ToHeart if.『矢島の事情 〜 告白 〜 』第9話 投稿者:ARM 投稿日:6月3日(土)10時11分
○この創作小説は『ToHeart』(Leaf製品)の世界及びキャラクターを使用しています。
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【承前】

 矢島が智子にフラれてから、季節は一巡した。

 ついに三年生になり、受験生という緊張した一年を迎えるコトになった浩之たちだったが、呑気者が多い所為か、二年に進級した時と余り変わりがなかった。

 それは、矢島と由那の関係にも言えた。
 智子にフられたコトを知った由那は、どうして、と思ったが、その反面、仕方がないか、とも思っていた。
 しかしそれっきりだった。智子に言われて矢島は、由那を以前よりいっそう意識するようになったが、それ以上先へ踏み込もうとはしなかった。正確には、踏み込む気さえ湧かなかった。

 だが、矢島本人には、つい最近、ちょっとした変化があった。


「…………はははっ。当たっちった」

 矢島の姉、初美は、昨日の晩、家族の前で気まずそうに自らの懐妊を白状した。
 相手は、高校時代の頃から、隠れて付き合っていた高校の恩師、渡瀬であった。もっとも、矢島や妹の栞、そして母親はその交際は当時から知っており、まんざら知らない間柄ではなかった。まだ新米の教師だが非常に真面目な男で、実は、初美が高校を卒業したと同時に婚約を申し込んでいたのだが、それに待ったをかけたのが他ならぬ初美自身だった。

「寿がさ、大学出るまで、あたしが家を支えてやらなきゃならないから、それまで待って――って言ったよなぁ姉貴」

 矢島は初美の声色を使って意地悪そうに言った。初美は困った顔をして照れ笑いし、

「ちゃんと計算していたんだけどねぇ」
「初美姉ぇ、オギノ式は、本当は完璧に避妊出来るわけじゃないんだよ」
「…………栞。お兄ちゃん、キミがどこでそう言う話を知ったか、非常に興味が有るんだが(汗)」
「学年誌だよ。最近の奴はすっごく大胆な記事が多くてね。少子化の所為かしら(笑)ふーふふ」

 今年、高校受験を控えている栞は、あっさりと言ってのけた。

「……栞。その件でおかあさん、栞に色々と後でみっちり訊くとして…………」

 栞を睨んだ矢島の母親は、次に初美とその相手である渡瀬を見て、

「渡瀬さん。今更どうと言うつもりはないのですが――」
「母さん、良一クンは悪くないのよ!悪いのはあたし!だから――」
「――初美」

 そう言って矢島の母親は初美を睨んだ。一瞬怯む初美だったが、直ぐに、ふっ、と笑みをこぼした。

「……孫が出来て喜ばない親が居ると思い?――むしろ、あなた達には、うちの事情の所為で、わがままきいてくれて感謝していたくらいなのよ。……もう、あなたたちの好きにして佳いのよ」
「お母さん…………!」

 驚きからみるみるうちに呆ける初美に、矢島の母親はゆっくりと頷いた。

「……大丈夫。あたしもまだ働けるし」
「ちょ、一寸待ってくれよ」

 と口を挟んだのは、矢島だった。

「寿……」

 初美は戸惑いの眼差しを弟にくれた。来年、大学を受験予定にしていた矢島にしてみれば、約束が違うと文句を言ってくるのは当然のコトだろう。初美はそのコトがとても気懸かりだった。
 しかし、矢島は首を横に振った。横に振って、微笑んだ。

「――母さんばかりに無理はさせねぇよ。仮にも矢島家の長男だしな、俺は」


「…………高校卒業したら就職するって?」
「ああ」

 昼休み、屋上であかりたちと一緒に食事していたそこへ、矢島の意外な告白に、浩之たちは唖然となった。そんな浩之たちを見て、矢島は苦笑しながら頷いた。
 その場に居るのは、矢島と浩之、あかりに智子、そして雅史とその彼女である南雲ゆえと言うメンバーだった。長岡志保は昨年暮れに転校し、その穴を埋めるように智子が収まった。矢島はこのメンツと食事するのは初めてであった。そもそも、今朝、元気のない矢島を見かねた智子が浩之たちを誘って、天気の良い屋上で一緒に昼飯を食べようと言い出したのであった。そこで浩之たちは矢島の暗い理由を知って、酷く驚いた。

