ToHeart if.『月は、太陽に』第31話(4/4)  投稿者:ARM


【承前】

 驚いて瞑っていた目を開いた雅史だったが、しかしゆえは自分のほうを笑顔で嬉しそうに見つめていた。

「だって…………こんな息苦しい女と知り合わなければさ、佐藤君もこんな苦労しないで済んだのに」

 ゆえがそう言うと、雅史は苦笑して首を横に振った。

「誰が迷惑だ、って言った?」
「ううん、誰も」

 ゆえは苦笑すると、安堵の溜息を吐いた。

「…………なんか、すうっとしちゃった。……やっぱりさ、なんか佐藤君と話しているんじゃなくって、凄く久しぶりに俊夫さんと再会して話していた気分」
「妬けるなぁ」
「ゴメン」

 ゆえは謝ってみせた。

「……ゆえさん。俊夫さんのコト、本当は好きだったんでしょう?」
「え?」
「……それも、俊夫さんのコトをお父さんと呼べなかった理由じゃないの?これは今気づいたんだけど」

 雅史に訊かれ、ゆえは、うーん、と首を傾げて唸った。そんなゆえを見て、雅史は、くすっ、と笑い、

「……ダメだよ、誤魔化しているのが見え見え」
「……ゴメン。言われてみればそうなのかも。――女として、俊夫さんを見ていたのなら考えられる。――――いえ、違うかも」
「なんで?」
「だって…………」

 ゆえは頬を赤らめてもじもじし、

「……佐藤君が俊夫さんの服を着ているから、はっきりしないよ」
「そんなもんかな」

 二人は同時に吹き出した。
 雅史は笑いながら、キッチンの柱にかけられてあった時計を見た。もう遅い時間である。別に門限があるわけではないのだが、これ以上の長居は親に心配をかけてしまうだろう。

「ゆえさん、夕飯まで御馳走になってありがとう。もうそろそろ帰――」

 雅史がそう言った途端、ゆえがとても寂しげな顔になった。

「………うん。判った。もう遅いもんね」

 頷くゆえを見て、雅史はこころの中に、ずきっ、と痛みを感じた。しかし雅史にはその痛みが何か、良く理解出来ず、釈然としない面持ちで椅子の上に置いていた学生服を取り上げた。
 次の瞬間、ゆえが雅史の身体に飛びつくように抱きついてきた。これには雅史も驚いたが、当のゆえも自分の行動に驚いていたらしく瞠っていた。
 沈黙。気まずい空気がキッチンを支配する。

「ご、ごめんなさい――」

 顔を真っ赤にしたゆえがゆっくりと雅史から離れていく。

「……ダメ、ね。なんかつい俊夫さんに見えちゃって」
「ははは……」

 普通の男なら落胆するところだが、笑って済ませられるのは雅史ならでは、である。もっとも心の隅でがっくりしていたのも事実である。
 笑っていた雅史は、やがてゆえが自分の顔をじっと見つめているコトに気づいた。

「……でも、違う」
「え?」
「いまのは…………佐藤君が行っちゃうのが……イヤだったから」
「――――」

 沈黙。再び、気まずい空気がキッチンを支配する。ゆえも雅史もゆっくりと俯いた。
 すうっ、とゆえの右手が、自分に一番近い雅史の右手を取った。ぎこちないゆえの指先の動きは、雅史の右手と絡み合おうとしているようであった。
 雅史はゆっくりと面を上げる。ゆえはまだ俯き加減でいた。
 どちらからともなく、二人は前へ進んだ。そしてゆえが雅史の懐に飛び込むような形で二人は抱き合った。
 正直、雅史の鼓動は先ほどから高鳴ったままであった。ゆえを受け止めたコトでその激しい鼓動がゆえに気づかれないかと焦り、更に高鳴る。しかしゆえの背中に腕を回した雅史は、その腕越しにゆえもまた、高鳴っているコトを知った。
 やがてゆっくりとゆえが顔を上げた。そしてゆえは目を瞑った。
 雅史はそのゆえの唇に、自分の唇を恐る恐る重ねた。
 唇の隙間から、雅史はゆえの息づかいを感じた。そんな息づかいを外へ洩らさぬよう雅史はゆっくりと唇を押し当てた。
 不意に、ゆえが雅史の前歯に自分の舌を押し当ててきた。雅史は驚くが、これが濃いキスであるのを知らない歳でもなかった。二木が部室に持ち込んできたヤング誌の体験集にも載っていたフレンチキスの仕方を覚えていた雅史は、自分の舌をゆえの舌に絡めた。ゆえは驚きも抵抗もせず、舌の交歓を受け入れた。
 ゆっくりと、ゆっくりと時間は流れた。互いの舌だけが別の生き物のように動き続けていた。
 不意に、今まで興奮して浮かされていた雅史が自己嫌悪に陥った。

