ToHeart if「Alive」第1話  投稿者:ARM


【警告】
○このSSはPC版&PS版『ToHeart』(Leaf・AQUAPLUS製品)の世界及びキャラクターを混在して使用しています。
○このSSはPC版&PS版『To Heart』神岸あかりシナリオのネタバレ要素がある話になっており、話の進行上、性描写もある18禁作品となっております。
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 5月4日、朝。

 あかりは、微睡みの中で見慣れぬものを視界に捉えていた。
 いや、それは見慣れていたものだった。
 藤田浩之。
 こんな間近で、想い人の顔を見たコトはない。
 しかも、二人とも、生まれたままの姿だ。浩之の肌の暖かみが妙にくすぐったい気がした。
 不意にあかりは、ずきっ、と痛みを覚えた。
 浩之を受け入れた結果だ。痺れるように痛い。
 でもそれが、嬉しかった。
 浩之は、寝息を立てて寝ている。ベットのそばにある窓へ視線を移すと、空が紅みを覚え始めていた。しかしあかりの頬がほんのりと朱色を帯びているのは、朝日の所為ではない。
 無性に嬉しくなったあかりは、浩之を押さぬよう、ゆっくりと頬ずりをした。

「ん…………んん」
「あ…………!」

 頬ずりの感触にむずかる浩之に、あかりは驚いて顔を離した。幸いにも浩之を起こさずに済んだ。
 また寝息を立て始めた浩之を見て、あかりは、くすっ、と微笑んだ。
 浩之が起きた時、何と言おうか。
 おはよう。
 在り来たりだが、それぐらいしか思いつかない。もう少し気の利いたコトを言いたいのだが、やはり思いつかない。
 やはり、おはようなのかしら。それでいいのかしら。
 幼なじみという関係ゆえに、それでいいのかも、と、言動にどうしても妥協が生じてしまうのかもしれない。あかりはその長すぎた関係を少し恨んだ。
 でも、今は違う。
 ただの幼なじみではない。
 やっと。――やっと、想いが通じた。通じ合った。
 だからこそ、あかりは、別の言葉をどうしても口にしたかった。
 せっかく、ただの気心の知れた幼なじみという関係から一歩進めたのだ。
 そう。ただの幼なじみという関係はもう終わったのだ。

「…………ん?」

 気怠げな声が直ぐ横から聞こえてきた。浩之がいつの間にか目を覚まし、虚ろげな眼差しであかりを見つめていた。

「…………あ。起こしちゃった?」
「……いや、別に…………」

 浩之はまだ微睡んでいるようである。不断の強気な雰囲気など微塵もない。これが藤田浩之の素なのであろう。あかりはこんな浩之を見られて少し嬉しかった。

「……なんだよ、にやにや笑って」
「…………だって……嬉しいんだもん」
「…………嬉しい?」
「うん。遠い昔からずうっと、こんな日が来るコト待っていたんだ。――これからあたしたち、ずうっといっしょだよね?」

 あかりが嬉しそうにそう言うと、浩之の顔が少しこわばった。照れたのだろう。ややあって浩之も、ふっ、と微笑み、右手であかりの頬を撫でた。

「……ああ。ずうっと、いっしょだ」

 そう言って浩之はあかりを引き寄せた。あかりは浩之の胸に顔を埋める形になった。
 浩之の鼓動が高鳴っていた。流石にまだ、こんな関係になったコトに抵抗があるらしい。あかりは浩之らしいと思ってその胸の中でくすくす笑いだした。

「……なんだよ」
「ううん。――嬉しくて、おかしいの」


 第一幕  悲劇


 あの日から二週間が経った。

「今日だっけ?」

 屋上であかりが作ってくれた弁当を食べていた浩之が、思いだしたように言う。

「今日?」
「ほら、おじさんの印税パーティ」
「印税……って」

 あかりの隣で調理パンを食べていた志保が、呆れたように言う。

「そんな俗っぽいコトいうもんじゃないわよぉ。あかりのパパさんの記念すべき紀行本初のミリオンセラー作記念パーティー・ご家族編くらいゆわないとぉ」
「志保、そっちのほうがいかがわしい気が」

