ToHeart if「meiosis」(2/4)  投稿者:ARM


【承前】

 人目などほとんど無い海上と星空の下での営みに、二人ともいつも以上に燃えた。最後に、星空を仰いだ姿勢で浩之の放った雫を受け止め、大声を上げて紅潮した白い肌が激しく痙攣して大きく反り返ると、浩之のものを飲み込んだまま、力尽きて浩之の横に倒れ込んだ。耳元で紅潮した琴音の顔が吐く、快楽に荒げていた息がゆっくりと静かな寝息に変わると、浩之はぐったりとした琴音の身体を抱き上げ、キャビンに戻ってベットに寝かせた。
 寝息を立てている琴音に静かに毛布を掛けると、浩之は着替えて煙草とジッポライターと携帯灰皿を持って外に出た。
 浩之は船倉の上に腰を下ろすと煙草に火をつけ、ふう、と紫煙を吐いた。浩之は煙草は眠気覚まし程度にしかたしなまないのだが、何となくこんな綺麗な月夜の下で吸いたい気分になったのだ。
 とにかく、気を紛らわせたかった。
 琴音が、無理とは承知でも、子供のコトを気にしていることは判っていた。浩之を受け止めるとき、さっきもそうであったが、琴音は常に浩之を放そうとしない。浩之もそんな妻の想いを察して放さずに果てるのだが、その度に知るであろう琴音の寂しさを自分は本当に理解しているのか、と考えていた。普通の不妊ならまだしも、遺伝子レベルの複雑な問題が相手である。奇蹟があるならどうして自分たちの元に起きないのか、と、形而上的な相手を心の中で何度も罵倒した。
 先ほどの、琴音に夢で見たとおりにしてみては、と勧めたのは、そんな奇蹟をまだ信じていたからだ。結局のところ、あれは琴音の言う不幸の予知だったのかも知れない。琴音は笑ってくれたのがせめてもの救いであった。
 風が吹いた。潮風は陸のそれより汐を含んでいるので冷たい。
 浩之はキャビンの中に戻ろうと立ち上がったその時であった。
 海面が煌めいた。月は半月だったが、海上の月光は都会で感じる以上に明るいものである。浩之は研究所の仕事で良く海に出るので、そんなコトでは反応などしない。
 浩之を唖然とさせたのは、なにげに振り返った船首の先に、青白く煌めく人のような光をみつけたからである。
 そして浩之は、その奇妙な光の正体を知っていた。

「――琴音?!」

 驚いた浩之は、キャビンの中へ振り返った。
 キャビンの奥にあるベッドの上に、確かに寝ている妻の姿はあった。

「これは――――」

 浩之は再び船首のほうへ振り向いた。そこにはまだ、一糸纏わぬ琴音の形をした光る人間が立っていた。
 浩之はもう一人の、光る琴音を前に絶句した。いや、声がどうしても出ないのだ。
 そう、何かに魅入られてかのように。

 きて。

 聞こえなかった。直接、頭の中に響いた、しかし確かに愛する妻の声であった。浩之は何かに操られているかのように前へ進んだ。

 きて。

 もう一度――いや、何度もそれは浩之の頭の中に響いた。その度に浩之は何か、自我を支えるものが薄れていく気がした。
 光る琴音が差し出す手を取ったのは、呼びかけられて何度目のコトだろうか。幻であるハズなのに、その覚えのある温もりが、その手を掴む自分の手の先から伝わるのは何故か。

 きて。

 浩之の意識はそこで途切れ途切れになる。いつの間にか光る幻の琴音を船倉の上に組み伏せ、のし掛かる。意識はないのに、知り尽くした妻の身体の歓ぶ部位や体位を身体が覚えており、浩之は幻の琴音に溺れた。
 幻の琴音は、波間のようであった。しかし浩之に責められてよがり啼く声はまさに琴音のそれであり、自我と意識の支配下にない浩之の身体は間違いなく妻のそれであると確信し、のめり込む。
 やがて凄まじい快感が浩之の脊髄から脳幹にかけて走り抜け、浩之は幻の琴音の中に放った。浩之を包み込む滑りとした温さと締め付ける力は、決して幻の仕業とは思えなかった。


