【承前】 琴音はそう答えると、ゆっくりと光る琴音から離れ、船首の端まで進んだ。 「……女として、わたしは浩之さんに愛された。だけど、妻としてあの人の想いにすべて応えきれる自信…………無い」 そう言って琴音は船首の端に足をかけた。 「だけど、あなたもわたしなのだから…………あの人の大切な子供を身籠もっているあなたなら、安心して任せられる。――――浩之さんに愛される琴音は、一人でいいの」 待って! しかし琴音は微笑んだまま首を横に振った。 「わたしは死なない。だって、あなたが居るから――――」 そう答えて、琴音は夜の海に跳んだ。 ダイブに慣れている琴音は、楽な沈み方を心得ていた。そして必ず溺れる方法も心得ていた。海中に入るなり大きく深呼吸し、肺の中にまで水を入れる。かなり苦しいが、今はこの方法しかなかった。 だが、飛び込んだその海中の下に、船首にいるハズのもう一人の自分が居たとは、琴音にも予想外だった。 何故、そんなに自分ばかり責めるの? もう一人の琴音が哀しそうに訊いた。 何故、自分ばかりが悪いと思うの? 「……あなた、言ったじゃない。……わたしは不完全だって」 言ったわ。ヒトの種として、不完全、って 「だったら!」 わたしが指していたのは、ヒトの種が持つ「肉体」ではなく、「こころ」のほう。 「――――っ!?」 命あるものはすべて、生まれ落ちた時から死を目指している。だけど、そこに至るまでのモノがすべて、無駄であるハズがない。――次の命のために、いきる、って意味を何故解ろうとしないの? 「――――?!」 唖然とする琴音のほうへ、もう一人の琴音は、水中だというのにまるで抵抗もなく飛ぶように沈んでくる琴音の元へやってきて、その身体を下から抱きしめた。 わたしは、あなた。 光る琴音は、溺れているのにも関わらずまだ意識がある琴音の耳元にそう囁いた。ここは海の中、聞こえるハズもないのに。 …………浩之さんのコト、愛しているんでしょう? 訊かれて、琴音は頷いた。堪らなく愛しかった。命を懸けてまで愛してくれたあの人を、どうして嫌えようか。 しかし今の自分の行為は確実に浩之に憎まれるコトである。激しい自己嫌悪が脳裏をかすめ、涙があふれ出た。 「…………そうよ、ね。浩之さんにごめんね、なんて言えないよ、これじゃ…………!」 生きたい? 「…………生きたい。浩之さんに愛されるなら、浩之さんを愛していいのなら、――――ずうっと浩之さんのそばに居たい……!」 ……よかった。 「……え?」 きょとんとする琴音の身体を、光る琴音は、ぎゅっ、と嬉しそうに抱きしめた。 生きるコトは悪いコトじゃないの。あなたはそのコトを最後まで信じ切っていなかったから、試してみたの。――わたしも、浩之さんのコト、愛している。…………だってわたし、あなたとずうっと一緒だったのよ。 「え?」 …………わたしはね、いつもあなたのそばに居たのよ。あなたがひとを、浩之さんを愛するコトを知ってからずうっと。…………あなたがそのコトに気づいていなかっただけ。…………わたしは、あなたから渇望して得られなかった、「こころ」の欠片。 「…………こころ?」 そう。――わたしは、生きるコトが罪だと思いこんで閉ざし、愛されるコトを知って解放された、あなたのこころの中の「生きる意味」。 すべてのいのちは、生きる意味を見失ってはいけない。――しかしあなたは、物質的にその意味を欠いたまま、生を受けてしまった。その為に、こころも欠けてしまった。 だから、わたしはあなたの欠けたこころの補完を行っていた。浩之さんの仔をこの身に宿したのは、それがわたしの仕事だから。でも、それはもう終わった。――――いえ、これから始まるのです。 琴音はそこでようやく、光る琴音が、姿形はそのままで、中身だけ別人に変わっているコトに気づいた。 ……わたしはあなたに謝らなければならない。 不完全なまま、この世に送り出してしまったコトを。 …………あなたの生は祝福されている。それはすべて、あなたが希望を捨てずに生きたお陰です。 だからわたしは、あなたを祝福する。すべての――――として。 ここに置き忘れたものを、あなたは受け取る資格がある。 