 思わず浩之の隣でパンを食べていた雅史がつっこむが、志保ににらみ返され、苦笑した。

「なにはともあれ、めでたいわよねぇー。あかりのパパさん、あたしの尊敬するマスコミの先輩のひとりだからねー、今まで書き溜めていた紀行コラムがようやく一冊の本にまとまってよかったわねー」
「うん」

 あかりは屈託なく嬉しそうに笑って頷いた。

「よかったわねー、そうそうあたしも一冊買ったんだから、その代価の一部があかりン家の家計の足しになったんだから、すこしはお礼して欲しいわねー」
「おいおい」

 浩之が呆れたようにつっこむ。無論、志保があかりを揶揄しているのは承知していた。

「わかった。じゃあ、この卵焼き上げる」
「あら、そぉ?」

 あかりが自分の弁当箱から箸でつまんだ卵焼きを志保に差し出すと、志保は嬉しそうにそれを頬張る。

「んー、やっぱ、あんた料理上手いわねー」
「この卵焼きはお母さんが焼いたヤツ」
「え?」

 あかりが済まなそうに答えると、志保はみるみるうちに目を丸めた。
 驚いたらしいが、決してマイナス要素によるものではなかった。卵焼きを頬張る志保はその相好を崩し、至福の世界に浸った。

「うひょひょひょひょひょ〜〜〜!あの料理の天才の手料理を久しぶりに食べられて、志保ちゃん大ラッキィィィィィッ!」

 志保は大げさに喜び、しまいには立ち上がってその場で嬉しそうにくるくる回転し始めた。
 そんな志保をみて浩之は呆れ返った。

「そこまで喜ぶかフツー」
「――なにをゆーの?ヒロ、あんたあかりのママさんの料理の実力にケチ付けるワケ?」
「あほぅ。そんなワケないだろう。あかりのお母さんの料理の腕は、俺がガキの頃から知っているつもりだ。お前如きにわかファンにあの味の何がいえるか?」

 睨み付ける浩之を見て、志保は、にぃ、と意味深に口元をつり上げた。

「そーよねぇ、いづれあんたも神岸家のご家族になるんだからねぇ」
「「え?」」

 浩之とあかりの顔が同時に硬直する。

「あれだけつかず離れずだったのに、あの日以来、すっかりラブラブだしぃ」

 浩之とあかりはそこでようやく、5月3日の夜、あかりが浩之の家に泊まったコトを知る人物であるコトを思い出した。その日、あかりは志保に、志保の家に泊まった、と口裏を合わせるようお願いしていた。

「何なら今日のご家族ハーティにも一緒に出席しちゃえばいいのに。どーせまた今日も一人わびしくコンビニ弁当なんでしょ」
「こ、こら、志保!」
「もーぅ、志保、お願いだからぁ」

 赤面した顔で困却するあかりも、流石にこの弱みは致命的と思っていたらしい。浩之の隣で黙々とパンを食べていた雅史は、その三人が何を言っているのか、理解する頭さえ持っていなかった。ある意味、一番この仲良しグループの中でお子様であった。
 しかし、そんな志保の茶化しが出るのも、今の浩之とあかりにとっては幸せの証拠であった。


 その日の夕方、浩之はあかりを家まで送ると、玄関で丁度、あかりの母親であるひかりど出くわした。

「あら、浩之ちゃん、こんにちわ」

 ひかりは外出着を着ていたが、どうやら主婦業と兼業している料理学校の先生の仕事から戻ってきたばかりらしい。浩之は、こんにちわ、と挨拶した。
 いつみても、あかりによく似た女性であった。性格も、あかりにそっくり――いや、ひかりのほうがオリジナルである。見た目さえ、あかりの姉と言われても十人が十人とも納得するだろう。事実若い。今年、34になる。見た目はまだ20代前半で通じるだろう。ひかりは17の時にあかりを産んでいたのだから。来年の2月に、あかりは、あかりを産んだ時のひかりと同い年になるのだが、浩之はあかりには同じ真似はとても出来ないだろうと思っていた。
 もっとも浩之がその気になればあり得ないコトではないが、そこで浩之と、あかりの父親である紀行ライターの神岸灯志(ともし)との差が出てくる。
 当時大学生ながら、ディープな鉄道マニアの才を発揮した紀行ライターとして活躍し、自活していた灯志だからこそ、高校生であったひかりをめとれたのである。ただの一高校生に過ぎない浩之では、あかりを養えるだけの才も仕事も持ち合わせていなかった。

