ToHeart if.『お嬢様は”G……”』 投稿者:ARM 投稿日:2月19日(土)19時39分
○この創作小説は『ToHeart』(Leaf製品)の世界及びキャラクターを使用して、ちょっぴり板垣恵介ライクに描いています(笑)。
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 5月のある晴れた、正午に近い平日のコトだった。

「……来栖川」

 世界に名だたる来栖川グループの会長の孫、来栖川芹香が通う都立高校で体育教師を勤める谷崎ゆかり(26)は、相変わらずぼー、っとしている芹香を見て、忌々しそうに呼んだ。

「あんた、やる気あんの?」

 また、年増女のヒスが始まった、と芹香の同級生たちがひそひそと陰口を叩いた。校内の女子生徒たちの中では、谷崎の評判はすこぶる悪い。なにせ、私的な問題を平気で校内に持ち込む問題教師で、たとえば、大学の同窓生の結婚式の翌日とか、友人に彼氏が出来たとかいう話を聞く度、こんなふうに不機嫌になって他人に当たり散らすのである。今日の理由は誰も知らなかったが、八つ当たりの相手を芹香に決めたのは明白であった。

「いつもいつも、体育の時間はのほほんとしててさ、――真面目に授業受ける気あんの、あんた?」

 谷崎が不機嫌そうな顔で訊くと、芹香は相変わらず眠たそうな顔で、こくっ、と頷いた。
 その仕草がまた、谷崎を余計に苛立たせた。

「――――なめてんの?」

 谷崎が睨むと、芹香は少し怯えた顔で首を横に振った。しかしそんな仕草が、谷崎の内なる嗜虐性を触発させた。

「……ほぅ?あんた、他の学科では先生たちに目ぇかけられているようだけど、――あたしは甘かぁないわよ」

 そう言って谷崎は、にやり、と意地悪そうに嗤った。いや、本当に意地悪しているのだが。

「――今日の体育の体力測定。平均以下だったら体育の単位あげないコトにしたから」
「――――」

 流石の芹香も、その言葉には酷く驚いた。もっとも、顔はいつも通り眠たそうな顔であった。こんな芹香の表情の変化が判るのは、恐らく芹香の家族とセバス、そして後輩の藤田浩之くらいであろう。

「……へー、驚かないなんて凄い自信じゃない?」

 いや、驚いているんだって。芹香は反論するが、蚊の鳴くような声でしては無意味である。

「……酷い。無茶苦茶よねぇ」
「……しっ。聞こえたら谷崎にナニされるか判らないわよ」

 芹香の同級生たちは同情するも、下手に谷崎に逆らってとばっちりを喰らいたくなかったので黙っているしかなかった。

「よぉっし。今日の体力測定は5種目。100メートル走、ソフトボール投げ、走り幅跳び、懸垂そして1500メートル走よ」
「ええっ!?1500ぅ?女子は800ぢゃぁ?」
「煩いわねぇ。男女雇用均等法が施行された今日日、女も男に負けてなんからんないわよっ!――そうよ、男なんかに……男なんかに…………ぶつぶつ」

 どうやら今日の理由は男がらみらしい。おおかたフラれたのだろう。女子生徒たちは谷崎をフッた男を呪いつつ、しかしあんたの選択は正しい、と心の中で口々に呟いた。

「――んじゃま、100メートル走!さぁ、出席番号順に5人ずつ組んで並ぶ!」

 芹香は三列目だった。芹香のクラスはア行とカ行の名前が多かった。一列目と二列目が一生懸命になって走った後、ようやく芹香が走る番となった。

「うふふ。来栖川、しっかりやんなさいよ…………よぉい!」

 谷崎はホイッスルを口にくわえて目を瞑って思いっきり吹いた。

 どぉんっ!

「…………あれ?……鉄砲なんて使ってないわよ?…………あ?」

 突然聞こえた轟音に驚いた谷崎が目を開くと、スタート地点で尻餅をついている芹香の姿が飛び込んだ。他の三列目の生徒たちは既にスタートした後で、芹香はすっかり出遅れていた。
 だが、三列目の生徒たちは走るのをやめ、スタート地点にいる芹香のほうへ振り向いて立ち止まっていた。

