ToHeart if.『Dual ”L”』第9話(最終回) 投稿者:ARM
【承前】

 4月23日、午後。
 風が吹いた。心地よい風だった。

 浩之は、レミィの告白に、ホッとした。

「……アタシ、一生懸命に迷子の男の子、面倒見るヒロユキ見て、優しい人……って思った」
「……」
「……だから、ヒロユキのコト、どんどん好きになったの。……そして、浩之くんが思い出の人ってわかった。……お願いの神様が逢わせてくれたって、…………アタシ、そう思った」

 ざわっ。大樹の葉が、風を受けてざわめいた。
 レミィのブロンドの髪が、風に靡いて揺れ動く木々の隙間から漏れる光を受けて煌めいていた。浩之はそんなレミィを見て見とれているかのように黙り込んでいた。

「…………Uncle」

 やがてレミィは前に進み出し、浩之の横まで来ると、藤島を見て呼んだ。

「……Sorry。もう、いいよ。…………帰るね――――?!」

 レミィがそう言った瞬間、突然浩之は、衝動的にレミィの左手首を掴み取っていた。驚くレミィが振り向くと、沈痛そうな顔をする浩之がレミィを見つめていた。

「――レミィ。俺の答え、聞かなくて良いのか?」
「――――」
「俺の答えは、――」
「言わないで!」

 レミィは悲鳴のような声で浩之の言葉を遮った。

「レミィ、お前……」
「それ聞いたら――――アタシ、帰れなくなる」
「――――」

 浩之が驚いたのは、レミィが泣いていたコトではなかった。レミィが帰国するコトを決意していたからだった。

「……アタシ、やっぱり帰る。…………これ以上、アタシのコトでシンディたちに心配かけたく……無い…………」

 レミィは泣きながら答えた。
 浩之はそんなレミィを見ているのがいたたまれなかった。だから、泣きじゃくるレミィの身体を、浩之は優しく抱きしめて宥めた。
 レミィがこの木の下に来たのは、きっと来るであろう浩之に、想いを告げて分かれる為だった。あの一言も言えずに別れたくなかった。そして告げるコトで、浩之との決別を覚悟したのであろう。だが、いざそれを口にして、覚悟など出来るはずもなかったようである。浩之はそれを理解していたから、何も言えなかった。
 そんな二人を、藤島は黙って見つめていた。そのもの哀しげな眼差しは、自分の行動がこのような不幸をもたらしたコトを自覚している後悔の光を湛えていた。

 浩之は、後に、藤島の口から、彼がこの時回想をしていたコトを知るコトになる。
 遠い昔、離ればなれになったその日、抱き合って泣きじゃくった兄妹の姿を。

「…………なぁ、ヘレン」
「…………?」
「お前、藤田くんの気持ちを聞かずに、本気で帰国したいと思っているのか?」
「……What's?」

 目を泣き腫らしたレミィが、藤島を不思議そうにみた。すると藤島は抱き合う二人の横を通り抜け、大樹の下に立った。そしてゆっくりと屈むと、根が少し見える地面を指先で撫でた。

「…………佳い土だ。若い頃は海の上にいたから、余計に土に対しては感慨深いモノを持っていてな。今でも、こんなふうにどっしりと大地に根を張った樹を見るのがとても好きでね。こうしていると、非常に心が落ち着く」

 そう言って今度は藤島は、屈んだまま空を見上げた。初夏が近づくその空は、爽やかすぎるくらい蒼かった。

「私は昔、こんな土のある大地を、遙か上空から戦闘機に乗って幾度も見下ろしていた。そう言った仕事をしているから、時には酷い目にあい、二度と空には上がるまいと思ったコトも何度もある。――だが、それでも空を捨てきれなかった」
「…………どうして?」

 浩之が興味を示した。すると、藤島は、にっ、と笑って見せ、

「……上手くは言えないが、…………もしキミが飛行機などで空に上がる機会があったら、空と地上をいっしょに見てみるがいい。………………きっと藤田くんなら、判ると思う」
「え……?」

