ToHeart if.『矢島の事情 〜 告白 〜 』第11話 投稿者:ARM 投稿日:6月20日(火)23時47分
○この創作小説は『ToHeart』(Leaf製品)の世界及びキャラクターを使用しています。
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 矢島と由那の間に気まずい空気が流れたが、二人は沈黙したまま、再びそれぞれの部活に戻った。
 そんな二人のやりとりを、綾香は体育館の奥から見ていた。

「……綾香さん、どうしたんですか?」
「――あ」

 ようやく綾香は、葵に呼ばれていたコトに気付いた。

「……バスケット部で何かあったんですか?」
「いや、なーんにも。――で、何?」
「何、って、あの…………」
「?」
「……綾香さんが何か用があるから見学に来られたんじゃないんですか?」
「――」

 そう言えば、アポ無しで来校したコトを綾香は思いだした。そもそも、家庭教師から逃れるためにここへ来たのである。葵に頼まれて来たのだ、と言うコトにするつもりだった。早い話、サボる口実さえあれば何でも良いのである。
 そして綾香は、その役目を、矢島と由那の間に漂っていた不穏な空気に、その匂いをかぎ取った。葵を利用するより、あの二人を利用した方が――面白そうだ、と。

「……ごっめーん、葵、ちょっとあっちのほうが面白――けへんこほん、女子バスケの平光さんにちょぉっと用が出来ちゃった」
「えー?折角、トレーニングの成果を見てもらおうと思ったんですが……」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。葵の腕前は充分判っているから」

 そう言って綾香は、女子バスケット部のほうを見た。

「何なら、いつでもかかってきても良いわよ」

 綾香は葵に一瞥もくれずに言った。

「……」

 流石に温厚な葵も、つれない綾香の態度に少しへそを曲げた。そこで、女子バスケット部に注視している綾香の背に、よぉし、と葵はいきなり回し蹴りを放った。
 いける、と思った。悪戯心からのものであったが、無論、手加減などしない。綾香はいつでもかかってこい、と言ったのだ。
 葵の上段回し蹴りは、昨年のエクストリーム大会で猛威を振るった技の一つであった。決勝で対戦した綾香も、この居合いのような蹴りに苦戦を強いられていた。
 しかも、今回は不意を突いて、である。流石の綾香もこれは避けきれまい。
 だが、葵の蹴先は虚空を切り裂いた。
 綾香は飛び上がっていた。それも、葵の上段蹴りの最頂点の僅か2ミリ上まで垂直に飛び上がり、とんぼを切って、なんと葵の蹴り足を掴んで逆立ちになっていた。

「う……そ…………?!」
「蹴りの速度が速くなっていたのは予想通り――タイミングばっちり」

 全ては、成長した葵の蹴りの速度を計算に入れた綾香の超人的なアクロバット回避であった。
 葵は、足に逆立ちする綾香を乗せたまま、凍り付いていた。それを見守っていたギャラリーたちも唖然としたまま立ちつくしていた。

(…………重さを感じない?!)

 唖然となる葵は、綾香が去年の暮れから、母親の友人から気功術を学んでいるコトを知らなかった。エクストリームを極めた綾香が気功術を学んでいる理由は、引退宣言した今、葵ら挑戦者たちを圧倒する為に体得したものではなく、他のところにあった。米国の大学へ留学するその理由もそうだが、多少のことでは根を上げない綾香が現実逃避したくなるような「勉強」の成果は、後に葵自身も深く関わるコトになるのだが、それはまた別の話である。

「よっと」

 綾香はスカートが開く前に、颯爽と着地した。葵はまだ蹴りの体勢で硬直していた。綾香はそんな葵の肩を、ポン、と叩き、「精進しなさいよ」と言って女子バスケット部のいるほうへ歩き出した。綾香が十歩進んだところで、葵は腰砕けになってその場にへたり込んでしまった。


「すまねぇな、あかり」
「ううん。久しぶりに芹香先輩にも会いたかったし」

 葵が腰を抜かしたその頃、浩之とあかりは、校内のほうへ戻っていた。浩之はセバスから、芹香を迎えに行っている間、綾香の様子を見ていて欲しい、と頼まれたのである。

「まぁ、セバスには雅史とゆえさんの件で世話になったしな。――ま、正直、綾香が何かやらかしゃしないか心配なのもあるが」

 浩之が苦笑して言うと、あかりもつられて笑った。

「おー、なんや、二人して」

 その時だった。浩之とあかりは、玄関から出てきた智子と出会った。

「なんだ、委員長、今帰りか?」
「うん。クラス委員会の会議が今終わったところ。……なんで二人とも、戻ってきたんや?忘れ物?」
「いや、セバスにお守り頼まれてな」
「お守り?」
「来栖川の跳ねっ返りお嬢様が体育館に来ているんだ」
「へえ。あの松原さんがエクス何とかって言う格闘大会の決勝で闘ったっていう、あの人?」
「ああ。とりあえずセバスが芹香先輩を迎えに行って、戻ってくるまでの間だけどな」
「それは大変やね」
「どう?」
「?」