「…………なに、あれ?…………クレーター?」

 唖然とする谷崎が目にしたモノは、スタート地点にいる芹香の可愛らしいお尻が填っている、巨大なクレーターであった。

「……誰よ、あんなところに落とし穴掘ったのっ!?」

 谷崎が聞くと、女子生徒たちは全員声を揃えたように、知りませーん、と応えた。

「……まったく」

 谷崎は呆れつつ、しかし心の中ではニヤニヤしていた。何者かの手による落とし穴に填ったのが芹香であったからだ。無論、谷崎の仕業ではない。芹香の醜態を見られただけで、谷崎はホンの少し溜飲が下がった。

「……しっかし、これじゃあダメね。しゃあない、来栖川、失格、と」

 それを聞いて生徒たちは、酷ぉ、と心の中で言った。芹香は相変わらず、ぼぅ、と茫洋とした顔で立ち上がり、腰についた砂を手で払ったが、谷崎の審判に文句を言おうとする気配は見られなかった。

「……さぁ、次はソフトボール投げ!来栖川はとっととそっち言って!」

 芹香は谷崎の言葉に従い、先に100メートル走を終えてソフトボール投げを開始している同級生たちの輪に、小走りで入っていった。
 スタート地点に突如空いた穴を100メートル走をクリアしていない女子生徒が埋めていくのを横目に、他の女子生徒たちはソフトボール投げを順当に行い、やがて芹香の番となった。

「いひひ。あのお嬢様、箸より重いモノ持ったコトなくて?……ちぇ、ちゃんと掴んでいる。――ほら、とっとと投げるっ!」

 ソフトボールをじっ、と見つめている芹香に、谷崎は急かして言った。
 促され、芹香は大きく振りかぶった。
 そんな時、芹香は横目で谷崎を見た。谷崎はにやにやと嫌らしそうに嗤っている。きっと芹香がろくな距離も得られないことを期待しているのだ。
 芹香は複雑な想いでボールを投げた。
 ――ハズだった。

 あ、失敗……

 芹香は相変わらず蚊の鳴くような声で言うので、誰もその呟きに気付いていなかった。

「……ん?…………あ?くーるーすーがーわー、あんた、ちゃんと放った?」

 何故か、ぽかん、としていた谷崎が、そんな芹香の様子に気付いて睨み付けて訊くと、芹香は顔を真っ赤にして、こくん、と頷いた。

「あー、誰か、来栖川の投げたボール知らない?」

 谷崎は聞くが、女子生徒たちは全員、首を横に振った。

「……ちっ。来栖川、また、失格、と」

 それを聞いて、芹香は、しょぼん、とした。

「ほら、とっとと次ぎ行きなさい!しっ、しっ!」

 まるで犬でも追い払うような口調で谷崎は芹香を走り幅跳び測定をしている砂場のほうへ向かわせた。芹香は肩を落としながら、砂場のほうへトボトボと歩いていった。

「……まったく。ボール、弁償させる――うわっ!?」

 肩を竦めていた谷崎の目前を、突然火の玉が落下してきた。

「な、なによ、これっ!?隕石?――うわぁっ、焦げ臭ぁ……っ!」

 驚く谷崎の足許で燃えている奇妙な物体の周りへ、近くにいた女子生徒たちがわらわらと集まってきた。

「あー、もう、そんなもん、ほっときなさいっ!」

 驚いてすっかりへそを曲げた谷崎は、砂場のほうへつかつかと歩いていった。そんな谷崎の背を見送りつつ、燃え続ける物体から発せられる異臭に誘われて、当惑する女子生徒たちの視線を集めたモノは、皆、どこかで見覚えのあるモノであった。

「……これって、もしかして、……ソフトボール?」

 ちりちりと燃える物体には、ボールの縫い目を模して象られた部分が辛うじて判別できた。それを見て女子生徒たちはみな、火の玉が落下してきた青空を見上げて唖然となった。
 一方、砂場。谷崎が到着すると、丁度、芹香が飛ぶ番であった。

「あぁら、お嬢様、着地の時は足をくじかないでね」

 その嘲りに、女子生徒の誰かが鬼婆ぁ、と小声で言ったが、幸いにも谷崎は自分の笑い声でそれが聞こえていなかった。

「ほらっ、とっとと飛ぶ!」

 言われて、芹香は助走をつけて跳んだ。
 いや、飛んだ。芹香の跳躍を見た者は皆、そう言うべきであろうと思った。谷崎さえもそう思ってしまった。
 芹香は、砂場を飛び越えて反対側の縁に着地してしまったのだ。

