雫異聞・顎(後編)  投稿者:ARM


【承前】

 抵抗力、攻撃力の圧倒的な差。もっと早く気付くべきであった。
 祐介は心を破壊できるが、肉身は破壊できない。
 だがこの男の〈毒電波〉は、樹木を「喰らった」ではないか。体育教師の最期や、街で起きたバス内の殺戮さえ知っていれば、もっと早くそのコトに気付けただろうに。

 コート姿の男は、地面に倒れている祐介を見下ろして嘲笑った。

「――判ったかい、お前?お前の〈毒電波〉では、心を破壊できても、俺の〈大食(GLUTTONY)〉のように肉体を破壊することは出来ない!もっと鍛えていれば、俺と同じようなコトが出来ただろうにな――――」

 見下ろしていうコート姿の男の貌から、不思議にも次第に険が薄らいでいた。

「――しかし驚いたよ。一瞬とは言え、この俺の身体の自由を奪えたのだからな。…………やはり、君をこのまま『喰らって』しまうのは惜しい」

 いつの間にか祐介を呼ぶ二人称が、お前、から、君、に戻っていた。
 そして、不意に浮かんだその笑顔が、狂気を孕んでいたことに気付いた祐介は戦慄した。

「……今の君を縛り付けているのは、この”世界”だ」

 コート姿の男はそういって周囲を見回した。
 コート姿の男の視界には、祐介が通う高校の校舎が拡がるように映えていた。

「――ここを壊せば、君のしがらみはすべてなくなる」
「――――まさか!?」

 祐介は戦慄した。このコート姿の男は、ここで己が〈毒電波〉の力を発揮しようとしているのだ。そう、生けるものを喰らい尽くす〈大食〉の力を!

「想像したね?――その通りさ!流石、俺が見込んだだけのことはあるよ、その賢しさは!”喰らって”やるよ、みんな!」
「や――やめろっ!」

 祐介は咄嗟に立ち上がり、コート姿の男に飛びついた。しかしコート姿の男は飛びかかる祐介を片手で叩き退けた。

「がはっ!」
「……無駄なあがきを。――そこまでして、こんな退屈な日常を守りたいのか?」
「くっ……!」

 祐介はコート姿の男を睨んだ。するとコート姿の男はそんな祐介を見て、ニヤリ、と笑った。

「――俺にはそんなふうには見えんがな」
「――――」

 明らかに祐介の顔に動揺が走った。
 それを見て、コート姿の男は確信したように頷き、

「すべては失ってから判る。――そこで大人しく見ていろ」

 コート姿の男はそう言って祐介に〈毒電波〉を送った。無論、祐介の身体の自由を一時的に奪う程度のパワーで、”喰らう”つもりはなかった。攻撃を受けた祐介はレジストできず、〈毒電波〉によって全身が痺れ、仰向けに倒れてしまった。コート姿の男は祐介が倒れてから、両腕をゆっくりと上げ始めた。

「5分で済む。――――ふはははははっ!」

 祐介は、コート姿の男の両腕の間にいつの間にか、きらきら光る粒子の霧みたいなものがあるのに気付いた。これは、コート姿の男が集めた、高密度に集積された〈毒電波〉なのであろう。物理的な破壊を可能とする〈毒電波〉は、その量も祐介が心を破壊するときに用いる量とは比較にならない膨大な量らしい。
 それを見て、祐介は絶望した。自分が使える〈毒電波〉の力では、この圧倒的なパワーを防ぐ威力はない。
 まもなく、この校舎内や近隣にいる人たちが、この強力な〈毒電波〉に見舞われ、”喰われてしまう”だろう。月島拓也が、人々を色情狂に変えようとした行為がまだ生易しいくらいである。
 みんな、”喰われた”と思ってその肉を辺りに散らかす。職員室では、今頃、現国教師である叔父の源一郎が今日のテストの採点をやっているハズだろう。生徒会室では、あの事件で役員が皆入院してしまい、一人無事だった書記の藍原瑞穂が仕事を頑張っているハズだろう。みんな、この〈大食(GLUTTONY)〉の能力をもつ〈毒電波〉によって殺されてしまう。
 体育館でまだバレー部の部活を続けている沙織も例外ではない――――

 祐くん。

「――――っ?!」

 沙織のどこか寂しげな笑顔が脳裏に浮かんだとき、祐介は頭の中に激痛を憶えた。

 長瀬ちゃん。

 不意に、瑠璃子の笑顔が、沙織のそれと重なった。

「…………瑠璃子……さん……?」

 ちりちりちり…………!祐介の頭の中で駆けめぐる〈毒電波〉が、次第に熱を帯び、祐介の脳を焼き始めた。
 熱い。熱い。熱い…………熱い。
 痛みと熱さが、祐介の脳を焼き焦がす。


 祐くん。

「――?」

 祐介は、西日の射し込む教室の窓辺に立ち、沈みゆく夕陽をじっと眺めていた。遠くから流れてくる風に吹かれた麻色のカーテンが、ゆらゆらと揺れていた。
 綺麗だな。祐介はそう思った。

 世界はこんなにも綺麗だったんだ。

 そして隣には、先ほどが沙織が、不思議そうな顔をして祐介の横顔を見つめていた。

「指切り、しよ」

 そう言って沙織は、祐介に右薬指を差し出していた。

「指切り、しないの?」

 何に?祐介はそう思った。沙織は映画を一緒に見る約束で差し出したのだが、考え事をしていた祐介はそれを聞き逃していた。

「……指切り。しないの?」

 次の瞬間、夕映えの中にいたはずの祐介は、さわやかな風が吹き抜ける、誰もいない昼下がりの校舎屋上にいた。
 目の前には、沙織ではなく、月島瑠璃子がいた。
 薄く閉じられた瞳で、白い小指を祐介に差し出す瑠璃子。

「……る……?」

 瑠璃子の名を口にした途端、再び祐介は、沙織とともに夕映えの教室に佇んでいた。

「…………祐くん?」

 不安そうな顔をする沙織に、祐介は、ああ、と微笑んで自分の右薬指を差し出し、沙織の指に絡めた。
 子供じみた約束のあかし。
 それでいて、どこか色めかしい仕草。
 こんなコトが出来る、穏やかな日々。

 ボクハ、ナニヲシテイルンダ?