「浩之ちゃん、ちゃんと栄養のあるもの食べてる?」

 藪から棒に、ひかりはニコニコ笑いながら浩之に訊く。

「え?い、いや、まぁぼちぼち」

 浩之がそう答えると、ひかりは、うーん、と腕を持て余して唸り、笑顔を浩之に突きつけた。

「ダメだよ。ちゃんと食べないと、玉緒さんに叱られるよ」

 玉緒とは、浩之の母親である。浩之の両親は、ひかりとは年の離れた幼なじみであった。そして灯志は、当時大学生だった浩之の両親と同じサークル仲間であり、ひかりと灯志が結婚した数ヶ月前に、浩之の両親も学生結婚していた。やがて浩之が生まれ、それを追うようにあかりが生まれた。

 困却する浩之を見て、ひかりは、にぃ、と意地悪そうに微笑み、

「なんならうちのあかり、毎日晩ご飯作らせに行かせても良いんだけどね。通い妻、通い妻」
「お、おかあさんっ!」

 これには堪らずあかりも顔を赤らめて怒鳴ってしまった。最近の言動から、あかりが浩之とデキているコトをひかりが既に気付いているフシがあったのだか、これでまたひとつ、確信の数値が引き上がってしまった。志保と口裏を合わせていても、ひかりはとうにお見通しらしい。

「おばさぁん、あんましあかりを困らせないで下さいね」

 浩之は苦笑しながら言う。傍若無人に見える浩之でも、両親とこのひかりには子供の頃からずうっと頭の上がらない存在であった。

「はいはい。あ、そうだ、浩之ちゃんもどう?今日の夕食会?」
「前にも聞かれましたよそれ。済みません、今夜、お袋たちが久しぶりに帰ってくるので、居なきゃダメなんですよ」
「あ、そうだったわね。残念よねぇ、せっかく未来の家族になる男の子なのに」
「あははははは」

 浩之はやけくそ気味に笑い、隣で呆れていたあかりに、そっと耳打ちした。

「……何となく、あかりが志保と気があった理由、判った気がする」
「あはは……ごめん」


   *   *   *   *   *   *


 その夜、浩之は食卓で久しぶりに帰ってきた両親と顔をつきあわせて数カ月ぶりの一家団欒を満喫していた。

「やっとマスターアップしてさぁ、えらい難儀な仕事だったよ」

 浩之の両親はフリーランスのシステムエンジニアである。浩之は今日の夕食時に、現在、来栖川電工の契約社員として、主にメイドロボットの中枢回路の設計を任されていたコトを聞かされ、酷く驚いた。少し前、学校にテストで導入されていたメイドロボット、HMX12型マルチの開発にも関わっていたというのである。これは何かの奇縁だろうか、そんな話をしてわいていた。
 そんな時だった。
 突然、玄関のほうから電話のベルが鳴り、浩之の母親である玉緒が電話に出て行った。
 やがて、玄関のほうから玉緒の悲鳴が聞こえてきた。


 一時間後、藤田一家は駅前にある救急病院の中にいた。別に、食中たりで一家全員入院したわけではない。三人とも、無事である。
 但し、その焦燥しきった、蒼白した顔を覗いて。

 あの電話が鳴った10分ほど前、神岸一家を載せたタクシーが、夕食会の場であるホテルへ向かっていた途中、前方不注意で交差点に無理に進入してきた一台のタンクローリーと正面衝突する交通事故に遭ってしまった。タンクローリーにはガソリンが積まれ、事故後、現場は火の海と化した。しかし消防隊や救急隊の迅速な活動により、火は直ぐに鎮火され、タンクローリーに押し潰されていたタクシー運転手を除く神岸一家が救出された。
 だが。
 今から5分前、灯志の臨終が担当医師から告げられた。大腿骨に突き刺さった破片が動脈を破り、多量の出血を押さえきれなかったのが致命的であった。
 大学時代からの家族ぐるみの長いつき合いであった親友の死に、浩之の両親は、過ぎた哀しみにどう応えてよいものか、まるでもぬけの殻のように病院の廊下にある椅子に腰を下ろして呆然としていた。
 浩之は、その椅子から直ぐ先にある集中治療室が見えるガラス壁の前にへばりついていた。集中治療室の中では、ベットの上に横たわる神岸ひかりの治療を続けている医師たちがいた。
 一方、そのすぐ横にあるベットに横たわるあかりを治療していた医師たちの動きはあまりにも緩慢であった。まるで、既に手を尽くしきった後であるかのように。
 浩之は、ガラス壁にへばりついたまま、俯き、ボロボロに泣いていた。
 あかりの名を呼ぶ声は、とうに枯れ尽きていた。
 浩之は10分前に、神岸あかりの臨終を聞かされていたのだった。

