雫異聞・顎(あぎと)(前編)  投稿者:ARM


○この創作小説は『雫』(Leaf製品)の世界及びキャラクターを使用しております。
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 雨が止まないね。

「え?何、祐くん?」

 新城沙織は、ボーイフレンドの長瀬祐介が突然奇妙なことを言い出して、思わずきょとんとした。

「……晴れてるよ」

 そう言って沙織は、二人の頭上に拡がる、夏の澄み渡る青さを指して見せた。

「……そう?」
「うん」

 沙織は怪訝そうに頷いた。沙織が春から付き合い出したこの同級生は、ときおり、こんなふうに奇妙な言動を口にするのだが、沙織はあまり気にしていなかった。あばたもえくぼというか、惚れているものの弱みというか、これもまた、長瀬祐介という少年の個性としか思っていない。
 沙織にとって長瀬祐介は、昔、酷い目にあっていた自分を助け出してくれた、尊敬する少年であった。
 しかし、その「酷い目」というのが、沙織には今ひとつ思い出せなかった。とにかく自分は何者かに酷い目に遭わされ、それを祐介が助けてくれた、という実感だけははっきりと憶えていた。そしてそれを、疑問に抱いたコトは無かった。

 祐介が”それを望んだ”からである。

 沙織は、好奇心旺盛な性分が災いして、全生徒会長である月島拓也の奇怪な能力に操られ、男たちにレイプされた事を憶えていない。
 その忌まわしい記憶を、祐介によって「破壊」された事さえも。

 長瀬祐介は、月島拓也の妹、瑠璃子によって、秘められていた「異能力」に目覚めた。月島拓也は、大気中に存在する〈オゾムパルス〉――〈毒電波〉を操る能力を持っていた。人間の脳内を駆けめぐる微弱なパルスと同質のそれを自在にコントロールする事で、特定の人物の精神と肉体を支配する能力であった。その力に溺れ、暴走を始めたところを、同じ〈毒電波〉を利用し、相手の精神に爆発のイメージを送り込んで精神を破壊する「破壊爆弾」能力に目覚めた祐介によって倒されていた。
 「破壊爆弾」は、祐介の負の精神面が生み出したものでもあった。それ故に容赦ない破壊力は拓也を再起不能にしてしまい、その心を癒すため、瑠璃子は兄の心の中に消えていってしまった。
 瑠璃子は、祐介にとって理解者であり、愛おしい存在であった。瑠璃子と関係したことでその力に目覚めた事もあり、祐介は瑠璃子に母性すら感じている節もあった。
 しかし、瑠璃子は祐介のそばには居ない。兄とともに、いつ目覚めるとも判らぬ眠りについたままであった。
 代わりに、沙織が祐介の隣にいた。
 祐介が沙織と付き合っているのは、ある意味、罪滅ぼしでもあった。自分がついていながら、沙織の純潔を守ってやれなかった。
 そして、あの事件で刻まれた悪夢が沙織の心を今だ蝕んでおり、それを癒すためにそばに居るのだ。あの記憶が蘇ったとき、再び「破壊爆弾」でその記憶を壊す。いったいいつになったらすべて破壊できるのだろうか。
 しかし祐介はそんなコトは考えなかった。


 あの忌まわしい夜から数日後。
 祐介は、西日の射し込む教室の窓辺に立ち、沈みゆく夕陽をじっと眺めていた。遠くから流れてくる風に吹かれた麻色のカーテンが、ゆらゆらと揺れていた。
 綺麗だな。祐介はそう思った。

 世界はこんなにも綺麗だったんだ。

 そして隣には、先ほどが沙織が、不思議そうな顔をして祐介の横顔を見つめていた。

「指切り、しよ」

 そう言って沙織は、祐介に右薬指を差し出していた。


 沙織ちゃんは僕と一緒にいて良いのだろうか。
 〈毒電波〉の力で、彼女の心を癒す、と言うコトを口実に彼女を縛り付けていないだろうか。

 それでも沙織は祐介に笑ってくれる。
 今の祐介には、こんな当たり前のような平穏な日常が堪らなく好きだった。
 多分、自分は沙織が好きなんだろう。いや、きっとそうだ。