「…………へ?」

 谷崎の嘲笑が凍り付いた。女子生徒たちも、この光景に表情を凍り付かせていた。

「……先生。…………巻き尺が足りません」

 砂場の上で測定用の巻き尺を持て余していた測定係の女子生徒が、恐る恐る言った。谷崎はその声でようやく我に返った。

「…………えっ、と」

 谷崎は当惑する顔を芹香に向けた。芹香は自分の足許を見て困ったふうにしていた。

「…………計測が出来なきゃ、――失格」

 おいおい、と女子生徒たちがついに声を出して突っ込んだ。中には、先ほど落とし穴が空いたトラックのスタート地点のほうを当惑げに見つめている者さえ居た。

「……そういや、さっきの来栖川さんの……あたし、あの穴が空いた瞬間見てたんだけど……来栖川さんが踏ん張ったところがいきなりへこんだ様に見えたんだけど……」
「ば、ばか、そんなコトあるワケないじゃん」
「でもさ、あたしはさっきのボール投げ、来栖川さんが投げようとしてボールがすっぽ抜けて上に飛んでいったようにも見えたんだけど…………もしかして、さっきの火の玉……」
「あ、あんたまでゆうわけ?」

 砂場にいた女子生徒たちが、ざわざわと騒ぎ始めた。
 そんな生徒たちに、戸惑っていた谷崎が苛立ちを覚えた。

「――そこ、煩いっ!ほら、来栖川もとっとと鉄棒へ行く!………………何なのよ……何なのよ、これっ?」

 そう言って谷崎は生徒たちを追い払った。しかし谷崎が本当に追い払いたかったモノは、生徒たちではなかった。
 少し青い顔をする谷崎がようやく鉄棒へやってきた時、またもや芹香の番であった。谷崎は少し不吉な予感を覚えつつ、芹香が鉄棒を掴む様を見届けた。
 一回。
 二回、三回――六回、七回…………。
 谷崎には意外であった。鉄棒に集まっていた同級生の中には、芹香が平然と懸垂する姿を見て呆気にとられていた者も居た。

「へぇ、意外とやるじゃん――」

 と、谷崎が感心したその時である。がきん、と音を立てて、芹香が掴んでいた鉄棒が外れてしまったのだ。ちょうど懸垂で引き上がっていた芹香は、ふわっ、と宙に浮き、そのまま地面に尻餅をついた。

「あはははは――――」

 それを見て、谷崎は思わず大声で笑い出すが、生徒たちの冷たい視線に直ぐに気付き、慌てて口を押さえた。

「……しっかしアレねぇ、運がない、っつーか…………失格」

 笑いを堪えながら言う谷崎に、芹香はまた、しょぼん、とした。だが、谷崎は気付いていなかった。
 芹香が掴んでいる鉄棒の切断面が、決して老朽化によって折れたモノではなく――今年の春に新しいモノに取り替えられたばかりのそれは老朽化とは無縁のモノで、強力な力による極めて短時間での金属疲労が原因で折れたモノであろうとは、谷崎も、芹香の同級生たちも誰一人として気付いていなかった。


 来栖川芹香の妹、綾香は、芹香を尊敬している人間の一人であった。
 かつて綾香は、エクストリーム大会に優勝した時、こんなコトを言っていた。

 ――まだまだ。上を目指します。

 それを聞いた者は皆、綾香の向上心を高く評価したものだが、しかしその言葉が意味する真実を知る者は、皆無であった。
 それとなく気付いたのは、来栖川姉妹の家族と、そして二人に仕える執事のセバスチャンこと長瀬源四郎だけである。

 綾香は、自分がまだ目指すべき本当の目標に追いついていないコトを今もなお痛感している。だから今も精進に励んでいるのだ。


「……来栖川。あんた、このままじゃ単位あげられないよ」

 谷崎は手にする採点表の、芹香の欄に連続して書き込んだ不可の二文字の見ながら呆れるように言った。
 芹香は困ったふうに俯く。表情は相変わらずだが、判る者には本当に困っている顔をしていた。

