(――負けられない。――負けるモンか!)
矢島は大きく深呼吸をして、自らを奮い立たせた。
「――次は絶対獲ってやる!」
「そうでなくっちゃ」
綾香は嬉しそうに笑った。
第13話へ つづく