 そう思うと、祐介は口元に、ふっ、と笑みをこぼした。

「……でも、さ」

 祐介はそう言って、西の空を指した。

「……あ、雨雲。……帰り、降りそうだね」

 沙織がそう言ったとき、校舎から昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。

「戻ろう」
「うん」

 沙織は笑顔で頷くと、腰掛けていたベンチから腰を上げた。

   *   *   *   *   *

 降りしきる雨の中、路上に止まる数台のパトカーのサイレンが血の色をして明滅していた。

「……13金のジェイソンでも現れたのかよ」
「にしても、やりすぎですよ」

 所轄の刑事たちが、路上に拡がる凄惨な光景をみて顔をしかめていた。向こうでは新米の警官が、堪えきれずに嘔吐していた。

「まるで獣に食いちぎられたような……」
「動物園に問い合わせましたが、肉食獣が脱走したという話はありません」
「すると、誰かが飼っていた、と言うヤツか」
「そうなると複数ですね。噛み傷の大きさがまちまちです」

 ズタズタになっている遺体を調べていた鑑識官が、戸惑いげに応えた。

「するとなにか、大の大人を八人も喰い殺す肉食獣の群れが、この街の中をうろついていると言うのか?」

 担当する刑事が思わず怒鳴った。怒鳴らずに入られなかった。

「でも、そうだとしても」
「ああ。――こんな大通り、白昼堂々、誰にも目撃されずに、獣の群が走行中のバスにどうやって飛びついたんだ?」
「わたしはそれ以上に、服を無傷で残したまま人間の身体を食い散らかす芸当のほうが謎過ぎます」

 始め、このバスは交通事故として目撃され、警察にも連絡されていた。運転手、乗客あわせて八人も載っていたバスが走行中、突然進路を変えて通りの通りのコンビニに突入した。到着した警官たちがその中に拡がる阿鼻叫喚の惨状をみて絶叫して以来、この奇怪な事件の原因を誰一人として理解出来ずにいた。
 そして誰も、このバスが最後に停まった停留所で降りたコート姿の男が、傘も差さずに、近くにある都立高校へ向かっていったコトなど知るよしもなかった。


 その頃、祐介は、放課後の部活に出ている沙織に付き合って体育館に居た。突然の雨に、傘を持たぬ祐介は、沙織の置き傘で一緒に帰る約束をしたためである。

「祐くんもなんか部活やればいいのに。せっかく朝、マラソンして運動しているんだし」

 沙織は、祐介が毎朝早起きして町内をマラソンしている事を知っていた。しかしその理由が、目覚めた人の少ない静まり返った早朝が、祐介の精神を安定させるのに最適だったから、ということは知らない。祐介は人が多いところは苦手であった。人が多ければ多いほど、その精神とリンクする量が増え、負荷がかかるからである。マラソンはただ歩き回るよりは良いと思って始めたことだった。

「バスケットなんかどう?」
「身長が足りない」

 沙織は部活の最中、折を見ては、床に座ってぼうっとしている祐介に近づいて聞くが、祐介は少し困ったふうに微笑んで応えた。あんまりしつこく勧誘するものだから、いっそ女子バレー部のマネージャーにでもなろうか、と答えそうになって慌てて口をつぐんだ。沙織のことだ、きっと真に受けてしまうだろう。
 そんなやりとりをしていた時だった。

 大食。

「――――?!」
「ゆ、祐くん?どうしたの、いきなり立ち上がって」
「え?」

 沙織の驚く声にようやく祐介は、自分が立ち上がっていることに気付いた。
 どうして立ち上がったのか、祐介は憶えていない。
 ただ、突然、瑠璃子の声で聞こえた今の声に驚いただけだった。

「…………何?今の?」
「……どうしたの、祐くん?……顔、青いよ」
「え?」

 青いばかりだけではなかった。蒼白する顔面には珠のような汗さえ浮かんでいた。

「……保健室、行く?」
「……ああ、大丈夫。…………うん、ちょっと行ってみる」
「……無理しないでね。辛かったら保健室で寝てて」
「ああ」

 心配そうな顔をする沙織に頷いてみせて、祐介は体育館から渡り廊下のほうへ出ていった。


「…………何、あの人?」
「気味悪ぅ」

 祐介たちの通う高校の校門から吐き出されていく生徒たちは、この雨の中、傘も差さずに校門の壁に寄りかかっている、よれよれになったカーキ色のコート姿の男を気味悪がっていた。
 まるで幽鬼のような、生気のない土気色に近い細面の顔をする男は、自分を遠巻きに見て避けている学生たちにときおり一瞥をくれては、ちぃ、と舌打ちしていた。まるで通り過ぎる学生たちを値踏みしているようであった。
 やがて、生徒から連絡があったのだろう、校舎のほうから渋い顔をする生活指導部所属の体育教師がやってきた。

