【承前】 夕方。 夕食は、琴音が一人で準備した。浩之は、自己嫌悪と言いしれぬ怒りを抱えたまま、日が暮れるまでずうっと船首のほうであぐらをかいていた。 夕食を終えると、琴音は一人で食器を洗う。浩之に手伝ってとも言わなかった。言い辛いのだろうし、言う気にもなれなかった。 浩之はそれでも声をかけてくれれば手伝うつもりだった。とにかく、きっかけが欲しかったが、自分からそのきっかけを作りたくなかったし、作る勇気もなかった。 浩之はずうっと考えていた。子供のこと、琴音のこと。養子でももらおうか、と思ったが、琴音が納得してくれるだろうか。子供のコトをそれで解決できるとは浩之も思っていなかった。だから、ずうっと悩んでいたのだ。 やがてまた、空にはあまねく星々の煌めきが拡がっていた。浩之は寝転がり、星空を見上げた。 「……神様仏様、あんたら本当にいるのなら、俺たちの悩みを解決してくれよなぁ本当」 浩之は夜空を見上げたまま、忌々しそうにぼやいた。 そこへ、琴音が浩之の顔を覗き込んできた。 「…………ん?どうした、なにか――」 言いかけて浩之は気づいた。 「お、お前――――っ!?」 浩之は驚いて起きあがり、横に座っている琴音を見た。 身体を光り輝かせている、全裸の琴音がそこにいた。 「ゆ、夢っ?!」 浩之は慌てて振り返る。すると、キャビンのほうには確かに、食事の後かたづけをしている琴音の後ろ姿があった。 「よ、妖怪ぃっ?!」 素っ頓狂な声を上げる浩之だったが、驚いて少し腰が抜けたらしく、なかなか立ち上がれなかった。 光る琴音はそんな浩之を見てにこりと微笑む。見慣れたものとまったく同じふうに微笑む。それがかえって浩之を困惑させた。 やがて、恐怖心は薄れ、変わって好奇心が頭をもたげだした。 「…………誰、アンタ?」 訊いた途端、浩之は昨夜のコトを思い出した。妻とまったく同じ貌をするこの美女を抱いたコトは夢ではなかったのか――浩之は見る見るうちに赤面する。 琴音。 光る琴音は確かにそう言った。いや、昨夜と同様に頭の中に響いた。 「でも、うちのかみさんは…………」 そう言って浩之は振り返る。 「お、オイ、琴音、こっち来て見ろ!」 「?」 呼ばれて、琴音はようやく船首のほうが明るいコトに気づき、キャビンから出てきた。 そして、浩之の向こうにいる、自分と同じ貌をした光り輝く藤田琴音の存在に気づいて唖然とした。 「……姿見鏡?」 「ボケ過ぎ」 浩之は苦笑する。この得体の知れない存在に、果たして妻を近寄らせて良いものか。何故か浩之はその発想を抱かなかった。 そして琴音も、もう一人の自分を前にして、驚きこそしたが、どういうワケか恐怖心を抱いていなかった。琴音はもう一人の自分を見つめたまま、ゆっくりと浩之たちのほうへ近づいてきた。 「浩之さんが夢で見た、っていう…………私ですか?」 「ていうか、琴音が夢で見た、キミ」 顔を見合わせて呆然としているこの夫婦を見て、光る琴音はクスクスと笑い出した。 「…………誰なんです、あなた?」 琴音よ。 「こ――琴音はあたしです!」 琴音は思わず怒鳴り返した。 あたしも琴音よ。 「――――」 にぃ、と笑ってみせる光る琴音に、琴音は絶句した。 「――ちょっと待てよ!何、いってやがる、本物の琴音はこっちのほうだ!勝手にヒトの顔借りて何言いやがるンだ、お前っ?!」 でもそこにいる琴音は、ヒトの種としては不完全な存在。 光る琴音の言葉に、琴音は青ざめてビクッとする。それは琴音が最も気にしているコトであった。 だから、ヒトじゃない。――わたしとどう違うって言うの? 「人間は光りゃしねぇよ!――くそっ、やっぱり魑魅魍魎の類だったかっ!」 怒りを覚えた浩之はようやく立ち上がることが出来、後ろに飛び離れて琴音をかばうように立った。 「俺たちの目の前から立ち去れっ!でないと、力づくで追い払うぞっ!」 そう浩之が怒鳴ると、今まで笑っていた光る琴音の顔が曇った。たとえ物の怪の類としても、流石に愛する妻と同じ貌をした相手、良い気はしなかった。 何でそんなコトを言うの?――わたし、浩之さんの望みを叶えてあげたのに。 「の、望み?」 そう。 光る琴音は頷き、そして嬉しそうに微笑んだ。 ……浩之さんの仔。……出来たよ。 「――――――っ!」 