 浩之はその時、藤島が何を言いたいのかよく判らず戸惑った。

「――――どうだい?」
「「?」」
「ここ、なんだろ?お願いしたのは」

 そう訊いて藤島はゆっくりと立ち上がり、二人のほうへ振り向いた。

「……明日の飛行機の便はキャンセルしておく。…………だから今日はゆっくりと、この下に埋めたお願いの小瓶を、二人で掘り出してなさい」

 藤島はそう言ってにっこりと微笑み、ぽかんとする二人の横をすり抜けて車のほうへ歩いていった。

「……藤田くん、あと、宜しく」

 二人の横をすり抜ける時に、藤島が言った言葉。呆然としながらも、浩之は聞き漏らしはしなかった。浩之は去っていく藤島の背に、深々と頭を下げた。


 ……すべては偶然だったのだろうか。
 ……俺とレミィが迷子の面倒を見なければ、お互い、ただのクラスメイトで終わったハズはずなのに……。
 ……それとも、レミィの言うように、神様はいたのだろうか?

 ……とにかく、現実に俺たちは出会った。


 あれから浩之は、近くから手の代わりになる木切れを何本か集め、レミィと協力して大樹の根本を掘り返し始めた。
 やがて、レミィが自分の持つ木切れの先が、土より硬い何かにぶつかったコトに驚くと、浩之は木切れを放り捨てて自分の手でそれを掘り返した。
 出てきたのは、コルクの栓がついた小瓶がふたつ。小瓶の中には、折りたたまれたメモらしきものが見えた。
 それを見た瞬間、二人は感慨深い面もちになった。何もかも懐かしかった。
 浩之は取り出した小瓶をレミィに手渡した。

「……開けるネ」

 土のついたコルクを、レミィはつまんで引き抜いた。
 かすかな音を立てて、栓が外れた。もう十一年も前になるのか、あの頃の空気の香りを、二人は嗅いだような気がした。
 レミィは、震える指先で小瓶の中からメモを取りだし、慎重に広げた。
 そのメモには、つたない文字で『ヒロユキくんの、およめさんになりたい』と書かれていた。これは幼いレミィが書いたお願いだった。
 それを見て直ぐにレミィは、もう一つの小瓶を掴み、栓を抜いた。

「これネ」

 レミィは緊張した面持ちで、中身を手に取った。
 それを広げ始めた、その瞬間であった。――

「あっ!」

 一陣の風が吹いた。広がったメモは、風にもてあそばれるように宙に舞った。そして、一度地面を転がった後、再び舞い上がった。

「Wait! 待って!」

 突然のコトにレミィが声を上げ、立ち上がって駆け出した。浩之も慌てて追いかけようとメモが飛んだほうを向いた。

「――やべぇ。方向がマズイ!」

 驚く浩之の視線の先で、地面と宙を往復しながら、追いつけそうで追いつけない距離を舞うメモが向かう方向には、公園脇の池があったのだ。
 やがて風に後押しされ、勢いを失わないメモは、空高く舞い上がり、池の水面へと身を躍らせた。

「No!ダメッ!」

 池の柵に行く手を阻まれたレミィは、我を忘れているらしく柵を乗り越えようと足を掛けた。

「ダメだ、レミィ!」

 追いついた浩之は、レミィを後ろから抱き止めようと手を伸ばした。だが――
 ムニュ。
 浩之の伸ばした左手一杯に、レミィの豊満な胸の柔らかさが伝わり、瞬時に浩之の頭をパニックに陥れた。

「わぁっ!?じ、事故だこれは!」

 パニックを起こしている浩之は、反射的にレミィを押さえていた両手を離してしまった。

「きゃあっ――!」

 バッシャーン!水飛沫が上がった。幸い、岸の近くはレミィの膝下ほどの深さだった。

「あ…………やっべぇ……」
「…………Oh my gush……」

 立ち上がったずぶ濡れのレミィは、呆然と水面の広がりを見つめていた。
 メモが落ちた所は岸から遠く、とても歩いていけような場所じゃなかった。それに、メモはすっかり水を吸い、ちょっと目を離した隙に沈みきって見えなくなってしまった。レミィは見失ったメモがあった水面を見て、途方に暮れたように深い溜息を吐いた。