「元々、大学行って何やろうって頭も無かったしな。それに去年のインターハイでの借りもあるし、お陰で気兼ねなく今年もバスケに専念できる」

 去年、矢島たちのバスケ部は、西東京代表としてインターハイに出場し、全国第3位という好成績で終わっていた。ここで矢島が指している“借り”の相手とは、石川県にある、10年連続全国制覇を成し遂げた高校バスケ界の雄・県立隆山第一高校バスケ部である。
 準決勝に於いて矢島たちのバスケ部は、この隆山第一高校と対戦したのだが、それは、下馬評に反して、僅か2点差――あと1秒あれば、矢島が放った3Pシュートが決まって逆転していたハズだった――で敗北したものの、バスケット専門誌にも特集を組まれたくらいの名勝負を繰り広げていたのである。隆山第一高校のキャプテンは、優勝直後のインタビューで、この準決勝こそが事実上の今年の決勝戦であったと言い切ったほどで(事実、決勝では相手チームになんと100点という圧倒的点差をつけてしまった)、以来、今年の春に一度、隆山第一高校バスケット部が練習試合で遠征に来るなど、矢島たちのバスケ部と積極的に親交を深めていた。
 双方ともチームのメンバーが殆ど入れ替えになってしまったが、隆山第一高校は大会10連覇を成し遂げた名門。今年もその実力は落ちるコトはない。矢島は、大学受験を諦め“られ”るコトで、隆山高校と今年の夏にもう一度勝負するコトに専念出来ると心から喜んでいた。

「そっかぁ。残念だったなぁ」
「ま、しゃあねーさ。しかし藤田こそ、呑気にヒトの心配している場合じゃねぇと思うんだが、受験勉強は大丈夫なのか?確か理工系だろ?」
「んー、浩之ちゃん、予備校には行っていないけど、結構頑張っているんだよ」

 浩之の隣りに座っていたあかりが自慢げに言った。

「僕に言わせると、浩之、文系のほうがピッタリなんだけど」
「うーん、そうかなぁ。藤田くん、結構頭の回転早いほうだから、理工系でも大丈夫だと思うけど」

 雅史は不思議そうに言うと、その隣りに座っていた南雲ゆえはそう言って、浩之ににこっ、と笑ってみせた。

「まぁ藤田くんなら、わたしも大丈夫やと思うけどな。この間の模試の数学、まさかわたしや南雲さんを抜くとは思わなんだよ」
「ふっふっふっ、今日からハイパーヒロユキと呼んでくれたまえ!」

 と、どこかの骨董屋の店員が仕事を50回連続成功させた日に言いそうなセリフを、浩之は胸を張って行って見せた。それを見て、矢島の隣りに座っていた智子は、中身は相変わらずやな、と肩を竦めて呆れた。

「はいぱぁはええけどな、油断は禁物やで。あんたのウィークポイントはそれなんやから」
「智子の言う通りだよ、浩之ちゃん。マルチちゃんを引き取るため、頑張らなくっちゃ!」
「おうっ!めざせ、物理学者!」
「……神岸さん、藤田、物理学者目指しているの?」
「うん。マルチちゃんに内蔵されている、てぃえいちなんとか、っていう名前の機関を整備するのに、なんでも量子工学って難しい学問習わなきゃいけないんだって」

 不思議そうな顔で耳打ちして訊いた矢島に、あかりは分かる範囲の単語をなんとか駆使して返答した。

「ふぅん。…………でも、正直なところ、俺も、藤田ならきっとその夢を叶えることは出来るだろうと思っているぜ。何せ、格闘初めて3ヶ月で、あのエクストリームの高校生の部第8位入賞、なんて快挙果たしたくらいだしな。なんだってやっとのけそうだ。――あれ、そういえば佐藤も、去年のサッカーでのインターハイ、うちらとおなじ全国3位で、佐藤本人もMVPまでとってたっけ」
「そう考えてみると、ここにいるメンツ、とんでもない連中ばっかやね」
「うちの学校の、全国レベルのスポーツマンが三人も居るのよね(笑)なんか申し訳ない気がするわね」
「あにゆぅてんねん。ゆえさんは佐藤くんの彼女やないの。遠慮したらあかんて。――あーあ、独り身には堪えるわねぇ」
「本当(笑)」
「何よ矢島くん、あんたには由那がおるやない」