浩之はそこでようやく気づいた。この光る琴音の光源がどこにあるのかを。 それは下腹部、女性で言う子宮の位置であった。 昨日の夜、浩之さんの精を受け止めて――出来たの。動いているの、ほら。 光る琴音の言うとおり、確かに光源は小さく震えていた。これが、この光る琴音と浩之が交わって出来た子供だというのか?浩之は唖然とした。 佳い仔になると思うの。……だって、あたしと浩之さんの子供だから。 そう言うと光る琴音は瞬時に姿を消した。浩之と琴音は、一緒にその場にへたり込んでしまった。そして琴音は、浩之に身体をもたれかけたまま気絶してしまった。 琴音が意識を取り戻したとき、琴音はキャビンの奥にあるベッドに寝かされていた。浩之はその傍に寄り添い、心配そうな顔で琴音を看病していた。 「…………浩之さん」 「……よかった」 浩之は深呼吸のような深い安堵の吐息をもらした。目覚めるまでずうっと心配していたのだろう。 「…………ゴメン」 浩之はやっとこの一言が自然に口を出来て嬉しいと思った。だが、浩之の顔を見つめる琴音の顔から憂いが晴れていないコトに気づくと当惑した。 「さっきのコトか?」 琴音は小さく無言で頷いた。 浩之は困ったふうな顔をするが、しかし心配をかけまいと笑顔を作って琴音の頭を撫でた。 「……気にするな。あれは幻、悪い夢なんだ」 「……本当にそう思っているのですか?」 「えっ?」 浩之が驚くと、琴音はゆっくりと身を起こし、 「わたし、やっぱりヒトじゃないんです」 「――――」 「ヒトなら、愛してくれる男性に応えてあげられるのに――」 「……無茶苦茶ゆうなよ。世の中には健康的な問題で子供が作れない人だって居るんだ。琴音も、そんな不幸な病気のひとつに過ぎない――――」 「でも、わたしは、いつも他人を不幸にすることばかりで幸せには――――」 ぱしっ。キャビン内に乾いた音が響いた。 琴音の頬を平手打ちした浩之の悔しそうな顔を、琴音は一生忘れないだろう。 「……じゃあ何か?今までの俺たちの日々は、不幸だったというのかっ?」 反論など出来るはずもなかった。この男性と結ばれて以来、どこが不幸だったのか。浩之は本気で怒り、そして悲しんでいた。 だから琴音は泣いた。泣くコト以外考えられなかった。浩之は限界を超えて心がボロボロに傷付いてしまった愛する妻を、抱きしめてあげるしかなかった。 どれぐらい時間が経ったのだろう。キャビンの外はまだ、星が瞬いていた。 琴音を宥め疲れた浩之は、キャビンの中央にあるソファで泥のように眠っていた。 先に目が覚めた琴音は、そんな浩之の上に、起こさないように注意しながら今まで自分がかけていた毛布をかけさせた。そして、静かにキャビンの外へ出た。 起きたのね。 船首には、いつの間にかあの光り輝くもう一人の琴音が立っていた。琴音は、彼女の存在に気づいて目覚めたのである。 「…………あなた、誰なの?」 琴音。 琴音は予想通りの返答に肩を竦めた。しかし、怒っているふうには見えない。 そればかりか、何故か安心しきった笑みさえ浮かべているではないか。 「…………あなたも琴音なんでしょう。…………なら、いいの」 ? 「そんな不思議そうな顔をしないで。…………だって、あなたも琴音なら、浩之さんを愛してくれる琴音なら…………怖くないわ」 そう答えると、琴音はゆっくりともう一人の琴音のほうへ近寄っていった。そしてその目の前にやってくると、呆然と立っていた光る自分の手を取った。 「……暖かいのね。……ねぇ、いい?」 琴音が何を訊いているのか、光る琴音はすぐに理解した。光る琴音が頷くと、琴音は恐る恐る、光る琴音の光源であるそのお腹を両手で触れた。 とても暖かかった。光の所為なのかも知れないし、そこにいる命の暖かさなのかも知れない。幻ではなく、確かにそれは人の温もりであった。 「…………浩之さんの仔、なんだよね」 うん。 光り輝く琴音は、嬉しそうに頷いた。 すると琴音は、ゆっくりと光るもう一人の顔を見つめ、 「……ねぇ、お願い。…………あたしと代わって」 代わる? 「そう。――――あたしの代わりに、浩之さんを愛してあげて」 それを聞いた途端、もう一人の琴音は思わず目を丸めた。 どういう意味? 「……あたしじゃやっぱり…………ダメだから」 4/4へ つづく