【承前】 「――雅史、あんた――ヒロっ?!」 志保が口を挟もうとしたが、神妙な面持ちの浩之が腕を上げて遮った。 「……待ってくれないか、志保」 「でもね、よりにもよって――」 「辛いことを言ってしまったとは思っている」 雅史はゆえを見つめたまま言う。 「昼休みに相談を受けた時、何となく気づいていたんだ。だけど、そのコトをわざわざ言う必要なんかないだろう、と何度も何度も考えた。――だけど、今のゆえさんが乗り越えなければならない悩みを解決するためには、その事実からは決して目を背けてはいけない、そう思ってあえて指摘した――――ゆえさん?」 雅史は、いつの間にかゆえの肩がわなないているコトに気づき、焦った。 「…………なんで」 「?」 困惑する雅史に、両手からバックのひもを手放したゆえは爆発しそうな面を突きつけた。 「…………なんでそんなコトを言うのよ、佐藤君っ!」 「ゆえさん――――」 「――そんなコト、絶対ないっ!あたしがあの男のしたコトを許しているわけがないでしょう?あんな男、死んでも許さないっ!許さないからっ!許しちゃいけないよっ!――――?!」 すっかりヒステリーを起こしたゆえだったが、その両肩をいきなり雅史に掴まれ、ゆえは、はっ、と驚く。 ゆえを唖然とさせたのは、雅史にいきなり両肩を掴まれたコトではなく、もの凄い形相で自分を睨む雅史の顔を見たからであった。 「…………本気で、そんなコトを言っているのか?」 雅史に問われてももゆえはどうしてもその理由が判らなかった。雅史が何故、自分を睨み付けているのか、を。そのコトが逆に、ゆえにまたヒステリーの火を再燃させるコトとなった。 「――なによっ!佐藤君、何をえらそうに言っているのよっ!あなたに何が判るって言うの?!身も心もズタズタにしたあの男を、あたしが本気で許しているとでも思って――――――」 怒鳴り返すゆえは、哀しくもないのに自分が泣いている理由が判らなかった。頭の中は混乱する一方であった。 すべては、雅史の指摘から始まっていた。だが今のゆえには、それを冷静に判断できる余裕はなかった。 「――――佐藤君の、莫迦っ!」 とにかくその場には居たくなかった。ゆえはバックを置き去りにしたまま、雅史の手を方から振り解いて駆け出して行ってしまった。 ゆえの逃走に雅史は驚くが、何故かその後を追い掛ける気が起きなかった。 「ちょ――ちょっと、雅史っ!?」 驚く志保が、雅史に飛びつくように駆け寄り、立ちつくすその肩を掴んで怒鳴った。 「アンタ、なんてコトを!ゆーちゃんがどんな気持ちか知っててそんなコト――」 「知っているから言ったんだ」 「「「「?!」」」」 冷静に答えた雅史に、志保だけでなく浩之たち驚かされた。 「ゆえさんは、自分の本当の気持ちに気づかない限り、ずうっとあんなふうに逃げ回り続ける。誰かがそれを指摘して、それを認めさせなければ――ダメなんだ」 「雅史……」 志保はゆっくりと雅史の肩から手を離す。そして悔しそうに歯噛みして肩をわななかせた。 「…………判ってるわよ。――ゆーちゃんの気持ちぐらい判っているわよ!」 「……志保」 「だけどね!ゆーちゃん、そのコトを認められるほど強い人じゃないのよ!しかもこのあいだの騒動の昨日の今日じゃない、今、そんなコトゆわれたらゆーちゃん、また――」 「逃がさない」 「――――」 雅史の一言で言葉をなくした一同の中で、浩之だけが、拳を強く握り締めている雅史に気づいた。 「……ゆえさんは逃げる必要なんて無いんだ。――みんなが居るここが、ゆえさんの居場所なんだ。それでも判らないのなら、僕は追い掛ける。追い掛けて、引き留めさせる」 「よく言った、雅史!」 嬉しそうに言ったのは、千絵美であった。 「詳しい事情は判らないけどね、あたしは惚れた女に正直になれない男に育てたつもりはないからねっ!」 