不足していたコトは彼女が補完してくれました。あなたはそれを取り戻して、これからも命あるものとして、生きなさい。 琴音は理解した。 ここはどこか。 海だ。 命の源、母なる海。 だから懐かしいんだ。だからここに棲むものが好きなんだ。 そしていつかここに還る時が来るコトを知っていたのだ。 琴音の場合は、忘れたものを取り戻すために。 琴音は笑顔を浮かべた。その琴音の笑みに、光る琴音は嬉しそうに頷いてみせると、突然光の粒子となって四散し、琴音のまわりを飛び回った。琴音が見た、あの夢がここに再現されていた。 やがて光の粒子は琴音の身体に吸い込まれていくと、琴音の意識が薄れ始めた。 琴音が最後に覚えていたのは、慌てて潜ってきた浩之が手を差し伸べる姿であった。その時、琴音は浩之に手を差し出した気がしたのだが、既に意識は闇の中へ落ちていた。 次に琴音が目覚めた時、琴音はクルーザーの上に寝かされていた。浩之は、意識を取り戻した琴音を見て、涙でくしゃくしゃになっていた顔を一層崩し、琴音を抱き起こして強く抱きしめた。 「莫迦野郎…………莫迦野郎…………!!」 「……ごめんなさい――ごめんなさい」 「謝って済むか、莫迦野郎…………よかった、よかったぁ」 「ごめんなさい…………」 泣いて詫びる琴音も浩之の身体を強く抱きしめた。冷えた琴音の身体は、浩之の温もりがたまらなく欲しかった。 奇妙な出来事が続いた休暇から戻った浩之と琴音は、また忙しいが充実する毎日に戻った。 それから三ヶ月後、体調の不備を訴えた琴音が病院に行った時、医者から聞かされた診断結果に唖然とした。 妊娠三ヶ月。それが、医師が当たり前のように下した結果であった。 周囲を嬉しく驚かせたあの日から、何年経ったのだろう。 浩之と琴音は、少し遅い夏休みで、小笠原諸島へホエールウォッチングに来ていた。 「――おとーさん、おかーさん、ほらっ、すごいよ、クジラさんにイルカさんのむれがいっぱいいる!」 琴音によく似た二人の実の娘、宇美(うみ)が、観光船の柵の手前ではしゃいでいた。宇美は両親以上に海と海に棲む生物が好きな子供であった。こんな間近で自然のクジラを見るのが初めてで、朝からずうっとこんなふうに興奮していた。浩之と琴音は呆れつつも、元気に育ってくれた娘の姿が嬉しかった。琴音の染色体異常に変化は無かったが、宇美の遺伝子の染色体数は常人の正常な数である46個を持っているコトが検査で解り、琴音を安心させた。 琴音を生まれた時から診ていた医師や学者はこれを奇蹟と呼んだが、浩之も琴音も、安易な結論付けをしなかった。 「……浩之さん。今もわたし、あの時のコトを昨日のように覚えているの」 「あの時?」 「もう一人のわたしに出会ったあの夜のコト。……出会ったもう一人のわたしって、きっと欠け落ちて生まれたわたしの、置き去りにしてきたわたしなんでしょうね。わたしが揃ったから、わたしは宇美を身籠もるコトが出来たんだと思うの」 「お医者さんが言ってたよな、mieosis――減数分裂、だっけ」 「ええ」 「……人間の場合、精子と卵子の染色体数は、生殖細胞が特殊な分裂を果たすことで減少し、23個しか持たないが、それが受精するコトで、ヒトの固有染色体数が揃う。琴音の場合も、同じようなコトが起こったのだろう。それぞれが欠けていたモノを取り戻したから、な。…………生き物は生きるために何かを失うが、しかしそれは生きるための宿命。生き物は、生まれたときに欠けたモノを取り戻すために生きるんだ。――琴音がそうであったように、そして俺は、俺の命を継ぐものを育んでくれる、キミを求めたように」 そう言って浩之は、琴音の肩を後ろから取って引き寄せた。 「宇美を身籠もったのが、計算通りあの夜なら、俺も奇蹟なんかで片づけずに納得できるよ」 「……どうして?」 琴音は聞いてみるが、返って来るであろう浩之の答えには気づいていた。 浩之は、宇美が喜んで見つめている、夏の陽射しを受けて眩いばかり蒼い世界を指した。 「だってここは、さ。……そう言うところだからな」 それは奇蹟ではない。当たり前のように、すべてを産み育んできた――。 了