「…………レミィ。早く上がれよ。風邪ひくぞ」

   *   *   *   *   *   *   *   *   *

 4月23日、夕方。
 浩之はびしょ濡れのレミィを連れて、浩之の家に帰ってきた。レミィの家に直接行くより、こちらのほうが近かった為である。玄関を上がった浩之は、メモを無くして落ち込んでいるらしい、終始無言のレミィを浴室の前まで案内した。

「取りあえず風呂に入りな。湯船のお湯は直ぐに出る。制服は、そこの洗濯機と乾燥機、使っていいから」
「ごめんネ……。ヒロユキ」
「気にすんなよ、つーか俺にも責任あるし。それよりも、急いで」

 レミィは頷いて浴室に入った。
 浩之は居間に戻ると、ふぅ、と溜息を吐いてソファに腰を下ろした。
 だが、すぐに立ち上がった。

「……取りあえず、俺も着替えよう」

 浩之が自分の部屋へ上がった頃は、既に陽は沈み、外はもう真っ暗になっていた。浩之は直ぐに下に降りるつもりで、蛍光灯に手をかけず着替え始めた。
 着替えようとボタンに手をかけた時、浩之は胸ポケットに入っているものに気付いた。
 指を突っ込んで取り出したものは、あの小瓶だった。家に来る途中、レミィから受け取ったものだった。
 この小瓶には、レミィの願いが書いたメモが入っていた。
 レミィの方は、浩之の願いが入っていた小瓶だけを持ってる。

「……」

 浩之はその小瓶を、窓からぼんやりと差し込む、近所の家の明かりに透かしてみた。

(……きっとレミィは、メモの内容を知っていたのかもしれないな。――知ってたというより、判っていたんだ)

 浩之は、自分が書いたお願いの文面を覚えていない。しかし、何と書いたかは、覚えている。そうでなければ、幼い頃のあの想いを、忘れているハズだろう。
 だが、今の浩之には、そんなコトは別にどうでも良かった。
 今の自分の気持ち。
 黒髪のレミィに幼い頃から抱いていた慕情。
 そして、成長した、金髪のレミィに抱く――紛れもない愛情。レミィがいなくなると思っただけで、切なくなるこの気持ち。
 藤田浩之は、宮内レミィを愛している。
 黒髪の、大人しそうな少女。
 金髪の、活発で笑顔を絶やさぬ少女。
 どちらも、同じ宮内レミィ。それを不気味という者もいるのは仕方のないコトなのかも知れないが、しかし浩之には、たとえ顔が違おうとも、どちらも宮内レミィという少女の貌には間違いなかった。
 そしてどちらも、自分を愛してくれている。――いや、”どちらも”という概念自体は誤りなのだ。黒髪の憂いも、金髪の笑顔も、宮内レミィの”表情”なのだから。
 浩之は、そんなレミィがますます愛おしく感じた。
 同時に、浩之は後ろめたいモノを感じた。
 そうなのだ。レミィが黒髪の自分を捨てきれないのは、この国に残した想い人のコトが忘れられないためなのだ。その想い人が、お願いの木の下に小瓶に詰めて埋めたその願いを、どうしても知りたかったからだ。いわば、レミィが二重人格になったのは、その男の所為なのである。
 それだけに、レミィを助けてやりたかった。落ち込むレミィの心のわだかまりを、消し去ってやりたかった。それがレミィを救う本当の道なのだ。
 その方法は、たった一つしかない。
 浩之が、自分でメモの内容をレミィに伝えるしかない。
 だが、浩之は迷っていた。たとえ本心を告げても、今の状態で、レミィはそれを、ただの気遣いだと思って信じてくれないかもしれない。

(……それなら、嘘を言うか?――駄目だ、レミィを傷つけるだけになる!)