「……浩之さん?」

 浩之が意識を取り戻したのは、翌朝ではなく、まだ星空が瞬く夜更けに目を覚ましたらしい、毛布にくるまった琴音が呼びかけた時だった。

「こんなところで寝てると、風邪ひきますよ」
「あ――――、ああ、…………はぁ?」

 浩之はゆっくり身体を起こした。まだ、ぼうっ、とする頭で辺りを見回すが、その場にいるのは、紛れもなくキャビンで寝ていた琴音だけであった。

「…………夢?あれが?」
「?夢?何のコトですか?」
「えーと、さっきここで俺は琴音と――」

 浩之がそう言うと、琴音は思い出してしまったらしく頬を赤らめた。

「あの、その…………ごめんなさい、念動力を使ったから疲れて先に寝ちゃったみたいで…………」
「あ、いや、そ、そうじゃなくって――――いや、そうなんだよなぁ」
「…………はぁ?」

 きょとんとした顔で覗き込んでくる琴音に、浩之は小首を傾げた。

「…………いや、どうも俺も疲れているみたいだ。寝よ寝よ」

 浩之は釈然としないものを感じつつ、しかしあの奇妙な出来事がやはり夢だったのだろうと納得して立ち上がった。


 翌朝。
 浩之はクルーザーを奔らせ、神津島から北北東の少し沖合に出た。停まった位置から南下すれば三宅島が見える海上である。明日の午後に東京に戻る予定だったので、余裕を持たせるために少し北上したのだ。
 船を停め、舵を取る浩之は、昨夜の夢のような出来事に呆然となるのを必死に堪えていた。もしかすると眠いのかも知れない、と煙草を吸おうとしたが、キャビンの中には見あたらなかった。

「もしかして、これ?」

 船首のほうで日向ぼっこをしていた琴音は、キャビンの中で捜し物をしている浩之に気づく。そしてふと、足許に落ちていた煙草とライターそして携帯灰皿を見つけると、それを取って浩之に声をかけた。

「あー、それそれ。そこにあった――――んだよなぁ」

 最初は嬉しそうに言う浩之だったが、不意に、煙草を吸っていたときに現れた、光る琴音のコトを思い出した。

「なぁ琴音。昨日の夜、俺がそこで煙草吸っていた時、俺に声をかけなかったか?」
「声?」

 言われて、琴音はうーん、と唸りながら小首を傾げた。

「…………知らない。寝ていたから、わたし」
「…………そうだよなぁ」

 そう言って浩之はまた首を傾げる。

「……どうしたの?」
「いや、さぁ、俺が煙草吸っていたら――――」

 そこまで言いかけて、浩之は慌てて口をつぐんだ。いきなり光るもう一人の琴音が船首に現れて、琴音が寝ている間にそのもう一人が自分を誘惑し、そして――なんて言えるハズがなかった。

「…………なにか、あったの?」

 不安がる琴音を見て、浩之は無性に罪悪感を感じた。しかし、あれはどう考えても夢であろう。浩之はそう思い、とりあえず当たり障りのない程度に脚色して誤魔化そうとした。

「…………いや、さぁ、俺がそこで昨日の夜、呆然と煙草吸っていたら、もう一人の琴音が現れて、いきなり俺に抱きついてきたんだ。――ってな感じの夢を見たんだ、ははは」

 そう言って浩之は笑って見せた。
 ところが、その話を聞いた途端、琴音の顔が見る見るうちに蒼白した。

「…………え?」
「?どうしたんだ、顔色悪いがまさか船に酔ったのか?」
「う――ううん」

 琴音は面を横に振った。そして次第に血色を取り戻したばかりか頬を赤らめ、あの、その、と急にしどろもどろになった。

「なんだい、今度は顔を赤くして?」
「……その…………実は…………いえ、もしかして、…………浩之さん、その時……」
「その時?――――その時って?」
「昨夜――です」