(このまま、行くところまで行って良いのか?ゆえさんはまだ傷付いたまま―――)

 そう思った瞬間、ゆえがゆっくりと唇を放した。雅史はチャンスと思い、ここで帰ろうと告げようとした。

「……シャワー、浴びてくる。……あたしの部屋、手前だから」

 思わず固まる雅史。図らずも先手を打たれてしまった。雅史はどうしても断る言葉が出なかった。

 数分後、雅史はゆえの部屋にいた。胸の鼓動は何度かの深呼吸によってだいぶ静まってきたが、それでも通常のそれではない。雅史はゆえの部屋に居場所を求めて室内を見回した。
 女の子の部屋にしては、大して物を置いていないこぢんまりとした構成であった。机と椅子、本棚とベッド。千絵美やあかりの部屋と比較してのコトだが、こんなモノなのかも知れない、と思った。
 ふと雅史は、机の上に、写真台を見つけた。ゆえを挟んで、六実と見慣れぬ男性が笑っている。この男性が、あの俊夫なのであろう。確かに似ていない。むしろ、浩之のほうが良く似ていた。それを見て雅史は、ゆえが自分のコトで最初に相談した男性が浩之であるコトを納得した。もしあかりと付き合っていなければ、この場に居たのは浩之だったかもしれない。雅史は浩之に少し嫉妬した。
 不意に、ぎい、と扉が開かれる音が鳴った。その音で、せっかく静まりかけていた高鳴りがまた激しくなった。

「……佐藤君」

 雅史は正直、振り返るのが怖かった。これから予想される初めての経験が怖いのではなく、このまま流されるようにゆえを抱いて本当に良いのか、という想いが、雅史を悩ませていた。
 しかし雅史は振り向いた。自分のゆえを想う正直な気持ちに嘘はつけなかった。
 ゆえはバスタオルを一枚身体に巻いたままであった。
 綺麗だ。無意識にそれは雅史の口を吐いた。

「……でも、僕はキミに――?」

 そこまで言いかけたところで、ゆえがゆっくりと突き出した右人差し指が、雅史の唇を押さえた。

「……佐藤君に慰めて欲しいんじゃないの。…………純粋に、あたし……佐藤君とひとつになりたいだけ」

 こんなものなのだろうか。愛し合う二人が求め逢うときの想いというのは。突き詰めれば、種族保存本能が雌雄の意志を支配するだけで、愛なんて関係ないのでは。
 だが、雅史は、目の前にいる異性がとても愛おしく感じられた。雅史もゆえとひとつになりたい気持ちは同じである。
 ゆえがゆっくりと近づいてきた。雅史は黙って立ちつくしていた。ゆえが間近までやってくると、申し合わせたように二人はまた唇を重ねた。
 石鹸の香しさが雅史の鼻孔を刺激した。いい匂いだった。その匂いに酔いしれるように、雅史はゆえを側にあるベッドに押し倒した。
 雅史はもう何も考えられなくなっていた。純粋にゆえが欲しかった。ゆえの唇から離れた雅史の唇は紅潮するゆえの首筋を這い、自然と剥がれていたバスタオルの下から露わになったその形の良いベル型の膨らみを舌と唇で弄んだ。雅史が動くたびにゆえは泣きそうな小声であえぐ。突き出た乳首がゆえの興奮を示し、雅史は赤子のようにそれにむしゃぶりつく。雅史は興奮に飲み込まれそうになっていた自我のそこで、雑誌にあった記憶を頼りに、愛撫しようと左手をうごめく奥へ下げようとした。
 だが、一瞬我に返ったその時、再び雅史は自己嫌悪に陥った。
 ゆえを愛する想いに偽りはない。だが、今このように愛して良いのだろうか、と。もう少しゆえが落ち着いてから――慌てなくても――