 そして、自分自身も。天井を仰ぐ浩之はどうすればいいのか悩んだ。
 そんな時だった。廊下のきしむ音に、浩之は驚いて振り返った。
 そこには、レミィが立っていた。

「……なんだよレミィ。ずいぶん早いな――――」

 浩之は絶句した。
 レミィは、風呂上がりのバスタオル一枚という、あられもない姿だったからだ。
 そして、そのレミィは黒髪のレミィだったからでもあった。

「浩之くん……。今夜、浩之くんの家に泊まっても、いい?」
「――そ、そりゃあ、構わねえけど……。明日は学校だぜ?」

 するとレミィは、くすっ、と笑い、

「あたし、退学しちゃったよ……」
「……あ、そうだったな」

 ばつの悪そうな顔をする浩之を見て、レミィはもう一度、くすっ、と笑い、そして浩之の部屋に入ってきた。

「浩之くん……」
「えーと。………それより、着替えた方がいいぜ」
「――浩之くん!」

 そういってレミィは、もじもじとしていた浩之に飛びついた。途中でバスタオルが、はらりと舞い落ち、浩之は全裸のレミィを抱き留める格好になった。

「――浩之くん!あたし、あなたとお別れするなんて嫌っ!」
「…………」
「もう……、日本、これで最後なの……。もう来れないの!」
「え――、本当なの……か……?」

 浩之は正直、驚いた。帰国すると言ってもいつかまた日本に戻ってくるモノだと踏んでいたからだ。浩之が訊き返すと、レミィは子供のように何度も頷いてみせた。

「……うん。日本にこれ以上居ると、……あたしの心の分裂が治らない、ってお医者様が…………!別れたくない……別れたくないヨ、ヒロユキ…………!」

 泣きじゃくるレミィは、いつの間にか金髪のレミィになっていた。今までの様子から、精神状態が陽気な時は金髪で、ブルーな時は黒髪になるのかな、と浩之は思っていたのだが、帰国まで覚悟しなければならないまでに追い詰められていたのは、こんな不安定な精神状態が原因にあるのだろう。
 浩之は、着替え終えていない学ランの上越しに伝わる、風呂上がりのレミィの暖かい体温と、レミィの心の想いを、痛いほど感じていた。
 だから浩之は我慢できなくなった。これ以上、自分の心を偽れなかった。

「レミィ――」

 そう言って浩之はレミィの身体を抱きしめ、

「――――俺、な。…………あのメモに、お前のコト好きだ、って書いたぜ」

 言った。言ってしまった。それだけで浩之は満足だった。
 それを聞いたレミィは、泣き顔で笑ってみせた。

「…………うん。知ってたヨ。……でも……ヒロユキ、やさしいから……、やさしいヒロユキから聞きたくなかったの……」
「――でもさ。――俺、嘘言ったまま、レミィと別れられねぇよ」

 浩之がそう言うと、レミィは顔を上げて浩之の顔をまじまじと見つめ、黙り込んだ。
 戸惑っているように見えるその貌が、何を期待しているのか、浩之は理解していた。
 今のレミィが知りたいのは、幼い頃のひろゆきくん、ではなく、現在の藤田浩之の気持ちなのだ。
 返答に窮する浩之も黙り込むと、二人して見つめ合ったまま黙ってしまった。レミィは黙っているが、その目は、浩之の心を見透かしているように、そうよ、と言っていた。

「…………なぁ、レミィ」
「?」
「…………俺の今の気持ちを知りたいのは判る。…………だけど……正直、今の俺には、自分の気持ちを正直に伝えられる自信がない……」
「……どうして?」

 黒髪のレミィが訊いた。すると浩之は首を横に振り、

「……分からない。……レミィと一緒にいると楽しい。だから、レミィが米国に帰るって聞いた時、そしてお前が失踪したコトを知った時、俺はお前のコトを必死に探したよ。――だけど、好き、ってこういコトなのか?愛してるって、こんな簡単に思うコトなのか!?」