 相づちを打つ矢島に、智子は意地悪そうに笑って言って見せた。
 すると矢島は狼狽し、

「だ、だっ、だって、そんなコト言われたって俺…………」
「……なんや、まだ由那にうち明けとらへんのか。あかんなぁ、ソレ。せっかくわたしが身を引いてやったゆぅに」
「……あかり、普通、ああ言うのはフったっていわんか?」
「うん(汗)」
「――――なんやあんたら、わたしに文句あるっ?!」

 こそこそと小声で話している浩之とあかりは、きっ、と智子に睨み付けられ、慌てて首を横に振る。矢島との一件でようやく心をすべて開くようになった智子だったが、本来のコテコテなノリと、ちょっぴり凶暴な所もある素に、浩之たちは大いに当惑したものである。

「……ところで、由那、何しとんやろ?ここでみんなで昼飯食うゆうたのに、遅いなぁ。ゆえさん、ホンマにちゃんとゆってくれた?」
「言ったけど、4時限目が終わって直ぐに、先生から進路指導室に呼ばれていたから。時間かかっているのかしら?」
「どーせ、大方とんでもない進路志望出したか何かで、進路指導の先生にこっぴどく叱られているのかも――――」

 矢島がそう悪態ついて笑い出した丁度その時、屋上に息急き飛び出してきた者が居た。

「――あ、由那(汗)」
「――――ひぃぃぃぃぃさぁぁぁぁぁぁしぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっっっ!!!」

 瞬時に愛嬌を振りまく矢島を見つけて、その悪態を聞いていたのか、由那は地の底から響くような不気味な声でその幼なじみの名を呼んだ。そして即座にダッシュし(速度はマッハ1.4(推定))、ベンチに座っていた矢島の胸ぐらを、がばっ、と掴んだ。

「――――お、おっ、お前ぇっ、なんで大学進学諦めたっ!?」
「へ?」
「せ、せっ、進路指導の先生がボクを呼んで、寿のコトを色々訊かれたンだよっ!」
「うーん、朝、先生にちゃんと話したつもりだったんだが」

 惚けたように言う矢島をみて、由那は困憊しきった深い溜息を吐いた。

「……寿、お前なぁ…………ちっと呑気過ぎゃしないかっ?!」
「しゃあねーじゃん。家庭の事情って奴だ」
「だけど寿、お前の学力なら大学進学だって問題ないだろ?学費だって――」
「これ以上、初美姉ぇやおふくろに負担かけられねぇんだよ!栞だって今年高校受験なんだぜ?」
「――――――」

 矢島が困った顔をして言うと、由那はゆっくりと俯き、その胸ぐらを掴む由那の手から次第に力が失われてきた。
 やがて完全に手を離した由那は、いきなり当惑する貌を上げた。

「……だって………………だって、さぁ………………いいのかよ、そんなんで…………大学で…………バスケ続けたい、って言ってたじゃあないか!」
「……構わねぇよ」

 そう答えると、矢島は由那の頭に、手をぽん、と乗せた。

「…………進学ばかりが人生の道じゃないよ。それに、大学行かなくったって、バスケは出来るし。――ほら、前に由那、隣町に1on1が出来るレンタルコートがある、って言ってたじゃないか。中学校のコートだって貸してくれそうだし、――なんなら今日の帰りでも寄って、前みたいに勝負するか?」

 矢島は由那を慰めるように優しく言った。由那に言われなくても、悔しい気持ちはあるが、しかし大学進学が自分には全てではないのも事実である。そう思うと、そんな悔しさがちっぽけなモノのような気がして、気にもしなくなった。むしろ、今まで自分が置き去りにしてきた問題にようやく向き合えるようになり、安心感のようなものまで感じていた。
 だが、由那にしてみれば、そんな大事を急に知らされて、冷静さも、ポジティブな考えも浮かぶハズもない。