「……雅史君」

 ゆえに呼びかけられて雅史は、はっ、とした。

「……ゆえ……さん」
「………怖い?」

 雅史はゆえにこころを見透かされたようでどきっとした。

「……雅史君の好きにして良いよ……それともあたしがリードしてあげようか」

 そこで雅史はゆえが、雅史が初体験で戸惑っていると勘違いしているコトに気づいた。

 ……怖いのかもな、本当は。だけど、――いや。

「……ゴメン。僕、こういうの初めてだから」

 苦笑して答える雅史に、ゆえは微笑んで首を横に振った。

「……あたしも初めてだから」
「え?」
「…………愛した人とひとつになるのは」

 雅史はそこでようやく、ゆえも怖がっているコトに気づいた。ゆえが人の温もりを安心して確かめられるのは、今夜が初めてなのだと言うコトを、雅史は理解した。
 ゆえは、その相手に自分を選んでくれた。そう思うと、雅史はゆえを一層愛おしく感じた。ゆえがいつの間にか、雅史を名前で呼んでいるコトも嬉しかった。
 ひとつになりたい。純粋に。

「……やさしくして」
「……ああ」

 そう答えた後の雅史は、もう何も考えないコトにした。ゆえの奥へ伸ばした指先が動くたびにゆえはせつない声を上げて身もだえる。溶け合うような快楽が尾てい骨の辺りから脊髄を経由して脳幹に直撃し、ゆえの頭を次第に真っ白にしていく。
 やがてゆえの身体が雅史を受け入れられる状態になる。雅史は沸騰しそうな頭を堪え、ゆえの中へ入り込む。同時にゆえは啼いた。そこから先は、二人とも何も考えられなくなった。
 愛したい。ひとつになりたい。ひとつにしたい。雅史が動くたび、雅史もゆえも、自我の欠片がひとつひとつ欠け落ちていく。そして欠け落ちた欠片が二人の身体の下でどろどろに溶け合い、海となって二人を飲み込んでいく。
 ゆえは無心に自分を貫き続ける雅史の背に爪を立て、快楽に啼いていた。雅史にはゆえに爪立てられる背中の痛みさえも快楽となっていた。その痛みに紛れて、やがて、ぞくぞくっと雅史は背筋に痙攣を感じた。限界だった。
 ゆえは自分の一番深いところに、膨れ上がった雅史の息吹を感じた。二人は完全に溶け合ったのだ、と理解した時、痙攣して力尽きた雅史ががっくりとゆえの胸の上に倒れ込んだ。力任せに乱暴にされたときなど比べモノにもならない最高の快楽だった。
 これが愛し合うコトなのだ。ゆえも雅史も、最高の結果に満足し、抱き合ったまま唇を重ねた。まだ愛し足りないと感じた二人はまた溶け合った。


 時間は午前1時をまわっていた。雅史もゆえも、貪るように何度も愛し合い、気がつくとこんな時間になっていた。

「…………ごめん。夢中になってこんな時間になっちゃったね」

 自分の右側でまだ肌を紅潮させているゆえが、雅史に頬ずりしながら済まなそうに言った。すると、雅史はゆえの頬を左手で撫でて微笑んだ。

「友達の家に泊めてもらったと言うコトにしておくよ。まぁ男の子だから、結構寛大なんだ、うちの親…………ん?どうしたの?」
「あたしで……本当に良かったの?」

 不安げに見つめて訊くゆえの額を、呆れ顔雅史は人差し指で、ちょん、と小突いた。

「もう、そう言うことは訊かないの」
「……うん」

 ゆえは嬉しそうに頷いた。

「あたしたち、これから幸せになるんだよね」
「ああ。……明日は学校あるし、もう寝よう」
「うん……」

 頷くと、ゆえはゆっくりと目を閉じた。

 ありがとう。

 雅史の耳元でゆえが囁いた。
 ゆえのその感謝の言葉が、彼女にとって重大な決心をさせてくれたコトのお礼も含まれていたコトを、雅史はその時気づかなかった。

                 つづく

【予告】

 全国大会予選試合当日、なかなか応援に来ないゆえを心配がる浩之たちをよそに、雅史は一人、ゆえがやってくるコトを信じて試合に臨む。
 その頃ゆえは、ある決意を持って、今まで避けていたある場所へ赴いていた。
 今ならそこへ行ける。雅史に分けてもらった勇気があるから。


 次回、「月は、太陽に」、最終回、

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