 そう訊く浩之は、無意識のうちに声を荒げていた。
 するとレミィは少し怯えたような顔をして、小さな声で訊いた。

「……浩之くん。あたしのコト、嫌いなの?」
「――嫌いなわけねえよっ!」

 怒鳴る浩之は、レミィの身体を強く抱きしめた。レミィは抵抗せず、むしろ喜んでいるように微笑んでみせた。

「それだけ……?」
「――好きだっ!大好きだっ!俺はレミィが大好きだっ!」
「…………それが浩之くんの気持ちなんだよ」

 レミィは嬉しそうに浩之の胸に頬ずりした。

「……一生の別れにはならなぇだろ?絶対、俺が会いに行ってやるって!」
「……」
「高校卒業したら、米国まで飛んでいってやる。レミィが世界のどこにいたって、必ず会いに行ってやる!」
「……待てないよぉ。卒業なんて……!」

 浩之の言葉に、しかしレミィは哀しそうな声で首を横に振った。

「お願いだからわがまま言うなよ……」
「だって……」
「頼むから……、俺が行くまで、待っててくれよ……!」
「……」

 レミィは答えなかった。

「……な?」

 浩之はもう一度訊いた。ようやくレミィは、こくん、と頷いた。

「アタシ、ヒロユキの言うこと聞くヨ……。ヒロユキが来るまで、待ってるヨ」

 金髪のレミィは、嬉しそうに微笑んだ。浩之はその笑顔に満足した。だが、その笑顔が妙に赤らんでいたコトを、浩之はまだ気付いていなかった。

「だから…………それまで、忘れないように……して」
「え?」

 きょとんとする浩之の顔を、赤面する黒髪のレミィがじっと見つめていた。
 やがて浩之もその言葉の意味に気付くと、顔を赤くして息を呑んだ。

「…………ダメ?」
「…………判った」

 照れくさそうに答える浩之は、やがてレミィと口づけを交わした。


 4月24日、未明。
 ベッドの上にいた浩之は、横ですやすや眠る金髪のレミィの寝顔を満足げに見つめていた。
 先ほどまで、拙くも激しく愛し合ったレミィは、浩之に抱かれながら金髪と黒髪の顔を交互に見せた。浩之は二人分同時に愛していたような気がして少し疲れていたが、想いを遂げられたコトに満足していた。
 浩之はふと、窓の外を見た。夜空には、満月と、その近くの高空を夜間飛行しているらしいジャンボジェットの警告灯があった。
 明後日、いやもう明日か、レミィは機上の人となる。
 浩之は夜空を見て、こんなに切なくなったのは初めてであった。

(……こんな夜空、いつか追い越して、レミィの元に行ってやる)

   *   *   *   *   *   *   *   *

 8年後のある夜。
 星が瞬くカリフォルニアの高空を僚機と並んでマッハ(音速)で飛ぶF18Aホーネットの操縦席に座っている藤田浩之大尉は、今夜が、レミィと結ばれたあの夜に見上げた夜空に良く似ているコトを思い出した。海のほうに見える満月が、あの日の虫の知らせでみた夢のそれと良く似ているような気もした。

「ヒロ、何にやけてるんだ?」

 僚機に乗る同僚のタイシ・ガーランド大尉が、意地悪そうに訊いてきた。

「見えんのかよ俺の顔」
「ユーがそんなツラしている時は大抵、そんなふうに無意識に尾翼を無駄に振っているよ」

 日系三世のタイシとは、浩之がカリフォルニアにある大学に入学して以来の腐れ縁だった。あの長岡志保を男にしたような、軽いがしかしやる時はやる頼りがいのある男で、そう言ったところを見透かされてしまってもおかしくはなかった。
 浩之は大学を卒業して直ぐ、浩之の素質を見抜いた藤島の薦めもあって海兵隊に入り、米国籍を取得した。浩之の両親は酷く戸惑ったが、その後、ハワイに新設されたNASAの宇宙開発部門にタイシとともに移籍し、現在、スペースシャトルのパイロットとして働いていた。宇宙へはまだ2回しか行っていないが、タイシとのコンビは先輩たちからも一目置かれるほどの働きを見せていた。