 結局、神岸一家の中で、ただ一人後部座席のシートベルトを律儀に付けていたひかりだけが、死の淵から生還できた。

 翌日、浩之は学校を休み、両親とともに病院にいた。
 じき、麻酔が切れて目覚めるひかりに、自分たちを見舞った悲劇の顛末を伝える役目を果たすためである。もっとも浩之の両親は、浩之だけでも学校に行かせても良かったのだが、流石に今の浩之の心情を考えると、無理強いは出来なかった。
 浩之は朝方まで、霊安室に移されたあかりの元を離れようとはしなかった。
 浩之は、僥倖にも傷ひとつないあかりの死に顔をじっと見つめたままであった。徹夜してもひとつも眠くない。なにか自分の中から失われた大きな穴が堪らなく寒く、眠気など吹き飛ばしているようだった。
 涙は、あかりの司法的死を告げられた時にすべて流し尽くしたのか、ひとつも出てこなかった。やがて、霊安室に来た浩之の父親が、浩之を呼びに来た。
 正直、浩之はこの場から離れたくなかった。このまま目の前であかりの肉体が朽ち果てようとも、ずうっと居たい気分だった。
 なのに、どういう心境の変化が起こったのであろうか。父親に呼ばれた浩之は、まるでその言霊に操られるかのように、無言に戻った父親の背を大人しくついて行った。
 もうじき、ひかりが目を覚ます頃らしい、と父親が呼んだ。恐らくは浩之は、大切な家族を失ってしまったひかりがそのすべてを聞かされた時、見知った顔が多いほうが寂しくないだろう、と考えたようである。浩之らしい心遣いである。
 まもなく浩之はひかりがいる病室に来た。面会謝絶の札は外されていた。ひかりの怪我は肋骨の骨折と軽い脳挫傷。内臓は無事であった為、他の二人より治療が簡単であった。
 入室すると、そこには目を泣きはらせた浩之の母が、ひかりが眠るベットの横に置いた椅子に腰を下ろしていた。浩之の父親は、そんな妻に顔を洗ってくるよう告げると、浩之の母親は無言で頷いて部屋を出ていった。
 それから直ぐであった。

「……う……ううん」

 麻酔から覚めたひかりの呻く声を、浩之と父親は耳にした。そこで二人はようやく安堵らしい笑みを浮かべた。

「浩之、今、先生を呼んでくるからな。ちょっと待たせていろ」
「わかった」

 浩之が頷くと、浩之の父親は慌てて退室していった。

「…………浩之…………ちゃん?」

 そんな父親を見送っていた時、不意に、ひかりが浩之を呼んだ。どうやら大夫意識がはっきりしてきたらしい。浩之は、はぁ、と困憊しきった溜息を吐くと、無理に笑顔を作ってひかりのほうへ向いた。浩之は今の自分がどれだけ情けないものであるか、見えなくとも想像がついていた。
 浩之の不器用な笑みを見て、ひかりは不思議そうにすこし首を傾げて見せた。

「…………どうしたの?」
「あ――――いや、大丈夫だよ、おばさん」
「………………」

 するとひかりは、きょとんとした顔で浩之を見つめたではないか。

「……おばさん?どうか」
「…………やだ……浩之ちゃん、何、変なコト言ってるの?」
「変――――」

 不思議がる浩之だが、無理に理由を問いただすほどの気力は流石に無かった。

「…………浩之ちゃん?」
「……いや、いいんだ、おばさん」
「だから――――」
「?何?」
「……なんであたしのコト、”お母さん”みたいに呼ぶの?」

 浩之は絶句した。
 つづいてひかりは、不安げにこう言った。

「…………浩之ちゃん。あたしだよ、あたし……あかりだよ」

                  つづく