ToHeart if.『月は、太陽に』第31話(3/4)  投稿者:ARM


【承前】

「憎みきれない、っていうのは、最初から憎んでいないコトじゃないのかしら」


 …………ゆえさん。本当は、本当のお父さんのコトが好きだから呼べないんじゃないかな、って。


「……どうしたの?顔色悪いけど」

 青ざめていくゆえを見て、朝比奈は心配そうに声をかけた。

「……い、いえ」

 そう答えてゆえは頭を横に振った。そして一回深呼吸すると、レジカウンターの後ろにある柱に背もたれした。
 そんなゆえをみて、朝比奈は、ふぅ、と溜息を吐いて肩を竦めると、何かくすぐったそうな顔をして見せた。

「……南雲さん」
「……はい?」
「人間のこころはね、人を憎むようには出来ていないの」
「?」
「憎しみはね、愛情があるから成立する感情なの」
「――――」

 ゆえは動揺した。

「愛し憎む。――愛憎、って言葉はね、決して正反対の言葉を組み合わせたものではなく、どちらも同じこころだって言っているの。だってどちらも、相手を思うコトなんだから」

 愛するこころ。憎むこころ。本当に同じものなのであろうか。
 だが、その二つの想いが確かに今の自分を苦しめている。まったく別のものならば、こんなにまでこころに複雑に絡み合うことなく、一方を切り捨てられるのではないのか。
 出来ないのだ。憎めば憎むほど、愛する想いも一緒に増える。
 実の父を憎み切れていない気持ちを見透かされて、雅史を罵倒したが、どうしてこんなに悲しいのか。
 雅史を罵ったコトが、罵ってしまったコトがこんなに悲しいのか。
 ――――いや。

「……泣いてるの?」
「……いえ」
「でも」
「?」
「…………佳い顔している。さっきよりずうっと」

 ゆえは微笑んでいる自分がとても嬉しかった。


 8時過ぎにバイトを終えたゆえは、乾かしてもらった服に着替えた後、店長に礼を言って帰宅した。まだ雨は降り止まず、店長から借りた傘でバイト先のコンビニを後にした。

「さて、と」

 ゆえを見送った朝比奈は、店内のほうへ振り向き、

「黙示君、キミも素直じゃ無いのねぇ」

 朝比奈の声に呼応するかのように、今まで倉庫の中にずうっと居た黙示が、倉庫の扉から顔を出してきた。

「彼女が来たら変な顔をして急に代わってくれ、そしてあんな思わせぶりなコトを言ってみせてくれ、だなんていうから変だと思ったのよね」
「すまん」

 そう言って黙示は最近つきあい始めた彼女に両手を合わせてお辞儀した。

「彼女が例の、失態の娘?」
「ああ。――こういう説教がましいコト、向きじゃないんだよね、僕」

 惚けた口調で言うものだから、朝比奈は、ぷっ、と吹き出した。ステディな関係になってまだ浅く、今ひとつこの青年の人となりを掴み切れていない所為もあった。

「でも驚いた。まるでこころの中を見透かしたようにスバズバ当たるんだモン。正直、冷や冷やモンだったわ」
「昔からそう言うのが得意なモノで」
「本当ぉ?本当はあの娘とグルになってあたしをからかっていたとか?」
「わかる?」

 黙示が訊くと、朝比奈は笑いながら首を横に振った。

「何いってんの。そんな器用なコトが出来る人には見えないわ」
「ちぇ。――ふーんだ、仕事しよ仕事」

 倉庫から出てきた黙示は、スナックの入った箱を抱えて店内に入ってきた。もたつく足取りを見て、朝比奈は、しかたないなぁ、と再び店内に戻っていった。


 20分後、自宅のマンションに戻ったゆえは、玄関の扉の前で意外な人物と出会った。

「…………佐藤君!」
「……やあ」

 雨ですっかりずぶ濡れの雅史は、のんきな口調で返事して見せた。

「ずぶ濡れじゃない……なんでこんなところに?」
「……キミに……謝らなきゃ、って思って」

 そう言って雅史は、いつものように笑ってみせる。そんな雅史を見て、ゆえは呆れ返った。

「……なにもこんな雨の中で…………震えてまで言うこと無いじゃない。明日、学校があるじゃないの」
「ははは……はっくしょん」
「もう」

 ゆえは、はぁ、と溜息を吐き、

「とりあえず、そんなずぶ濡れのまま帰らせちゃ、今度全国大会の予選があるんでしょう、サッカー部の人たちに恨まれるわ。入って」
「ごめん……おじゃまします」

 ゆえの家に上げてもらった雅史は、ユニットバスのシャワーで人心地ついた。

「乾燥機で乾くの、ちょっと時間かかるから……男物が俊夫さんの服しかいなんだけど、大丈夫?」

 ゆえが用意してくれた俊夫の私服は、雅史とピッタリのサイズであった。

「俊夫さんも小柄だったんだ」
「うん……。ねぇ、夕食、まだなんでしょどうぞ」

 雅史が学生服のままであることから、きっとあの後、自分を追い掛けてくれたんだとゆえは理解していた。雅史が頷くと、ゆえは雅史の分も一緒に夕食を用意してくれた。

「ろくなものがなかったから、レトルトばかりで申し訳ないんだけど」
「ううん、ありがとう、ゆえさん…………ん?」

 キッチンのテーブルに向かった雅史がご飯茶碗を手にした時、右向かいに座るゆえが雅史の顔をじっと見つめているコトに気づいた。

「……なんか、ついている?」
「――あ、いや、なんでもないの」

 はっ、と我に返ったゆえは、照れて赤面し、

「……なにか、さ。佐藤君が俊夫さんの格好しているモンだから、つい俊夫さんに見えちゃって」
「似てるの」
「全然」

 途端に二人とも吹き出した。それが幸いしたか、ゆえは雅史と笑いながら夕食をともにした。

「ごちそうさま。――そろそろ服も乾いたかな」
「学生服だから、乾燥機で無理矢理乾かしてのはまずかったかなぁ」
「いいって。後は一晩延ばしておくから」

 そう言って雅史は風呂場のほうへ行き、乾燥機から乾いた自分の服を取り出した。
 風呂場から戻った雅史は、食器洗い機の向かって、何か想いに耽ってぼうっ、としているゆえに気づいた。