「……結局、さ」
「え?」
「……俺、男だから」

 矢島がそう言った途端、由那は大きく瞠った。驚いたと言うより、何かに気付いたと言うべきかも知れない。
 その変化に、矢島は直ぐに気付いた。

「?どうした?」
「…………また……かよ」
「?」

 矢島がきょとんとした瞬間、再び由那は矢島の胸ぐらを力一杯掴んだ。

「――――――またお前は、そうやってボクを置いてきぼりにする気なのかよっ!?」
「「「「「「――――!?」」」」」」

 由那の突然の、悲鳴のような叫びに、今まで成り行きを黙ってみていた浩之たちもこれにはビックリした。
 何より、由那は泣いて、矢島の顔を睨み付けていた。

「な、なぁ、由那……」

 智子が恐る恐る声をかけるが、由那は矢島を睨み付けたままで、振り向こうともしなかった。
 矢島は暫し黙っていたが、やがて、はぁ、と深い溜息を吐き、

「……置いてきぼり…………って、お前、いつまで俺のケツを追い回す気なんだぁ?」
「追い――――」

 突然、矢島に強い口調で言われ、泣いていた由那は泣くのを止めて瞠った。

「お前、去年女子の部で全国を制覇した時、なんてゆわれたか、思い出せよ!」

 矢島たちの男子バスケ部は惜しくも日本一は逃していたが、由那の居る女子バスケ部は念願のインターハイ優勝を果たしていた。
 その最大の功労者が、「3Pの魔女」とまで呼び詠われた由那であった。矢島同様に一年生の頃から、関係者たちから注目されていた由那は、以前の矢島の物真似騒動の際に知り合った来栖川綾香のアドバイスを受けて、自分なりのフォームを見つけ出し、昨年の大会でそれが猛威を振るった。女性なりの柔らかいフォームによる打ち方がもたらした、3Pシュート100パーセント成功という記録は今もなお語り種である。その所為で、前にも増して、今度は他校の女生徒たちからも高い人気を集めており、有名バスケット部があるいくつかの大学から、特待生として推薦入学の話がいくつも上がっていた。
 その大学の中に、矢島を入学させたいという大学もあり、由那は矢島がそこへ進路を決めたら自分もそこを志望するつもりだった。由那は矢島と一緒でなければバスケットをする気が起きないのである。
 しかしそのコトは、矢島も薄々気付いていた。はじめ、それを進路指導室の教師から聞かされた時は、酷く呆れ返った記憶があった。

「――自分で見つけたフォームがあるんだろ?『3Pの魔女』とまで呼ばれてさ、折角自分なりのやり方を見つけられたというのに――――なんでこの期に及んで、まだそんなコトをゆうんだよっ!?」

 矢島は由那を咎めるように訊いた。
 そして、我慢できずに訊いたその質問こそが、矢島が由那に感じていた疑問であり、由那への想いを考える時に決まって、最近ようやく見えてきた、自分を迷い苛立たせる心のモヤモヤの正体であった。
 由那は唖然とした顔で、矢島の言葉を聞いていた。
 そんな由那を見て、矢島は、ふぅ、と困憊したような溜息を吐いた。

「…………俺に拘る理由なんて、無いだろうに」
「え――――」

 一瞬、呆けていた由那が我に返った。

「で、でも――――」
「お前の編み出したシュートフォームは、男の俺には出来ないように、男の俺じゃなきゃ出来ないコトもあるんだ。――意味もなく目的もなく大学へ進学しても、今の俺には許されないコトなんだ。――俺の今の夢は、自分ン家を守りたい、ただそれだけなんだよ」
「…………」

 由那はゆっくりと俯き、そしてまた矢島の胸倉から手を離した。そのゆるりとした動きは、二度とその手が感情に任せて動くようなコトは無いと判る、そんなものだった。
 正直、矢島はそんな頼りない由那は見たくなかった。
 それでも、訊かずにはいられなかった。

「知っているか?藤田の奴は物理学者になりたくて大学に行くんだよ。――しかし由那、お前、大学に上がってさ。…………そこで得たいものや、そして必要としているお前なりの夢って、あるのか?」

       第10話へ つづく

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