「そうだもんなぁ、今夜は久しぶりに奥さんとこに戻るんだもんな」
「いいかげん、タイシは結婚しないのか?」
「ノープロブレム。Highlanderは地に着かない。ユーみたいに重力に魂引かれるようなのはNoThankYouなの――つーか、ヒロはヘレンのデカチチに引っ張られているんだっけな。でかいからさぞ重力のほうも……」
「――――後ろから撃ったろかコラ」
「いやーん、It's Joke、Jokeネ、Hahaha!」

 僚機のふざけた声がスピーカーから聞こえると、横を飛ぶタイシの乗るホーネットが高度を下げ始めた。下には、カリフォルニア郊外に新設されたNASAの滑走路が見えていた。
 米国籍を取得し、NASAへ配転されて直ぐ、浩之はレミィと結婚した。
 レミィは金髪の顔で落ち着くモノと思われていたが、医師の診断も虚しく、相変わらず二つの顔をころころ変えていた。だが、心配していたような精神面の負荷がなかったのは、それぞれの心が藤田浩之というたった一つの存在に向けられていたお陰であった。分裂を引き起こした存在が、それを安定させる要因になるとは医師も考えなかったらしい。あるいは浩之の言うとおり、その二つの顔はレミィにとって表情の特別な表現にすぎないのかも知れない。
 今では、レミィの家族や藤島、そしてレミィを追って米国籍まで取得した浩之たちに支えられ、レミィは煩わされることなく幸せに暮らしていた。NASAのメンバーとなった浩之の勤務先がハワイというコトもあり、新婚当初は別居を余儀なくされたが、来月、二人の子供を連れて一家四人、ハワイに立てた一戸建ての家に住むコトになっていた。こうやって出張を利用して会いに来るのは今日が最後になる。
 金髪と、黒髪の、双子の女のコ。レミィと浩之の間にもうけた、二人の子供である。この子たちは、母親や祖母が悩まされた偏見問題には無縁だろうと信じていた。世界は既に宇宙時代の始まりを迎えていた。二年前から、各国が共同で衛星軌道上に建設した巨大宇宙ステーションが実働し、そして、値段はまだ張るが、民間企業が所有するシャトルで民間人が宇宙に旅行できる時代になっていた。そんな、大地を見下ろせる時代に、人種がどうのこうのと言っていられる場合ではなかろう。
 タイシは地に根付くのが煩わしいと言ったが、浩之はこういった仕事をしていてもそう思ったコトはない。むしろその逆であった。
 浩之は時たま、こんな高空から機体を反転させ、大地を頭にする。そして、地表を見ては日々に起きた他愛のない出来事を心の中でそこに語りかけ、そして機体を元に戻す。続いて、空を見る。ジェット機で飛ぶ高空の更なる高みは、海の蒼さよりも蒼い色をしている。場合によっては海と空が繋がって見える時もある。そんな蒼さに、同じように語りかける。
 姿も色も違うが、しかしどちらも、浩之にとってそこは自分が生きている場所であった。地上も空も海も、一面がすべてではない。すべてをひっくるめた世界が、本当の姿なのだ。浩之が飛行機やシャトルのパイロットを勤めているのは、そう言うコトを確かめるのに最適な職業だと思ったからなのだろう。そんなコトを考える思うたび、浩之は、レミィが帰国すると知ったあの日、藤島が大樹の前で浩之に語りかけた言葉を思い出す。彼があの時言い表せなかったコトとは、このコトなのだろう。確かに言葉でなくその目で見なければ理解出来ないコトもあるのだ。今や藤島は、二人にとって一番の良き理解者であった。
 そしてそんなコトを思い出すたび、浩之は決まって、ふっ、と笑う。今夜も、そんな笑みをこぼすと、管制塔の応答指示を受け、機首を下げて着陸態勢に入った。

                 完

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