「ゆえさん、服乾いていたよ」
「――あ、ああ、…………そう」

 ゆえは雅史に呼びかけられて慌てるが、しかしすぐ気が抜けたようになってしまう。雅史はゆえが何か思い詰めているように見えてならなかった。

「…………もしかして、病院で言ったコト、まだ怒っている?」
「……え?――いや、その…………ふう」

 ゆえは溜息を吐き、

「…………ゴメン。あんな酷いコト言っちゃって」
「ぎゃ、逆だって!僕のほうこそ、キミの気持ちも考えずにずけずけと……!」
「ううん、佐藤君は悪くない。――――あたしがみんな」
「――だから」
「?」
「そんなふうに何でも自分が悪いと背負い込まない」
「――――」

 きょとんとするゆえのほうへやってきた雅史は、椅子の上に乾いた服を置くと、やれやれ、と肩を竦めて見せた。

「――それ。そんなふうだといつか、郵便ポストが赤いのも、太陽が東から昇って西へ沈むのもみぃんな自分の所為だと思いこんでしまうよ」
「い、いくらなんでもそんなコトは無いって(笑)」

 暗い顔をしていたゆえだったが、雅史の言葉につい吹き出して笑い出す。
 そんなゆえを見て、雅史は、にこり、と笑った。

「もっと楽に生きようよ」

 雅史がそう言うと、ゆえはその笑みに少し寂しげな色を落とした。

「…………性分なのよね、これ。屈折した人生だったから」
「そう思うところがダメなんだよ。僕は君のこれまでの人生をずうっと目の当たりにしていたワケじゃないから自信持って言えはしないけど、それでもゆえさんはずうっと不幸な生き方だったと思っているの?」
「――――」
「そんなハズ無い。だって、今のキミを見ていれば判る。――誰も傷つけたくない。そんな優しい生き方をしてきたのは、まわりがみんな優しかったからだろう?」
「え?」
「俊夫さん、六実さん、それに祐子さんだっけ、友達の――そしてキミの本当のお父さん」
「――――」

 見る見るうちに瞠るゆえをみて、雅史は自分の推測を確信した。

「――ゆえさん。懲りずにまた、キミの気持ちを無視してキツイコトを言っているのかも知れない、でもこれはキミが避けて通ることの出来ない真実なんだ。――ゆえさん、キミは本当のお父さんを憎んでいない。――そうだろう?」

 雅史は、またゆえが逃げ出すものと思っていた。少なくとも、頷くコトだけはないと思っていた。
 ゆえは、素直に頷いて見せた。

「…………なんでだろうね。……なんか、今の佐藤君を見ていたら、俊夫さんに説教されているみたいで……くすくす」

 どこか嬉しそうに微笑んで答えるゆえを見て、雅史は少し困って頭をかいた。

「……でも、そのお陰で少し素直になれたのかも知れない。――バイト先でもバイト仲間の人にも同じようなコトゆわれたんだ。…………でさ、憎むコトも愛するコトも同じものだって。…………素直な気持ちで考えれば、佐藤君に指摘されるまでもなく、自分で判るコトなのにね」

 どうやら杞憂だったらしい。一連の騒ぎで自分を見つめ直す機会が多かった所為もあるのだろうが、ゆえは雅史の前なら正直になれる自分にようやく気づいてくれたようである。

「……あたしを汚したと言うコトは、きっと一生許しはしないと思う。でもね、結局あれって、お母さんを亡くして愛の行き場を無くしたお父さんが、あたしに泣きすがっていたんだと思う。些細な誤解、嫉妬が入り交じって、お父さんを狂わせた。……あたしはそんな男を呪うコトで、父としての優しかったあの人を許そうとしていた。お父さんの子供を身籠もってしまった時も、赤ちゃんを嫌いにはなれなかった。…………流産した時、あたし、赤ちゃんにずうっと謝っていたんだ。…………幸せに出来なくってご免、って」
「…………」

 雅史はゆえの告白を黙って聞いていた。余りにも優しすぎて、そして悲しすぎる告白を。
 そして今の雅史は、それを黙って聞く義務があった。

「挙げ句、俊夫さんをお父さんと呼んだコトがきっかけになって、お父さんが俊夫さんを刺したショックが重なって、あたし初めてそこで死にたいと思った――死のうと思った。睡眠薬を飲んでね。もしお母さんがあの場にいなかったらあたし、本当に死んでいたのかも知れない」

 雅史はとうに気づいていたが指摘しなかった。告白するゆえが、笑いながら涙を流しているコトを。ゆえの危なげなこころは、最後の峠を越える為に必死になっているのだ。

「死んじゃいけない、って…………お母さん、死んじゃいけない、って…………だからあたし、何かを呪わなければ生きていけなかった。そしてわたしは決めたの。――――実の父親をも罵る自分自身を」

 それを聞いた瞬間、雅史は目を瞑り、安堵にも似た深い溜息を吐いた。ゆえは自分自身を縛り付けていたモノの正体に自力でたどり着いたのだ。

「あたしね、佐藤君に会わなければ良かった」
「――――え?」

           4/4へ つづく