「……そうだっけ?」 「さあ」 浩之が首を傾げると、雅史は困ったふうに苦笑して見せた。 「――でも、なんで追い掛けないんだ?」 「時間が必要だと思う」 「…………時間?」 志保が不思議そうに訊くと、雅史は志保のほうへ向き、 「ゆえさんの家、ってどこ?」 「へ?」 「多分、あんなふうだから感情にまかせてどこかへ行ってしまうと思う。下手に探しても徒労になるだけだし、ゆえさんにも混乱した頭の中を沈める時間が必要だと思う。でも最後には家に帰って来ると思うんだ。だから――」 「学校から見える土手の近くに、クレセント海葉、ってマンションがあるでしょう」 「――あ」 答えたのは、いつの間にか浩之たちの元に現れたゆえの義母、六実であった。 「さっきそこで、ゆえの怒鳴り声が聞こえてね。――クレセント海葉の508号室。オートロックじゃないから、家の前まで行けるわよ」 「六実さん……」 雅史が六実の顔を見つめると、六実は苦笑する面をゆっくりと横に振った。 「……やっぱり、そうだったのね。お父さんのコトがひっかかって居たから、ずうっと迷っていたんだ」 「聞いていたんですか」 「途中からだけどね。――佐藤君、ゆえのコト、お願いできる?」 「え?」 「ゆえはあなたを必要としている。――お願い」 そういって六実は雅史をじっと見つめた。見つめ合うような形になり、雅史はしばし黙り込むが、やがて、 「はい」 と力強く答えた。 「雅史ちゃん」 雅史が答えるのと同時に、あかりが雅史が持っていたカバンの取っ手を掴んだ。 「あかり、そいつも俺が持って――」 「待った」 手を差し述べた浩之の前を遮るように、カバンの取っ手を志保が掴んだ。 「雅史、そこまで言いきるなら、任せるわよ」 「志保……」 「さぁ、行った行った!」 「――――判った」 雅史は取っ手から手を離し、駆け出して行った。そんな雅史の後ろ姿を見送っていた千絵美が、はぁ、と溜息を吐いたコトに気づいた浩之が、苦笑して訊いてみせた。 「一人前になった息子の旅立ちを見送る母親の心境って奴ですか?」 「まぁね――でもイイの」 そう答えると、千絵美は抱いている息子に頬ずりしてみせ、 「あたしにはまだ、こんな可愛い子供がいるからねー、あーよしよし」 「つまり、雅史に代わるオモチャがあるから大丈夫と言うコトで」 と言いそうになって浩之は慌てて口をつぐんだ。そして千絵美の子供として生まれてきた赤ん坊がいずれ、雅史の轍を踏まされる不幸をこころから哀れんでいた。 「なんか浩之ちゃん、すっごく複雑そうな顔しているね」 「……あかり。お前だけは、まともでいてくれよ」 「はぁ?」 雨が降ってきた。 雅史の言葉に激しく傷付いたゆえは、病院から逃げるように駆け出し、どこらへんを走り回っていたのか良く覚えていなかった。しかしいつの間にか家がある街の駅前を歩いているコトに気づくと、疲れたように近くのガードレールに腰を下ろし、大きく深呼吸して息を整えた。雨はそんな時に降ってきた。 ゆえはバイトをどうしようか、と考えた。今日はバイトの日であった。家に帰るよりはそちらのほうが近かった。ゆえはバイト先のコンビニへ向かった。 「あら、ゆえさん――大変、ずぶ濡れじゃない!」 バイト先の女店長が驚いた顔でゆえを迎え入れた。そしてすぐ制服に着替えるように言った。制服に着替え終えると、店長は裏の自宅にある乾燥機で服を乾かしてあげるから、とゆえの濡れた服を受け取り、自宅へ行ってしまった。代わりにゆえがレジカウンターへ向かうと、そこには同僚の、朝比奈という女子大生のバイトがいた。確かゆえと同時期にここでバイトを始めた女性で、どことなくあの来栖川芹香に似た面立ちが印象深かった。朝比奈は都合で深夜勤務がメインのためにほとんど顔を合わすコトは無かった。 