「……あんた、そこでなにしてんの?」

 体育教師は怪訝そうに訊くが、コート姿の男は気にもとめずその場に佇んでいた。

「誰か、待っているの」
「そう」

 コート姿の男がようやく答えた。

「……ここ、月島って学生が居た学校でしょ?」
「月島――――」

 体育教師は絶句した。例の、原因不明の昏睡で病院に入れられたあの優等生のことを、彼は知っていた。

「居る、…………いや居たが、現在、病気で入院して休学している」
「そう?じゃあ、他に居ない?」
「他?」
「同じヤツ」
「…………」

 黙り込む体育教師は、イカれているヤツか、と思った。いずれにせよ、このままここに居座られて迷惑なのには変わりはない。

「……ともかく、今は月島はこの学校には居ない。悪いが、月島の家のほうへ当たってくれないか?」
「居るんでしょ、同じヤツ」

 コート姿の男は、また同じコトを聞いてきた。いったいあの優等生と、このイカれた男とはどんな関係なのか、体育教師は非常に知りたかったが、今はともかくここから去ってもらいたかった。

「……だから、そう言うことは悪いが月島の家に聞いてくれ。はっきり言って迷惑だ。――しつこいと警察を呼ぶよ」
「そう」

 コート姿の男はあっさりと答えると、壁に背もたれするコトをやめて起きあがった。そして悠然と校門から校庭のほうへ歩き出したのである。

「おい、こらっ!」

 聞き分けのないコート姿の男の行動に、体育教師はムッとなり、その肩を右手で掴んで引き留めた。

「警察を――」
「うるさい」

 コート姿の男は、引き留める体育教師に一瞥もくれずそう言ってまた、歩き出した。
 体育教師は、力ずくで止めたはずの男がまた歩き出した事を一瞬不思議がり、そして次の瞬間、その理由を理解した。
 右手が無くなっていた。
 具体的に言うと、右肘から先が、まるで何か巨大な肉食獣に食いちぎられた時の噛み傷のような傷口で原形をとどめないほど所々えぐれ、おびただしい血を吹き上げたのである。激痛は始め、その視覚のインパクトを越えられず、体育教師はショックで気を失うが、直ぐに激痛が凌駕して意識を取り戻し、絶叫した。
 体育教師が瞬時に失ったものは右腕ばかりではなかった。両脚も膝から下が無くなり、落下する間に両脇腹を腎臓の辺りまで損失していた。そして最後に喉が抉られると首が千切れ落ち、向かいの道路のほうへボールのように転がっていった。
 但し、体育教師が着ていた衣類には傷一つついていない。服の中ですべてが消失していたのである。
 すべては一瞬の出来事であった。下校途中の生徒たちは、コート姿の男と口論をしていた体育教師の姿が服だけ残して突然消失した為に、たまたま通りかかったバンが、路上に転がっていた体育教師の頭を跳ね飛ばして、背中を向けていた女子生徒の背中にぶつかり、何事かとそれへ振り向いた直後に轟いた悲鳴を聞くまで、そこで起きた凄惨かつ奇怪な出来事に誰も気付いていなかった。


 祐介は、保健室には行かず、玄関口から校庭のほうを見ていた。
 やがてゆっくりとこちらのほうへやって来るコート姿の男と、その男がやってきた校門のほうから聞こえてきた女子生徒の絶叫を耳にして、険しい顔をした。

 大食。

 もう一度、瑠璃子の声でそれは聞こえた。
 コート姿の男は、玄関に立っている祐介を見つけて、不気味な笑顔を見つけた。

「……君か」
「……誰?」
「俺は俺さ。――そして君は君」

 祐介はコート姿の男の言葉に当惑した。

「……何なの?」
「話、したいなぁ。あそこへ行こう」

 険しい顔をする祐介に、コート姿が指した場所は、校庭の向こうにある校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下であった。
 祐介は何も言わず、当惑する面を縦に振った。

          中編へ つづく