 言われて、浩之は、ドキッ、とした。

「見たんです、わたし――」

 言われて、浩之は更に、ドキッ、とした。恐らく琴音が指しているものは、昨夜のコトであろう。そう、浩之が夢と思っていたあれである。まさか本当にもう一人の琴音が現れ、彼女と交歓している姿を琴音が目撃していたのか。

「夢で――」
「――え?――げふげふっ」

 予想していた返答でなかったために、思わず浩之は咽ぶ。

「夢でその…………一服していた浩之さんを誘って…………した、ばかりなのに、あんなエッチな夢を見て…………ちょっと……その……」
「夢……って」
「はい?」
「まさか夢で、俺とHしたっていうの」
「その…………」

 琴音は返答に窮し、顔を赤らめて俯いた。

「そんな、あたし、欲求不満だったのかなぁ、なんて考えてて…………そのぉ」
「ちょっと待ってくれ」
「はい?」
「それ、俺も見た。――煙草吸っていたら琴音がやってきて…………夢?」
「…………夢、ですか?」

 照れていた琴音も、流石に浩之の様子に気づいて当惑し始める。

「…………夢だとしたら、さぁ」
「はい」
「…………つーか、俺たち、夢遊病みたいな状態で、また、しちゃったってコトなのかなぁ?」
「………………もしかすると、そうなのかも」

 そう答えて琴音はまた顔を赤くする。浩之に抱かれている時は大胆なコトもできるのに、変なところで純情な面があるようである。
 流石に浩之も気まずくなり、とっさに笑い出って誤魔化そうとする。

「夫婦そろってまぁ困った夢見ちまうモンだなぁ。欲求不満なんて無縁のような気がするのに…………って?」

 ふと浩之は、今まで照れていた琴音の横顔に陰りを覚えた。

「……どうした?」
「……ごめんなさい」

 予想もしない琴音の返答に、浩之は酷く驚いた。

「何を謝るの?」
「…………だって……だって」

 浩之はそこでようやく、いつの間にか琴音の頬が濡れているコトに気づいた。

「……泣いているのか?」
「……あたし…………浩之さんの赤ちゃん、欲しい……!」

 浩之はその告白に、胸が締め付けられる想いがした。始めてあった時から愛し守ってきたこの愛しい女性が、一番渇望している問題に何もできない自分が、不甲斐なかった。自分が悪いのならいくらでも誤るし土下座も厭わない。だがこの女性(ひと)は、自分に責任があるコトを理解しているから、決して浩之にその苦しみを押しつけようとはしない。
 結婚してしばらくは、この話は二人して意識して避けていた。限界を超えさせてしまったものはやはり、あかりの出産が原因なのであろう。
 琴音は気づいていた。あかりが浩之を慕っていたコトを。浩之が自分を選ばなかったら、あの時抱き上げた赤子は、浩之の子供であっただろう。
 そしてそんな妻の苦悩を、浩之もとうに気づいていた。
 二人とも、無力な自分を心のどこかで罵っていた。先に琴音が堪えきれなくなってしまったのだ。

「……あたしが……あたしがこんな中途半端な身体じゃなければ…………!」
「……自分を責めるのはやめろよ」
「…………でもっ!」
「自分を責めるのはやめろっ!」
「――――?!」

 浩之の怒鳴り声に琴音は、ビクッ、とする。そして浩之は怒鳴ってしまった自分に驚いてしまった。

「………………済まん」

 浩之は泣きたい気分になった。不甲斐ない自分に、そして琴音が背負わされている理不尽さに。
 二人はそれからしばらく口を交わさなかった。きっと何かを口にすれば、お互いの心を傷つけるだけになるのでは、と怯えてしまったからである。

              3/4へ つづく