 智子は急にあかりに訊かれてきょとんとした。

「久しぶりに芹香先輩に会えるんだ。智子も来ない?」
「…………うーん。…………今日は塾はないし、うん、ええよ。久しぶりに芹香先輩にも会ってみたくなったし」


「やっほー♪」
「…………あ」

 ドリブルをしていた最中に、急に背後から聞き覚えのある声をかけられ、由那は戸惑った。その陽気さがトラブルの元であるコトを、由那はついさっき嫌と言うほど思い知らされた。
 だから由那は振り返らずに、

「ごめん、今、部活中なんだ」
「あーん、つれないなぁ。――どうしたの、彼氏と?」
「――――だから彼氏じゃないっ――」

 キレかけて振り返った途端、由那はドリブルしていたボールを奪われた。
 奪われたと判ったのは、しかしそのボールがリングに入った後だった。ドリブルしているボールをとられ、殆どモーションのラグもなくシュートした。それも、今二人が居る3P(スリーポイント)ゾーンからである。一瞬の出来事であった。由那の手にはまだ、ボールをドリブルしていた感触が残っていた。

「な………に…………?」
「ごめーん、ちょっと打ってみたかった」

 唖然とする由那に、綾香は舌を出して笑った。しかしなんというシュートであろうか。全国優勝でMVPまで受けた由那をして、その動きはまったく見抜けなかった。
 だが、流石に全国の強豪相手に勝ち抜いた由那、次の反応は伊達ではなかった。

「す……スッゴーイッ!こんな凄いシュート、見たコト無い!ねえねえ、もう一度ドリブルするからやってみてよ!」

 羨望の眼差しをくれて言う由那に、日頃ストレスをため込んでいる所為もあったか、得意になった綾香は直ぐに頷き、そして再現してみせた。

「やっぱ、すごい――速い、速すぎる!!」
「あまり人前でみせちゃ駄目だ、って伯斗先生に言われていたけど、駄目と言われたらやっちゃうのが人間のサガなのよねぇ。軽気功ってヤツを応用したんだけど」
「ねえねえ!どうやるの、教えて!」
「ちょっと無理、っていうか他の人に教えられないの」
「ケチ」
「ゆぅわねぇ。――ま、軽気功以外のコトなら、コツぐらいは教えられるかも知れないけど」
「コツ?」
「うん」

 頷く綾香は、ドリブルしている相手のボールの奪い方の説明を始めた。由那は部員たちにシュートの練習を続けるよう言って隅のほうに移動した。そして綾香の手ほどきの一挙一動に、いちいち感心していた。

「……なるほど。でもドリブルしているボールの目を見るのは至難の業よ(汗)」
「由那ならコツさえ掴めば大丈夫。…………ところで、さ」
「?」
「ちょうど他の人たちから離れたコトだし、――ヒサシくんとなんかあったわけ?」
「――――」
「黙ってても、だーめ。…………なんか、さ」
「……?」
「喧嘩していたワリに、なんか二人して落ち込んでいるように見えたから。――喧嘩、ってワケじゃないよね?」
「………………」

 少し迷ったが、由那は頷いた。

「……うん。…………寿、卒業したら大学に行かず、就職しなきゃならなくなったんだ」
「就職?成績が悪化したとか、そう言う事情?」
「ううん、家の事情。――別に寿なら、推薦で、特待生待遇で進学できるンだけど、あいつん家、お父さんが居なくてね。お母さんとお姉さんが頑張っていたんだけど、お姉さんに子供が出来ちゃってね。妹の栞ちゃんが来年高校進学するコトもあって、家計を支える働き手が必要なの」
「ふうん」

 感心したふうに言う綾香は、女子バスケ部のさらに向こう側でドリブルしながらパスのロードをしていた男子バスケ部のほうをみた。矢島は、部長の有吉と一緒に後輩を指導していた。

「それは大変ね……。確か彼、全国大会で優勝候補相手に大健闘したって言うじゃない?大学も彼みたいな人材、喉から手が出るほど欲しいでしょうに」
「うん。で、ね。――ほら、今、就職氷河期、ってゆわれているでしょ?ましてやボクら普通科の高校生は、就職なんて非常に厳しいってゆわれているしさ」
「まーねぇ。うちの系列会社も、今年はどこも高卒は採らないって言ってたわねぇ」
「関連――――」

 ふと由那は、なにげに言った綾香の言葉に反応した。

「……あ、そうか、来栖川――あの来栖川グループの会長の娘だっけ」
「まぁね」

 威張るわけでもなく、気にもしないように答えるのはなんとも気さくな綾香らしい。
 そんな綾香を見て、由那は、ハタ、とある事を思いついた。

「――ねぅ、綾香」
「?何?」

 神妙な面もちで訊く由那に、綾香はきょとんとした。

「綾香の――」

 由那は思ったコトを直ぐに口にしようとしたが、何故か途中で言葉を詰まらせてしまった。

「何?」
「…………」

 由那は迷い、そして綾香の肩越しに、向こうに見える矢島を見た。
 矢島は一生懸命部員たちを指導していた。今年こそはあのライバルを打倒する、その意気込みで一杯なのであろう。就職のコトなど、きれいさっぱり忘れて。
 そんな矢島を見て、由那は自然と、のどの奥で詰まっていた言葉が吐き出された。