「残りの1500メートル走まで失格したらあんた、落第ね」

 あっさりと、しかしとんでもないコトを告げる谷崎。芹香はすっかりおろおろとし始めた。そんな芹香を見て、更に谷崎の嗜虐心をそそった。

「ホラホラ、しっかりやんなさい――ん?」

 トラックのほうへ振り向いた谷崎は、ふと、芹香が口にした小声を耳にして振り返った。この距離で聞こえたのはある意味奇跡であった。

「……何?……1500メートルの世界記録ってどのくらいですか、だって?」

 谷崎は暫しぽかんとする。そして呆れ顔になって採点表を挟んでいるバインダーとひもで繋がれたボールペンの尻で、こめかみを掻いて溜息を吐いた。

「……あんた、それ、訊いてどうすんの?」

 芹香は頷いた。教えて下さい、と小声で、しかしいつもより張りのある声で。

「……3分26秒」

 それは、98年に催された世界陸上ローマ大会において、モロッコのH・エルゲルージがうち立てた記録だが、しかしそれは、男子の部の記録である。女子の部では93年9月、北京大会において中国の曲 雲霞が記録した3分50秒46となっている。

「…………挑戦してみるか?」
「……わたしがその記録を破ると言うコトで、どうか単位を頂けませんか?」

 次の瞬間、辺りはシーンとなった。芹香が口にした言葉に驚くより、あの来栖川芹香がちゃんと大きな――他の者にしてみれば普通の大きさの声であったが、はっきりとしたそれに驚かされたのである。
 唖然とする谷崎は、正直、腹が立っていた。舐められている、そう思った。
 ――しかし、谷崎はその怒りが顔に出なかった。出さなかった、のではなく、出せないのだ。まるで――――

「……オーケィ。やってみなさいよ」

 呆れ顔の谷崎がそういうと、芹香は何度もペコペコとお辞儀して、それからトコトコとトラックのスタートラインへ小走りに走って行った。
 スタートラインに立った芹香は、何を考えたか、突然運動靴を脱いだ。

「……裸足で走る気――――」

 芹香の行動に呆れ返ったその瞬間、ずしん、という音が辺りに拡がった。

「…………あ?」

 音の正体は――芹香が脱いだ運動靴が、放り捨てられ、運動場に――めり込んだ衝撃であった。驚いた、その近くにいた小柄の女子生徒が、それを恐る恐る持ち上げようとしたが、あまりの重さに持ち上げるコトが出来なかった。無理もない。その運動靴の底には、それを持ち上げようとした女子生徒の体重より重い、来栖川重工が開発した衝撃吸収性の高い特殊高密度合金の重りが仕込まれていたからだ。
 片方47キログラム。芹香の体重にほぼ近い。一体何でそんなモノを……?
 しかし谷崎には、それが持ち上げようとした女子生徒のパフォーマンスだとしか思わず、腰に下げていたストップウォッチを手にして直ぐにトラックのほうに振り向いた。

「準備良い?カウント、いくわよ。――8――7――6――5――4」

 谷崎は、そのカウントを口にしながら、何故か心躍る自分を不思議がった。
 何を、期待しているのだ、と。

「――3――にぃ、いっちっ!――ピッ!」

 谷崎がホイッスルを鳴らした。
 同時に、スタートした女子生徒たちの群れから突出したのは、世界記録を破ると言った芹香であった。
 しかしその行動は谷崎の予想通りであった。そしてその暴挙とも言える行動が成功するハズも無いと確信した瞬間であった。

「……ばーか。これだからお嬢様は…………へっ」

 呆れ顔の谷崎は、既に後続から半周分の差を付けている芹香を見て吐き捨てるように言った。
 その後続の生徒たちは皆、唖然とした顔をしていた。あのおっとりとした芹香が、豪快なフォームで走っている姿など、誰一人として想像もしなかったのだ。
 間もなく、芹香が200メートルあるトラックを一周してきた。
 そして、二週目をクリアする。
 谷崎はそんな芹香を見ておらず、なにげに見たストップウォッチに出ている数字を見つめて唖然としていた。

「……一周、数え間違えたかな?…………」

 芹香が、スタート地点に立つ谷崎の前を通過した時のタイムは――43秒06。
 400メートルの世界記録は、99年のセビリア大会で、米のM・ジョンソンが記録した、43秒18である。女子の部は、85年のキャンベラ大会で、ドイツ(東ドイツ)のM・コッホが記録した47秒60で、これは未だに破られていない。