「南雲さん……でしたっけ?」 「え?」 いきなり名前を呼ばれ、ゆえは驚いた。 「南雲さんが休んでいる間に、この時間帯も持つコトになったの。もう体調の方は良いんだ」 「あ、はい」 バイト先には、九重に拉致されていた間は、病気で休んでいるコトになっていた。おそらく、そのコトで朝比奈が融通を利かせてくれたのであろう。ゆえは、どうもありがとうございました、と深々とお辞儀した。 「いいのよ、困っているときはお互い様だし。――なんか、元気ないね」 「え?い、いえ、べつに……」 「ずばり――好きな人に辛いコトを指摘されて悩んでいる!」 朝比奈の言葉に、ゆえは思わず硬直した。そんなゆえを見た朝比奈も、言っておきながら酷く驚いた。 「あっらぁ、冗談のつもりで言ったのに図星突いちゃったかしらぁ」 「ち、違います!」 ゆえは狼狽えながら否定するが、それこそ図星を突かれたコトを暴露しているようなものである。そんなゆえをみて、朝比奈は大笑いした。 「あ、朝比奈さん!」 「ゴメンゴメン、いやぁ、ここまで正直な人ってあんまりお目にかかったコトがないから……!」 誤りつつ、また笑う朝比奈。ゆえは恐ろしく勘の鋭い朝比奈が、本当はすべてお見通しではないのかとこころの中で少し怖がった。 「ところで、なんで?」 「そ、それは…………」 「自分でも一番気にしているコトを、彼氏が指摘しちゃったから、つい腹が立って、とか?」 「…………」 ゆえはいい加減気味が悪くなってきた。朝比奈が本当にこころの中が読めるのではないのか、と。 「……今、南雲さん、あたしが他人のこころの中を読める、と思わなかった?」 「――――」 ゆえは絶句した。 そんなゆえをみて、朝比奈は爆発するように笑い出した。 「……いやいや、驚かしてゴメン。でもね、あたし、そんな読心術なんて使えないわよ。観察と経験、ってやつ」 「え?」 「ひとつ、昼頃から泣き出しそうに曇り出し、夜には降り出すのが間違いない天候にも関わらず、傘も差さずにここへ来たコト。家から出てきたなら傘は持っていたハズ、ならば出先からここへ来たと言うコトが判る。で、入ってきた時、あなた、目の下を泣き腫らしていた。だから凄く悲しいコトがあったか、誰かと喧嘩してきた直後と考えられる。家から来たのではないのだから家族の人と喧嘩した可能性は少ない。だとすると友達か恋人。これはもう二分の一の確率」 「……あ」 「次に悲しい理由。店長さんからあなたの人となりは聞いているわ、とても真面目で優しい人だって。そんな人が友達や恋人と喧嘩してそんなに落ち込んでいる場合、そのほとんどは喧嘩した原因をとても気にして後悔しているから、っていうのが多い。となると、本人も自覚しているコトを注意されてついカッとなった、そんなありがちなパターンが考えられる。人が注意されて感情的になりやすいのは、注意された人間が日々気にしているコトを指摘された場合が多い。――違うかしら?」 「…………あ、当たりです」 ふふん、と得意げに笑う朝比奈に、ゆえはただただ唖然とするばかりであった。 「まぁ、こんなのは心理学でもなんでもない、経験がモノを言うやつだから…………って、どうしたの?」 朝比奈は、驚いていたゆえの顔がだんだん昏くなっていくのを見て、不思議がった。 「……経験、ですか」 「ん?――あ、ええ」 「……朝比奈さん」 「なに?」 「…………ひとって」 「?」 「ひとって、憎い相手を憎みきれないものなンでしょうか?」 聞かれて、南雲は少し当惑したが、それがゆえが抱えている悩みであるコトをすぐに理解し、うーん、と首をひねった。 「…………そうかな?」 「?」 「憎みきれない、っていうのは、最初から憎んでいないコトじゃないのかしら」 3/4へ つづく