「――綾香の力で、寿の就職先を世話してもらえない?」
「はぁ?」

 いきなり何を言うのか、と言いたげな貌で綾香は呆れ返った。

「いや、無茶は承知だけど――でも、あいつ、好きなバスケットの道を諦めて、家族のために頑張るっていうのに、…………このままじゃあいつ、可哀想だよ」
「………………」

 呆れていた綾香だったが、悔しそうに言う由那を見ているうち、その気持ちを理解して真顔になった。

「……バスケはどこでも出来る、って言ってたけどさ。…………でも、あいつがバスケットやっている時が一番輝いているんだよ。ずうっと見てきたボクが言うんだ、それは保証する。――――それを捨てるんだよ、あいつは。なら、その輝きに見合ったものを与えてあげないと――――世の中、絶対不公平だよ」
「………………」

 綾香は黙って訊いていた。無論、自分に、由那の願いを叶えられる力があるワケではないし、話の内容が内容だけに、いい加減に答えてはいけないと思ったからである。もっとも、お願いしている由那も、そのコトはきっと判って言っているのだろう。言わずにはいられないのだ。
 暫しの沈黙。やがて由那が、ご免、と言ってそれは途切れた。

「……いくらお嬢様でも、そればっかりは無茶だったね。いいよ、忘れて」

 吹っ切れた顔をする由那を見て、綾香はまた矢島のほうを見た。
 ちょうど矢島は、3Pゾーンからのシュートの練習を始めた。矢島の手から放れたボールは綺麗な弧を描き、リングに触れるコトなくその内側を通り抜けた。もはや職人芸の世界である。きっとプロのバスケットボールが国内にあれば、矢島は生き甲斐と仕事を両立するコトが叶ったハズであろう。

「…………待って」
「?」

 由那がきょとんとして綾香の顔を見た。すると綾香は、真顔を不敵そうな笑顔に変えて頷いた。

「…………心当たりがまったくないワケでもないのよ」
「え――」
「うちの系列で、来栖川建設ってところがあるんだけど、そこに社会人バスケットチームがあるの。そこなら、生き甲斐と仕事が両立出来るハズ」
「あ――――」

 言われて、由那はあるコトを思い出した。それは、来栖川建設のバスケット部は、国内での一二を争う実力を持つ、スポーツニュースでも時々名前が挙がっていた有名な社会人チームである事実であった。

「――じゃ、じゃあ!」
「待った」

 逸る由那に、綾香は、にっ、と笑ってみせた。その笑みは、いつものように、小悪魔のスイッチが入った時のそれであった。

「……あたし、楽するのは嫌いなの」
「え……?」
「紹介する条件を出すわ。――あたしと1on1勝負して、由那が先に30点とったら紹介してあげる」
「そ――そんな」
「意地悪だと思わないでよ。これでもあなたの土俵で勝負する、ってコトで善処しているんだから。――それとも、シロウト相手に勝負など出来ない?」

 不敵に微笑みながら言う綾香に、由那は酷く戸惑った。意地悪にしては、正論を吐いているし、ましてや地位や立場をかさにして嫌がらせをするような女性ではない。きっと何か考えがあってのコトだ、と由那は信じたかった。
 何より、由那が自分から切り出したコトである。無茶を承知で言ったのだ。それなりに試練があって然るべき。覚悟はしていた。
 そう思った途端、由那は不安に駆られた。
 そして堪らず、矢島のほうを見た。矢島は由那の試練など知るハズもなく、部活動に専念していた。

(――寿。ボク、頑張る)

 一生懸命な矢島の姿だけで充分だった。由那は大きく深呼吸をして、自らを奮い立たせた。

「――判った。その条件、のむよ」
「そうでなくっちゃ」

 綾香は嬉しそうに笑った。


 矢島たち男子バスケ部部員たちは、騒がしくなり始めた女子バスケ部を後目に、グラウンドへショートランニングに出ていた。
 20分ほどして体育館に戻ってきた矢島は、荒い息を整えながら入り口を潜った時、奇妙な光景に遭遇した。

 リング下で、由那はがっくりと俯けていた。その顔はどこか青ざめていた。
 その横では、あの来栖川綾香がボールを抱え、目の前にいる由那をどこか神妙な面もちで見つめていた。

「――これで30点先取。………………あたしの勝ちよ」

 矢島は、打ちのめされている由那に追い打ちをかけた、綾香のその一言の意味の重さをまだ知らないでいた。

       第12話へ つづく

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