「……これじゃあ、400の世界新記録じゃないの?」

 ようやく、呻くようにそれを言えた谷崎は、慌てて芹香の姿を探した。


 芹香が4週目を通過した。丁度芹香は後続グループを2週、周回遅れにした瞬間でもあった。
 谷崎は歯をがちがちさせながらストップウォッチの数字に釘付けになっていた。

「……も…………もし……間違っていなければ…………この記録は……………………」

 1分25秒34。それが芹香の4週目、800メートル地点でのタイムであった。

「――800メートルの世界記録を上回っているっ!!!?」

 800メートルの世界記録は、97年のケルン大会男子の部において、デンマークのW・キプケテルがうち立てた、1分41秒11である。女子の部は83年、当時のチェコスロバキアのJ. クラトフビロワがミュンヘン大会において記録した1分53秒28で、これもまた破られていない。
 やがてストップウォッチから顔を上げた谷崎は、すっかり高揚していた。興奮気味の揺れる眼差しは、走り続ける芹香の姿を追い求めた。
 そして、先ほど感じたモノ――芹香が何かをやらかす、という期待感を素直に認めていた。
 気付いたのは、あの走り幅跳びである。その時点で偏見を捨て、芹香の異常な体力を認めるべきであった。
 何処の誰がわざわざ、運動場のトラックに尻一つ分しか入り込まない落とし穴など掘るモノか。
 上空から燃えて落下してきたのは、確かに芹香が握っていたソフトボールである。あの時ぽかんとしたのは、芹香がボールを放った時、その振り下ろす音が後からやってきた為、錯覚かと思ったためである。芹香のボールを投げようとしていたその手の先は音速を超えていたのか。
 そして、あの鉄棒を新品に変えるよう申請したのは紛れもなく谷崎本人なのだ。買ってまだ半年も経っていないそれが金属疲労でへし折れるなどありえはしない。

 谷崎や他の生徒たちは、芹香を単なるひ弱な魔法オタクという先入観しか持っていない。

 しかしその先入観には致命的な誤りがあるコトを、誰も気付いていない。もし、歴史上に存在した、たとえそれがハッタリのモノであっても、有名なオカルティストと呼ばれた実在人物の資料を紐解けば、その間違いに気付くことであろう。
 エリザベス一世に仕えた魔術師ジョン・ディー。自らを獣と称した「黄金の暁教団」アレイスター・クロウリー、怪僧ラスプーチン。その名だたる彼らの持つ強靱な体力がもたらしたエピソードには常軌を逸したモノさえあり、魔人、とまで評する研究家さえいる。
 そもそも魔術を試行する者が体力がない、というのは、魔法使い=老人や体力の低い者、という先入観や、ファンタジーゲームでの他の職業と差別化を図るための「お約束事」にすぎない、という事実に気付いていない所為だろう。そもそも魔法施行の源とされる精神力も、肉体的疲弊に強い影響を受けるものであり、惰弱な体力や疲弊しきっている者が強い精神力を保有しているなどと笑止である。体力があってこその精神力なのだ。
 来栖川芹香には、「魔人」としての生まれついての素質があった。妹、綾香の超人的運動能力や格闘センスなど、芹香の真実を知る者にしてみれば「出涸らし」にすぎないのだ。
 芹香のか細く見える四肢を支える筋肉は、瞬発力をもたらす白色筋肉と持続性をもたらす赤色筋肉が理想的な融合を果たした、いうなれば「桃色筋肉」で、スタミナ蓄積以外の無駄な脂肪を持っていない奇跡の肉体であった。いわゆる着やせするタイプで、服を脱いだらその世界最高のスーパーモデルでさえも裸足で逃げる、神の手によるものとしか言えぬ最高のプロポーションを誇る。現世に現れたアフロディーテとはまさに芹香にのみ与えられた賛辞であった。
 そしてそれを結果的に維持する努力を、芹香は忘れていない。不断、ぽぅ、と気の抜けた顔をしているそれが、日々の壮絶なトレーニングによる反動から来ているものだと言うことを、校内の者は誰一人として知らない。毎朝4時に起床し、邸内に用意した屋内運動場で10キロマラソンを欠かさず続け、帰宅後は食前に、余計な筋肉を付けない程度にウェイトリフティングを2時間。食後は、魔導書の解読に勤しみ、そして泳ぎはしないが膝まで水を張った屋内プールで10キロのマラソンをしてから就寝していた。妹の綾香でさえ、すべてのトレーニングに付き合えるだけの体力は持ち合わせていなかった。学校で浩之たちが目にしている芹香は、それらハードなトレーニングに対して「休憩している」芹香なのである。大財閥の跡取りたる美少女が、自らの趣味の為だけに日夜、精神・肉体面問わないロードワークを実践していようとは誰が想像できようか。
 真実を知らぬ谷崎は、ただただ、芹香の姿に感動するばかりであった。このような超人が身近にいようとは。偏見の目で芹香を見ていた自分を忘れ、今の谷崎は人類の運動能力の極みに立ち会えたコトを心から感謝していた。ああどうしよう、この記録を教育委員会に報告しようか、それとも日本陸上競技会にしようか。
 ――しかし。