 不意に、世界が変わる。
 何もかも、壊されていた。
 死と絶望の世界。
 〈毒電波〉に”食い尽くされ”、無惨な姿をさらす叔父や級友たち。原形をとどめぬほど崩れてしまったそれを祐介は見分けられない。

 そして――

 全身を喰らい尽くされて佇む沙織が、一人無事な祐介を見て微笑んでいた。
 無惨な姿で。

 ユビキリ、シヨ。

 ボクハ、ナニヲシテイルンダ?

 ――フガイナイ。コンナノ、イヤダヨ。


「――何?」

 コート姿の男は、ゆっくりと立ち上がる祐介に気付いた。

「……バカな?俺の〈毒電波〉でしばらくは立ち上がれないはずなのに?!」

 ボクハ、ナニヲシテイルンダ?
 コイツハ、ココデナニヲシテイルンダ?

「……くそっ!大人しく眠っていやがれっ!」

 コート姿の男は、まるで生気なく佇む祐介に怯むことなく、先ほどより少し強めの〈毒電波〉を祐介めがけて発信した。常人ならまる半日、人事不省に陥る威力であった。
 ところが、その〈毒電波〉は、祐介の目の前で霧散してしまった。明らかに祐介がレジストしてみせたのである。

「ば――バカな?」

 ボクハ、ナニヲシタンダ?
 コイツハ、ココデナニヲシテイルンダ?

 ……ナンダ。ソウカ。

 ソウイウコトカ。
 カンタンナコトダッタンダ。

 ウルサイヤツハ、ケシテシマエバ、イイ。

 Bomb!大気を振るわす爆発音。

「――――」

 コート姿の男は、突然爆発して肘から先が消えてなくなっていた自分の両腕を見つめて唖然としていた。

「…………あれ?」

 コート姿の男がきょとんとした途端、その傷口からおびただしい血が噴き上がった。しかしコート姿の男は、その光景をみて悲鳴を上げるどころか歓喜の声を上げたではないか。

「――――あーはっはっはっ!俺の目に狂いはなかった!――いや!そればかりか大変な発見だよっ!見つかったぞみんなっ、第7の大罪・憤怒の罪〈 WRATH 〉の能力者をっ!!」

 祐介は、どろん、と澱んだ眼差しで歓喜しているコート姿の男を見ていた。

 ナニガ、オカシインダ、コイツ?

 …………どくでんぱガ、カクサンシテイル――――ヒロガッテイク。
 ダレニ、ムカッテ?

「――俺の声を聴け、〈七大罪〉の同志諸君!これで揃ったぞ、これで――」

 …………ダレニ、ヨビカケテイルンダ?
 ちりちりちりちりちりちりちりちりちりちりちり。
 …………ウ・ル・サ・イ・ヨ・オ・マ・エ。

 ボンッ!ボンボンボンっ!コート姿の男の身体が次々と爆発し、最後に巨大な火の玉となって跡形もなく爆散してしまった。人の身体を構成するリン分や水素を使った化学反応を利用すればこんな人体爆発など不可能ではない。しかしこれをやってのけたのは、やはり祐介なのか。
 コート姿の男が爆散したと同時に、祐介は尻餅をつくように倒れた。
 呆気ない。
 それが祐介の感想であった。コート姿の男に、”爆発しろ”というイメージを送っただけだった。
 コート姿の男は、そのイメージを受けて爆散した。それが今の祐介が理解し得る事実であった。
 勝ったのだ。

 ナニニ?

「…………うふふ…………ははは…………あははははははははははは!」

 祐介は、自分が笑う理由を判らなかった。
 ただ何となく。
 平穏な生活を護れたコトが堪らなく嬉しいのかも知れない。

 ヒトヲ、ヒトリ、コロシテマデ。

「……祐……くん?」

 そんな時だった。祐介の視界に、体操服から着替えた沙織がいつの間にか入り込んでいた。

「……どうしたの、そんなとこに座り込んで?」
「…………あれ?部活は?」

 沙織は少し驚き半分呆れた顔をして、

「……知らないの?校門のほうで凄い殺人事件があったから、生徒は全員帰宅だって」
「ああ、そうなんだ」

 祐介はそう答えて、腰を下ろしたまま仰いだ。
 雨はまだ降り続いていた。
 きっと、あの男の仲間は、自分を狙ってくるだろう。そう思うと祐介は、無性にこんな空を見上げたくなった。


 雨は良いねぇ。雨は何でも洗い流してくれる。この世の汚れたものや血の色、そして血の色さえも。

「……ああ」
「…………祐くん?どうしたの?」
「雨は良いね」
「…………はぁ?」

 不安げな顔をする沙織に気付いた祐介は、やれやれ、と腰を上げた。

「こう言うのも、いいと思っただけ。帰ろう」

 ふっ、と笑う祐介を見て、沙織は、ほっ、と胸をなで下ろした。
 薄ら寒い笑みなのに、しかし沙織は、それを怖い、と思ったのに、どうして安堵したのか理解していない。
 祐介が”それを望んだ”からである。

               完
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