「――――スピードが止まっている?――筋肉ケイレンか…………?」

 それは、1000メートルを超えた地点で起こった。突然のコトに谷崎は唖然となった。急に芹香の走るスピードが落ちたのである。そう、まるで――何か見えない負荷でも掛かっているかのように。

 ――その通りであった。
 速くではなく、精神力を高めるためだけに鍛え続けている少女は、常に”負荷”をイメージしながら走り続けていた。やがてそれは習慣となり、いつしか筋肉に刷り込まれる。 本日、芹香の筋肉がイメージしたものは――
 47人の筋骨隆々とした老健・セバス長瀬が芹香に「頭捻り(ずぶねり)」を仕掛けてくるものであった(お待たせしました(爆))。寄りにもよって相撲の技(笑)。相手の肩か胸に頭をつけて食い下がり、相手の差し手を抱え込むか、ひじをつかんで頭を軸にしてひねり倒す技を仕掛けてくる、セバス。これは過去、イメージした中でもかなり悪質なものであった。(笑)

 結局、スピードの落ちた芹香は、後続に次々と抜かれ、ビリでゴールした。世界記録など到底夢物語の、中学生レベルでも平均以下のタイムであった。既にゴールしていた同級生たちは、皆、複雑そうな顔で芹香を迎えた。そして芹香がゴールラインを踏むと、さざ波のように谷崎の顔を伺い始めた。
 谷崎は、憮然とした顔で芹香の顔を見つめていた。それを見て皆、怒っているモノだと思った。
 だから、谷崎が口にした言葉を聞いた時、皆、呆気にとられた。

「よし、来栖川、合格」


 夜、谷崎は書類整理を終えて職員室から出てくると、廊下に立つ芹香の姿を見て驚いた。

「まだ帰っていなかったの?――え、今日のコト?約束守れなかったのにどうして?」

 芹香はそのコトを訊きたくて、ずうっと谷崎を待っていたのだ。そんな芹香を見て、谷崎は苦笑した。

「……こんなところで待たなくても、職員室に入れば良かったのに」

 そう言って谷崎は少し仰ぎ、

「…………ま、もともとあたしの気まぐれだったんだしね。それに、佳い夢見させて貰ったし。――ねぇ、オカルト研究部やめて陸上部に入らない?あんたなら――」

 そこまで言って、谷崎は黙り込んだ。黙ったまま、しばらく芹香の顔を見つめた。

「……やめやめ。あんたが陸上始めたら、なんか陸上界そのものが破綻しそうだ」

 苦笑する谷崎は、それに応えるように、ふっ、と芹香の顔に笑顔が浮かんだのを見て、少し嬉しくなった。

「……え?何か最近、ムシャクシャするコトがあったか、って?…………うーんと…………やっぱわかる?」

 芹香が頷くと、谷崎は照れくさそうに自分の鼻の頭を指先で掻いた。

「…………ちっとね。タチの悪いホストがいてね。…………え?良ければ、この呪術人形をお使い下さい?憎い相手の顔をイメージしながらこの人形を弄ると、その相手に呪いが……かかります?(汗)」

 芹香は涼しい顔で、こくり、と頷いた。教師のモラルが欠如している谷崎でも、これにはちょっと引いてしまった。

「……ま……まぁ、……有り難く戴くけど……呪いはちょっと考えてさせてもらうわ」

 そう言って谷崎は、芹香から受け取った人形を背中に隠した。そして緊張のあまり、ぎゅっ、とそれを握りしめてしまった。いくら何でも呪い殺すような真似は、と谷崎は自分をふった男の顔を一瞬思い浮かべたのがまずかった。丁度その頃、繁華街ではちょっとしたジゴロで知られていた、谷崎をふったホストは、バーで他の女を口説いている最中、いきなり原因不明の圧力を覚え、全身骨折で救急病院に運ばれたのだが、その事件を、谷崎が知るコトはなかった。


「……え、芹香先輩、わたし体力ないのでしょうか、って?……んー、別に気にしなくて良いんじゃないかなぁ。芹香先輩は体力無くったって可愛いし……あ、赤面してヤンの」

 知らぬは浩之ばかりなり。

       「お嬢様はグラップラー」終わり

http://www.kt.rim.or.jp/~arm/